『伝記 ポール・フレール』(偉大なるレーシングドライバー&ジャーナリストの生涯)の日本語版が発刊され、グランプリ出版経由で書店での販売が開始されたので、今回はその本と日本語版の訳者のご紹介、そしてマツダ&私のポール・フレールさん(以下PFさん)とのご縁に関してのご報告をしたい。240ぺーに及ぶ本書は、ベルギー人の作家で、若いころからPF氏と親交のあったセルジュ・デュボアさんが執筆、英語版が2014年に出版されたが、熊本市在住の比類なきクルマ好きで、イギリス一周燃費ギネス記録の4冠も達成され、PFさんともご縁のあった宮野滋さんが、臨床医のお仕事をされながら10か月かけて翻訳されたという。
宮野滋さんのご紹介
宮野さんは1953年の熊本生まれで、学生時代からクルマに魅せられて一時期は「カーグラフィック」や「カーマガジン」にクラシックカーの記事や写真を投稿されていたという。久留米大学医学部を卒業後医師になられたが、三井ダイレクト損保MUJICOLOGYホームページのプロフィールを拝借すると、『医師として医療活動に従事しながら1988年6月に結成したチームで、トヨタスポーツ800によるイギリス1周燃費記録に挑戦し、5,757kmを143時間15分で走破。20.33km/Lの記録を作ったが、その時はガソリンとディーゼルが分けられておらず、(小早川追記:ギネス記録とならなかった。)1992年にシビックETiで27.93km/Lの記録を作って、ガソリンエンジン自動車の記録として1枚目の認定証を得る。低燃費挑戦活動の歴史は20年にもおよび、6枚のギネス記録認定証を持つ。インターネットの世界では「燃費男(ねんぴおとこ)」の異名をとる。』とのこと。
訳者の「あとがき」から
その宮野さんが初めてPFさんに会われたのは1982年のル・マン24時間レースのマツダの昼食会だったという。その時はスーパースターに会って舞い上がってしまったそうだが、上の写真は1997年秋に鈴鹿サーキットで行われた「ラ・フェスタNSX」のパーティーでPFさんにお会いしたときのものとのこと。宮野さんの「あとがき」によると、『ホンダコレクションホールに並んだホンダのF1マシンなどを撮影していたら、上原繁LPL(小早川注:ラージ・プロジェクト・リーダー)に引率されたPF先生ご一行が来られ、先生がRA271に乗り込んで喜々とされていたお姿を私が撮影したカラースライドの事を(小早川追記:PFさんの訃報を聞いた時)思い出した。倉庫にしまった膨大なスライドの中から数枚を見つけ出し、JPEGファイルを作り、ベルギーのホンダS800クラブの友人から先生の娘婿のリュック・ド・プリンスさんのメールアドレスを教えて貰って、メールに添付してそのJPEGファイルを送った。その日のうちに返事が来て私の住所を知らせると、航空便で送られて来たのが完成したばかりの本書英語版だった。数か月後アムステルダムからパリに行く途中にブリュッセル郊外に住むリュックさんとPF先生の次女のマルティンさんのお宅を訪問する事になり、その時にこの本を日本で出版し、日本におけるポール・フレール先生のファンに読んで欲しいと相談された。』という。
PFさんと小林彰太郎さん
PFさんと上原繁さん
ヤマハOX99-11の透視図(本書P223のコピー)
内容と日本語版の特色
本書の内容は、
第1部 若き日々(フレール家の人々)、
第2部 ドライバーとしての日々(レースとの初めての出会い、飛翔の時、PFの名を揚げた日、ミレミリア、偉大なる人々の中において、スターとなった時、ル・マンでの悲劇、栄光の時、ベルギーグランプリ、聖杯を探す旅、1960年ル・マン24時間レース、PF、記録への挑戦)
第3部 ジャーナリストとしての日々(テスト&執筆、彼自身のクルマたち)
第4部 賛辞
と多岐にわたるが、全てを日本語訳するには想像を超えるエネルギーを要したことは明らかで、宮野さんのご努力には頭が下がる。
加えて宮野さんのあとがきによると『日本語版には小林彰太郎先生が別冊CG(ポール・フレールの世界「世界一速かった紳士の生涯」)に書かれた賛辞、さらには上原繁氏、由良卓也氏、クロード・F・サージ氏から寄せられた賛辞を収録することができた。大内誠氏からヤマハOX99-11の素晴らしい透視イラストレーションを提供いただいたことで、原作にはない付加価値を与えることができた。またスマートフォンで文中のQRコードを撮影するとYouTubeの動画にジャンプする仕掛けを作ったし、リンクされたホンダのホームページで紹介されているポール・フレール氏の世界も楽しめるようなアイディアを盛り込んでいる。』とのこと。
この「QRコードによる追加情報の入手」は従来の本にはない非常に大きな魅力で是非トライしてみることをお勧めしたい。
1960年にル・マンで優勝した瞬間(本書P164のコピー)
1999年のイギリスの"Goodwood Festival of Speed"では優勝車フェラーリのハンドルを握られた。左に立っているのは私。
比類のないモータージャーナリスト
PFさんは1917年フランス生まれのベルギー人。1946年に2輪から始まったレースへの参画は1948年のスパ24時間レースへのMGによる参戦を皮切りに4輪にシフト、スパの生産車レースではパナール、オールズモビル、アルファロメオなどで11回も勝利を手中に収め、53年、ミレミリアでクライスラーによりクラス優勝するとともにル・マンへの参戦を開始、1960年、フェラーリでの念願のル・マン優勝を果たす。同年のクーパーでの南アフリカグランプリ優勝を機にヘルメットを脱ぎ、91歳までモータージャーナリストとして活躍された。
ジャーナリストとしての欧米メディアへの貢献はもちろんのこと、日本の「カーグラフィック」誌との関係は1966年まで遡る。フェアーでどこにもおもねない、常に適切な技術的洞察を伴う記事は世界各国のファンを魅了してきた。著書『Sports Car and Competition Driving(日本語版:ハイスピードドライビング)』、『Porsche 911 Story』は有名だし、『いつもクルマがいた』(二玄社)も貴重な一冊だ。世界を見渡してみても、PFさんに比肩できるモータージャーナリストは過去、現在ともに皆無といってもいいだろう。以下私のアルバムから数点の写真をご紹介したい。
1991年後半、FD RX-7導入直後の西伊豆での試乗会には、PFさん、ジャッキー・イクスさん、山口京一さん、寺田陽次郎さんなどに参加いただくことができた。
1999年のイギリスの"Goodwood Festival of Speed"で787Bのハンドルを握った当時マツダの開発担当専務だったマーティン・リーチさんとのショット。欧州フォード出身のマーティン・リーチさんも比類のないクルマ好きでマツダのクルマづくりに貢献されたが、59歳の若さで他界された。
2001年にはアメリカのラグナセカサーキットで787Bの優勝10年を記念してハンドルを握り、84歳とはとても思えないダイナミックな走りを披露された。
本書P212のコピー(私の「PFさんをしのぶ」の一部)
マツダにとってかけがえのない恩人
私とPFさんとの最初の出会いは1976年に遡る。4年間の米国駐在からの帰任直後に海外広報への異動を命じられ、最初の仕事が山口京一さんにご紹介いただいてのPFさんの招聘プログラムだった。当時マツダは欧州での基盤拡充と第一次オイルショックで壊滅的打撃を受けた米国市場の復活を目指していた。開発中の後輪駆動初代323(日本名ファミリア)の三次試験場における目の覚めるような走り、貴重な技術的アドバイス、欧州市場に対するご意見などに関係者一同が深く感銘、以来ほぼ毎年のようにご夫妻で、(後年奥様の体調が悪化してからはお一人で)来日いただき、FF323、FF626、歴代RX-7など多岐にわたる各種新型車を開発段階で評価いただくことができた。
また「欧州での実車評価こそが大切だ」という進言を受け、数多くのテストチームが欧州に出向き、多くの場合PFさんの参画も得て南仏の公道やニュルブルクリンクなどにおける評価を実施した。マツダの三次試験場で開発技術者を対象にしたドライビングスクールも開いていただくとともに、三次試験場の評価コースの一部はPFさん推奨の南フランスの山間路のコピーだ。欧州市場におけるマツダブランドの確立、現在マツダが標榜するZoom-Zoomの原点はPFさんにあったとみることもできるほどマツダにとってかけがえのない恩人だ。ニース近郊の御自宅には何度もお邪魔させていただくとともに、来日時には我が家にもおいでいただきご夫妻とは家族ぐるみのお付き合いをさせていただくことができたのも忘れられない思い出だ。
本書P207のコピー(ユーグ・ド・ショーナックさんの回想)
ささやかな恩返し
1991年末にPFさんから電話をいただいた。「1992年初めの75歳の誕生日に際して孫たちをル・マンで走った車の助手席に乗せてサーキットを走りたいが、協力してもらえないだろうか」というご依頼だった。PFさんとは関係の深かったポルシェに依頼してみたが願いがかなえられなかったとのこと。1991年のル・マン優勝車はすでに日本に持ち帰っていたが、幸いにもマツダのル・マン挑戦をサポートしてくれたフランスのレーシングチーム「オレカ」に787が1台残っていたので、オレカ社長のユーグ・ド・ショーナックさんに電話で相談すると、その場で「PFさんのためなら」と無償での全面協力を約束してくれた。残念ながら私は3代目RX-7の導入直後で現地に行けなかったが、1992年2月初め、助手席(?)に急づくりのシートを装着した787にお孫さん他17名(PFさん直筆の別冊CGの記事によると)を次々に乗せてポールリカールサーキットを69ラップも走られ、「おじいちゃんは、本当は75歳ではないことが証明出来た」と心から喜んでいただけたことは、マツダからPFさんへのささやかな恩返しだ。
PFさんは、2008年2月23日、91歳で永眠されたが、亡くなられた直後に奥様スザンヌさんからいただいた電話の中で「おじいちゃんは、本当は75歳ではないことが証明出来た」ことを、亡くなる直前まで喜んで下さっていたことをうかがい涙が止まらなかった。2008年6月パリに行く機会を捉えてニースまで足を伸ばし、約20年ぶりにスザンヌさんにお会いして心からの哀悼の意を表することが出来たのがせめてもの慰めだが、スザンヌさんもその数年後他界された。お二人のご冥福を改めて心よりお祈りしたい。
本稿を締めくくるにあたって
本書は内容が非常に豊富な上に、宮野さんの発想による「QRコードによる追加情報の入手」も大変価値があると思うので、PFさんのファンはもちろんのこと、多くのクルマファン、レースファン、これからの日本のクルマづくりにたずさわられる方達にも是非購読をお勧めして本稿を締めくくりたい。