1951 Ferrari 212 Inter Vignale Coupe
初期のフェラーリは全てジョアキーノ・コロンボが設計したV12気筒エンジンを搭載していた。「125」「159」「166」「195」「212」「225」「250」と順次排気量を増やしていったが,
「166」から後のストロークはすべて58.8mmと一定で、ボアを拡げることで対応した。ボアは「166」の60mm(1995cc)から始まり、最終的には「250」の73mm(2953cc)が限界となった。元々このエンジンはスーパーチャージャー付きのF1用 として誕生したもので、大排気量を想定したものではなかった。今回登場する「195」「212」「225」シリーズは「166」から続く進化型で、車体の外見は同じでエンジンだけ積み替えているので、型式の確認は難しい。
<195スポルト>
(写真01-1a~d)1951 Ferrari 195 Sporto Vignale Coupe (1997-05 マラネロ・ロッソ博物館/サンマリノ)
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ミッレ・ミリア観戦の途中で立ち寄ったサンマリノ共和国の小さなミュージアムが「マラネロ・ロッソ」で、中にはフェラーリしか無いが、それらは逸品揃いだった。ここの展示方法は独特で、四方鏡張りで、しかも照明が意識的に薄暗く、カメラマン泣かせだ。
<195インテル>
(写真1-2a~e)1950 Ferrari 195 Inter Touring Barchetta (2000-05 ミッレミリア)
日本籍のフェラーリがイタリアでミッレミリアに参加した際撮影したもので、1枚目はスタート前ブレシアのドゥオーモ広場で、2枚目は2日目アッシジを通過中のもの。3枚目以降は2009年10月国内イベントのラフェスタ・ミッレミリア/明治神宮で。
(写真01-3a~e)1951 Ferrari 195 Inter Ghia Berlinetta (1999-08コンコルソ・イタリアーノ)
初期のフェラーリのボディは殆どが「ツーリング」と「ヴィニアーレ」製だったが「ギア」も少数ながら造っている。デザインは大人しく際立った特色は無いが、フェラーリではめったに見られない白い塗装が珍しい。
(写真01-4abc) 1950 Ferrari 195 Inter Ghia Berlinetta (1994-05 ミッレミリア/ブレシア)
この車は前項と全く同じボディの色違いだ。場所はヴィットリア広場の一部で、車検場の雰囲気が感じられる。
<212エクスポルト>
(写真02-1ab) 1953 Ferrari 212 Export Touring Barchetta (1992-10 ラフェスタ・ミッレミリア /神宮)
日本で開かれた第1回のラフェスタ・ミッレミリアにイタリアから参加した車で、「166」のバルケッタと外見では見分けが付かない。フェラーリには「166」とか「212」のような型式の表示は車体のどこにも見当たらないから、イベントの資料が無い場合は確認が難しい。
(写真02-2a~d)1951 Ferrari 212 Export Touring Berlinetta LeMans (1995-08 ペブルビーチ)
ツーリング製のこの車はレース用の給油口を持っているので、ルマンの参加車ではないかと1951~53年の出走車の写真を確認したが該当しなかった。ナンバープレートが「225A」なのでもしや「225」ではと疑がったが、ペブルビーチの参加リストを信じて「212」とした。
(写真02-3abc)1951Ferrari 212 Export Touring Berlinetta (1998-08コンコルソ・イタリアーノ)
前項の車と細かい点を除いて全く同じで、とても魅力的な車だ。ツーリングではレース用の小型車を「クーペ」ではなく「ベルリネッタ」と呼んでいた。
(写真02-4a~d)1952 Ferrari 212 Export Vignale Spider (1994-05,1997-05/ミッレ・ミリア)
ここから「ヴィニアーレ」が登場する。この車は1994年と97年の2回撮影しているが、最初は初めてミッレミリアを観戦した時で、この場所は30米先を左折するとすぐ車検場入口だが、各方向から集まってくる参加車で一歩も進まない大渋滞だった。しかしカメラマンにとっては絶好のシャッターチャンスで好都合だった。
(写真02-5a~d)1951 Ferrari 212 Export Vignale Berlinetta (1999-08 ペブルビーチ)
「ヴィニアーレ」には個性的な特徴が幾つかありすぐ判るが、この車はそれらの特徴を持たないので、「ツーリング」製かとも見える。これと同じボディを持つ「340アメリカ」は1951年のミッレミリアで前面に大きくダメージを受けながら優勝している。
(写真02-6ab)1951 Ferrari 212 Export Vignale Berlinetta (2000-05 ミッレミリア)
「ヴィニアーレ」の特徴の一つにボディサイドの「エア・アウトレット」(通気口)があるが、この車はその特徴を備えている。テールランプの処理も特徴の一つだ。
(写真02-7ab)1952 Ferrari 212 Export Vignale Berlinetta (2002-05 ミッレミリア/サンマリノ)
この場所はサンマリノのかなり高い所で、先の右カーブを曲がるとロープウエイの駅があり、その先はチェックポイントだった。この車にもレース用の大型の給油口を備えている。
(写真02-8a~d)1950 Ferrari 212 Export Vignale Coupe (1997-05 ミッレミリア/ブレシア)
フロントグリルに十文字を持つこのタイプも「ヴィニアーレ」の一つの典型で、スパイダーも含め同型車はかなり造られたようだ。赤と黒の2トーン塗り分けも印象的だ。
(写真02-9ab)1951 Ferrari 212 Export Motto Spider (2002-02 レトロモビル/パリ)
「モット」と言う名のカロセリアは、1932年から65年迄イタリアのトリノに存在した。「フィアット」の他「マセラティ」「オスカ」「フェラーリ」「ジャンニーニ」「エルミニ」「アバルト」など多くのイタリア車を手がけているが、いずれも極少数しか造られていないから目に入る機会は少なく知名度も低い。「フェラーリ」では「166」「195」「212」が確認できた。毎回言ってしまうが、レトロモビルの展示場は狭く超広角レンズでも全貌が捉えられない。
<212インテル>
(写真02-10abc)1951 Ferrari 212 Inter Vignale Coupe (1995-08 ペブルビーチ)
カレラ・パナメリカーナ・メヒコ(メキシコ縦断横断レース)は1950年から54年にかけて開催された約3100キロを5日間で走る公道レースだった。1951年#34番のタルフィ/キネッティ組のフェラーリ212が優勝したが、この車は#9番なのでアスカリ/ヴィロレッシ組の車だ。トップと約8分遅れの22時間5分56秒で2位となった車で、塗装やマークは当時の姿のままだ。
(写真02-11abc)1951 Ferrari 212 Inter Vignale Coupe (1995-08 コンコルソ・イタリアーノ)
ボディサイドのエア・アウトレットやテールランプ廻の処理にヴィニアーレの特徴がみられる。
(写真02-12abc)1953 Ferrari 212 Inter Vignale Coupe (2006-10 幕張/1995-08 ラグナ・セカ)
1枚目は国内イベントで、2~3枚目はアメリカで撮影したものだが、同じ車ではないかと思われる。ヘッドライトがやや内側に寄り、その代わりフェンダーの外側が盛り上がっているのもヴィニアーレ独自のデザインだ。
(写真02-13a~e)1951 Ferrari 212 Inter Vignale Coupe (2004-08 コンコルソ・イタリアーノ)
この車のエンジンは比較的大人しい仕様のようだ。ラジエター・グリルの格子が内側に湾曲しているのは珍しい。
(写真02-14ab)1951 Ferrari 212 Inter Ghia Coupe (1997-05 ミッレミリア/ブレシア)
ミッレミリアの参加車は殆どが自走してくるが、中にはこの車のようにキャリアに乗って運ばれて来るものもある。赤い車と違ってシルバーだと何となくスポーツカーよりは乗用車に近く見える気がする。
(写真01-15a~d)1951 Ferrari Inter Ghis-Aigle Coupe(1997-05サンマリノ/1997-10明治神宮)
5月にイタリアで見た車は日本籍で、同じ年の10月に再び日本国内で再会した。カロセリア・ギアが造ったこの車は「ギア-エーグル」とあるが、これはスイスにあったギアの別工場製で「エーグル」(Aigle)は工場所在地の地名とのことだ。
(写真02-16a~d)1952 Ferrari 212 Inter Vignale Coupe (2000-05 ミッレミリア/ブレシア)
アメリカに送られたこの車は10人余りのオーナーを経て、2000年の撮影時はドイツから参加していた。1990年それまでのメタリック・グレーから赤/白の2トーン二塗り替えられた。(現在は赤/銀) ミッレミリアの参加リストでは#183は「225S」で登録されているが、ヴィニアーレの総リストによる「ボディ番号96」、「シャシーNo.0223EL」のこの車は「212インテル」となっているので、迷ったが後者を採用した。
<225スポルト>
初期のフェラーリの主流は「ツーリング」製のボディだったが、「225」系のボディは「ヴィニアーレ」製が大部分で「ツーリング」製のバルケッタは1台のみ、「ピニンファリーナ」は1台も無かった。
(写真03-1abc)1953 Ferrari 225 Sport Vignale Spider (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス) (シャシーNo.0198ET)
(写真03-2abc)1952 Ferrari 225 Sport Vignale Spider (2000-05 ミッレミリア/ブレシア)
(写真03-3abc)1952 Ferrari 225 Sport Vignale Spider (2001-05 ミッレミリア/ブレシア)(シャシーNo.0172ET)
(写真03-4abc)1952 Ferrari 225 Sport Vignale Spider (2001-05ミッレミリア/ブレシア)
(写真03-5abc)1952 Ferrari 225 Sport Vignale Spider (2004-08ラグナセカ/アメリカ)
ここに登場した「225スポルト」5台は全て「ヴィニアーレ」製で顔つきもほとんど同じで、テールランプの処理も変わらない。最も多く造られた「スパイダー」だ。
<225インテル>
(写真03-6a~d)1951 Ferrari 225 Inter Vignale Coupe (2002-02 レトロモビル/パリ)
「225」は殆どが「スポルト」(レーシングモデル)で、「インテル」は1~2台しか造られなかった希少な車だ。この車も両端のフェンダーが盛り上がってヴィニアーレ独特のスタイルだ。アメリカ車にテールフィンが発生するのは1955年頃からだが、1951年型のこの車にははっきりとテールフィンが形づくられている。(シャシーNo.0179E)
― 次回は最後のコロンボ・エンジン「250シリーズ」に入ります ―