1918(大正7)年、三菱が最初の乗用車「三菱A型」を完成させてから、今年はちょうど100年になる。そこで、三菱車のファイルをチェックしていたら、1959年に発表され、1960年に発売された「三菱500」の史料が出てきた。2010年に三樹書房から出版された拙著「三菱自動車」にも誌面の都合で載せられなかった史料もあり、今回は初期のカタログと広告見本を紹介する。
三菱500は新三菱重工業が戦後初めて生産した純国産小型乗用車で、1960年4月、39万円で発売された。三菱では乗用車開発に先立って激しい論争が繰り広げられたと言われる。一つは欧州のように、国の経済力に見合った性能、サイズのクルマを造るという意見と、三菱が、しかも後発で参入するからには、最初からメルセデスにも匹敵するような超高級車の生産から出発すべしという強硬な意見が出されたようである。1955年に通産省が国民車構想(4人乗り、排気量350~500cc、車両重量400kg程度、100km/h走行が可能、価格は25万円以下)をだしていたことも、小型車選択に影響したのではないだろうか。
名古屋製作所で開発することに決定したのは1957年早々で、1958年7月から9月にかけて第1次試作車4台を完成し、テスト結果をフィードバックして第2次試作車12台を1959年6月から8月にかけて完成している。試作車呼称M1、生産車型式A10であった。
しかし、1959年10月24日に開幕する自動車ショーに出展する車両準備の真っただ中、9月26日に上陸して5000名を超える犠牲者を出した伊勢湾台風の直撃を受け、工場が2メートル近く冠水し、ショー出展予定車を含め、量産準備中の部品、設備等すべて水浸しとなってしまった。従業員と家族を含めて100名以上の犠牲者を出す大惨事に見舞われたのである。厳しい試練にも屈せず、死に物狂いで復旧作業に当たり、自動車ショー、量産立ち上げとも予定通り実施したのは称賛に値する。
上の3点は、1959年10月に晴海で開催された第6回全日本自動車ショーで発表され、会場で配布された三菱500のプレカタログの一つで「来春発売」とある。カタログで訴求されている特徴は:
●最も買いやすい車です
国産車としてしかも本格的な四輪乗用車として初めて40万円の壁を破った大衆乗用車です
●維持費の安い経済的な車です
燃費は立当り30粁という経済性を発揮しています
●乗心地のよい車です
緩衝装置はデコボコ道でも快適に走れる四輪独立式です
(筆者注:この頃の舗装率は3%にも満たず、デコボコ道はたくさんあった)
●堂々と国道の真中を高速で走れます
通行区分は高速車です
●誰でも手軽に運転できる車です
変速2段3段はシンクロメッシュです
以下の8点は三菱500最初の本カタログ。
「あなたの夢をかなえる小型乗用車」のコピーと、前方から羨望のまなざしで見入るカップルが大事そうに構えるのはカメラ。当時カメラもまだ貴重品だった。グリルのデザインは公募により決定する以前のもの。サイズは全長3140mm、全幅1390mm、全高1380mm、ホイールベース2065mm、車両重量490kgであった。
大人が4人乗れる室内。ただしトランクは無く、荷物の置き場所は後席後ろのみだが、後席のシートバックを前に倒すと150kgほどの荷物が積めるスペースができる。
シンプルな運転席周りと、独立懸架キングピン固定トレーリングロッカーアーム式と称する、コイルスプリングと筒型ショックアブソーバーによる独特な構造のフロントサスペンションと、独立懸架トレーリングアーム+コイルスプリングによるリアサスペンション。ステアリングはラック&ピニオン方式を採用。
サイドおよびリアビュー。初期のモデルではテールランプはライセンスランプと一体になったものが中央に一つ付くだけであった。ターンシグナルランプは左右のBピラー上部に付けられているのみであった。「驚くほど少ない燃費、1ℓのガソリンで30kmも走れます」とあるが、これはモード燃費ではなく、平坦路を30km/hの一定速度で走った時のデータであった。
モノコック方式を採用した車体骨格と、ヘミヘッドを持つ493cc強制空冷4サイクル直列2気筒OHV、21ps/5000rpm、3.4kg-m/3800rpmエンジン。燃料タンクとスペアタイヤはボンネット下に収まる。そのためにフロントには荷物を収めるスペースは確保できなかった。
「より楽しく豊かな生活の為に・・・・・」のコピーとともに、森に囲まれた草原にレジャーシートを広げてピクニックを楽しむ幸せそうな家族! 当時このようなシーンは庶民の憧れであった。価格は39万円だが、大卒の初任給1万6000円ほどの時代、まだまだ高根の花であった。
三菱500の四面図とスペック。
以下の6点は三菱500の広告。広告を介してクルマメーカーの市場に対する訴求の仕方から、当時のクルマ事情が想像できるのではないだろうか?
わが国の乗用車生産台数は1955年にはわずか2万268台であったが、1960年には16万5094台、1965年には69万6176台、1970年には317万8708台に達し、1960年代はクルマが庶民にも広く普及しはじめ、モータリゼーションが開花した時期であった。
「満タン(タンク容量20ℓ)で500キロ!」。いまならハイブリッドで大きなクルマだって軽くこなす。会話の中に「・・・満タンなら富士五湖めぐりぐらい軽いってよ」とあるが、東京からなら近すぎるし、名古屋での会話か?
「出勤20歩時代!」のコピーと、「39万円の大衆車三菱500は自家用車出勤の時代をこんなに早く実現させました」とあるが、それが可能な人はごく一部で、都会で働く庶民に広くいきわたることはなく、半世紀以上過ぎた現在でも、サラリーマンは毎日ぎゅうぎゅう詰めの電車での通勤地獄に甘んじている。
コピーは「きっぷもカサもいりません」とあるが、今ではこのような発想は浮かばないと思う。クルマの存在感がいまとは比べ物にならないほど大きかった時代の広告である。お出かけには雨が降らないに越したことはないが。
「新らしい暮らしの設計」のコピーを付け、ボーナスと月給を合わせた年収で、あなたも車を持てると迫り、同時に最長24カ月の分割払いも用意されていた。
「技術屋のパパだから・・・自動車選びも性能本位」。最近のクルマはどれを選んでも性能が良いが、この当時は必ずしも満足できるとは限らなかった。「・・・パパはやっぱり目が高い」とあるように、技術屋は目が高いと仮定して、その技術屋が選んだ三菱500は素晴らしい車なのだ。だから三菱500に乗っていると目が高いと思われますよと「優越の錯覚」に誘導する広告。
「ジョンも利用者・・・」。電車、汽車などでのお出かけには犬は連れていけない。または、犬がいるから出かけられないと我慢してきたが、クルマなら犬(ジョン)も一緒に出かけられますよと、愛犬家にクルマの存在価値を訴求する広告。レジャーの足を鉄道からクルマへ誘導しようという試み。