Fiat 500F
< フィアット新500>(ヌオーヴァ・チンクチェント)(1957~75)
日本ではすべてを削ぎ落した「ベーシックカー」が誕生しても、年々要求が追加されて排気量も増えいつの間にかそこそこ立派な普通の車になってしまう。しかしイタリアでは「500」のあと「600」が誕生したのではなく、ベーシックの「600」が大ヒットした後に、さらにそれを下回る「500」が要求されたということは、これらを必要とする購買層にとって「車」は見栄で乗るものではなく実用的な道具に徹して居るのだろう。「500」は「600」が発売されてから2年後の1957年ジュネーブショーでデビューした。主任設計者の「ダンテ・ジアコーサ」にとっては極限まで切り詰めた寸法で実用車を造り上げるというチャレンジは、ある意味では興味深い仕事であったと思われる。開発のテーマは「メカミニマム・マンマキシマム」だった。1957-60「Nuova」、1960-65「D」、1965-72「F」、1968-72「L」、1972-75「R」の5つのモデルがあった。
< 新500・ヌオーヴァ・チンクチェント シリーズ >(1957~60)
(写真17-1abc) 1957-60 Fiat Nuova 500 Normale (初期型) (1959 静岡市内)
初代「新500」の最も解り易い特徴はヘッドライトの下に3本のひげのように見える穴が開いている事だ。これだけで確実に確認が可能だ。写真の車は僕が初めて見た「ヌオーヴァ・チンクチェント」で1959年静岡市内で撮影した。この車は通商産業省が性能試験の為輸入したもので、この日「メルセデスベンツ300SL」「180」や「プリンス・グロリア」などとコンボイを組んで、東海道(国道1号線)をテスト走行中に偶然捉えたものだ。多分日本に入った最初の車だと思う。僕は日本に1台しかない車を、街中で「偶然」撮影するチャンスに何回も恵まれている強運な男だが、それは「執念」のなせる結果かもしれない。(しかし見つけた時にいつもカメラを持っていたことも凄いですネ)この写真は「モーターマガジン」の読者投稿欄に「ファニーフェイス」のタイトルで掲載されたことがありました。リアエンジン強制空冷 直列2気筒OHV 479cc 15hp
(写真17-02abc) 1957-60 Fiat Nuova 500( US仕様) (1999-08 コンコルソ・イタリアーナ)
写真の車は初期型の「アメリカ輸出仕様車」である。一番の特徴は飛び出した「目玉」にある。これはアメリカの保安基準に合わせる為ヘッドライトの位置を高くする措置で、同じことは「ポルシェ356A」が「356B」になった時にも行われ「イメージが失われた」と話題になった。ヘッドライトが上にあがったお陰で初期型の特徴である3本のひげを残したままマーカーランプを正面に移している。
(写真17-3ab) 1959 Fiat Nuova 500 Sport Berlina (2008-10 ラフェスタ・ミッレミリア)
初期型「500」の派生モデルとして1958-60年「スポルト」が造られた。エンジンをボアアップして499.5cc 、21.5hpとし、最高速度はノーマルの85km/hに対して105km/hまで速くなった。写真の「ベルリーナ」の他に「Tetto Apribile」(解放可能な屋根)と名付けられたモデルもあり両方で約100万台造られた。「500」はエンジン音が室内にこもるためオープンにしたと言われているが、「スポルト」では空気抵抗の低下と強度確保のため敢えてレース用に「ベルリーナ」を用意したが、レースを目的としない顧客の為には1959年には音のこもらないオープンモデルも用意された。
(写真18-1a~d) 1960 Fiat Nuova 500 Second (2015-11 トヨタ博物館クラシックカーフェスタ)
この車の案内板によると1959-60年に製造された初期型の「セカンド・モデル」とある。「スポルト」へのマイナーチェンジを機に1959年4月「500」全体が変更を受けたのが「セカンドモデル」と言われるシリーズと思われるが、外見上の特徴は1960年公表された「D」シリーズと全く同じで区別がつかない。ある資料では性能面の変更はなく排気量の増えたのは「スポルト」だけとあるが、車の案内板には499ccとあるのも疑問点で説明がなければ「500-D」としてしまいそうな正体が捉えにくい車だ。
< 500-Dシリーズ > (1960~65)
(写真19-1ab) 1960-65 Fiat 500 D (2017-12 トヨタ/メガウエブ・お台場)
この車は紛れもない「500 D」だが、前項の「Nuova 500 Second」と較べても外見上に何処ににも相違点が見つからない。「D」シリーズになると排気量は「スポルト」と同じ499.5ccとなったが,圧縮比を8.6から7.0にさげ、出力も21.5hpから17.5hpとなってマイルドなエンジンとなった。「D」シリーズは1960-65年に製造され64万台造られたが、特徴は「前開きのドア」「ウインカー」がヘッドライトの下にあることで特定できる。
(写真19-2ab)1961-68 Fiat 500 D Giardiniera (ガレリア・アミカ/名古屋)
「500D」をベースにしたワゴン車で、「600」の派生車「ムルティプラ」がリアエンジンを殆どそのまま使ったためリアゲートが付けられなかったのに対して、「ジャルディニエーラ」の場合は右へ90度傾けて水平に搭載することに成功した。そのおかげで荷室の床は下にエンジンがあるとは思えない程低く平らで、荷物の積み下ろしのため大きな「リアゲート」が付けられた。
(写真19-3ab) 1960-65 Fiat 500 D Special (1965年 港区赤坂溜池付近)
ベースが「500 D」のこの車は「オーバー・フェンダー」や「コーダトロンカ」(切り落としたリアエンド)など、レースを意識した改造が施されているが、前後で45個もびっしりと付けられたバッジは人目は引くがレース向きではない。この改造は大手カロセリアが行ったものではなく、器用な人の手になる一品ものではないかと推定される。テールランプは1964 年デビューした「850・ベルリーナ」から転用したものだろ。
< 500-Fシリーズ > (1965~72)
(写真20-1abc)1965-68 Fiat 500 F (1966-10 インディ・イン・ジャパン/富士スピードウエイ)
1965年発表された「Fシリーズ」は、ドアが「前開き」から「後ろ開き」になると、外見上最大の変更が行われた。ほかに外見上ではボイディ側面にあったクローム・ラインがなくなった。エンジンの排気量は499.5ccと変わらないが出力は22hpまで上げられている。
(写真20-2abc) 1966 Fiat 500 F (2017-11 トヨタ博物館クラシックカー・フェスタ/神宮外苑)
前から見ると間違えなく「アバルト」仕様に見えるが、中身は多分「オリジナル」の侭ではないだろうか。手元の資料「Abarth Buyer's Gutde」によると1963年から68年にかけて、一般によく知られているアバルト・チューン「595」「695」の各シリーズが造られた事になっているが、1957-63年に「Fiat Abarth 500 Berlina」が造られたという記録もある。資料に後ろ姿の写真が無いので確認は出来ないが、写真の車のプレートが「Nuova 500」とあるだけで「Abarth」の文字がどこにも見当たらないので、本人の申告通り只の「500 F」だろうと推定した。
(写真20-3ab) 1967 Fiat 500 F (2014-11 トヨタ博物館クラシックカー・フェスタ/神宮外苑)
「F」シリーズは大ヒットした「500」の中でも最も長い、7年間にわたって殆ど変更なしで造り続けられた。正式にモデルチェンジされた訳ではなさそうだが一か所だけ変更されたところを見つけた。それはリアのエンジン・フードの把手(とって)で、写真の車はレバー式だが、後年ボタン式に変わった。
(写真20-4ab) 1968 Fiat 500 F (1984-01 TACSミーティング/明治公園)
僕が撮影した「500 F」は12台中9台が右ハンドルだった。フィアットが英国向けの右ハンドルを流用したのか、日本向けに造ったのか僕には判らないが、いずれにしても輸出にかなり力を入れていたのは確かだろう。この車のバックミラーが今は懐かしい前方設置型で、完全日本仕様だから新車で輸入されたものだろう。
(写真20-5ab) 1968 Fiat 500 F (2014-11 トヨタ博物館クラシックカー・フェスタ/神宮外苑)
この車は前項と同じ1968年型だが左ハンドルで、バックミラーは運転席の直ぐ脇についている。バックミラーの位置の変更時期の記憶が定かではないが、1968年購入した我が家の車はすでに運転席脇になっていた。
(写真20-6a) 1965-68 Fiat 500 F (1977-08 千葉市内・県庁付近)
千葉市内で開かれたパレードで撮影したもので年式の特定はできなかった。
(写真20-7ab) 1968-72 Fiat 500 F (1968年 銀座7丁目付近)
この車は左ハンドルだがバックミラーは前方設置型なので新車で輸入され国内仕様に変更されたものだろう。当時の正規デーラー「西欧自動車」を示す「Seiou」のステッカーが貼られているので、左ハンドルも正規輸入されたようだ。リアのエンジン・フードの開閉が、レバーから押しボタンに変わった。場所は銀座の裏通りだが、映画のセットかと思うほど人影が無い。
(写真20-8ab) 1968 Fiat 500 F (1977-01 東京外車ショー/晴海)
写真の車は外車ショーが開催されたとき別館の「中古車館」に展示された車で、約10年経過した中古車だが、前項の車と外見は全く同じに見える。もちろん同じ仕様の車が相当数販売されているから似た車があるのは当然だが同じ車かと一寸疑ってしまった。しかしよく見たらこちらは右ハンドルだった。
(写真29-9ab) 1968 Fiat 500 F (1985-09 大阪・万博公園)
この車もバックミラーが前方設置型だが多分1968年前後までこの形だったのだろう。大阪の万博公園で開かれたイベントで、当時転勤で長野に住んでいた僕は車で大阪迄行った。大阪には土地勘が全くないため迷子になり、偶然環状線の「何とか駅」の横を通ったが、山手線と違って駅名もその位置も全く手掛かりにならなかった。万博公園は大阪の北の方という事だけは判っていたので太陽の位置から推定して北方に向かった。その時何故か零戦でガダルカナルの空中戦を戦い、殆ど視力を失う重傷を負いながら太陽の位置を頼りに奇跡の生還をした「坂井三郎空戦記録」の一節が頭に浮かんだのだ。そして、何処をどう通ったか判らないが僕も奇跡的に会場に辿(たど)り着いた。「カーナビ」などという便利な道具はまだ発明されていなかった時代の苦(にが)い思い出だ。
(写真20-10ab) 1968-72 Fiat 500 F (1969-11 東京オートショー駐車場/晴海)
この当時は自動車ショーが開催できる会場は晴海の貿易センターしかなかった。後年になると自動車では来ないで「公共交通機関をご利用ください」という時代になってしまったが、この当時は会場に入る前に駐車場を一回りするのが習慣だった。
(写真20-11a) 1968 Fiat 500 F (1967-11 東京オートショー/晴海)
(写真20-12a) 1969 Fiat 500 F . . . . . (1968-11 東京オートショー/晴海)
新車として展示された車だから「1968/1969年型」に間違えない。と言っても他の「500 F」と何処にも違ったところは見当たらない。この当時撮影条件はカメラのレンズの明るさはF2かF3.5、フィルムの感度はASA100~200だったから、ショーの会場では「ストロボ」を発光するか、「スローシャッター」で露出をかけるか、どちらかだった。68年型の背景の人物が大きくブレているのはその所為で、この時は三脚を使用している。デジタル化した現在は、感度も10倍以上が使えるので殆どの場面で光量不足を感じたことはない。
< 500-Lシリーズ > (1968~72)
(写真21-1a) 1968-72 Fiat 500 L (1973年 銀座付近)
「D/F」シリーズは開発の順番に従って付けられたシリーズ名だと思うが、1968年登場した「L」シリーズは順番ではなく、イタリア語の「Lusso」(豪華、贅沢)の頭文字で、英語の「Deluxe」だから、モデルチェンジではなく、上級モデルとして「F」シリーズと併売された。この車が日本に入ってきた時期は「路上駐車禁止」になってからなので、イベントや駐車場で撮影したものが多かった。そこで街中で撮影したこの1枚を取り上げた。場所は当時の勤務先の斜め前にあった呉服橋の「東京ガス」ビルの前だと思っていたが、今回確認したところビルの外装が違っていた。撮影の前後の駒から銀座付近と推定した。
(写真21-2ab) 1969 Fiat 500 L (1978-01 TACSミーティング/東京プリンス)
(写真21-3ab) 1969 Fiat 500 L (1984-01 TACSミーティング/神宮公園)
「L」シリーズの外観で最も大きな特徴は前後のバンパーにパイプの「プロテクター」が付いたことだ。それと前後の窓枠にメッキのモールが入って少し豪華に見えるようになった。そしてバッジから「Nuova」の文字が消え、2段書きで「FIAT/ 500L」と変わった。写真の車はナンバーは違うが2台とも「500 Sport」風のストライプを入れている。(オリジナルに2トーンは無かったようだから後から追加したものだろう)しかもオリジナルとは異なったスペシャルホイールも同じパターンだ。そして色々貼られてあったステッカーは変わっているが、右後ろの(I)だけは位置もぴったり同じように見える。ということで、これはもしかして同じ車かも知れない。
(写真21-4ab) 1969Fiat 500 L (1985-01 TACSミーティング/神宮公園)
この車は前項の車と違って、何処にも手が加えられていない全く「オリジナル」のままで、「L」シリーズの標準となる車だ。
(写真21-5ab) 1970 Fiat 500 L (1969-11 東京オートショー/晴海)
自動車ショーで撮影した写真には2つの大きな意味がある。一つは、「年式の特定」で、これは間違えなく確実なものだ。(年鑑では、発行時期によっては資料が間に合わなくて前年の写真を使っているものも結構多いので、年式の特定には100%信用はできない) 二つ目は「輸入時のオリジナルの姿」が確認できる事だ。街中で撮影した車にはその後改良されたり、追加されたものもあるので、それらと比較する原点として貴重な資料となる。(カタログもオリジナル確認に有力な資料となるが、残念ながら僕はコレクションしていない)
(写真21-6ab) 1970 Fiat 500 L (1969-10 西武自動車新車発表会/池袋・西武百貨店屋上)
「フィアット」の正規輸入デーラーは「西欧自動車」で、1971年には「西武自動車」に吸収合併されたのだが、「東京オートショー」は1968年までが「西欧自動車」で、1969年からは「西武自動車」で出展していた。写真は「西武自動車」が新車発表会と称して、当時扱っていた「フィアット」5台と「シトロエン」2台を広い屋上を利用して展示した際撮影したものだ。ショーでは日本向けの「右ハンドル」が展示されていたが、ここの車は「左ハンドル」だった。いま時そんな人はもう居ないと思うが、ある時期「外車」に乗るのがステータスと思っていた人にとっては、ハンドルが左にあることは素人が見ても「外車」と判るから、敢えて「不便な」左ハンドルを自慢したい人がいたことは確かだ。商売上手なデパートのセールスマンは、その心理をついて「左ハンドル」をセールス・ポイントに使ったのは流石、と感心するのは僕の考え過ぎか。
< 500-Rシリーズ > (1972~75)
(写真11-1a) 1972-75 Fiat 500 R (1990-03 筑波サーキット駐車場)
「R」シリーズは「ヌオーヴァ・チンクチェント」の最終モデルとして1972年登場した。同じ年、後継モデル「126」が発売され「R」シリーズはその廉価版という扱いで誕生したから、エンジンは「126」と同じで594cc 23hpまで強化されたが、部品は「126」と共通で、全体に簡素化されコスト低下が図られた。「R」と命名されたこのシリーズは「Rivised」(改訂版)の頭文字で、決して「Racing」の略ではない。この車はイベント参加車ではないのでプログラムでは確認できない。そのうえ前からの1枚だけなので情報が乏しい。そんな訳でやや自信は無いのだがシリーズ最後の「R」ではないかと推定した。正面のエンブレムが横長の「FIAT」ではなく「L」シリーズと同じ縦長のものが付いているところが気になるが、フロントウインドーのゴム枠にメッキ・モールがないので「L」ではない。「F」なら有る筈のドア下のメッキのモールドがない。ホイールが「R」のものに似ている。など「R」を示す条件が多いので「フロント・エンブレム」は過渡期の処理と考えたい。
<アバルト・チューンによるチンクチェント>
アバルトが手掛けたフィアット「500」は、排気量では「500」「595」「695」の3種で、それぞれにバリエーションがあり合計では以下の13種があった。
1957-63「500 Berlina」
1963-64「595 sr.1」/1966 「595 sr.2」 /1964「595 SS sr.1」/ 1966 「595 SS sr.2」 / 1964 「595 Corsa」
1964「695 Berlina sr.1」/1966「695 Berlina sr.2」/1965「695 SS sr.1」/1966「695 SS sr.2」/1966「695 SS Assetto Corsa」/1968「695 SS AssettoCorsa」/1968「695 SS Assetto Corsa Radial」
(写真23-1ab) 1965 Fiat Abarth 595 sr.2 (1985-01 TACSミーティング/明治公園)
ドアが後ろ開きになっているのでベースは「F」シリーズだ。ボディの外装は殆どオリジナルの侭だから遠目では「アバルト・チューン」と気が付かないが、正面の「オーナメント」は中が「さそり」で、お尻にははっきりと「Fiat Abarth 595」と 示してある。
(写真23-2ab) 1965 Fiat Abarth 595 SS sr.1 (1985-11 SCCJ 30周年/筑波サーキット駐車場)
写真の車は高性能バージョンの「SS」で、リアのサソリのマークの下に「esse-esse」と見える。エンジン・フードがストラップで固定されているところを見ると、このシリーズは「フードが閉まらない」風のパフォーマンスは考えていないようだ。
(写真24-1abc) 1969 Fiat Abarth 695 SS (1986-11 モンテ・ミリア/神戸・ポートアイランド広場)
ここから一段強力な「695」シリーズとなる。前から見たところ、「595」と何も変わらないようだが、気を付けてみるとオーバー・フェンダ-の厚みが違う。ということはタイヤの太さが全然違うという事だ。しかし見た目は極力ノーマルとイメージを変えないよう配慮されているようで、リベットで荒々しさを強調するような事はない。連装のワイパーが僅かに只者でないことを示している。
(写真24-2ab) 1971 Fiat Abarth 695 SS Asset Corsa (1989-09 大阪・万博公園)
前項の車と同じように見た目が穏やかな印象を与えるから俗にいう「羊の皮を被った狼」で、秘めた底力を感じさせない。エンジン・フードもしっかりと閉まっている。流石に「アバルト・チューン」には「日本仕様」は無かったようで、撮影した車はすべて「左ハンドル」だった。
(写真24-3a) 1966-69 Fiat Abarth 695 SS Special (2001-05 モンッツア・サーキット/イタリア)
モンツアサーキットで見つけたこの車は、⑱のレースナンバーを付けていたが当日のプログラムには無かったので年式は特定できなかった。完全にレース仕様に手が加えられており、リベットで止められた「オーバー・フェンダー」や、水平に固定された「エンジン・フード」はやる気満々だ。
< いろいろなメーカーの作品 >
(写真25-1ab) 1962 Fiat Giannini 500 (1999-08 コンコルソ・イタリアーノ/カリフォルニア)
「ジャンニーニ」はフィアット・ベースの車を沢山手掛けた。と言ってもこの写真で見るとどこがオリジナルと違うのか探すのが大変なくらい外見では変化が無い。正面の「エンブレム」の中央のバッジが「フィアット」から「ジャンニーニ」に変わっているのは当然ながら、オリジナルの「F」シリーズでは黒いゴムの窓枠がクロームメッキに変わっている位で、あとは後のバッジが「Giannini」となっているだけだ。性能的にはそれなりのチューンが施されているのだろうが、資料不足で確認は出来なかった。
(写真25-2ab) 1965-72 Steyr-Puch (Fiat 500 F) (2000-05 ミッレ・ミリア/ブレシア)
フィアットをベースにいろいろな車が生まれたが、それを造ったメーカーの規模は大きく分けて三つある。「チューニング・ショップ」的な改造を主体とした小規模なもの。「ザガート」に代表されるように「アバルト」がチューンした車を使ってスペシャルボディを架装するカロッセリア。自らも自動車を生産する規模を持ち、ライセンス生産や大規模な改造まで可能なメーカーの三つだ。写真の車を造った「シュタイル」(英語読み・シュタイヤー)はオーストリアのメーカーで、19世紀創立時は兵器を製造していた。第1次世界大戦中の1917年、「ハンス・レドヴィンカ」をチーフ・エンジニアに迎え自動車製造を始め、1929年から30年にかけては「ポルシェ博士」も在籍していた。1934年には経営不振で同じ銀行管理となった3社と統合して「シュタイル-ダイムラー-プフ」となった。第2次大戦後は敗戦国として連合軍の管理下に置かれ、1959年からは「フィアット500 D」を「シュタイル-プフ」として生産を始めた。この車のエンジンはフィアットの「並列2気筒」ではなく自社製の「水平対向2気筒」が積まれ、サスペンスやブレーキも改造されていた。 写真の車はドアが後ろ開きなので、ベースは「F」と思われる。
(写真17-1ab) 1958 Fiat 500 Jolly by Ghia (1999-08 コンコルソ・イタリアーナ/カリフォルニア)
「フィアット・ビーチカー3兄弟」の末っ子がこの「500ジョリー」で、「カロセリア・ギアが1958年から66年まで造った。ベースは「Nuova(初代)」から「D」シリーズの時代だが、この車にはヘッドライトの下に3本の「ひげ」(空気取り入れ口)があるので初期型だ。アメリカ仕様でヘッドライトの位置が高めに設定されている。「カロッセリア・ギア」の写真集にはこの他にいくつかのバリエーションが載っていたが、写真の車は「カタログ」の表紙にほぼ同じものが載っていたので、代表的なものだろう。
(写真28-1abc) 1971 Fiat Gamine by Vignale(1986-11 モンテミリア/神戸ポートアイランド)
「ヴィニアーレ」はフェラーリやマセラティなど多くの高級車を手がけるイタリアでも大手の「カロセリア」(コーチビルダー)という事はご存知の通りだ。「フィアット」との関わりは1948年会社設立以来で、当初は「500」トポリーノ だった。写真のこの車は戦前の傑作車「508」(バリッラ)のイメージを追って造られたものだろう。いつの世にも「ノスタルジー」を好む人は居るもので、この極めてアンバランスな外見を持つ「ガミーヌ」がそこそこ売れ、しかも熱心な愛好家もいるらしい。戦後ボディは進化し「フルワイズ」(車幅一杯)まで広がったが、この車は独立したフロントフェンダーに飛び出したヘッドライトなど、一歩も二歩も後退した1930年代にこだわっている。特にダミーのラジエターは異常なほど大きいが、このロンドンバスのようなグリルの自己主張の強さがこの車が好きな人にはたまらない魅力なんだろう。
(写真28-2a~d) 1970 Fiat Gamine by Vignale (2001-05 ミッレミリア/フータ峠)
写真を撮る角度でも大きく印象が変わるのがこの車で、幌を上げた日常使用の姿を捉えたのがこの写真だ。クラシック・スタイルの大きな特徴は、ラジエター・グリルがフロント・アクセル(前車軸)より後に位置している事だが、ここが現代の車を改造する際の泣き所だ。この車の中身についてはオリジナルの侭で、特にチューンアップはされていない。
< 850 シリーズ >(1964~73)
新しいシリーズが誕生した1964年の小型車ラインアップは「500D」「600D」「850」「1100D」となった。1966年には「1100」の後継として1.2リッターの「124」シリーズが誕生する。そして1969年「600D」が姿を消したので、その段階で「500F」「850」「124」の3本建てとなった。「850」シリーズには「ベルリーナ」「クーペ」「スパイダー」の異なるボディがあった。
(写真30-1ab) 1964 Fiat 850 Berline (1967-05 第4回 日本グランプリ/富士スピードウエイ駐車場)
「850」シリーズで最初に登場したのは「ベルリーナ」だった。ファミリーカーとして「1100」と「600」の隙間を埋めるための登場だったが、1969年「600」が消えてからは、その代役的存在となった。4人乗りだが2ドアのみで4ドアは無かった。843ccのエンジンはチューンによって「ノーマル」「スーパー」の2種があった。写真の車は全てがオリジナルで標準となる良い状態の車だ。
(写真30-2abc)1964 Fiat 850 Berline (1966-05 第3回 日本グランプリ/富士スピードウエイ)
この車の正面についている細い空気取り入れ口(ダミー)を模した飾り物がオリジナルの「850」のものだ。公式の写真も年鑑も此のマークが付いており、このタイプが標準モデルである。(後でマークの付いていない例が登場する)
(写真30-3a)1968 Fiat 850 Special (1986-11 モンテ・ミリア/神戸・ポートアイランド)
1968年上級モデル「スペチアーレ」が登場した。エンジンは「クーペ」と同じ903cc 47hpとなりホイールは1インチ大きい13インチとなった。
(写真30-4ab)1970 Fiat 850 Special (1969-11 東京オートショー/晴海)
このモデルは「ベルリーナ」の上級モデルだが、単に「スペチアーレ」と命名された。外見上では正面の飾り物がオリジナルと同じモチーフながら、空気取り入れ口が一回り大きくなった。
(写真30-5ab)1968 Fiat 850 Special (195-09 大阪・万博公園)
この車も間違えなく「850 Specia」だが、正面の顔つきが「バッジ」一つしかない変わり種だ。これが年式の差なのか、日本仕様なのか、個人的な改造なのかは確認できなかった。
(写真30-6ab)1968 Fiat 850 Special (1982-05 TACSミーティング/筑波サーキット)
この車も前項と同じように正面の中央に丸い「Fiat」のバッジがあり、横に「Fiat/850」が追加されている。プログラムによる本人申請では1968年となっているので、年式による変化ではなさそうだ。
(写真30-7a)1968 Fiat 850 1984-07 TACSミーティング/富士スピードウエイ)
この車は本人申請のプログラムに記載された通り表示したが、外見はどう見ても「アバルト」だ。オリジナルに比べると明らかに太いタイヤに対応するオーバーフェンダーを持っている。排気量が903ccとあるのでベースは「Special」で、「Fiat Abath OT 850」ではないかと疑ったが、よく見ると「右ハンドル」なので、アバルトではありえない。(アバルトに右ハンドルは無い)
(写真30-8ab)1968 Fiat 850 Berline (1978-01 TACSミーティング/東京プリンスホテル)
この車もプログラムによると排気量が850cc とあるので843ccの「ベルリーヌ」と判定した。こちらは何も付いていない「のっぺらぼう」だが、フィアットのオーナーの間でこんな改造が流行って居たのだろうか。
(写真31-1ab)1965-68 Fiat 850 Coupe (1966-05 第3回 日本グランプリ/富士スピードウエイ)
「ベルリーナ」に1年遅れてスタイリッシュな「クーペ」が誕生した。低い前面にファストバックのボディはいかにも空気抵抗が低そうで、エンジンは843ccの侭だが47馬力まで強化され、最高速度はベルリーナの120km/hに対して 135㎞/h迄上がった。
(写真31-2ab)1970 Fiat 850 Sport Coupe (1969-11 東京外車ショー/晴海)
1968年になるとエンジンは903ccに拡大され、52馬力となった。ボディの外形は一見変わらないように見えるがリアフェンダーにエッジが付き、クオーター・ウインドの後端の跳ね上がりが直線から少し丸みを帯びた。そしてテールランプが4灯となった。正面の顔つきは「丸と直線」のバッジが無くなり、シンプルな「V」のバッジと大きな補助ランプに変わった。会場の看板は「フィアット850クーペ」となっているが、これを機会にネーミングは「850 スポルト・クーペ」と変更された筈だ。
(写真31-3abc)1970 Fiat 850 Sport Coupe (1969-11 東京外車ショー会場前/晴海)
前項の車はモーターショーに展示されている車だったが、この車は同じ会場の外で撮影したもので、全く同じものが外に停まっていた。
(写真32-1ab)1966-69 Fiat Abarth OTS 1000 Coupe (1998-08 コンコルソ・イタリアーノ)
初期の「850 Coupe」をベースにアバルトがチューンした車で,黄色の車が対象だが、隣の赤い車も同じ「Fiat Abarth 850 OT 1000 Coupe」で、フロントの飾り物に相違がある。
(写真32-2ab)1967 Fiat Abarth OT 1300 Coupe(1987-10 モンテ・ミリア/ポートアイランド)
「アバルト」が手掛ける車はボディには殆ど手を加えることはない。もっぱらエンジンの排気量を増やして強化を図るから、外見ではグリルやバッジでしか見分けられない。「1300」の上は「1600」「2000」まで存在する。
(写真33-1ab)1968 Fiat 850 Spider (1982-01 TACSミーティング/明治公園)
一般的にはベースとなる「セダン」をファストバックにして「クーペ」、その屋根を無くして「スパイダー」の3兄弟が生まれるからどこから見ても同じ車と判る。ところが「フィアット850」の場合は「ベルリーナ」も「クーペ」も「スパイダー」もそれぞれ別のコンセプトで造られているから、外見の何処にも共通点が無い全くの赤の他人だ。そんな訳でここに登場する「850スパイダー」は、これまで見てきた「850」から見れば、これも一族かと思えるほどの異端児だ。誕生したのは「クーペ」と同じ1965年で、「ジウジアーロ」のデザインで「カロセリア・ベルトーネ」がボディの製造を担当した。
(写真33-2ab) 1965 Fiat Abarth OT 1000 Spider (1966-02 世田谷区/駒沢公園)
「アバルト」はこのスパイダーも見逃さなかった。「ポルシェ928」や「ランボルギーニ・ミウラ」のような上を向いたヘッドライトが特徴のボディに1000ccのエンジンを収めた高性能版で、シリーズの中では最速の145km/hを誇った。撮影場所は「何でも100年」というテレビ番組の収録が行われた駒沢公園で、向こうにずらりと並ぶクラシックカーは当時のフルメンバーのオンパレードだ。
(写真33-3a) 1970 Fiat 850 Sport Spider (1969-11 東京オートショー/晴海)
「スパイダー」も「クーペ」と同じように1968年エンジンの排気量が903ccとなり、名前も「850 スポルト・スパイダー」となったが、オートショーの看板は「クーペ」同様「スポルト」の表示は無かった。重要な輸出先アメリカの保安基準に合わせヘッドライトが普通の形となり、デザインの最大の特徴が消えてしまったから、残念ながら平凡な車になってしまった。
- 次回は大型車・Dinoなどでフィアットを終了する予定です ー