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第12回 W1S-Aで左チェンジになり人気沸騰、Wの生産継続に貢献
2018.5. 2

 カワサキのトップモデルは1969年から2サイクル並列3気筒の「H1=マッハIII」こと500SSになった。以下はマッハに関与し1969年末帰国、製品企画を担当していた種子島経の当時の回想の要約であるが、Wの置かれた状況が理解できる。
 『種子島氏の仕事の一つは米国で不評であったWの生産を止め、その生産ラインを他機種に転用することだった。だがW1開発以前から旧知の友で国内担当であった岩崎茂樹氏は、種子島氏を迎え撃って日本各地のディーラーに案内し、彼らと話させた。
 種子島氏のマーケティングは実績あるディーラーと話して、アイディアを固めて行くことを岩崎氏は熟知しているから、彼らをして語らしめよう、という訳である。その結果、種子島氏は「日本ではWこそカワサキ」であること、それなしには彼らの経営が成り立たないこと、を認識せざるを得なかったという。Wのお客は宣伝など何もやらずとも向こうからやって来て、値切ることなど一切しないことも知った。こうして種子島は「Wの生産打ち切りは諦めた」という』
 そして岩崎がさらに日本でWを普及させるために決断したのが、リンクを介して「逆チェンジ」にする策であった。これにはエンジン設計の稲村暁一も「技術的には邪道」と考えていたが、右チェンジに躊躇していた人達もWに乗れるようになり、大人気を得てWは生産継続。国内カワサキ重量車の依然、人気車となってゆくのである。

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 1970年代は、二輪にもGT(グランドツーリング)という表現が二輪専門誌でも使われた時代で、広告コピーではホンダCB750、車名ではスズキGT750、カワサキも「2輪GT」「ニッポンの高速GT」などの表現を用いた。

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 1970年東京モーターショーでの試作車展示後、1971年2月から市販に入った 新型W1S。それまでのWから大きく変更されたのが左足動チェンジになったことである。さらには灯火類、カラーリング、ブレーキなども新規設計になった。

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 カタログを開くとエンジン、灯火類、チェンジ機構、グリップ類、燃料タンク、サスペンションなどを解説しており、「シート以外が変更されたことがわかる」ようになっていた。

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 左チェンジになったことで「誰でも乗れるW」としてアピールしたカタログの裏表紙。当時のカワサキでは「グループでの工場見学」ができたため、夏期には明石工場を訪ねるWライダー達が大勢いた。

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 新型W1スペシャル、W1S-Aのサイドビューである。カワサキでは1971年3月10日発行のパーツリストですでに「W1S-A」として掲載されていたが、その存在が広く一般に広く知られるようになるのは1971年10月発行の自動車ガイドブックからであった。前年のモーターショー用の試作車と変わったのは、タンクパターンと前輪ブレーキであった。エキゾーストクランプ部がツヤ消しブラック処理されており、これは前期型後半から後期型全般モデルの特徴であったが、生産量は極めて少ない。

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 大きく変わったエンジン部は、高速連続走行に対応させたヘッドガスケット変更、追従性の良い2ポイント2高圧コイル点火方式の採用などが実施された。Y字カバーもWマーク入りの新規部品に変更。そして圧巻はリンク機構を駆使した、左足動チェンジ機構であった。

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 カワサキでは高回転の4気筒DOHCエンジンなども手がけていたため、その手法がWでも採用されてゆく。バルブガイドは吸入、排気で長さを5mmほど変えていたが共通となった。さらにバルブ径もBMWやモトグッチなどの欧米車に多かった8mmからZ1系の7mm=thin stem(シンステム)の細いものに変更され、高回転の追従性を向上させた。

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 点火系も一新された。それまでのハーレーダビッドソン的な1ポイント+1コイル2本出し高圧コードに対して、レーシングマシン並みの2ポイント+2コイル独立高圧コードに変更して、発熱対策を実施しての登場となった。直流ダイナモ方式については、カワサキA1、A7などにも採用されており、変更されずにいた。

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 W1S-Aでは、なんとプライマリーケース部分にチェンジペダル部がマウントされて登場。万人向けの演出がされた。車体のスイングアームシャフト部に伸ばされたリンクが大げさだが、エンジン部をいじらないで逆チェンジするには実に合理的な設計であった。

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 ケース部分はキャストの型が一新されて、かなり角張ったデザインになった。新たにKAWASAKIのロゴが追加され豪華になったが、ゴツゴツとした印象は否めなかった。ただしこの変更が新たなインパクトとなり、新規ライダーを増やす要因にはなったようである。

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 リンケージ一式は、いかにもカワサキらしい極太の8mm径ロッドとピンなどは共通にしたものの、他のパーツ類は新規設計であった。チェンジペダルシャフトはプライマリーケース内を貫通し、チェンジシャフトはスイングアーム内を貫通しており、車体設計が協力して設計したことがわかる部分である。

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 リンク操作にともないW1S-A発売から2ヵ月後に図の35番カウンターシャフトが変更され、チェンジが容易にできるように工夫がされた。

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 米国向けということで採用されてきたライダー側の折りたたみ式ステップが、K2以来の固定式に戻された。4のマウントボルト径も14mmとメグロの伝統を継承する部分となっていた。ステップゴムはマッハ500SS同様のカワサキらしいヒダタイプの振動吸収方式だが、それでも高速域では振動が伝わってきた。

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 写真のように大型灯火類が採用されたが、Wの装備は新時代のマッハこと350SSや750SSへの流用パーツになったから、高級なパーツがマッハに与えられることになり、これはスゴいことだった。ヘッドランプは大径160mmから175mmになり、バルブは変わらず一応12V35/25Wのままであったが、ターンシグナル=フラッシャー球は12V8Wから、なんと23Wまたは32CP(=400ルーメン)球が使われ、国産車では最高輝度に近かった。

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 パーツリストでのランプ類とメーター部分。全てが新規設計となり、当時のカワサキの力の入れ方がわかる。もっとも、この後には灯火類はマッハやZに流用されてゆくことになるから、W1S-Aは時代のリーダーだったことになる。

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 なんと220km/hまで刻まれたスピードメーターが、新型W1S-Aの設計陣の意気込みが感じられる。メーターは当時の日本電装製の最新構造品で、大きさは異なるがCB250/350系にも似通った構造であった。

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 W1S-Aのイメージを変えたのが「エアスクープ付フロントドラムブレーキ」だった。エアスクープはマッハ500SSのリアブレーキに採用されていたが、それを大型化したのが、このドラムであった。前フェンダーも後に合わせてクロームメッキ処理になり、ステーも振動に強いトレールフォルムになった。

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 パーツリストにあるブレーキパネルを見ると、その構成は極めてマニアックなものだったのがわかる。ただしハブはそれまでのW1用を左右にひっくり返し、シューなども小改良された。だが実際には晴天時は効きが良いとは言えず、逆に雨天時は急に効くため、「カックンブレーキ」ともいわれた。ホイールシャフト径は他社の15mmに対し17mmと太いものでカワサキ車の伝統を築いた。

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 後部から見た初期のW1S-A。シート以外は原則的に新設計部品で構成され、マフラーが短いのが特徴。テールレンズは350SSに流用された。リアショックなどもスプリング巻径の太いものになった。

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 図はパーツリストによるリアショック部。スイングアーム部に注目。貫通シャフトでなく、チェンジ関係のシャフトが通るためにパイプ式ピボットシャフトになっているのが特徴といえよう。

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 ハンドル部分も新規部品で構成されている。右グリップ部からスイッチ類が消え、スロットルワーク重視に、スイッチ類は左側集中タイプを採用している。グリップはマッハ500SS同様にヒダ付オフロードタイプで、腕に伝わる振動を分散させる方式である。

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 図はパーツリストによるハンドルバーの構成部品一式。W1Sまで存在していた一文字バーの姿がないのは「日本国内専用車」として設計されたため。ただ実際にはオーストラリアからの要請があり豪州向けに出荷されたという。

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 W1S-Aの後期型の排気系が一新され、静粛タイプで後部タイヤまで伸ばされた長いマフラーに変わった。形状的には「後ろすぼまり」のトライアンフタイプで、コストのかかった部品でもあり、W1S-A初期型までの丸筒型のキャブトンタイプでないのがわかる。

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 図のパーツリストによるエキゾーストマフラー部の比較。上が前期型、下が後期型でエキゾーストパイプ先端部にクロスオーバーパイプが追加されていることがわかる。このパイプは空冷2気筒のBMWなども採用され、中速トルクのアップに貢献するとされていた。

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 後期型のカタログ表紙。「男臭い」Wに外国人美女がまたがる場面。たかがカタログというなかれ、なんと1部の価格は現在1万円以上で取引されることもあるという人気ぶりである。

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 カタログ見開きでは、売れゆきが好調であることを証明するようなコピーでまとめられた、いわゆるイメージ重視型のカタログといえよう。このカタログに切り替わったのは発売数ヵ月後といわれる。

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 カタログの裏表紙には、カワサキローンの項目があるが、まだバイクそのものが高価な時代ゆえに、販売店独自の丸専手形を発行することが多かった。例えば価格を12等分した額を銀行に購入者が期日までに振り込む方式で、金利分が少なく、販売店側にもリスクがなかった方式。末端のカワサキ店ではZ2の時代まで続いた。


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 タンクのグラフィックデザインは、第10回の後半で説明しているが、当時カワサキのコンサルタントデザイナーだったモーリーグラフィックが1970年モデルまで担当したもので、かなり凝ったものであった。オレンジの他にブルー系も多く出荷された。キャップはスクリュー式からワンタッチ式になり、時代を先取りしていた。

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 パーツリストの燃料タンクのグラフィックは、1970年の東京モーターショーの試作車のままだった。マニアの中には、このパターンに塗り分けるマニアもいたりで、結構凝ったデザインであったことがわかる。燃料コックの図示ではストレーナカップが描かれてないが、W3用パーツリストでは修正されている。

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 メグロから移った糠谷省三が、カワサキマッハのGTサイドカーと共に企画制作したのがW1S-Aサイドカー付である。糠谷が東京、港区三田の太陸モータースの太田政良氏に設計生産を依頼して、200台生産を目指した。しかし運輸省(現国土交通省)や警察庁から「側車付オートバイ」規定の明確でなかった時代ゆえに「販売先登録者のリストを提出」することで50台に限り公認販売がされた。このため残った150台分については、全国の主要店でW3やZ2などに装着されて販売された。

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 正面からの「側車付オートバイ」の姿。バイクの側面に大きなサイドカーがマウントされるため、常にハンドルに負荷がかかり、エンジンパワーとシフトワーク、ブレーキングに慣れないと、乗りこなすのは困難だった。これが運輸省(現国土交通省)や警察庁が台数を減らした要因と言えた。

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 カワサキの総合カタログの表紙を飾ったW1S-Aサイドカー付。カワサキならではの商品企画であったが、横に乗るパッセンジャーもヘルメット着用が1975年から義務づけとなる。よってこれはそれ以前のものである。

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執筆者プロフィール

1947年(昭和22年)東京生まれ。1965年より工業デザイン、設計業務と共に自動車専門誌編集者を経て今日に至る。現在、自動車、サイドカー、二輪車部品用品を設計する「OZハウス」代表も務める。1970年には毎日工業デザイン賞受賞。フリーランスとなってからは、二輪、四輪各誌へ執筆。二輪・三輪・四輪の技術および歴史などが得意分野で、複数の雑誌創刊にもかかわる。著書に『単車』『単車ホンダ』『単車カワサキ』(池田書店)、『気になるバイク』『チューニング&カスタムバイク』(ナツメ社)『国産二輪車物語』『日本の軽自動車』『国産三輪自動車の記録』『日本のトラック・バス』『スズキストーリー』『カワサキモーターサイクルズストーリー』』『カワサキ マッハ』『国産オートバイの光芒』『二輪車1908-1960』(三樹書房)など多数。最新刊に『カタログでたどる 日本の小型商用車』(三樹書房)がある。

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