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第90回 やすらかにおやすみ下さい 山本健一様(最終回)
2018.4.27

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ルマンでの優勝への道筋
1991年のマツダのルマン24時間レース優勝は、1923年のレース開始以降、現時点まで日本車唯一で、レシプロエンジン以外のパワーユニットを搭載したマシンとしても唯一の記録である。そのことはREの歴史の中の貴重な足跡として山本さんにとっても忘れがたいものであったようなので、「安らかにおやすみ下さい 山本健一様」の最終稿はルマンに焦点をあてたい。まずロータリーエンジン(RE)によるルマンへの挑戦の原点となったのは「耐久信頼性と性能を公の場で立証したい」という山本さんの強い思いをうけて参戦したコスモスポーツによる1968年ニュルブルクリンク84時間レースへの挑戦と総合4位入賞であった。

ルマン24時間レースへのマツダとしての挑戦は1974年のシグマオートモーティブとマツダオート東京の共同参戦から始まり、(エンジン供給は1970年イギリスのプライベイトチームに、1973年に日本のシグマオートモーティブにすでに行われたが)1979年には初代RX-7をベースにしたIMSA GTOクラス車両でマツダオート東京が参戦、1983年からはグループCジュニアクラス、1986年からは3ローター搭載車、1988年からは4ローター搭載車(いずれもIMSA GTPクラス)で参戦するも、1991年以前の戦績は1987年と1989年の7位がベストだった。ちなみに1982年にはマツダオート東京スポーツ相談室はマツダスピードに改名され、レースを専業とするマツダの関連会社になっている。

ルマンの規則変更により1990年がREによる挑戦が可能な最後の年となったため、上位入賞を目指して、大幅な出力向上も含め全力投入したが、結果にはつながらなかった。しかしレース後幸いにも、もう一年だけRE(ならびに大排気量エンジン、ターボエンジン)による参戦が可能となったため、マツダとマツダスピードが協力して「勝つためのシナリオ」を構築、ハード&ソフト合わせて220項目もの課題を抽出して対応、さらにはベンツのリタイヤという幸運にも助けられ、あの歴史的な勝利を手中に収めることが出来た。このあたりのルマン優勝に至る道筋は、かなり以前の車評オンライン「論評⒓」~「論評15」を是非ご覧いただければ幸いだ。

ルマン優勝に対する山本さんの思い
山本さんはルマンの帰朝報告会で、『多くの自動車会社が開発を諦めたREにマツダだけが執念を持ち続け、ルマンの歴史に新しい1ページを付け加えたことは誠に意義深い。しかもREが出走可能な最後の年であったことも劇的である。関係者一人ひとりの精進によってもたらされた今回の勝利をREの父である故バンケル博士、REの開発を決断した故松田恒次社長、そして世界中のREユーザーにささげたい。』と云われ、回想録の中でも『RE車エントリーが許される最後のルマンレースで、並みいる常連の有名ブランド車に勝った今回の意味は、マツダが初めてルマンで「日の丸」を掲げたということより、レシプロエンジンのルマンの歴史に新しい1ページを加えたというところにある。マツダが長年悲願をもって努力した結果であり、まさに「至誠天に通ず」の思いである。』と述べられている。

更に『マツダは第一次オイルショックで経営打撃をうけた1974年から、経営の苦しさにもかかわらずルマン24時間レースにRE車で挑戦を開始した。それは内燃機関としてのREのレーゾンデートル(存在価値)を立証するのにルマンは最もふさわしい舞台であったからである。1923年から始まったルマン24時間レースは単に勝負を争うレースというだけでなく、自動車メーカーがその技術によってブランドの能力の優劣を争う栄光の歴史を持つ。24時間の高速耐久レースは、レーシングマシンとしては最も過酷なものであり、完走すら容易ではない。マツダの最初の狙いはまず完走することであったが1987年と1989年に7位に入ることができた。しかしマツダとマツダスピードは執念をもってさらに精進を続け、遂に1991年、マツダのRE車3台は全て完走し、第1位、第6位、第8位を占めることが出来た。』

『その優勝は日本車として初めてものであったが、英国のジャガー社から祝電が届き、ヨーロッパ諸国の殆どのプレスが好意的に報道、就任以来強硬に対日批判をしてきた仏首相のクレッソン女史までが好意的賛辞を述べた。貿易摩擦や日本の海外投資の急増から日本に批判的であったヨーロッパが、何故マツダの優勝に好意的であったのかは次のような理由が考えられる。』

『まずマツダが金にモノをいわせ日の丸を押し立てて乗り込むといったような目立った姿勢をとらなかったことだ。第二に、ヨーロッパには独自性と個性を尊重する風土がある。REはドイツで生まれ、仏独の自動車会社も開発に参加したが、今ではマツダが唯一の生産会社であることだ。第三は国際協力である。シャシー&ボディーは英国人のデザイナーと日本が協力して造ったもの、3台のドライバー9名は、日、独、英、仏など8か国の出身、コンサルティングチームマネージャーはベルギー人のベテランレーサーであった。そして第四の理由が最大だったと思うが、大きくもないマツダが愚直に、執念をもってルマンに挑戦し続けた姿勢に対するいわば判官びいきである。』

『6時間目以降1位をキープしてきたベンツが21時間目に故障脱落し、レース中盤から2位をキープいたマツダがトップに浮上したが、かつてマツダと共にREを研究したことのあるベンツは、神から「マツダに譲ったらどうか」と肩を叩かれたのではないか、マツダの執念が神に通じた思いである。後日研究開発部門の後輩諸君から頼まれて、三次のテストコース内に設ける優勝記念碑のために私が書いたのは「飽くなき挑戦」であった。』と述べられている。

そして山本さんは回想録のあとがきに、『技術開発の成否には人間の在り方が深く関わる』とし、マツダのRE開発が幾多の困難にもめげずにその目的を実現することが出来た条件として以下の3点をあげておられる。
『1. 経営トップが自らの経営戦略に基づき意思決定し、開発陣を常に守り、かつ激励のためのリーダーシップをとり続けた。
2. RE開発・生産に従事した技術者達が志を高く持ち、常にチャレンジングスピリットを失わず、自己犠牲をいとわぬチームワークに努力した。
3. 日本の部品メーカーが損得を度外視し、運命共同体的な視点から献身的協力を発揮してくれた。
考えてみると以上の3項はすべて人間相互の信頼が基礎であったということが出来る。』

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電動化の促進、自動運転の進展、カーシェアリングビジネスの台頭、中国や発展途上国における市場の急速な拡大など、現在日本の自動車産業は未曽有の転換期にあり、山本さんがマツダに根付かせて下さった「飽くなき挑戦」の精神と、上述の人間相互の信頼がマツダの更なる発展に向けての大きな原動力になるものと確信している。

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フライファミリー
ルマン優勝とは関わりはないが、半世紀近くドイツでマツダ車の販売店を続け、マツダ以外も含むすべてのRE車を個人的に保有されるドイツ人フライさん一家についても一言触れておきたい。フライ一家は近年アウグスブルグ市内の路面電車の車庫の跡地を手に入れ、フライコレクションの中のマツダ車を公開できるように準備を進めてこられたが、2017年5月に一般公開された。是非一度訪ねてみたい。マツダを愛するフライ一家へのささやかな恩返しとして、2015年春来日した二人の息子さん(ヨアヒム&マルクス・フライさん)が、是非とも山本健一さんにお会いしたいとの希望を聞き、山本さんのところにお連れしたのが上の写真だ。お二人の息子さんはもちろんのこと、山本健一さんにも大変喜んでいただけた。下記はフライ一家が2009年ドイツで開催して下さったコスモスポーツ国際ミーティングのことをまとめた「車評オンライン」と、フライさんの博物館のホームページアドレスである。

https://www.mikipress.com/shahyo-online/ronpyo07.html

http://mazda-classic-frey.de/


ご存知の方も多いとは思うが、2001年にスタートした日本自動車殿堂(JAHFA)でこれまで殿堂入りされたマツダ関係者は松田恒次さん、山本健一さん、大橋孝至さんの3名であることをこの場をお借りして改めてお伝えするとともに、、改めて『安らかにお休み下さい 山本健一様』と申し上げてこの原稿を締めくくりたい。

http://www.jahfa.jp

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執筆者プロフィール

1941年(昭和16年)東京生まれ。東洋工業(現マツダ)入社後、8年間ロータリーエンジンの開発に携わる。1970年代は米国に駐在し、輸出を開始したロータリー車の技術課題の解決にあたる。帰国後は海外広報、RX-7担当主査として2代目RX-7の育成と3代目の開発を担当する傍らモータースポーツ業務を兼務し、1991年のルマン優勝を達成。その後、広報、デザイン部門統括を経て、北米マツダ デザイン・商品開発担当副社長を務める。退職後はモータージャーナリストに。共著に『マツダRX-7』『車評50』『車評 軽自動車編』、編者として『マツダ/ユーノスロードスター』、『ポルシェ911 空冷ナローボディーの時代 1963-1973』(いずれも三樹書房)では翻訳と監修を担当。そのほか寄稿多数。また2008年より三樹書房ホームページ上で「車評オンライン」を執筆。

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車評 軽自動車編
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