(00) 1936 Fiat 500 Topolino
<500> (1936-48)
前回最後に紹介した「508 Ballila」は1930年代フィアットの最高傑作として、イタリアの大衆車分野に大きな影響を与えた。戦後のフィアットから始まった僕等の世代は「508」と聞けば500ccか600cc のような印象を持ってしまうが「508」の排気量は995cc だった。1932年から37年までの5年間で11万3千台が造られた。この成功に満足することなく「フィアット」は更に安価で経済的な超小型車の開発に取り掛かった。当時の自動車としては考え得る最小限を目指したもので、この重要なプロジェクトを任されたのが、後年偉大な設計者として長く「フィアット」の舵取りをすることになる若き日の「ダンテ・ジアコーザ」だった。この天才はこの時若冠20才だった。完成した車は「500」と名付けられた。「500」はイタリア語では「チンクチェント」と発音するので一般的にはこのネーミングで知られるが、あまりにも可愛いので「トポリーノ」(はつかネズミ)というニックネームが付けられ、この名前でも広く知られており、ディズニーの「ミッキーマウス」と並んで世界でもっとも有名な「ネズミ」という事になっている。大きさは全長3215×全幅1275×全高1377で,エンジンは直列4気筒 SV 569cc 13hp/4000rpmだから現代の日本だったら軽自動車の枠に収まる仕様だが、もし国内でナンバーを取得する際は軽自動車なんだろうか。それはさておき、戦前の車を紹介する際は1945年を区切りとして戦後は別物とする場合が多いが「500」については、初代「500」(1936-48),2代目「500B」(1948-49),3代目「500C」(1949-55)と戦前から戦後にかけて一つの流れで続いているので、ここまでを一まとめとし、1955年登場した「600」(セイチェント)、1957年の「新500」(ヌオーバ・チンクチェント)は後継モデルとして別項で取り上げる事とした。
(写真36-1a~e)1936 Fiat 500 Topolino (1965,70,78 CCCJコンクール・デレガンス/東京プリンスほか)
この車に最初に出会ったのは1965年11月池袋の西武デパート屋上で開かれた第3回CCCJ コンクール・デレガンスだった。「トポリーノ」としては発売初年度の36年型で、法規上必要なパーキングランプ以外、余計なものは一切付いていない極めてオリジナリティの高い逸品だった。1枚だけカラーなのは、貴重なカラーフィルムは1本しか用意できなかったから「色見本」として1枚だけ撮っていた時代の名残だ。しかしそのお蔭で柔らかい2トーンの洒落たボディが鮮やかに再現されている。
(写真36-2abc)1936 Fiat 500 Topolino (2007-04 /トヨタ自動車博物館)
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この車はトヨタ博物館に展示されている車だから間違えは無いだろうが、僕の手元の資料では初期型のワイパーは1本で、「500B」から2本となっている。しかし案内板にあるエンジンの仕様はL-Hed 13hpと明らかに初期型を示しており、初期型でも戦後の47~48年頃造られたのでは?とも思ったが年式は1936年となっている。
(写真36b-3abc)) 1936-48 Fiat 500 Topolino (1960年/丸の内)
街中で撮影した車、特にヨーロッパ車の年式の判定はなかなか難しい。この車もワイパーが2本あるので「500B」ではないかと考えていたが、ボディが「スチール・トップ」と言う事は、全てが「キャンバス・トップ」となったB型ではない。前項の「トヨタ博物館」の車と同じ仕様だから、このタイプの車が存在したことは確かだ。1945年から50年頃までは年鑑の発行が無いので年度ごとの変化の確認手段が乏しい。「Autocar」や「MotorSport」などの1938-39年頃の記事でもワイパーは1本だった。
(写真36-4ab) 1937 Fiat 500 Topolino (2004-08 コンコルソ・イタリアーナ/カリフォルニア)
気を取り直して―本ワイパーのオリジナル・モデルの登場だが、この車は後ろに「GB」の表示がある通り右ハンドルの英国仕様だ。「トポリーノ」はフランスでは「サンク」の名で国内生産されたが、英国向けは右ハンドル仕様をイタリアで造って輸出したようだ。その中には特別仕様の4人乗りも400台ほど造られている。写真の車はワイパーとハンドルが右側にシフトされている以外は全くオリジナル・スタイルある。
(写真39-1abc) 1939 Fiat 500 Topolino (1991-01 JCCA汐留ミーティング)
次も国内で撮影した初期型「トポリーノ」で、この車も日本国内で走るための最小限のランプ類が控えめ付いているが、状態は良好だ。場所はその昔は国鉄の「汐留操車場」といって、貨物列車を行き先別に仕分けする為の広いスペースだったが、今はテレビ局やオフィスビルが立ち並んでいる。
(写真40-1ab)1940 Fiat 500 Topolino (2001-05ミッレミリア/ブレシア、サン・セポルクロ)
ミッレミリアには1930年代は勿論、近来でも数多くの「トポリーノ」が参加している。写真はスタート地点と、2日目の途中「サン・マリノ」と「アッシジ」の中間にある「サン・セポルクロ」という小さな村を通過するシーンだ。発売直後の1937年のミッレミリアには、参加124台中28台が「トポリーノ」で、この年の優勝は「アルファロメオ8C-2900A」の14時間17分32秒だったが、「トポリーノ」のトップは51位で21時間25分06秒だった。完走65台の最後も「トポリーノ」で、26時間01分04秒だったが、参加者はいまどきの「市民マラソン」感覚で参加を楽しんでいたことだろう。また街中で応援する観衆の中に居た多くの「トポリーノ」オーナー達も、うちの車と同じ車が通れば応援に力が入ったことだろう。
<500B> (1948-49)
1936年誕生した「500」(トポリーノ)は戦後もしばらくはその儘造られていたが、1948年になってモデルチェンジが行われ「500B」となった。一般的には戦後の新型に変わるタイミングだが、傑作「トポリーノ」の場合は外見はワイパーが2本になった以外殆ど変化が見られず、エンジンがSVからOHVに変わり、排気量は同じ569ccながら、出力は13hp から16.5hp/4400rpまで強化された。エンジン強化の原因の一つは、2人乗りのこの車に4人も5人も詰め込んでしまうイタリア人の定員を無視した使い方に対して、それを支援するためだったとも言われるが、使う方も、造る方もいかにもイタリアらしい大らかな発想だ。全長は3215mmから3210mmと僅かに短くなったがホイールベースの2000mmは変わっていない。総重量は745kgから790kgと45kgも増えたが、最高速度は時速85キロから95キロに上がり、燃費もリッター17キロから20キロに向上している。
(写真49-1a~d)1949 Fiat 500B Topolino(2008-01フォルクスワーゲン博物館/ドイツ)
「500B」は製造期間が僅か2年足らずだったせいか街中では1度も出逢っていない。写真の車はフォルクスワーゲン博物館の展示車で、1949年型だから最終期のものと思われるが、テールランプは外付け型だ。
<500C> (1949-55)
初代の「トポリーノ」が誕生した1936年には、設計者の「ダンテ・ジアコーザ」は如何に才能が有るとはいえ若冠20歳の新参者だからすべてが自分の思うままには成らなかった。特にボディに関しては理想の「フル・ワイズ」が採用されず不満が残っていた。しかし1949年「500C」のモデルチェンジに際しては、すでに13年の実績を持つ33歳の中堅技師としてボディに関しても自分の主張が貫ける立場になっていた。そこで「ジアコーザ」の理想とするスタイルで誕生したのが「500C」だ。レイアウト上での大きな変更点は「500B」まではノーズを下げるためエンジンの後ろに置かれていたラジエターが最先端に移動したことで、ホイールベースは変わらず、全長が3245mmと少し長くなり、総重量は800kgとなった。しかしエンジンに関しては「500B」と全く変りなく最高速度も燃費も変わっていない。と言う事は「500C」へのモデルチェンジは「新しいボディ」に変えるのが狙いだったという事だったようだ。
(写真49c-1ab)1949-55 Fiat 500C Toporino (1959年 港区内)
1960年代にはトポリーノは趣味の対象としてではなく、実用車としてナンバー付きで街中を走っていた。港区内で撮影したこの車もそんな中の1台で、横1列の旧制度のナンバープレートを付けている。「500C」は1949年から55年まで約6 年にわたって造られたから、その間多少の変化はあった筈だが残念ながらこの期間の年度別の資料は手に入らない。やむを得ないのでもっとも変化の出やすい「テールランプ」の印象で古そうに感じたものから順次に並べてみた。したがってイベントなどで本人申告で年式が確認出来たもの以外は年式の特定は出来なかった。
(写真49c-2ab) 1949-55 Fiat 500C Topolino (1959年一の橋付近/港区)
この車は前項の車には無かった「バンパー・ガード」が付いている。このバンパーは1951年から発売された「500C Belvedere」に付いているものと同じなので、国内で追加したものではなく純正部品だ。場所は港区の一の橋付近で、後方に東京タワーが見える。
(写真49c-3ab)1949-55 Fiat 500C Topoliono(2001-08コンコルソ・イタリアーノ/カリフォルニア)
(写真49c-4ab) 1949-55 Fiat 500C Topolino (1999-08 コンコルソ・イタリアーナ/アメリカ)
左ハンドルのこれらの車はカリフォルニアで撮影したものなので、「バンパー」や「ライト類」はアメリカの基準に従っているのだろうか、同じバンパー・ガード付きだが前項の純正仕様とは異なる。
(写真50c-1ab) 1950 Fiat 500C Topolino (1988-01 TACS ミーティング/明治公園)
この車はイベント参加車で本人申告による年式は1950年だった。「500C」項の最初に紹介した白い車とバンパーやテールライトが同じだから、白い車はもしかしたら「1950年型」かもしれない。としたら、次の「バンパーガード付き」は「1951年型」でもおかしくない。
(写真50c-2ab) 1950 Fiat 500C Topolino (1979-01 TACSミーティング/東京プリンスホテル)
この車はオリジナルと異なる個所が幾つかある。バンパー、ドライヴィング・ライト、フェンダー上のパーキングライトが追加されており、本来出っ張りの無いヘッドライトにクロームのトリム、テールランプもクロームカバーが異常にきく、サイドステップもオリジナルより幅が広い、などかなり手が加えられている。リア・ウインドは大きくなっているので後期型ではないかと思われる。
(写真50c-3ab) 1949-55 Fiat 500C Topolino (1997-05 ミッレミリア/ブレシア)
この車は「テールランプ」が大分モダンになっており、「リアウインド」も大きいので、後期型と判定した。ミッレミリア車検場近くのドォーモ広場で撮影したものだが、参加車ではないので年式の特定は出来なかった。
(写真50c-4a) 1949-55 Fiat 500C Topolino (1994-05 ミッレミリア/ブレシア)
この写真は僕が初めてミッレミリアを取材した際撮影したもので、ここから50メートル先を左折すると車検場「ヴィットリア広場」だった。だからここに立っていると次々と本でしか見たことの無かったフェラーリを始めとする歴史上の名車が先の角を曲がってやって来る。初めて味わったこの時の興奮は25年近くたった今でも鮮明に蘇る。
(写真51-1abc)1951-55 Fiat 500C Bervedere (2001-05 ミッレミリア/フータ峠)
「500C」シリーズは、1949年発売時に「Berlinetta」の他に「Giardiniera」と命名された「ステーションワゴン」仕様の車があった。しかし残念ながらこの車には僕は出逢っていない。ところが2年後の1951年になってこれの改良型と言える「500C Belvedere」が発表された。外見上ではステーションワゴンとしてのトリムが「ジャルディニエラ」ではドアに2本あり、「ベルベデール」では1本になっている。撮影場所はミッレミリアのコースの中では有数の名所「フータ峠」で、御覧のように観客は壁に腰かけて足をぶらぶらさせながら下を通る車を応援している。
(写真51c-2ab) 1951-55 Fiat 500C Bervedere (2001-05ミッレミリア/ブレシア)
「トポリーノ」の最大の泣き所は「2人乗り」だったが、それを打開するため生まれたのが「ステーションワゴン」で、定員「4名」+50kgが公認の積載量だった。だから10人くらいは詰め込んだかもしれない。性能については全く変わらないので新型に変わった真意は判らない。
<500シリーズのスペシャル>
(写真38-1abc)1938 Fiat 500 Sport (2000-05 ミッレミリア/ブレシア)
「500」シリーズにも数多くのスポーツ・バージョンが存在する。多くはイタリア独特の小規模な町工場が「フィアット」のエンジンや部品の提供を受けて独自の小型スポーツカーを生み出したもので、これらは別項で一括して紹介するが、ここでは「フィアット500」の車名でスペシャルボディの車に限った。この車はどこにもカロセリアのバッジが見当たらないので、フィアット社自身が手掛けたものだろうか。フェンダーの処理は「508S MM Cope」ともよく似ている。
(写真47-1a~d)1947 Fiat 500B Zagato Panoramica(2011-10 ジャパン・クラシック・オートモービル/日本橋)
「500B」をベースにカロセリア「ザガート」が手掛けたスペシャルボディだ。ザガートと言えば1950年代から60年代にかけて流れるような曲線で芸術的な作品を次々と生み出した名門だから期待は大きいが、この車ではまだ曲線の美しさが熟成されていない印象だ。「パノラミカ」とは「眺めが良い」という意味で、その名の通り天井まで切れ込んだ大きなサイドウインドは、当時としては技術的にも画期的はものだったと思われる。
<500ベースの小型車たち>
(スタンガ)
(写真51-1ab) 1951 Sutanga 750 S Barchetta (1994-05 ミッレミリア/ブレシア)
殆ど知られていない「スタンガ」という名前は、アレッサンドロ・スタンガという車好きなおじさんがミッレミリアに出たい自分のために手造りしたスポーツカーで、1951年から56年までに全部で7台しか造られていない。エンジンはフィアットを750ccにボア・アップし、自製のチューブラ・フレームにフェラーリ166に似たバルケッタ・ボディを載せている。ハンドルを握っているのがスタンガ自身で、僕は後年この写真を持って行って本人からサインをもらっているが、残念なことに数年後亡くなってしまった。
(シアタ)
(写真51-2ab) 1951 Siata 750 SDport (2001-05 ミッレミリア/ブレシア)
シアタの歴史は古く創立は1926年で「Siata」の正式名は「Societa Italiana Auto Transformazione Accessori」(イタリアの自動車改造とアクセサリーの会社)の名の通り、主にフィアットのチューンナップを手掛けてきたが、「バリッラ」や「トポリ-ノ」のエンジンをSVからOHVに改造するキットで大当たりをとった。この車は4気筒724ccで50hp を持ち、最高速度は150km/hが可能だった。このモデルは1952-53年で約50台が造られた。 ドライバーの女性はミッレミリアの常連で、本来は2名で参加が原則のミッレミリアだが、彼女に限っては助手席は「ぬいぐるみの熊さん」が座っている。
(ジャウアー・タラスキ)
(写真51-3ab)1951 Giaur Taraschi 750 Sport (1997-05 ミッレミリア/ブレシア)
この車を造ったのはレーシング・ドライバーだった「ヘラルド・タラスキ」で、最初に造ったのは1947年フィアットのシャシーとBMWエンジンを組み合わせた「ウラニア」という名前のスポーツカーだった。これでそこそこの成績を残した後、1949年「アッティリオ・ジャンニーニ」と組んで造り出したのがこの車で約40台造られた。開いたウイングとややより目のライトや丸いおちょぼ口が可愛い。
(バンディーニ)
(写真53-1ab) 1953 Bandini 750 Sport (2000-05 ミッレミリア/ブレシア)
(写真53-2ab)1953 Bandini 750 Sport Siluro (2009-10 ラフェスタ・ミッレミリア/明治神宮)
「バンディーニ」を造ったのは1911年生まれの「イラリオ・バンディーニ」で、アルファロメオノデーラーと修理工場を経営する傍ら、自身もレース活動を行っていた。フィアットからエンジンを始め、さまざまな部品の提供を受け、それを元に独自のシャシーを造り、それに可愛いボディを被せて小さなスポーツカーを完成させる小規模メーカーだ。
(モラスッティ)
(写真53-3abc) 1953 Moressutti Sport (2009-10 ラフェスタ・ミッレミリア/明治神宮)
この車については殆ど情報がない。「モラスッティ伯爵」がミッレミリアに参加するため造らせた車で、1台しかないスペシャルは、現在は日本人のオーナーのもとにある。何処の誰が造ったのか、ベースがフィアットかも不明である。
<1500> (1935-48)
(写真1500-1a~d)1939 Fiat 1500 6C by Touring (2018-03 コンコルソ・デレガンツァ/京都・二条城
順番からいえば「508」(バッリラ)と「500」(チンクチェント)の間に入るのが「1500」だが、僕のコレクションには無かったので飛ばしていた。ところが3月末京都・二条城で開かれたイベントで偶然撮影することが出来たので、急遽ここに登場させることになった。写真の車は「カロセリア・ツーリング」によるスペシャル・ボディなのでオリジナルとは印象が異なるが、オリジナルは「500」と同じ傾斜した楕円のグリルで大きさは違うが同じ印象のタイプだった。
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<1100>(1939-53)
大ヒットした「508バリッラ」の後継車は,「トポリーノ」で才能を発揮した「ジアコーザ」が担当することになった。最終的には「1100」シリーズとして1969年まで30年以上のロングセラーを続ける傑作車となったが、1937年発表された際は「508C ヌオーヴァ・バリッラ」だった。エンジンはバリッラのエンジンをボア・アップした1089ccで32hp/4000rpmが使用されたが、それ以外は全く新しく設計されたものだった。4ドアのボディは傾斜した楕円形のグリルをもち、トポリーノを大型にした印象だ。このモデルは39年まで造られたが残念ながら僕は写真を撮っていない、1939年にはこれの改造型がラジエターの形を変えて「1100」として登場した。「1100」はイタリア語で「ミッレ・チェント」と発音するのでこの名前で呼ばれたが、もはや「バリッラ」とはよ呼ばれなかった。初代は1939-48年「1100」、2代目は1948-49年「1100B」、3代目は1949-53年「1100E」で、この後は戦後型の「ヌオーヴァ1100」となるので別の機会に紹介する。これと並行してスポーツバージョンとして1947-50年「1100S」と1950-51年「1100ES Coupe Pinin-Farina」がある。「バリッラ」「1100」と続いたこれらのシリーズは、イタリア中の中小スポーツカー・メーカーにエンジンを始めあらゆるパーツを快く提供し続けたから、小型スポーツカー市場に与えた貢献度は計り知れないものがある。
(写真39-1ab)1939 Fiat 1100 Cabriolet (1994-05 ミッレミリア/ブレシア)
「1100」シリーズとしては最初のモデルで、新しくデザインされたグリルは1937年型の「スチュードベーカー」の影響をかなり受けているように見える。初代型には「ベルリーナ」の他に「カブリオレ」があった。場所はミッレミリアの車検場「ヴィットリア広場」のすぐ手前の通りで、10メートル先を右折すれば広場の入り口だ。
(写真48-1abc) 1948 Fiat 1100B Berlina (2001-081コンコルソ・イタリアーナ/アメリカ)
「110B」になって変わったのはエンジンの出力が32hpから35hpにアップしただけで最高速度110km/hもリッター11キロの燃費も変わっていない。外見上も殆ど違いは見られないが、ボンネット横の3本のラインの下に開いたスリットの形が僅かに違うくらいだ。この当時のフィアットのドアハンドルは縦型でユニークだ。
(写真49-1ab)1949-53 1100E Berlina (1960-01 有楽町)
戦前型としては最後の「1100E」は日本でも見ることが出来た。街中で見つけたものなので年式の特定は出来ないが正規輸入されたものだとすれば、多分1953年と推定する。その理由は戦後の外貨事情は非常に厳しい状態で贅沢品の乗用車の輸入は極端に制限されていたが、何故か1953年、54年の2年間だけは大幅に緩和されアメリカ車だけでなく欧州車も数多く輸入された。僕が1960年前後に街中で出会った珍しい車の大部分が1953年型だったのはその時輸入された車だったと推定される。
(写真49-2ab) 1949-53 Fiat 1100E Berlina(1999-08 コンコルソ・イタリアーナ/カリフォルニア)
「1100E」が「1100B」と大きく異なる点は、後部にトランクが付けられた事で、印象はかなり近代化された。しかしボディのプレス型は以前と全く同じで、トランク部分は一体構造ではなく別にプレスしたものを取り付けたようだ、取っ手が見当たらないから、荷物は後席の背もたれを倒して収納するのだろう。
(写真49-3abc) 1947 Fiat 1100S Coupe (2001-05 ミッレミリア/ブレシア、サンマリノ)
この車は現代の目で見れば特別目新しくは感じないかも知れないが、これがデビューしたのは1947年だと言う事に注目して欲しい。ボディサイドに突起がないフラットの車は1949年型のフォードがよく知られているが、それ以前では1947年「カイザー/フレ-ザー」、48年「ハドソン」「パッカード」の実績があるだけだ。だから市販車としては世界でも最初期に市場に投入された車の一つだろう。アーチの向こうはサンマリノの「グランドホテル」だ。
(写真49-4abc) 1947-50,m Fiat 1100S Coupe (2001-05 ミッレミリア/フータ峠)
当時としては超モダンなこのデザイン、特に特徴のあるルーフの形状は幾つかの車に模倣された。不思議なことに、この優れたデザインが誰の手に依ったのか、僕の調べた資料には何処にも見つからなかった。またボディの何処にもカロセリアのバッジは見当たらない。驚くことにこの原型は1937年発表された「508C MM」で既に試されており、それを引き継いで改良し「1100S」として誕生したこの車だ。
(写真50-ab) 1950-51 Fiat 1100ES Coupe by Pinin-Falina(1997-05 ミッレミリア/ブレシア)
遂に「ピニン・ファリナ」がデザインに参加して造られたのが「1100S」の後継車となるこの車だ。デザイナーの名前が表に出てきたと言う事は、やはりそれまでは自社内のデザインだった可能性が高い。ベースとなったのは戦前最後の旧態然とした「1100E」だから驚くほどの変身ぶりだ。
<1100ベースの車たち>
(スタンゲリーニ)
一口に「イタリアの中小企業の町工場」と表現してしまう多くの「スポーツカー・メーカー」のなかでも「スタンゲリーニは大企業でも小企業でもないから「中企業」と言えばいいのか。歴史は長く、種類とバリエーションは多いが総生産台数は450~500台程度と言われる。「スタンゲリーニ家」の企業としての歴史は古く1879年4代前の「チェルソ・スタンゲリーニ」が創業した。その時の業種は、彼が発明したオーケストラで使う「ティンパニー」の音を機械的に変える装置を造る「楽器屋」だった。その後彼の興味は「機械」「動力」「動くもの」と時代の流れに従って、2輪、3輪、4輪にたどり着いた。3代目(初代フランチェスコ)は1899年モデナで「チェイラーノ」と「フィアット」のデーラーを経営する傍ら、チーム名「スクアドラ・スタンゲリーニ」で自らモーターサイクル・レースに参戦していた。(因みに「スクアドラ」とは軍隊での「連隊」を意味する)3代目(ヴィットリオ)は1929年19才で父と共にフィアットをレース用にチューン・アップする仕事を始めたが、3年後父が亡くなり家業を引き継ぐ。1936年にはスタンゲリーニがチューンした「フィアット508 バリッラ」がミッレミリアでクラス4位となり、1938年には「新スクアドラ」を結成し積極的に自らレース活動を始めた。ところで「スタンゲリーニ」の名前は何時から車名に使われたのか「ミッレミリア」の出走リストを調べてみたところ、1938年「500」「1100」クラスに「フィアット-スタンゲリーニ」として登場したのが最初の様だ。戦後もまだ3代目の時代で、「アルベルト・マッシミーノ」をフィアットから引き抜き、自製のチューブラ-・フレームを組んでより強力なレーシングカー造りを目指した。フィアットベースの「750」、「1100」[1500」の3種があり「スポーツカー」と「モノポスト」が用意された。スタンゲリーニはスポーツカー、レーシングカーのメーカーだったが、1950年代の始め頃一度だけベルトーネ製のボディを持ったGTカー「1100スペチアーレ」を150台造っている。この当時この会社の表看板は「フィアットのチューニング・キット・メーカー」として有名で、無暗と早く走らせる過激なものでは無く、「安全]かつ「速く」がモットーだったから、対象は小型乗用車だけではなく、商業車やバス、大型トラックまで全てに及んでいたから幅広い対象は無限に近かった。1950年からは心臓部のエンジンが全く新しく変わった。それは「ツインカム・エンジン」で従来のチューンしたフィアット・エンジンではなく、エンジニア「ゴルフィエーリ」が設計した自社製だった。だから1950年以降は純粋の「スタンゲリーニ」となり、フィアットとの関わりが薄くなったので本編の対象外とした。
1946 Stanguellini 1100 Sport (2000-05 ミッレミリア/ブレシア)
1947 Stanguellini 1100 Sport (1989-10 モンテ・ミリア/神戸ポートアイランド市民広場)
1947 Stanguellini 1100 Sport (2000-05 ミッレミリア/ブレシア)
1947 Stanguellini 1100 Sport (2008-05 ミッレミリア/ブレシア)
1949 Stanguellini 1100 Sport (2001-05 ミッレミリア/ブレシア)
1948 Gilco Stanguelini 1100 Sport (1994-05 ミッレミリア/ブレシア)
「ジルコ」の名前の付いた車は幾つか有るが「ジルコ」自身は「デザイン事務所」のようで、実車は「エルミニ」や「スタンゲリーニ」などで造られている。メーカーの依頼でデザインされた場合は車名+デザイナーとなるのが普通だから、「ジルコ」が頭についていると言う事はデザイナーがメーカーに依頼して造られたのだろうか。
(チシタリア)
「チシタリア」という車は知る人ぞ知る名車だが、一般人の知名度はそれほど高くない。戦後いち早くイタリアでレース活動したが実質2年と活動期間が短く、台数も少なかったからイタリアでは猛烈なインパクトを与えた割に海外には広く伝わらなかった。この車を造ろうと考えたのはイタリア人でサッカーと自動車レースが大好きな実業家、主に「防水布」で財を成した「ピエロ・ドージオ」(Piero Dusio)だった。プロサッカーチーム・ユベントスのセンターハーフから1941年にはチームの会長となるなどサッカーとの関わりも深い。1930年代後半にはドライバーとして国内の数々のレースで優勝して名を挙げている。しかしドライバーだけでは飽き足らず自らレーシングカーを造り「ワンメイク・レース」を開きたいと考え、1944年10月その設計をフィアットの「ダンテ・ジアコーザ」に依頼した。彼は「フォミュラーカー」の基本設計と2シーターのアウトラインを示した段階の1946年、フィアットへ戻ってしまい、そのあとを受けて実現に漕ぎ付けたのが、同じフィアットの航空機部門から来た「ジョバンニ・サヴォヌッツイ」だった。最初のモノポストは「201」(D46)で1946年9月デビューした。2シーターのスポーツカーは「202」と名付けられ、「スパイダー」と「クーペ」があった。1947年9月発表されたピニンファリーナのデザインしたクーペは自動車のスタイリング史上歴史的な車とされる。1951年「ニューヨーク近代美術館」が「動く彫刻」として伝統芸術の分野で認め永久保存を決めた。総生産台数は1947年から52年までに170台が造られた。
1948 Cisitalia D46(201) (2001-01 フランス国立自動車博物館/ミュールーズ)
1946 Cisitaria 202 Special MM (2000-05 ミッレミリア/ブレシア)
1947 Cisitalia 202 SC Coupe (2001-05 ミッレミリア/ブレシア)
1947 Cisitalia 202 SC Coupe (2011-10 ジャパン・クラシック・・オートモービル/日本橋)
1947 Cisitalia 202 Pininfarina Goupe (2004-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
1949 Cisitalia 202 SC Coupe (1989-10 モンテ・ミリア/神戸ポートアイランド市民広場)
1947 Cisitalia 202 C MM Savonuzzi Coupe (1994-05 ミッレミリア/ブレシア)
1947 Cisitalia 202 C MM Savonuzzi Coupe (1997-05 ミッレミリア/ブレシア)
1947 Cisitalia 202 S MM Spyder (2000-05 ミッレミリア/ブレシア)
1947 Cisitalia 202 S MM Spyder (2001-05 ミッレミリア/ブレシア)
1948 Cisitalia 202 S MM Spyder (1997-05 ミッレミリア/ブレシア)
1948 italia 1100B Colombo Spyder (2008-10 ラフェスタ・ミッレミリア/明治神宮)
(エルミニ)
フィアットをベースに独自のスポーツカーを作り出すマニアックな工房は、イタリアには数多く存在する。トスカーナ出身でフィレンツに本拠を置いて活動していた「パスキーノ・エルミーニ」もその一人で、総生産台数は約40台と少ないが、現役時代「タルガ・フローリオ」や「ミッレ・ミリア」で大活躍した強者である。その強さの秘密はフィアット1100のエンジンに装着したエルミニが独自に開発した「DOHCヘッド」に有るらしい。そんな訳で知る人ぞ知る名車、と言ってもわが国ではまだ知名度は低い。
1948 Ermini 1100 Sport (1997-05 ミッレミリア/サンマリノ)
1948 Ermini Tinarelli 1100 (2000-05 ミッレミリア/ブレシア)
1950 Ermini 1100 Sport (2000-05 ミッレミリア/ブレシア)
1955 Ermini 375 Sport (1992-10 ラフェスタ・ミッレミリア/明治神宮)
車名の「375」はフェラーリなどと同じ1気筒あたりの排気量を表しており、12気筒のフェラーリでは4500ccとなるが4気筒のこの車では1500cc(1431cc)である。
(バンディーニ)
1953 Bandini 1100 Siluro (2009-10 レフェスタ・ミッレミリア/明治神宮)
「バンディーニ」はフィアットからエンジンの提供を受け、足回りも極力を部品利用しつつも独自のシャシーを造り、それらにちっぽけで可愛いボディを被せる、という「スタンゲリーニ」や「ジャンニーニ」「シアタ」などと同じイタリアに多数存在する小規模生産のワークショップだ。ベースとなる車に改良を加えて性能アップを図る「チューニング・ショップ」と比べれば、ずっと自由度が高い設計が可能だから、たとえ造る車の数は少なくともメーカーと言える。製作者の「イラリオ・バンディーニ」は1911年イタリアのフォルリ生まれで、アルファロメオのデーラーと修理工場を経営する傍ら、自分でもレース活動を行っていた。
(ロッセリ)
1948 Roselli 1100 Sport (2009-10 ラフェスタ・ミッレミリア/明治神宮)
この車も僕にとっては全く未知の存在だったし、手元の資料でも何もわからない。エンジンが「フィアット1100」で、ボディが「コッリ」製であることだけ判った。何台造られたか知らないが、殆ど無名の車なのに何故かミニチュアカーが発売されている。(この車を知らないのは僕だけ?)
(シニョルフィ)
1949 Fiat Sighinolfi 1100 Sport (2009-10 ラフェスタ・ミッレミリア/明治神宮)
この車も全く情報が無い。僅かに確認出来たのは、1950年のミッレミリア1100ccクラスで、車番626のドライバーに「Sighinolfi」の名前があったが、車名は「Fiat Stanguellini」だった。
- 次回は戦後のフィアット唯一の高性能スポーツカー「8V」が登場する予定です -