今回は個人的な話を少々。
自動車レースに関する自分自身の最初の記憶は、1964年日本グランプリを自宅の白黒テレビで食い入るように見たことだ。64年5月初旬ということになる。ニュースで数分流れたというのではなく、30分間か1時間かの特別番組だったと思う。録画中継だったか生中継だったか定かではないが、その5ヵ月後には東京オリンピックが盛大に行なわれることを思うと、生中継に近い試験的放送だったのかもしれない。
ともかく、クラウンやスカイラインやフェアレディが疾走したりスピンする姿を見て、8歳の坊やは夢中になった。小学校の同じクラスにT君という仲良しがいて、そのお父さんが近くのプリンス(杉並区荻窪)に勤めていたので、第2回日本GPでのグロリア/スカイライン等の活躍ぶりを載せた社内グラフ誌を学校に持ってきて見せてくれ、珍しいカラーページに興奮しながら一台ずつのカラーリングの違いをメモした覚えがある。私のモータースポーツ漬け人生の始まり始まり...。
65年10月メキシコGPで初優勝したことを伝えるホンダの新聞全面広告(の一部)。同車は直後の東京モーターショーにも展示された
ホンダF1のデビューは、直後の64年8月。翌年10月のメキシコGP優勝後に主要新聞に掲載された全面広告は今でも大切に持っている。新聞切り抜きコレクションの最初は、65年7月半ばの船橋サーキット開幕戦から。日本GPが諸般の事情により中止されたこの年、船橋開幕戦は日本GPの代わりとなるビッグイベントだった。その半年後には富士スピードウェイがオープン。66年5月の第3回日本GPはこの富士で開催され、以後69年大会まで大いに盛り上がる。
この66年という年は、それまでエンジン排気量1.5リッターだったF1が3リッターへと一気に倍増された年であり、そのせいで従来の勢力分布が一変したり、フェラーリを中心とするヨーロッパ勢の独壇場だったフランスのル・マン24時間スポーツカー・レースで米国フォードが怒涛の1-2-3フィニッシュを遂げたり、秋には排気量無制限スポーツカーによるCan-Amシリーズが始まり巨大ウイングを持ったシャパラルに興奮したり、世界中のモータースポーツが沸騰した一年だった。アメリカとヨーロッパのレース交流はピークを迎えていた。
インディ500の存在を知ったのもそんな8〜9歳の頃だ。床屋の待ち時間に、漫画雑誌の付録と思しき冊子を手に取った。そこには古今東西の自動車レースに関する写真や記事が物語仕立てで紹介されていた。中でも、アメリカのインディ500歴代優勝車の写真と共に書かれたインディの歴史を読んで大いに興奮した。F1や日本のレースとは違う、桁外れのスリル。
ボーイズライフ誌付録の『世界のレーサー』。10歳の男の子は興奮して正に「鼻血ブ―!!」状態だった
何十年か後になって、その冊子が『ボーイズライフ』という青年誌の66年4月号付録だったと分かり、入手した。21×18cm、80ページほどの冊子のページを改めてめくってみて、「あ、○○さんが書いてたんだ」と分かったりもした。尊敬する同業の先輩が、何十年か前に書いた記事を当時読んだ少年が、それに影響されて今もこういった仕事をしているのは不思議な感じもする。だから2018年の今、ほとんど誰も気付いていないインディ500の歴史を日本語で書き残すことによって、現時点10歳の子が将来大きくなってそれを語り継いでくれるようになったらとても嬉しい。
ベースボールマガジン社発行『カーマガジン』誌65年8月号はインディ特集。あの式場壮吉が現地取材して書いている 1960年代後半の日本には、F1もインディもル・マンも、日本のレースと同格に分け隔てなく情報がどんどん入ってきていた。自動車に興味を持つ少年たちは、苦労して覚えることなどしなくとも、ごく自然に体内に情報が染み入った。級友たちと新型乗用車のスペックを論じ合ったり、登下校中に見かけた珍しい外国車について報告し合ったり。学校近くの青梅街道営業所前に陣取って関東バスの車体番号と型式をメモしたこともあったっけ。オタク少年の絶頂期か!? 小中学生の分際では、サーキットまで行くこともできないから、自動車雑誌を背伸びして読むのが数少ない情報源だった。
ともかく、数量としては限定的だった当時のメディアは、自動車とモータースポーツに関して、古今東西何でもかんでも発信していた。F1レースも草レースもドラッグレースも陸上スピード記録もラリーもジムカーナもヒルクライムもデモリションダービーもスワンプバギーレースも、分け隔てなく報じた。よく理解していなかったからかもしれないが、当時の読者はかえって幸せだった。「F1は絶対的存在。その他は所詮ローカルレース」といった風潮は微塵もなく、むしろ、ヨーロッパに挑む大国アメリカ新勢力、そして後発の日本、といった「みんな頑張れ。いつかは主役」ムードが濃かった。
62年インディ500優勝ロジャー・ウォードのクルーには日系二世がいた。チック・ヒラシマ(左から5人目)とラリー・シノダ(右から3人目)
そういった時代に青春時代を送った身からすると、その後1970年代以降現在に至る国内メディアにおける「アメリカンレーシング無視時代」は歯痒くてならなかった。70年代半ばだったか、FENラジオ(極東放送網。現AFN)でインディ500の生中継をやっていることを知り、毎年その晩が来ると一人布団にもぐって徹夜で聞き耳を立てて聴いたものだ。
74年に大学に入るとすぐにモータースポーツ専門誌オートテクニック(山海堂刊、91年廃刊)の編集部でアルバイトを始め、その80年7月号では我が儘を言ってインディ500の特集をやらせてもらった。その昔のインディに日系メカニックがいて活躍したことなどトリビアも交えて斬新な企画だったと思うが、読者からの反応はほとんどなかった。一年後にライバル誌のオートスポーツが珍しくインディ特集を組んだことが唯一の反応だったか。25歳でF1記録集を自費出版して一息ついた81年末には『レーサー・ザ・マッコイ』(ミリオンムック/大洋図書)というA4判ムックにびっしり20ページ以上アメリカ・レース史を書いたが、F1ほど注目されることもなかった。その後、日本語でインディ500の歴史が書かれた単行本は『インディー500』(檜垣和夫著、二玄社94年刊)だけだろう。良書なのに20年以上改訂版が出ないという環境は、日本のインディに対する状況を良く表している。
もちろん、90年代以降、アメリカのインディカー界やスポーツカー、ストックカーに至るまで日本車の関わりは増加し、アメリカでの活躍ぶりが日本に報じられる機会もルーティーンとして増えたが、肝心の日本側メディアやファンや関係者までもが「F1を基準にした見方」しかできなくなっていたため、一種冷めた目で「ああアメリカね」という反応がほとんど。いつまで経っても「日本人選手視点」でしか取り上げないのも、相変わらずだった。むしろ日本人選手が皆無だった60年代の方が、その世界全体をきちんと報じていた。
2017年佐藤琢磨がインディ500制覇を成し遂げた今こそ、日本のレース・ファンにインディ500の偉大さとアメリカン・オートレーシングの魅力を知らしめる絶好機だ。
佐藤琢磨インタビュー大いに結構、2017年大会の徹底分析大いに結構、勝利までの道のり詳説も大いに結構、帰国後の忙しさレポートも大いに結構。ところが、肝心のインディ500そのものの歴史とその偉大さに触れた記事が皆無というのは如何なものか。優勝直後にメディアが連呼した「歴史的快挙!」という字面だけが空虚さと共に今もさまよっている。
現在、三樹書房で鋭意編集中のこの本を読めばインディ500のすべてが分かるなどとは自慢しない。だが、インディのことをもっともっと知りたいと欲求不満気味に感じてきた者が見れば、数多くのヒントが詰まっているとは言い切れる。
第101回インディ500ウィナー、佐藤琢磨。巨大なボーグ・ウォーナー・トロフィーと
No26佐藤琢磨と並走するオレンジ色のNo.29はフェルナンド・アロンソ
『インディ500 - 1911〜2017 全101大会完全記録』は、もちろん日本では初めての内容となる。限られたスペースと予算でもあるので、100%理想どおりの出来ではないが、5年後か50年後か500年後の改訂版発行に向けての良き叩き台とはなるだろう。内容としては、本場アメリカ・インディの公式メディアガイドにさえ記載されていないデータも一部盛り込んである。
筆者の主観(や愚痴)は一切排除して、生(き)のままのデータゆえに不親切に感ずる部分もあるかもしれないが、読み込めば読み込むほど、インディの魅力や凄さが伝わるはずだ。インディ500の本をいつか書きたいと思ってから40年も経ってしまった。読後の感想が面白いかつまらないかは、読者諸氏の読解力と感受性次第。発行部数がとても少ないので、興味のある人は、次回の本の内容紹介をお楽しみに。(B5判、全240ページ。全101大会の詳細結果表の他、優勝全車の写真も完備。内容サンプルページを次回掲載予定)
昔のインディ500は珍車だらけ。48年には後輪4輪の6輪車も登場
ドライバーの座ってる場所が変!? 64年スモーキー・ユニック製作の「サイドカー」は残念ながら決勝進出ならず写真:IMS(Indianapolis Motor Speedway)/林信次