三樹書房
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indy500
第1回 欧日とは全く異なるアメリカン・レースの背景 
2018.4. 5

 平昌オリンピック/パラリンピックが成功裏に閉幕した。
 ふだんあまり馴染みのない冬季競技種目のテレビ観戦ではあっても、きちんとした解説を聴きながら見ていると、だんだん興味も沸いてきて、思わず見入ってしまう。しかも、日本人選手がメダルを獲ったりすると一層嬉しくなる。
 参加選手全員が金メダルを獲りたいと必死に頑張ってきたくらいだから、日本人選手がまだ誰も参加していなかった頃からその競技自体が欧米選手たちによって営々と競われ続け、いつしか心ある日本人選手たちからも憧れられるような存在になっていったということだろう。先達たちがドラマに満ちた歴史(一般的にはあまり知られていなくても)を築いてきたからこそ、「いま」の栄冠の価値が増す。「過去」を知ることで「未来」が開ける。
 そう言えば、高木菜那選手が金メダルを獲ったスピードスケートの「女子マススタート」は面白かった。オリンピックでは初開催となる新種目、つまり参加者全員にとって平等に経験不足気味ながら、しかも大柄な外人選手ばかりの中で小柄な日本人選手が見事に逆転優勝した。集団内での駆け引きと頭脳プレーは、アメリカのオーバルコースでの自動車レースと共通するものを感じた。この手のレース、意外と日本人に向いているのかもしれない。
 佐藤琢磨がインディアナポリス500マイル・レース(通称インディ500)で日本人として初優勝してから一年近くが経過した。それは、オリンピックで金メダルを初めて獲るのに等しい。いや、それ以上か。

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2017年インディ500を制した佐藤琢磨とアンドレッティ・オートスポーツのクルーたち

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2012年最終ラップでトップに仕掛けて自滅した琢磨。その失敗があったからこそ、17年の勝利を観客は大いに讃えた

 それは昨年6月初め、日本国内の各新聞やNHKニュースでも、歴史的快挙として報じられたが、その割に、注目度は長続きしなかった。なぜか。情報を人々に向けて発信する側である立場の日本国内あらゆるメディア自身が、インディ500の何たるかを実はよく知らなかったからだと思う。「だってそれF1じゃないんでしょ?」と。
 今から四半世紀前に日本では未曽有のF1ブームが起こった。だから、メディアはF1GPのことならすでに知っている。ところが、F1だけで充分とでも思ったのか、それともF1を知れば知るほどその魅力の深さにはまり、他カテゴリーへの関心が相対的に減ってしまったのか、いずれにせよインディに関する一般の注目度は、長い間、絶対的に低かった。
 人々は、モータースポーツの全体像をあまりにも知らなすぎる。人々が興味を抱かないからメディアが無視してきたのか、メディアが無関心だから人々も興味を持ちえないのか、まるで鶏が先か卵が先かの問答のようだ。
 モータースポーツの範囲は無限と言えるほど広いのに、専門誌と言われる媒体ですら今やF1や一部人気カテゴリーに特化した編集ばかりしている。これでは、「僕も佐藤琢磨のように将来インディ500に出て優勝したい」と思う青少年は出てこない。
 少なくともいま日本人は、インディ500で勝つことの意義、インディそのものの価値を再認識すべき絶好機にある。今を逃したら、二度と訪れないかもしれない。

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コースは一周2.5マイル(4km)の長方形で1930年撮影時と変わらない。ただし路面は当時、レンガ敷きだった

 毎年5月末のアメリカのメモリアル・デイ(戦没者追悼記念日)、一周2.5マイル(4km)オーバル(楕円形)コースを舞台に超高速コースで繰り広げられる200周=500マイル(800km)の自動車競走は、世界で最も有名な自動車レースだ。比肩しうるのは辛うじてル・マン24時間とF1モナコGPぐらいか。
 優勝者はその500マイルを3時間弱で走り切る。その平均スピードは300km/hだ。ことスピードに関して言えば、ヨーロッパを起源とする、曲がりくねったコースで競われるF1GPの比ではない。しかも一大会の賞金総額1500万ドル、優勝賞金は邦貨2億円オーバー。決勝当日、サーキットに詰め掛ける観客の数、実に30万人以上。いちスポーツ競技大会に集う観客数として、これは世界最高の数字と言われる。
 しかしどこにもアンチの意見はあって、否定的に言う者もいる。曰く、同じ所をグルグル回るだけで何が面白いのか、観客は大事故を望んでいるのだろう、F1のようなテクニックを発揮する場面がないではないか、と。しかし、スピードとスリル、人間と機械の調和、それこそがモータースポーツの原点であり醍醐味であるという大前提からすれば、これほど理に叶ったイベントはない。規則でがんじがらめ無理矢理スピードを抑え込み、世界20ヵ国で金太郎飴のごとき高速走行ショーを演じて集金している世界選手権戦より自由かつ健全かもしれない。

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第100回記念大会のスタート直後。33台のカラフルなマシーン群がひと塊となって時速350kmオーバーで競い合う

 モータースポーツがこの世で始まったのは19世紀末、正確には1894年のパリ〜ルーアン・トライアルとされる。翌年のパリ〜ボルドー往復がスピードを競う「レース」としては最初のものだ。ガソリン・エンジンがドイツで発明されたのが1880年代だから、初期の競技車はガソリン、蒸気、電気などが混在していた。当時、文化の発祥地だったフランスのパリを起点に自動車による都市間レースが広まるが、未舗装一般道での危険性が高まり、レース専用路、いわゆる常設サーキットへと舞台を変えていく。
 F1GPの前身となる国際GP(グランプリ)レースは1906年にフランスで初開催された。ただし当時ヨーロッパで自動車を所有できるのは貴族や富裕層であり、GPレース会場も彼らの社交の場という雰囲気が強かった。一般大衆にとって自動車レース、特にGPレースは高嶺の花すぎて、自分の住む街中を行く公道レースならともかく、人里離れた専用サーキットまで行く手段もなく、もちろんラジオやテレビの中継やネットも無い時代なので、そもそも興味の対象にさえなりえなかった。マシーンを操る選手にしても、初期は、貴族や金持ち、あるいは自動車メーカーのテストドライバーなどばかりだった。

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アメリカ人(ジミー・マーフィー)とアメリカ車(デューゼンバーグ)がヨーロッパ伝統の一戦で勝ったこともある。1921年フランスGP

 それに対して、アメリカでは人々と自動車の関係性が、ヨーロッパとはかなり異なっていた。コロンブスがアメリカ大陸を発見したのが15世紀末。以後、西欧人のアメリカ移住と開拓が進み、建国は18世紀末。ヨーロッパ諸国や日本と比べても、アメリカは圧倒的に若い国だ。自動車が誕生した19世紀末時点で、アメリカは西部開拓の真っ最中だった。
 アメリカ初のモータースポーツ・イベントは、1895年のシカゴ〜エヴァンストン間レースと言われる。ヨーロッパとほとんど同時である点に注目しよう。しかも、世界初の自動車大量生産は1908年のT型フォードであり、自動車の社会に対する浸透普及は圧倒的にアメリカの方がヨーロッパより早かった。土地を開拓し、物を運び、人が居住するのに、自動車は馬よりも便利であり、安いT型フォードの存在によって大衆の手にも自動車が届く環境が出来上がった。大金持ちが世の中と文化を支配する以前から自動車が存在したわけだ。人々は、野球や競馬を見るように、自動車レースを見て楽しむようになる。自動車が特権階級のステータスではなく、娯楽の対象となったのだ。

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インディ創設者4名、右からJ.アリソン、C.フィッシャー、F.ホイーラー、A.ニュービー、そしてヘンリー・フォード

 アメリカの自動車レースは、ごく初期の段階で、大衆に密着した娯楽、つまり興行として成立するようになった。会場に訪れた観客は、コース全周が見渡せないと満足できなかった。ドライバーの技術やら車の操縦性云々よりも、日常を忘れさせてくれるスピードとスリルこそが自動車レースの観戦目的・本質だった。

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1920年代のアメリカはインディ以上に速いボードトラック(板張りコース)でのレースも盛ん。カルヴァーシティのバンク角は45度!

 アメリカでは長い間、自動車レースのことを「オートレーシング」と呼ぶ習慣があり、ヨーロッパや日本のように「モータースポーツ」という呼び方をしなかった。「ホースレーシング」の対比語だろう。アメリカ人にとって自動車競走は「スポーツ」ではなく「見世物」としての感覚の方が濃かったことが、その呼び名からも分かる。
 F1とインディを、道具の形が似ているからと言ってマシーン中心・技術中心で比較して優劣をつけるのは大間違いだと、何故専門家は言わないのか。関係する自動車メーカーさえ気づいていない様子だ。そもそもの成り立ちや基本的な精神で、全く別なものなのに...。

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第1回優勝車マーモンには自動車史上初めてバックミラーが装着された。他車が2人乗りなのに対して、レイ・ハロウンだけは単独走行。タイトルバックの顔写真もハロウン

 インディ500は1911年に始まった。現在と同じ場所、同じ5月末のメモリアル・デイに、第1回大会は催された。200周=500マイル走破するのに6時間かかった。単純に遅いと侮ってはいけない。専用コースをそんなに長時間走り続けるレースなど、それまで存在しなかった。参加車両がその時々の最新鋭マシーンではあっても、出せるスピードには限界がある。平均100km/h弱で6時間走り続けるのも危険いっぱいの大冒険であり、過酷きわまりない状況だった。しかし男たちは、この破天荒なる世紀の一戦で勝利することを夢見て、挑戦し続けてきた。
 アメリカは国として若いがために、自らが築くアメリカの歴史をとても大事にする。インディ500も回数を重ねるごとに、関係者やファンが一緒になって、その伝統や慣習を築き上げてきた。後世に向けての誇らしいもの、尊いものという意識は、ヨーロッパや日本よりはるかに強い。
 1923年開始のル・マン24時間レースは今年2018年が第86回大会、1929年開始のモナコGPは今年が第76回大会だが、インディ500は今年第102回大会を数える。年数と開催数が合わないのは、2つの世界大戦による中断期があるためだ。長く永続的に回数を重ねるためにも、平和であることが重要なのだと気付かされもする。
 日本では、大正時代からレース開催があったとはいえ、1962年鈴鹿サーキットの誕生により近代レースは始まった。66年初開催の「鈴鹿1000km」レースが唯一通算開催数を誇れるレース大会だったが、昨2017年の第46回を最後に閉幕されたため(今年からは内容一新、10時間レースへと変更)、歴史の重みを感じさせる競技会は皆無となってしまった。
 アメリカが大事に育んできた500マイルレースは、今や誰から見ても世界一の大レースとなった。さあ次回では、改めてインディ500と日本の関係に触れてみよう。

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同乗メカニックとして35年にポールポジションからスタートした日系二世のチック・ヒラシマ

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65年に優勝し、インディカー界にF1旋風のきっかけを作ったロータスのコリン・チャップマン代表とジム・クラーク

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スポーツイラストレーテッド誌の08年表紙を飾ったダニカ・パトリック嬢。そう、Yes She Can!

写真はすべてIMS(Indianapolis Motor Speedway)

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執筆者プロフィール

1955年(昭和30年)東京杉並生まれ。1974年明治大学入学と同時にモータースポーツ専門誌『オートテクニック』の編集アルバイトを開始。1981年に『F1GP 1950-80全342戦完全記録』を自費出版。グランプリ出版社員を経てフリーランスに。1986年『レーシングオン』誌創刊スタッフ。その後、主宰するGIRO名義で執筆&編集を2004年まで担当。2006年『日本の名レース100選』を創刊。現在は『F1速報』誌にコラムを連載中。著書に『サーキット・ヒーロー』(光風社、1988年)、『時にはオポジットロック』(ニューズ出版、1993年)、『F1戦士デビュー伝説』(ベストブック、1994年)、『F1全史』(1~10巻まで、ニューズ出版)、『富士スピードウェイ最初の40年』(三樹書房、2005年)等がある。

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