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第8回 カワサキK2がX650へ、XはW1へ衣替えする
2018.1. 5

 カワサキ技術陣やカワサキのデザイナー達が、メグロに敬意を払ってアレンジしたカワサキ500メグロK2の1965年9月の生産台数は125台であった。当時の自動二輪は他にライラック500が月産1台、ホンダの305cc77系とCB450で7576台、ヤマハは305 ccYM1が176台という数値であった。
 50ccから500ccのカワサキ車ラインナップも1965年秋の東京モーターショーで変革期を迎える。2サイクル勢はピストンバルブ吸入のB8に続き、ロータリーディスクバルブの85J1がまずまずの売れ行きを示し、モトクロスやロードレースで活躍をみせてゆく。
 モーターショーでは125にも2サイクルのロータリーバルブを採用したB1がデビューするが、4サイクルの新鋭マシンX650が公開された。外観こそK2と大差ないように感じられたが、エンジンはボア拡大の624cc、46psにて180km/hの性能が告知され、ホンダのCB450に並び白バイや輸出が目指せる性能値となった。ショー展示のK2、K2P、X650のタンクマークもメグロのウイングマークでなく、カワサキフラッグマークとなり、メグロ色は250SGのみに残されてゆく。

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 誕生当初は車名をカワサキ500メグロK2としていたが、1965年には単にカワサキ500K2と称するようになった。当時のライダー達は10代が90ccクラスのCS90、20代が250ccクラスのCBやYDSに夢中で、まだ500ccクラス以上の大型バイクの需要は多くなく、カワサキ500K2は白バイ用として生産されていた印象だったが、W1登場で人気が出て併売された。なおW1初期のマニア達はK2の部品をW1に装備してメグロのクラシックさを、国産最大排気量車で味わっていた。

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 これは、1965年の東京モーターショーで公開された試作車のカワサキX650を、当時の川崎航空機工業の広報写真などがないので、CGで製作したもの。白バイ用のK2Pの性能がホンダCB450に負けたためと、北米輸出のメドが立ったために開発。エンジンはK2を6mmボアアップした624ccとしてキャブレターに大口径ミクニVMを採用、46ps/6500rpm、180km/hの高性能だった。タンクのマークやニーグリップからはメグロ色が一切なくなっていた。
 メグロK1のベース、BSAのA7シューティングスターは66×72.6mm、497ccで30ps/5800rpm、144km/h。上級モデルA10ゴールデンフラッシュはクランクを変更した70×84mm、646ccで35ps/4500rpm、160km/h。ロードロケットは40ps/6000rpm、175km/hだったからBSAを凌駕したモデルと言えた。ショーでは「市販時にはスポーティな外観になる」と告知された。

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 X650を米国好みにしたデザインで登場したのが650W1だった。これは1966年の米二輪誌に綴込みされたカタログの表紙。「BIG ONE、カワサキ650に乗り換える準備をしておいてくださいね」といった意味のキャッチコピーが読み取れる。1966年2月より全米各地のショーに展示された。

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 裏表紙には「日本最大級、最速、最もパワフルな二輪車!」とあり、性能はゼロヨン14秒以下!と明記。このクラスでは最も安全で乗りやすのがカワサキ650と述べていた。カワサキ車のキャッチフレーズ「川崎に乗ると楽しくなれる」はホンダのナイセストピープルへのヒントを与えたかもしれないほど斬新だった。

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 見開き部分はバックが黄金の印象。X650からの変化はメッキされたパーツ類と、大径化されたフロントブレーキなど。英国車BSAの印象があり、米国の英国車販売店で売ってもらおうとしたが、「英国車のコピー」だと、多くの店で断られたという。

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 1966年4月に発表された日本国内向けW1の二輪誌用広告がこれである。日本最大クラスのコピーが、当時の若者達を虜にした。それまで中古車でしか入手できなかった「英国車」が新車で買えることがわかったからである。もちろん英国車のコピー的フォルムであるが、そんなことはどうでもよかった。CB450より速いという印象で、アンチホンダファンや旧メグロユーザー達が注文してゆく。同年3月の富士スピードウエイ第7回クラブマンレース350ccには神戸木の実クラブの金谷秀夫がW1プロトタイプレーサーで出場、下位でスタートしたものの、追い上げて賞典外ながらも2位でゴールした。

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 広報ポジで配布された国内仕様タイミングケース側の(下のカタログに使われた)写真は、残念ながら川崎には左側のみしか現存しないようだ。プレスカメラによる大きな4×5版で、当時は数万円したから、必ず「要返却」として貸し出されるが、何らかの原因で戻ってこなかったのだろう。

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 シンプルな1966年当時のカワサキ車カタログ。費用をかけずペラ1枚表裏という簡易なものだった。キャッチコピーなどは裏面にまとめて記載された。発売当初は購入者が限定され、誰でも買える存在ではなかった。価格32万8000円は、軽乗用車N360の31万5000円より高価だった。

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 裏面に特徴とスペックシートが並ぶ。「マニア待望の最大クラス!」にマニアを自負するライダー達の購入動機を決定した。この頃にW1を購入したのはメグロや外国車に乗るマニア達で、Wを経て再びBMWやハーレーの外国車達に乗り換えていった。

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 この北米向けのカタログもシンプルそのものだった。当時の英国車のカタログはラインアップの豪華な冊子だったから、売り込みも大変だったろうが、幸いにも世界一高性能な250A1サムライと一緒になら引きうけるという販売店が多かったので、救いはあったようだ。

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 1966年10月の東京モーターショーに展示されたW1改良後期モデル(CGによる合成で製作)。シートが250A1に合わせたツートーンカラーになったもので、後継モデルのW1S=2キャブの初期モデルまで継承される。

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 東京オリンピックの後で納入された新型K2P。サイレンなどの位置が、メグロのセニアT2P~K1Pの後部から前部に移動するなど細部が異なる。1965年9月から10月にかけて明石工場に警察庁から検査に出向き、1台ずつ検査して100台が合格、10月下旬にも100台の計200台が納入され、ホンダのCB450P、CP77とともに配備された。

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 上の画像手前のマシンは一見してK2P的であるが、タンクがクロームメッキのW1用で、フロント2リーディングブレーキ装備で、れっきとしたW1P国内仕様である。その奥はK2Pのようである。下左はそのパレードだがカタログ用に撮影されたものであろう。下右の赤バイは消防署用で消化器など装備し、この後にホンダCB250/350にバトンタッチされる。

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 これが輸出仕様のW1Pで、1966年6月にフィリピンのカワサキ輸入元が、カワサキ車3000台輸入を達成したことに感謝してW1Pを贈呈したもの。フェンダーなどがK2Pでなく、市販型W1と同じものになっているのが特徴。

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 これは650W1Pポリススペシャルのカタログ。1977年にはオーストラリアのヴィクトリア州警察、南米グアテマラ警察で登用された。この後に輸出用はツインキャブのW2が加わり、W1とW2が並行ラインナップと生産がされてゆく。Wの当初の市場は北米だったが、英国車と外観が同一と判断され人気が出ずに、1970年代から国内向けに特化したとされる。例外は唯一、英国車マニアの多かったオーストラリアに向けに1970年代まで輸出された。

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執筆者プロフィール

1947年(昭和22年)東京生まれ。1965年より工業デザイン、設計業務と共に自動車専門誌編集者を経て今日に至る。現在、自動車、サイドカー、二輪車部品用品を設計する「OZハウス」代表も務める。1970年には毎日工業デザイン賞受賞。フリーランスとなってからは、二輪、四輪各誌へ執筆。二輪・三輪・四輪の技術および歴史などが得意分野で、複数の雑誌創刊にもかかわる。著書に『単車』『単車ホンダ』『単車カワサキ』(池田書店)、『気になるバイク』『チューニング&カスタムバイク』(ナツメ社)『国産二輪車物語』『日本の軽自動車』『国産三輪自動車の記録』『日本のトラック・バス』『スズキストーリー』『カワサキモーターサイクルズストーリー』』『カワサキ マッハ』『国産オートバイの光芒』『二輪車1908-1960』(三樹書房)など多数。最新刊に『カタログでたどる 日本の小型商用車』(三樹書房)がある。

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