モデルY、アングリア、エスコート、プリフェクト、
コルチナ、パイロット、コンサル、ゼファー、ゾディアック、
コンサル・クラシック、コルセア、コンサル・カプリ、
................ 1948 Ford V8 Pilot
海外進出の野心を持って居た「アメリカ・フォード」は1905年のカナダに次いで、1911年には欧州初の海外拠点「イギリス・フォード」を設立した。それより前から完成車を輸出していたが、販売量が増えるにつれて、パーツで送った方が運賃が安くつくことから現地に「ノックダウン方式」の工場作る事にした。場所は船便で直接陸揚げ可能な「マンチェスター」が選ばれた。この工場では本国のモデルチェンジに合わせて「T型」「A型」「B型」を造ったが現地に合わせ右ハンドル仕様だった。1928年からは「A型」となったが、この時からオリジナルの3285ccに対して、ボアを縮め2023cc として課税馬力を24hpから14.9hpに抑えた「AF」という英国独自のモデルが誕生した。この小排気量版はその後「BF」「小型V8」シリーズと続いた。
・英国フォードは車種が多い上に、ポピユラーのように同じ名前が別シリーズに登場したり、コンサルの様に付いたり付かなかったり、エイト・シリーズの様に同じ車に幾つもの名前があったりして、非常に複雑で分かりにくい。そこで、判り易く分類、整理すると大別して3つの流れがある。ひとつはノックダウン以来の米フォードからの大型/中型シリーズ。あとは英国独特の「ベビー・フォード」と総称される 「エイト」と「テン」シリーズが名前を変えつつも大きな2つの流れとなっている。今回はその3つの流れを順に追う事で後継関係と、そのシリーズの全体での位置付けも確認しながら進めたい。
・最初は1932年スタートした一番小さい(低価格)シリーズから始める。このシリーズは「ベビー・フォード」と総称されるが一般的には「エイト・シリーズ」と呼ばれることが多い。1932-33「モデルY(19E)」(933cc)から始まり、途中で1934「8hp」、1935-37「ポピユラー」1938-39「エイト」、1940-41「アングリア」と次々呼び名が変わっていくが、この期間を通して「Yシリーズ」でもあった。(英国で出版された資料には「Ford 8hp Model Y」と書かれていた)
・戦後は1945-53「アングリア」からスタートした。1954-57/58-59「アングリア」(フラッシュサイド新ボディ)、1960-67「アングリア(105E)」(クリフカット新ボディ)から1968「エスコート」へと続く。(用済みとなったこの「初代アングリア)のボディは払下げられて1954年新シリーズ「ポピユラー」として再利用され、「2代目アングリア」も1960年同じ道をたどった。)
・次は「ベビー・フォード」の中の兄貴分で、一般的には「テン・シリーズ」と呼ばれる車だ。あまり使われないが正式名は「エイト」より上級という事で「デラックス・フォード」(1172cc)と名付けられ、「モデルY」に対して「モデルC」という名前も持って居たが「テン」が多用され殆ど使われていない。1935~37「デラックス・フォード」、1938~41「プリフェクト」で戦前を終わる。
・戦後は戦前の「プリフェクト」の生産から始まる。1945~53「プリフェクト」(戦前型)、1954~57/58~59/60~61「プリフェクト」(フラッシュサイド新ボディ)、1962~66「コルチナ」、1967~69「コルチナMkⅡ」、1970~「T/Cレインジ・コルチナ」と続く。(このシリーズも新「ポピユラー」の誕生に協力しており、1954年と1960年にはモデルチェンジで旧型となったエンジンを提供している。)
・1954年用済みとなった「アングリア」のボディと「プリフェクト」のエンジンを組み合わせて新しく誕生したシリーズが「ポピュラー」だが、これは1935-37年「Yシリーズ」で使っていた名前の復活で紛らわしい。「新ポピユラー」は2代目も初代と同じくモデルチェンジした兄貴分のお下がりを引き取って衣替えした。
・大型シリーズは完成車の輸入から始まり、部品で輸入して組み立てる「ノックダウン」となり、部品の国内生産を経て、独自のモデルを造るまでに至った。最初は1928年モデルチェンジで「A型」に変わった時、課税馬力で有利となる「小排気量版」を造った事で、本国仕様とは違う車が生まれた。ボアを縮めただけの改良だからニューモデルと言うのは苦しいが、とにかく別の型式が付いたのでこれを新型と認定し、ここからは「大型シリーズ」が「フルサイズ」と「縮小モデル」の2本建てとなった。フルサイズは1911~27「T型」、1928~31「A型」(3285cc)、1932~34「B型」(3285cc)、1932~34「V8」(この期間だけは完成車をカナダから輸入)、1935~41「V8 30hp」(3622cc)で戦争中断となる。一方、「縮小版シリーズ」は1928~31「AF型」(2023cc),1932~34「BF型」(2023cc),1936~41「V8 22hp」(2227cc)が造られたところで戦争中断となった。
・戦後の大型車は、1947年から戦前の「V8 22hp」のボディに手を加え、フルサイズ用の3622cc エンジンを搭載したものを「パイロット」の名称で発売したが、1951年からは古めかしい「パイロット」に変えて、モダンな戦後型「コンサル」と「ゼファー」が登場した。ここからは「大型車」は無くなり「中型車」が最上位となった。1951~55「コンサル」(1508cc)、1956~62「コンサルMkⅡ」(1703cc)で生産中止。1951~55「ゼファー」(6気筒2262cc)、1956~61「ゼファーMkⅡ」(2553cc)、1962~66「ゼファーMkⅢ」(「ゼファー4」4気筒1703cc/「ゼファー6」6気筒2553ccの2本建て)、1966-72「ゼファーMkⅣ」( 「ゼファー4」1996cc/「ゼファー6」2495cc)で生産中止。最上位は1954~55「ゾディアック」(6気筒2262cc)で、この段階(1954年)で上から「ゾディアック」(2262cc)、「ゼファー」(2262cc)、「コンサル」(1508cc)、「プリフェクト」(1172cc)、「アングリア」(1172cc)、「ポピユラー」と(1172cc)なっている。「ゾディアック」はこの後、1956~61「ゾディアックMkⅡ」、1962~66「ゾディアックMkⅢ」、1966~72「ゾディアックMk4」まで進化して製造中止となった。「ゼファー」と「ゾディアック」の後継は「1972~「コンサル・グラナダ」が引き継いだ。 .
・1961年になると1.1ℓの「アングリア」「プリフェクト」と、1.7ℓの「コンサル」の間を埋める1340ccのエンジンを持つ新シリーズが誕生した。1961~63「コンサル・クラシック315」(サルーン)、1964~「コルセア」と、1961~「コンサル・カプリ」(クーペ),1965~「カプリ」、1974~「カプリⅡ」と続く。
・1964年時点のラインアップは上から「ゾディアック」「ゼファー」「コルセア」「カプリ」「コルチナ」「アングリア」となった。
・1972年からは「コルチナ」「エスコート」「カプリ」「グラナダ」の4モデルに集約された。
と、ここまで来たが頭が混乱しこれ以上はもう無理なのでこの辺で中止する。
<ベビー・フォード(モデルY・エイト/アングリア)>
(写真01-1ab) 1937 Ford Model Y (Popular) 2dr Saloon (2007-06 英国国立自動車博物館/ビューリー)
戦前の英フォードを代表するのが「Yシリーズ」或いは「エイト」と呼ばれるこの車で、正面から見た所は本国の1933-34年型「フォード」のハート型と言われて
(写真01-2abc) 1937 Ford Moodel Y (8hp) 2dr Saloon (1987-01 明治公園/神宮外苑)
「Yシリーズ」は1932年からスタートしたが、同時進行の本国と同じフルサイズの「モデルB」「V8シリーズ」に対して、「ベビー・フォード」いう愛称で呼ばれた。「ベビー」といってもエンジンは933ccあり、ボディも「オースチン・セブン」や「ダットサン」より一回り大きく、庶民にとっては十分満足出来るものだった。最初から殆ど変化なく1937年まで造られた。
(写真02-1abc) 1048-53 Ford Anglia (E494A) 2dr Saloon (1961-01 祖師谷大蔵/世田谷区)
「Yシリーズ」に代わって戦前のボトム・クラスに登場したのが「アングリア・シリーズ(E04A)」だったが戦争が始まり1941年で生産は中断していた。戦後の1948年10月戦前と殆ど同じスタイルで復活したのが「アングリア(E494A)」で、基本的なボディ・プレスは同じだがノーズが丸みを帯びてラジエターグリルがやや後傾し、ボンネットの排気孔が大きくなった。場所は世田谷区の東宝撮影所に近い住宅公社・大蔵住宅の入り口で、実は僕自身が80倍以上の抽選に当たって1961年8月から約1年住んで居た新婚時代の思い出の場所だ。
(写真02-2ab) 1949 Ford Anglia (E494A) 2dr Saloon (2007-06 英国国立自動車博物館)
この車は前項と同じシリーズで、英国内で使用されていたものと思われるが右ハンドルだから日本国内で見たものと変わらない。ただヘッドライトの奥行きがこちらの方が少し長いのは年式の違いか、それとも各国によって法規上の規格の違いなのかは判らない。
(写真02-3abc) 1954-57 Ford Anglia (100E) 2dr Saloon(前期型) (1961-11 三田四国町/港区)
戦前から数えて3代目に当たるのがこの車だ。ここでやっと戦後スタイルに変身し、フェンダーの突起が無いフラッシュサイドとなって「フォード一家」の仲間入りが出来た。しかし"古い上着はサラリと捨てて"と言う訳にはいかず、新しく「ポピユラー(103E)
」と言う弟分のシリーズを立ち上げ、ボディはそこに払い下げた。しかもエンジンはこれまた生産中止となった「プリフェクト」からの転用で、廃物利用で新しいモデルが生まれた。このように「血縁関係」が入り混じって居る事がイギリス・フォードの系統を分かりにくくしている原因だ。とはいっても物を大切にする精神は見上げたものだ。
(写真02-4abc)1959-67 Ford Anglia (105E) 2dr Saloon(1960-08 一之橋附近/港区)
(参考)1958 Lincoln Continentalo MkⅢ(最上位にのみ許されたクリフカットのリアウインド)
(参考) 1959 Lincpln Capri (同じリンカーンでもコンチネンタル以外はクリフカットは使えない)
ある日突然に目の前に現れたのがこの車で、イギリス・フォードの中ではこの間までは一番安い、当時でも下から2番目の「大衆車」の「アングリア」が4代目で大変身を遂げた。50年以上経った今日の感覚で見てもこれが大衆車で良いのか思うほどの完成度だ。最初見た時の印象は、前のシリーズがいまいちパッとしなかったから、どこか場違いの感じすら受けた。特にリアウインドウは逆に傾斜する「クリフカット」と呼ばれるスタイルで、フォード・グループの中の最高級車「リンカーン」が去年市販車としては初めて採用したばかりの物だ。しかもリンカーンの中でもトップモデルの「コンチネンタル・シリーズ」のみに許された高級車の象徴と言うイメージを持っていたから、「なんで大衆車に」と驚いたわけだ。仮ナンバーのこの車はこれから車検を取るための整備中だろう。
(写真02-5ab) 1959-67 Ford Anglia (105E) 2dr Saloon (1961-02 六本木付近/日石・芝公園給油所/港区)
此の安価で見た目の良い車は、早速イギリス大使館に納入されたようだ。給油所に2台並んで写っている車のナンバーは青地に「外」 の大使館用で3301~02と連番だ。
<エスコート>
(写真03-1ab)1969 Ford Escort 1300GT 2dr Saloon (
1963-11 東京オートショー/晴海)
1959年9月デビューした4代目の小粋な「アングリア(105E)」は好評で、約9年生産された。その後継車として1968年1月登場したのが「エスコート」シリーズで、エンジンは1098cc,1298cc, 1558ccの3種が用意され、もはや大衆車の域を超え、小型スポーティーカーとしての顔も持つようになった。
写真03-2a) 1968 Ford Escort 1600 RS (1985-11 SCCJ 30周年/筑波サーキット)
小型軽量のボディに強力なエンジンを嵌め込んで戦闘力のあるホット・モデルを造るのは常とう手段だが、まさにこの車がそれだ。1601cc DOHC 4気筒16バルブ122hp/6500rpmで、最高速度は180km/h以上という。横に並んだ「アルファロメオ」1300GTAと較べても一歩も引けを取らない面魂だ。丸いヘッドライトは1972年からの筈だがプログラムの記載通り1968年とした。
<ベビー・フォード(モデルC・テン/プリフェクト)>
(写真04-1a~d)1949-53 Ford Prefect (E493A) 4dr Saloon (1962-03 渋谷駅付近)
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ベビー・フォードの二つの流れで、「モデルY・エイト」の兄貴分が「モデルC・テン」だった。そして、その後継車として1940年誕生したのが「プリフェクト」だったが、第二次大戦の勃発で1940年4月末で 民需用自動車は生産停止となり、軍需体制に切り替えられた。1945年戦争が終結すると程なく、「プリフェクト」は戦前の侭で生産が再開された。それはヘッドライトが独立している30年代の典型的なスタイルだったが、1949年モデルチェンジが行われ第二世代となった。写真の車がそれで、フェンダーが高くなりヘッドライトが埋め込みとなった。弟分の「アングリア」は2ドアしかなかったが、「プリフェクト」は4ドアだった。この場所は首都高速3号線が出来る直前の予定地の空き地で坂を下った先は山手線渋谷駅だ。
(写真04-2a~d) 1949-53 Ford Prefect (E493A) 4dr Saloon (1965-10 立川市内)
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前項と同じ時期のモデルだが洒落たホワイトの塗装で、見た目の印象がずいぶん変わる。ファミリーカーとしては十分の大きさだが、エンジンは4気筒サイドバルブ1172cc 30.1hpで、車名の「テン」はこの課税馬力が10hpだったからだ。
(写真04-3a) 1953-59 Ford Prefect (100E) 4dr Saloon (1959-04 銀座6丁目ソニー通り)
「プリフェクト」の第3世代は1954年戦後スタイルに生まれ変わった。1949年本家アメリカのフォードで話題となったサイドにフェンダーの突起が無い「フラッシュサイド」と呼ばれるスタイルで戦後派の仲間入りをした。この世代の「プリフェクト」は基本的には弟分の「アングリア」とボディの寸法、ホイールベースからエンジンの排気量まで同じ1172ccで、唯一違うのは4ドアであることだ。エンジンの排気量は変わらないが一部改良が加えられた新型となり、その際不要となった旧型は新しく出来た「ポピユラー」に払い下げた。
写真04-4a) 1958-59 Ford Prefect (100E) 4dr Saloon(後期型) (1958年 静岡駅前)
1958年マイナーチェンジが行われたが外観ではボンネット上のマスコットが単純な形となりボディサイドに小さい三角のバッジが付いた。場所は僕がまだ住んで居た頃の静岡駅前だが神奈川の仮ナンバーが付いて居た。
<コルチナ・シリーズ>
(写真05-1ab)1963 Ford Cortina (113E) 4dr Saloon (2007-06 英国国立自動車博物館/ビューリー)
1962年9月イギリス・フォードがデビューさせたのが「コーティナ」だった。これは1年前生産を中止した「プリフェクト」の後継車であると同時に、1960年から大ヒットしている「オースチン/モーリス・ミニ」(ADO15)の対抗馬として送り込んだものだ。エンジンは4気筒OHV 1198cc 56hp/4800rpmで旧プリフェクト・エンジンのストロークを少々伸ばしたことで排気量が26cc程増えている。この車の売れ行きは絶好調で、最初の3か月で6万台が売れ、4年間で100万台を 突破するという記録を打ち立てた。大量に売れた秘密は、基本的に車としての良さもさることながら、そのバリエーションの巧みさで「実用車」から「高性能スポーツカー」まで一つのシリーズにはめ込んで、「コルチナ」という名前の車がレースで勝つ度に「俺も同じ車に乗っているんだぞ」とオーナーの自尊心を満足させたことだろう。そのバリエーションは1962年の「スタンダード(113E)」1198cc 46hpから始まって1963年1月「コルチナ・スーパー(118E)」1498cc 57.5hp、4月にはよりパワフルな「コルチナGT(118E)」が加わった。排気量は「スーパー」と同じだがウエーバーのキャブなどで75.5hpまでチューンされていた。もっとも強力なのは「コルチナ・ロータス」で、1558cc 106hpだった。
(写真05-2abc) 1963 Ford Consul Cortina-Lotus 2dr saloon(前期型)(1966-05 第3回日本GP/富士スピードウエイ)
究極のモデルは「コルチナ・ロータス」で、当時F1レースでも華々しく活躍していた名門「ロータス」の協力で誕生したものだ。エンジンは「GT」用の1498ccをボアアップして1558cc に増やしダブルチョークのウエーバー・キャブ2個で106hp/5500rpまで強化され、最高速度は172km/hが可能だ。俗に「羊の皮を被った狼」という、見た目は普通のサルーンでも、ひとたび牙をむけば恐ろしい程の力を秘めた車だ。サイドからリアにかけて「ロータス・グリーン」の独特な塗り分けがあり、バックミラーでは気づかないが、追い越されてはじめて「コルチナ・ロータス」と判る仕組みだ。
(写真05-3ab)1965-66 Ford Cortina-LotusⅠ2dr Saloon(後期型) (1966-05 第3回日本GP/富士スピードウエイ)
1964年9月小改造が施され後期型となった。外見上はグリル内の横棒が伸びてパーキングランプがグリル内におさまった。その他エアロフロー・ベンチレーションシステムの採用によって室内の換気が大いに改善された。リアクオーター・パネルにその排出口が見える。前期型では「コンサル・コルチナ」が正式名だったが、後期型からは「コルチナ」だけとなった。
(写真05-4a) 1965-66 Ford Cortina Lotus 2dr Saloon (1980-05 筑波サーキット)
モノクロの写真ばかりなのでストライプのグリーンの色見本のつもりでこの写真を選んだのだが、写真の写りが悪くイメージした色が出せなかった。グリーはもっと黄色が勝った「抹茶色」に近い。
(写真05-5a~d)1965-66 Ford Cortina GT (118E) 2dr Saloon (1966-05 第3回日本GP/富士スピードウエイ)
「コルチナ・ロータス」に次ぐホットなモデルがこの「コルチナGT」だ。見た目は変わらないが「ロータス・グリーン」のストライプは無い。「コルチナ・ロータス」と並んだ後姿は低い車高で何ら遜色ない。ストライプを塗って見た目「コルチナ・ロータス」に変身した車があったとか。
(写真06-1ab) 1967-70 Ford CortinaⅡLotus 2dr Saloon (1978-01 東京プリンスホテル)
1966年9月、誕生後満4年弱で累計100万台という英国の量産記録を塗り替え、役目を終えた「コルチナ」は10月モデルチェンジが行われ「コルチナⅡ」となった。新しいボディはこれといった特徴のない平凡な印象しか与えないが、このシリーズにも「コルチナⅡ ロータス」が存在した。当然の事ながら、「ロータス・グリーン」のストライプは入っているが、初代に較べてなんとなく"迫力"が感じられない。
(写真06-2ab) 1970 Ford Cortina 1600E 2dr Saloon (1969-11 第11回東京オートショー/晴海)
「コルチナⅡ」にモデルチェンジしてから、エンジンは右から吸気して左に排気する「クロスフロー」の効率の良いものとなった。1500はストロークを伸ばして1599cc となり、シリーズは「1500」から「1600」となった。黒塗りのマスクで、「1600GT」のメカニカル・パーツを取り入れ、固めた足回りと来れば立派なスポーツ・サルーンで、しかもウオールナットのダッシュボードなど豪華さも備えている。ホイールもこの時期イギリスで多用され賛否両論だった独特のデザインだ。
<ポピユラー>
(写真07-1ab) 1953-59 Ford Popular (103E) 2dr Saloon (1960-01 銀座付近)
この車は「アングリア」+「プリフェクト」のお下がりを組み合わせて新しく誕生したベーシックモデルだ。車は見栄で持つものではなく「物を運ぶもの」に徹すれば、開発費用がかからず、プレス機械を始め、車を造るための道具立てがそっくり揃っているから、製造コストも抑える事ができる。問題は果たしてこの古臭い車を買おうという顧客層があるだろうか、という心配だが、「物を大切にする」「古いものに愛着を持つ」という英国人気質はこの車にピッタリ?といえなくもない。その証拠にはこの車は155,340台も造られている。パッと見、「アングリア」とそっくりだが、ヘッドライトがバランスの取れない程小さいのも、コスト削減の為か。
(写真07-2ab)1959-62 Ford Popular (100E) 2dr Saloon (2009-11 トヨタ・クラシックカーフェスタ/神宮外苑)
1959年第2世代にモデルチェンジしたが、今回も上級モデルのお下がりだ。元々「アングリア」も「プリフェクト」もボディ、エンジンが同じで、型式も同じ「100E」だった。だから、この「ポピユラー」も型式は同じ「100E」を受け継いでいる。
<大型シリーズ・パイロット>
(写真09-1a~d)1948 Ford V8 Pilot 4dr Saloon (2007-06 フェスティバル・オブ・スオイード/イギリス)
大型車の復活は世界大戦が終わって2年経った1947年9月だった。1940年戦争が始まって民間向けの生産が中止された後も、軍用車として生産が続けられていた「V8」(2227cc)を少し手直ししてそれに3622ccのエンジンを載せ、「パイロット」という新しい名前を付けた。グリルのデザインは先に発表された「プリフェクト」と共通だが、こちらはヘッドライトが独立した1930年代そのままのスタイルだ。それでも戦後の耐乏生活の中では十分で、官公庁を中心にかなり需要があったようで、1951年3月までに22,155台生産されている。
<コンサル、コンサル・クラシック/カプリ>
(写真10-1a)1950-56 Ford Consul 4dr Saloon (1958年 羽田空港駐車場)
(写真10-2ab) 1950-56 Ford Consul 4dr Saloon (1957年 静岡市内)
1950年10月「パイロット」の引退を前にデビューしたのが「コンサル」で、前年アメリカ・フォードで大評判となったフラッシュサイドのモダンなボディが早くも取り入れられた。グリルは別として、サイドビューはアメリカ・フォードとイメージがそっくりだ。
(写真10-3ab) 1955 Ford Consul 4dr Saloon (2007-06 英国国立自動車博物館/ビューリー)
当時日本には輸入されなかったが、本国ではこんな洒落た2ドアコンバーチブルも造られていた。大型車「パイロット」に代わってデビューしたのが、この「コンサル」(4気筒1508cc)と、「ゼファー」(6気筒2262cc)だったが「パイロット」(V8 3622cc)の半分以下で代役が務まったのだろうか。「コンサル」はどう見ても小型ないしは中型車にしかみえないが。
(写真11-1a) 1956-62 Ford ConsulⅡ(204E) 4dr Saloon (1960-02 アメリカ大使館付近/港区)
1956年2月モデルチェンジが行われ「コンサルMkⅡ」となる。エンジンはボア、ストローク共に拡大され1703ccとなった。場所はアメリカ大使館の正面で、この辺りをうろついても、写真を構えても何のお咎めも無い良き時代だったが、最近行ってみたら、右側の塀の一番奥の角に警察官の監視所が出来ていた。
(写真11-2ab) 1956-62 Ford ConsulⅡ(204E) 4dr Saloon (1959-04 銀座6丁目付近)
この写真を撮影したのは昭和34年(1959)4月10日だった。この日が何の日かというと、皇太子殿下と美智子さまの御成婚の当日だった。場所は銀座6丁目だが背景に日の丸の旗が掲揚されており、よく見ると先端に「奉祝」の短冊が結ばれているのが見える。電信柱に貼られたポスターには当時繁華街で年中街頭演説していた右翼の闘士の名前も有り懐かしい。
(写真11-3ab)1956-62 Ford ConsulⅡ(204E)5dr Estate Car(1959年 羽田空港駐車場)
羽田空港で捉えたこの車は「コンサルⅡ」のエステート版だが、普通のバン仕様と違ってアメリカのステーションワゴンと同じように、基本の乗用車の形をそのまま残して、それに荷物室を背負わせたようで面白い。
・「コンサルⅡ」は1962年「ゼファー」がMkⅢにモデルチェンジした際に、6気筒の「ゼファー6」に加えて、4気筒1703ccのエンジンを載せた「ゼファー4」を誕生させ、「コンサル」のマーケットを引き継いだことで消滅した。
(写真12-1ab)1961-62 Ford Consul Classic(E109) 4dr Saloon
(1962-04 新橋附近/港区)
(写真12-2abc)1962 Ford Consul 315 4dr Saloon (1962-05 外車展示会/二子玉川園)
1961年6月、1 ℓの「アングリア」と1.7 ℓ の「コンサル」の間を埋める1.3 ℓクラスとして1340ccの「コンサル・クラシック」を誕生させた。アングリアと同じクリフカットのリアウインドを持ち、洒落たフロント・デザイン、60年の米フォードに似たテールフィンなど、好ましいスタイルだと思うのだが販売面では意外と実績が上がらなかった。あまりにもアメリカナイズされたデザインは、どちらかといえば保守的なイギリス人気質には抵抗があったのだろうか。輸出用は「コンサル315」と呼ばれた。
(写真13-1ab) 1961-62 Ford Consul Capri (109E) 2dr Coupe (1965-11 第7回東京オートショー会場/晴海)
(写真13-2abc) 1961-62 Ford Consul Capri (109E) 2dr Coupe (1961-09 ニューエンパイアモータース/虎の門)
同じ時期の1961年に誕生した「クラシック」の2ドアクーペ バージョンが「コンサル・カプリ」だ。下半身は「クラシック」のままで、ウエストラインから上がスリムなクーペスタイルに変化しているが、ボンネット、キャビン、トランクが1:1:1というこのプロポーションは理想的なスポーツカーと同じだ。トランクが無駄に思えるほど長く見える後姿も僕は大好きだ。「カプリ」は「クラシック」と共に1962年7月からは1498ccと排気量を増やしたが、両車共1964年までに姿を消した。なぜか短命なシリーズだった。
<コンサル・コルセア>
(写真16-1abc) 1963-65 Ford Corsair (120E) 4dr Saloon (1965-11 第7回東京オートショー駐車場/晴海)
(写真16-2ab) 1963-65 Ford Corsair GT (120GT) 4dr Saloon (1966-06 原宿・表参道/渋谷区)
「コンサル・クラシック」の後を継いで1963年登場したのが「コルセア」で、「コルチナ・スーパー」と同じ1498ccの57.5hpのおとなしいエンジンを積んだファミリーカーだ。大きな特徴はそのボディスタイルで、「サンダーバード」や独フォードの「17M」で採用された"レヴァカー"と呼ばれるボディサイドの先端が尖った形をしている。
(写真16-3a) 1968 Ford Consul Corsair V4 GT 2dr Saloon (1967-11 第9回東京オートショー/晴海)
(写真16-4a)1968 Ford Consul Corsair V4 2000E 4dr Saloon (1967-11 第9回東京オートショー/晴海)
(写真16-4ab)1970 Ford Corsair Deluxe 4dr Saloon (1969-11 第11回東京オートショー/晴海)
1965年10月、「コルセア」のエンジンは全く新しいものと変わった。それは独フォードが開発した「V型4気筒」で標準モデル用は1663cc 72hpだったが GT用は1996cc 88hpg用意された。1966年11月からはより豪華な内外装を備えた「コルセア2000/2000E」が出現したが性能は「GT」と変わらない。コルセア」シリーズは1970年で終了した。
<ゼファー>
(写真17-1ab) 1951-56 Ford ZephyrⅠ(E0TTA) 4dr Saloon (1959年 新橋附近)
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「ゼファー」という名前は戦前「リンカーン」の廉価版シリーズに使われていたが、それとは関係ない。この車は6気筒2262cc で、1951年3月で製造を中止した「パイロット」(V8 3622cc)に代わる英フォードの中では一番大きな車だったから、必然的に後継車となったわけだが、この格差は「パイロット」の顧客層にどう捉えられたのだろう。販売政策上は大型車の顧客から中型車層にシフトしたようで、以後3リッターを超える車は造られなかった。もっとも戦前も「V8-78」のエコノミー版「V8-62」2227ccが大型車の仲間だったから2リッター以上は大型車の扱いで良いのかもしれない。
(写真17-2ab) 1951-56 Ford ZephyrⅠ(E0TTA) 4dr Saloon (1958年 静岡市内)
静岡は一地方都市だが自動車に関しては結構いろいろ珍しいものが見られた。写真の車も僕がまだ静岡に住んで居た時に見つけたものだが、第一印象は「一寸風格のある車だな」と感じたものだ。それは渋いメタリック・グリーンの塗装の所為ばかりではない。
(写真18-1ab) 1956-62 Ford DephyrⅡ(206E) 4dr Saloon (1962-08 ニューエンパイアモータース/虎の門)
1956年2月モデルチェンジを受け「ゼファーMkⅡ」となった。エンジンは6気筒2553ccまで拡大された。場所は虎の門のニューエンパイヤ・モータースの前で、ここでは米国車だけでなく英国車も扱っていた。土曜日の午後自転車でしばしば訪れた場所だ。
(写真18-2abc)1956-62 Ford ZephyrⅡ(206E) 2dr Picu-up (2002-12 ワクイ・ミュージアム/加須市)
これは珍しい「ゼファーⅡ」のピックアップ・トラックで、加須市にあるワクイ・ミュージアムの見学会の時見つけたものだ。
<ゾディアック>
(写真19-1abc)1958-62 ZodiacⅡ(後期型) 4dr Saloon (1958年 静岡市内)
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「ゾディアック」シリーズは1953年10月誕生した。その役割は1950年10月デビューし「大型」部門を担当している「ゼファー」のでデラックス版として登場したもので、内外装を豪華にし、エンジンも圧縮比を上げて少々強化してある。写真の車は静岡市内でタクシーとして登録されていたものだが、あまり広くない静岡市内では必要があるときは電話で呼ぶハイヤーに近い使われ方をしていた。それにしても最上クラスとは結構贅沢な配車だ。
(写真19-2ab)1958-62 Ford ZodiacⅡ Convertible (1961-03 一之橋付近/港区)
こちらは前の車と同じ年式だが洒落たカブリオレだ。写真の撮り方なのか、白いボディのせいなのか、2ドアだからか、何だか判らないが同じ車種とは思えない程恰好いい。
(写真19-3ab) 1962 Zodiac MkⅢ 4dr Saloon (1962-08 ニューエンパイアモータース/虎の門)
1962年4月2度目のモデルチェンジを受けて「ゾディアックMkⅢ」となった。エンジンの排気量は2553ccで変わらないが、出力は旧型の90hpに対して105hpと大幅にアップしている。僕個人としてはこのデザインはあまり好みではない。 ,
(写真19-4a) 1967 Ford Zodiac Ⅳ 4dr Saloon (1966-11 第8回東京オートショー/晴海)
1966年再びモデルチェンジが行われ「ゾディアックMkⅣ」となった。エンジンはV6で排気量も2994cc 128hpまで大きくなり、サスペンションも改善され車のグレードはずっと高まったが、残念な事にデザインに個性が無く魅力に乏しい。
<カプリ>
(写真20-1ab)1971 Ford Capri 1600L 2dr Coupe (2007-06 英国国立自動車博物館/ビューリー)
(写真20-2abc) 1970 Ford Capri 1600 GT 2dr Coupe (1969-11 第11回東京オートショー/晴海)
(写真20-3abc)1969 Ford Capri GT 2dr Coupe (2008-01 シュパイヤー科学技術館/ドイツ)
毎回この博物館の案内板の不確かにぼやいているが、この車も排気量が1700cc/75psと表示されていた。1969年当時は1298cc/64hp,1599cc/82hp,1996cc/92.5hp の3種で、翌年2994ccが追加されたが1700ccに該当するものは無かった。
(写真20-4ab)1969-74 Ford Capri 2000 GT 2dr Coupe (1972-11 丸紅モータース/世田谷区)
(写真20-5ab) 1970 Ford Capri 2000 GT 2dr Coupe (1969-11 第11回東京オートショー/晴海)
(写真20-6a) 1969-74 Ford Capri 3000 GT 2dr Coupe (1977-01 外車ショー・中古車館/晴海)
(写真20-7ab)1982 Ford CapriⅢTurbo 3dr Sports-hatchback (2008-01 シュパイヤー科学技術館/ドイツ)
(写真20-8abc)1984-Ford CapriⅢ Super Injection 3dr Sports-hatchback (2008-01 シュパイヤー科学技術館/ドイツ)
1967年6月フォードはヨーロッパのフォード系子会社統括する「ヨーロッパ・フォード」をロンドンに設立した。これによって英独両国の関係が強化され、新製品の共同開発や生産車種の統合化など提携関係が具体化していった。その結果生まれた第1弾はドイツフォードがイギリスで開発した「エスコート」を生産・販売することだった。そして第2弾が1969年1月英独両国で同時発売された「カプリ」だった。系列的には1964年製造中止となっていた「コンサル・カプリ・クーペ」から引き継いだシリーズである。イギリス製「カプリ」のエンジンは直列4気筒OHV で「1300」には1298cc 52ph,「1300GT」には1298cc 64hp,「1600」には1599cc 64hp,「1600GT」には1599cc 82hpが搭載されたが、最上級の「カプリ2000GT」にはコルセアGT用のV4 1996cc 92.5hpが用意された。1970年には更に強力な「カプリ3000GT」の為にゾディアックから流用したV6 2994cc 128hpが載せられて最高時速は183km/hまで達した。
・カプリ誕生の意味は「コンサル系」の後継だけでなく、アメリカで大ヒットした「マスタング」のヨーロッパ版を狙った所にあり、ロングノーズ、ショートデッキでセミファストバックのプロポーションは「マスタング」を大きく意識したもので、アグレッシブな印象が売りだ。1986年までロングセラーを続けたが、その癖のあるスタイルは最後まで変わらず、どこから見ても「カプリ」だとすぐみ識別できた。最近個性のない車が多い中では特筆に値する。
(写真21-1a) 1974 Ford Capri Ghia 2.3 2dr Coupe (2008-01 シュパイヤー科学技術館/ドイツ)
「カロセリア・ギア」によるスペシャル・バージョンのようだが、4灯のヘッドライトが大型変形ライトに変えられたり、グリルのデザインに手を加えたりする程度で、本体に根本的な改造は見られない。
― 次回は本家アメリカ「フォード」の予定です ―