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第5回 メグロ OHVツイン、650T & 500K 系譜
2017.9.27

 カワサキW1のような空冷直列OHV2気筒のはじまりは、世界的な二輪車の歴史からみると、1936年の英車、トライアンフ6/1、650ccの登場といえよう。設計はバレンタイン(バル)・ペイジで、彼はVツインで著名なJAPでエンジン設計を身につけ、アリエル社に移りOHV単気筒の名車レッドハンターを生み出した。その後にトライアンフに招聘され、1934年から2年をかけて空冷直列OHV2気筒6/1、650cc をサイドカー用に設計した。
 1938年には新体制になったトライアンフに新型の空冷直列OHV2気筒スピードツイン500ccが登場した。この頃の二輪車に対する考えは2気筒=サイドカー用、単気筒=スポーツ用であった。しかしトライアンフの設計に就いたエドワード・ターナーは「2気筒ながら単気筒なみ」のスピードツインを考え、車体も単気筒用を用いてコンパクトで速いマシンに仕上げた。
 これが大ヒットとなり各社が追従する。バル・ペイジは1938年にBSAで空冷直列OHV単気筒のゴールドスター、2気筒500ccの設計に入ったが、第二次大戦に突入して2気筒A7の製品化が1946年になってしまう。その構造はトライアンフ6/1同様でシリンダー後部に1本カムを持たせ、プッシュロッドを介してシリンダーヘッド部のロッカーアームを動かすものであった。
 こうしてBSAの2気筒が誕生したが、姉妹車として1948年にはアリエルのKH=2気筒のレッドハンターツインを生み出す。こうした時代背景があり、メグロが500ccのZ型の上級車として誕生させたのが650cc T型セニアであった。

1)650_T1.jpg

 これは1955年7月から市販に入ったメグロセニア号650ccT型。市販に先駆け試作型を公開した時点ではスイングアーム式フレーム後半部のパイプの曲げ方が直線的であった。二輪車業界初の「電気溶接」式フレームを採用、サイドカー用のラグ類がダウンチューブ部分にみえる。段付きダブルシートなどは欧州車の影響が大きく、ヘッドライト左右にはポジションランプを持たせるなど、業界の最高級車にふさわしかった。

2)650T1engineB.jpg


 スイングアーム式フレームは英車では1954年型からの採用であるから、メグロとして最新の流行を追ったモデルでもあった。フレームのダウンチューブの間隙は細身であり、ノートンフェザーベッド的ともいえる。これは左右のエキゾーストパイプの配置とも関連してくる。英車では単気筒、2気筒ともに共通フレームを用いるが、メグロでは「車格」を与えるため、Z型とは別設計にしていた。

3)650T1engine.jpg

 T(おそらくTWINの意味)型エンジンのロッカーアーム部分の造作は「トライアンフそのもののスクリューキャップ式」だが、その他の構成はまさにBSAに近いものであった。このカットエンジンはカタログ内のものだが、肝心のカム駆動部分が見えないようにして、秘宝のエンジンであることを演出していた。
 72×82mm、651cc、29.5ps/5200rpm、130km/hの性能は当時の陸王750の110km/hよりも抜きん出て速かった。生産台数は受注、高額のため397台とされる。

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 1957年4月の第4回全日本自動車ショウ、日比谷公園の玉砂利会場で公開されたのがリファインモデルの650ccT2型で、前年公開の500ccスタミナZ7型同様にヘッドライトがツバ付きの近代的なものに変わった。Z7型同様に警察庁の白バイに登用され、生産台数388台中124台が警察庁用のT2P型だった。だが1958年から250cc2気筒ブームが到来、T2同様の130km/h車が続々と出現して警察庁はメグロに「より速いモデル」を要求することになる。


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 目黒製作所の本カタログは全車、当時としては大判のA3の2ツ折で豪華な部類。セニアT2型のカタログ背景には上高地の河童橋からの槍ヶ岳などの風景があり、いかにも山好きが企画した感がある。ユーザー向けの「メグロニュース」も森林のユーザー達を紹介することが多かった。なお、この光景は木々なども含めて今日も全く変わらずだが、メグロのT型の現存数は2ケタに満たないようである。

6)606_2AKsohc.jpg


 「W1FILE」ファンに知られた「注釈#25」にあるメグロの試作エンジンAK型OHC2気筒2キャブ仕様エンジン。レンジャー170ccDA型のフレームに積まれた試験走行車が造られたがオクラ入りになった。設計者の林政康(故人)によると「次期500ccはこれの2倍にしたエンジンに......私なら......していたですヨ!」と語っていた。

7)sBSA_A7.jpg

 だが実際のメグロ500ccはデビュー間もなく二輪雑誌読者達から「BSAシューティングスターのコピーじゃないか!」との投書が各二輪雑誌社に届いた。これがそのモデルであるが、コピーでもあり......コピーでもなかった部分が混在するモデルであった。

8)ss:picture_K1oz.jpg

 メグロスタミナKの最初のカタログは、このような大きな正方形の1枚表裏式で、左側には銀インクが使われた豪華なものだった。モデルに人気俳優だった佐藤英雄をずっと起用していた。撮影試作モデルには銀色モデルも製作された。目黒製作所が警察庁向けに設計製作したモデルであるが、その設計スタートは目黒の設計陣ではなかったようである。価格は29万5000円だったがサラリーマンの月収が1万円台の時代であった。

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 これは1963年12月にカワサキメグロ製作所の設計者、林政康がカワサキ図面仕様に引き直したエンジン全体図。メグロKH型エンジンが目黒製作所時代の形式であるが、生産は歴代のエンジン生産を担当した下請け、昭和機械製作所だった。そして開発も同社がはじめたものの、まとめることができずに林に仕上げ役がまわってきたという。「会社全体として、58年型で売れなかったOHCではなくOHVで製品造りが進んでいた時代です。生産試作型が既に昭和側で出来ていまして......どうしようもなく持ってこられて......仕方なく私が製品として動くようにしたんです。最初から私に設計依頼が来ていれば、次代遅れのOHVなどにしませんヨ」と語ってくれた。

10)s500K1_perform_curbe.jpg

 KH型エンジンの性能曲線図。エンジン出力33ps/6200rpm、後輪出力26psになり平坦値最高速度が151km/hであることがわかる。4速ミッションはロータリー式で目黒製作所が日本の信号の多い街の走行に便利なように考案したもので、実用車にかかせないものとなっている。

11)ssK1S.jpg


 これは1960年の第7回全日本自動車ショウにK1型と共に公開されたKHSスタミナスポーツ。これはメグロKの最初のカタログの裏面の右半分のもの。性能はツインキャブで35~39ps/6500~7000rpm、180km/hが公表値。ハンドルはCB92プロトタイプなどと同じクラブマンバー(スワロー型ダウンハンドル)を装備。

12)SSside_K1Soz.jpg

 KHSスタミナスポーツは、ホスクの日本高速機関/昌和製作所の受注車DBスポーツ車を参考に由良令吉にデザインさせたスポーツモデルで、前後19インチタイヤが特徴。だがショウ後に会社が労働争議、工場移転問題などで二輪生産どころでなくなってしまった。受注価格は31万円と安価に設定されていた。

13)1962K1.jpg

 横浜工場時代の目黒製作所の初期1962年のカタログに使われたK1の写真。初期プロトと比較するとホイールベースが伸びている(?)ようで大柄な印象であるが数値的には変わってなく写真のマジックといえよう。

14)1962K1.jpg


 目黒製作所時代初期のカタログの表紙、中味、裏表紙をピックアップして構成したもの。カワサキとの取り決めで生産車はレンジャー170cc、ジュニア250cc、スタミナ500ccのみだったが、最終の1963年型カタログのカワサキメグロ製作所車は他にキャデット125cc、アーガス285cc、オートトラック250ccなどと増やされていたが、1964年2月にカワサキに吸収、メグロが消滅することになり、メグロの250と500がカワサキの明石工場でカワサキ車として生産されてゆくのであった(続く)。

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執筆者プロフィール

1947年(昭和22年)東京生まれ。1965年より工業デザイン、設計業務と共に自動車専門誌編集者を経て今日に至る。現在、自動車、サイドカー、二輪車部品用品を設計する「OZハウス」代表も務める。1970年には毎日工業デザイン賞受賞。フリーランスとなってからは、二輪、四輪各誌へ執筆。二輪・三輪・四輪の技術および歴史などが得意分野で、複数の雑誌創刊にもかかわる。著書に『単車』『単車ホンダ』『単車カワサキ』(池田書店)、『気になるバイク』『チューニング&カスタムバイク』(ナツメ社)『国産二輪車物語』『日本の軽自動車』『国産三輪自動車の記録』『日本のトラック・バス』『スズキストーリー』『カワサキモーターサイクルズストーリー』』『カワサキ マッハ』『国産オートバイの光芒』『二輪車1908-1960』(三樹書房)など多数。最新刊に『カタログでたどる 日本の小型商用車』(三樹書房)がある。

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