1911 Franklin Model G
(01)<フランクリン>(米)1901-34
・僕が「フランクリン」と言う車の名前を意識したのは、1962年から「カーグラフィック」を発行した「二玄社」が、その直前に出版した「クラシックカー・アメリカ」の記事で「空冷」に徹したメーカーと言う事が強く頭に残っていた。今回読み返してみたら、その中に「現在でも早稲田に1台ある」と記されていたが、実はこの車は後で登場する「トヨタ博物館」の車の事だった。
・「フランクリン」の創立者は1866年ニューヨーク州の片田舎」に生まれた「ハーバートH.フランクリン」で、1892年鋳型による金属成形の特許を買い取り、「H.H.フランクリン製造会社」を設立して金属部品の製造を始めた。彼が自動車製造に手を染める切っ掛けとなったのは、1901年「ジョン・ウイルキンソン」が造った空冷単気筒のガソリン自動車を試乗した事で、一般的にはまだ普及以前だった「自動車」と言う乗り物に魅力を感じ、「ウイルキンソン」に新しい自動車の設計・製造を依頼し資金を提供した。結果的にはこの車が第1号車となって「フランクリン」の歴史が始まった。1901年11月には「H.H.フランクリン製造会社」から分離独立して「フランクリン自動車会社」が設立され、主任設計者として「ジョン・ウイルキンソン」が就任した。1903年から4気筒空冷エンジン付きの市販が始まり、1904年からは様々なボディバリエーションを揃えた。当時この種の自動車は単気筒が普通だったが「フランクリン」は4気筒で、高性能のOHV エンジンを始め、品質の高さ、乗り心地の良さ、空冷による始動性の良さ(暖気運転が不要),などがセールス・ポイントで、価格は高級車程ではないが、かなり高価だった。
(モデルの変遷)
1902-06 クロス・エンジン
1905-10 樽型ボンネット
1911-16 ルノー型ボンネット
1916-21 スロープ・ノーズ型ボンネット(シリーズ9)
1922-25 ホース・カラー型ボンネット(シリーズ10)
1925-29 ドコーズスタイル
(写真01-1)1905 Franklin Model E Gentleman's Roadster (1971-03 ハーラーズ・コレクション)
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写真の車は「フランクリン」としては最初のタイプで、「モデルE」は年度順で5番目を表すものではない。仲間の「モデルA~F」はいずれも同一年式でそれぞれボディのタイプにより命名されたもので、「モデルE」は「2人乗りジェントルマンズ・ロードスター」に付けられたモデル名だ。1902~06年の最初のモデルは「クロス・エンジン・タイプ」と呼ばれるが、4気筒1766ccエンジンはフランクリン独自の「空冷式」のため、各気筒に均等に冷却風があたるように、エンジンが進行方向に対して「クロス」する横置きに設置されている所から付いた名前だ。空気取入れ口はいかにも効率がよさそうだ。
(写真01-2)1912 Franklin Model G series1 Runaboat (1971-03 ハーラーズ・コレクション)
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(参考・よく似た車)1912 Renaulu Doppel Phaeton
写真の車は「フランクリン」としては第3世代にあたる。大型化した第2世代からはエンジンが縦置きとなり、エンジンの前部に冷却ファンが設置され、その冷却ファンに合わせた丸い開口部をもつ「樽型ボンネット」の時代があった。(残念ながらこのタイプの写真は撮っていない)それは運転席の前にドラム缶を積んでいるようで、お世辞にも格好いいとは言えない代物だった。そこで登場したのが「ルノー型」と言われる、なだらかなスロープのボンネットを持ったこの車だ。(どのくらい似ているかは、参考に添付した写真で見較べていただきたい。)最大の相違点は「ルノー」は水冷で、ラジエターはエンジンの後方(スカットルの前)に左右に分割して設置されているため、ノーズの先端は空気を取り入れる必要が無いから空気を滑らかに流すメリットがある。一方、「フランクリン」の外形はそっくりだが、正面から取り入れた空気で直接エンジンを冷却するため、網目を透してストレートにボンネット内を通過する。この車のエンジンは空冷4気筒OHV 2365cc 18hpで、冷却方法は、独立した各気筒毎に縦のフィンが切られ、ボンネットを閉めると密閉された空間となるこの部分は上下に2分割される。下半分の後部から強制的に空気を吸い出すことで、前方から入った新鮮な空気が上半分から下に吸い込まれて平均的に、効率よく冷却するという方法がとられている。(直列の空冷の場合は先頭以外の気筒は風が当たらないから冷却効率が下がる)
(写真01-3abc) 1912 Franklin Model M (1995-08 ラグナ・セカ/カリフォルニア)
真夏のカリフォルニアで捉えた「フランクリン」だ。この車は、前項と同じ1912年式だが、6気筒5049cc と大型で、このタイプのカタログモデルは無いのでロードスターからいろいろ取り外したレース仕様と思われる。シャシーは部分的に鉄板で補強した木製のシンプルなものでボディが無いのでよく見える。1910年代の典型的なレース仕様だ。
(写真01-4)1918 Franklinn Series 9 4p-Roadster(2012-04・2015-11/トヨタ博物館・神宮外苑)
(レストア前)
(レストア後)
この車は現在トヨタ自動車博物館に収蔵されている車で、1961年発行された「クラシックカー・アメリカ」の中に記載されていた「早稲田にある車」そのものだ。戦前旧陸軍の自動車部隊が研究材料として購入し、戦後早稲田大学理工学部に寄贈された。1983年からは神田の交通博物館に貸与・展示されていたが、同館が2006年5月閉館した後はそのまゝ倉庫に眠っていた。1年後の2007年5月早稲田大学から寄贈を受けトヨタ博物館が引き取った。僕が初めてトヨタ博物館の収蔵庫で見たのは2012年4月だったが、この時は引き取った時のまゝのほこりをかぶった荒れ果てた姿で、年式も1917年式と表示されていた。次に見たのは2015年11月神宮絵画館前で開かれた「トヨタ・クラシックカー・フェスティバル」で、見事にレストアされたピカピカの姿で年式は1918年となっていた。この車は「シャシー・ナンバープレート」が欠損しており、1917年型として引き継がれて来たようだが、レストアの際、フェンダーの材質が17年型のアルミではなく、18年型の鉄製であることが判明した。その他「ウインドシールド」が17年型は垂直なのに、この車はやや後継する18年型の特徴と合致する、などから「1918年型」と変更された。エンジンは空冷 直列6気筒 OHV 3300cc。このルノー型のボンネットは1920年まで続き、1921年から24年まではブガッティに似た馬蹄形、25年以降は普通の水冷のラジエターと同じようなものとなった。
(02)<フレーザー>(米)1947-51
「フレーザー」と言う車は、第2次大戦後誕生した「カイザー・フレーザー社」と言う新顔のメーカーの製品で、モデル・イヤーでは1947年から51年の5年間、しかも後半はごく少数しか売れなかったから、一般には知名度の低い車だ。この会社は1945年7月(という事は戦争が終る1か月前)造船王として知られる「ヘンリーJ.カイザー」(1882-1967)と、元「ウィリス・オーバーランド社」の社長だった「ジョセフW.フレーザー」(1892-1971)の2人によって設立された。「カイザー」は戦時中からカリフォルニアに自動車研究所をつくり超廉価版の小型車の可能性を探っていた。そこへ、自動車業界を良く知る「フレーザー」が現れ、新しい自動車メーカーの計画を知って意気統合し、8日後には新会社が誕生していた。設計に関してはフレーザーのスタッフ「ハワード・ダーリン」と「ビル・スタウト」が当たり、廉価版の前輪駆動車を「カイザー」とし、高価な後輪駆動車を「フレーザー」と名付けて1946年1月ニューヨークのアストリア・ホテルでお被露目した。しかし、実際に販売される段になると、前輪駆動は無くなり、「カイザー」も「フレーザー」も同じ形で、グリルのデザインが多少違うだけとなった。1947年型の価格は「カイザー」1,868ドル、「フレーザー」2,053ドルだった。1947,48年は、他社がフェンダーの突起している戦前の.ボディに横長になったグリルを付けただけの旧態然としたスタイルだったのに対して、「カイザー/フレーザー」の「フラッシュ・サイド」と呼ばれるボディ側面が平らなスタイルは見た目も現代的に映り、売れ行きも好調だった。しかし1949年になると各社が戦後型の新型車に変わり「カイザー/フレーザー」の売り上げは一気に減少してしまった。「フレーザー」は1951年を持って製造中止となり、「カイザー」のみが生き残ってあと少し頑張ることになる。
(写真02-1) 1948 Frezar Standard 4dr Sedan (1957年 静岡市内)
シリーズは「スタンダード」と「マンハッタン」の2種だけでボデータイプも4ドアセダンのみと言う極めてシンプルなラインナップでスタートした。47年と48年は殆ど違いが判らないが、バンパー・ガードが4つあるので48年とした。「マンハッタン」はドア下のクロームラインが太いので写真の車は「スタンダード」である。
(03)<フレーザー・ナッシュ>(英)1925-37/46-56
「フレーザー」も「ナッシュ」も自動車の名前だから、「フレーザー・ナッシュ」は2つのメーカーが合体した名前の様に思ってしまうが、実は、この車を造った男の本名が「アーチー・フレーザー・ナッシュ」だったのだ。1924年「フレーザー・ナッシュ」の製造を始める前はサイクルカー「G.N.」の片割れの「N」として関わって居た。1930年代後半には「BMW」を輸入し「フレーザー・ナッシュ・BMW」として販売していた。戦後の「フレーザー・ナッシュ」は数多くのモデルを生み出したが、組織の規模は小さく、殆ど手造りで各モデルも10台前後と思われる。それぞれのモデルはエンジンのチューンとボディが異なるだけで、シャシーは太い鋼管のラダーフレームに横置きリーフのIFSで基本的には共通であった。
(写真03-0)1920 GN KimⅡ (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
サイクルカーは「自動車もどき」と言われるように、4輪のモーターサイクルに近いものが多かったが、写真の車はかなり完成度が高い。この車も「フレーザー・ナッシュ」のご先祖様の一つで、この他にも何種類も作られていた。
(写真03-1 )1929 Frazer Nash Super Sports (2004-06 プレスコット/イギリス)
下が少し狭まる角ばったグリルは戦前の「フレーザー・ナッシュ」の特徴で、1925年から戦前最後の37年まで殆ど同じに見える。この車のタイヤは少々極端だが、ほかのタイプでも全体にかなり太めだった。
(写真03-2)1932 Frazer Nash Colmore (2007-06 イギリス国立自動車博物館/ビューリー)
この車は「モンターギュ伯爵」のコレクションだった「イギリス国立自動車博物館」が所蔵している車で、ここの英国車に対する時代考証について僕は全幅に信頼しているが、この車もタイヤはかなり太い。(エンジンは水冷 直4 OHV 1496cc 11.9hp)
・国際アルパイン・ラリーは最も過酷なトライアルとして知られるが、1932年この車の姉妹車が最高の賞を受けた、と記されていた。
(写真03-3) 1932 Frazer Nash Nurburg (1997-05 ミッレミリア/ブレシア)
この車はミッレ・ミリアで見つけた車だが正面は前項の車と全く同じで、ウインド・スクリーンがレース仕様で小さくなり、テイルが丸いお尻となっている。このように細かい変化で色々なモデルが造られていた事が判る。
(写真03-4) 1948-52 Frazer Nash LeMans ReplicaⅡ (1985-09 大阪万博公園)
ここからは戦後型となる。細い胴体にサイクル・フェンダーは「ロータス・シックス/セブン」の初期のものと同じ印象だがこちらの方が少し腰高だ。
(写真03-5)1952 Frazer Nash LeMans Replica (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード)
写真の車は「ルマン・レプリカ」なので、ル・マンでどの程度活躍したのか確認しようとしたが、入賞どころかレースに参加した事も確認できなかった。「ル・マンの英国車」(企画室ネコ)には戦後1949年から参加したすべての英国車が車番毎に網羅されているが該当なく、念のため戦前まで遡っても発見されなかった。モデル名としての「ル・マン」は問題ないが、もしオリジナルがないとすれば「レプリカ」と付けるのは誤解を招くもとだ。
(写真03-6)1954 Frazer Nash LeMans (1997-05 ミッレ・ミリア/ブレシア)
(写真03-7a) 1954 Frazer Nash LeMans (1997-05 ミッレ・ミリア/ブレシア)
これら車は「ル・マン」だけで「レプリカ」は付いて居ない。僕が確認出来なかっただけで実際にレースを走っていたのだろうか。
(写真03-8abc)1952 Frazei Nash Mille Miglia (1997-05 ミッレ・ミリア/フータ峠・ブレシア)
「ミッレ・ミリア」モデルは果たして「ミッレ・ミリア」レースを走っていただろうか。僕の手元には1927年から1957年まで「ミッレ・ミリア」に参加した車と、その結果の総リストがある。1949年には「2000ミッレ・ミリア」が参加したがリタイア、続いて50~52年の3年間は何故か「ルマン・レプリカ」が参加、6位.9位、リタイアの結果を残してる。
(写真03-9) 1953 Frazer Nash Targa Florio (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード)
「タルガ・フローリオ」レースはイタリア、シチリア島の大富豪「フローリオ家」の楯を争う「ル・マン」「ミッレ・ミリア」と並ぶ世界3大レースの一つだ。シチリア島の曲がりくねった峠道を1周する過酷なレースだが、「フレーザー・ナッシュ」は1951年見事優勝している。この車が「タルガ・フローリオ」モデルだと言われても、前項の「ミッレ・ミリア」モデルと見分けはつかない。
(写真03-10)1956-57 Frazer Nash Continental GT Coupe (2000-07 グッドウッド/イギリス)
このモデルはそれまでの「スパルタン」な、性能重視から、一般受けするように居住性を向上させ、売れ行きも考えた「グランド・ツーリング」モデルだろう。それまではオープンモデルが殆どだったが、なだらかな傾斜のファストバック・クーペは造形としてもなかなかのものだ。
(写真03-11a~d)1953-56 Frazer Nash LeMans (2001-05 ミッレ・ミリア/サンマリノ)
「フレーザー・ナッシュ」としては一寸毛色の変わったスタイルのこの車は、資料が錯綜しモデル名が確定できない。1953年デビューした「ル・マン」クーペと同じ顔だが、こちらはオープンモデルである。「セブリング」としている資料も有るが、グリルはもっと横長だ。Wikipediaではこれと同じナンバーの車を1954「タルガ・フローリオ」としている。道端で撮影した車の型式・年式の特定はなかなかやっかいだ。場所はサンマリノのグランド・ホテルの正面だ。
(04)<フランス・フォード>(仏)1949-54
フォード本社は戦前から海外に拠点を設け進出を計って居た。日本には1925年(大正14)横浜市に「日本フォード」を設立したが、日本の場合は「組立工場」で、独自に設計したものは造って居ないので今回は対象外とした。欧州では1911年「イギリス」、1924年「ドイツ」に子会社が誕生し、戦後も独自のモデルを送り出してきた。ところで本稿の「フランス・フォード」だが、1949年から54年までは「ヴデット」と言う、独自のモデルを作っていたが、「フランス・フォード」の存在は殆ど無視されているようで、「Wikipedia」で検索した「フォード・モーター」の歴史にも登場しない。1930年代初めには「A型フォード」の組み立て工場が存在したが、日本と同じように独自のモデルを開発することなく幕を閉じた。1934年には「トラクフォード」と言う会社が誕生し、イギリス・フォードの「モデルY」をベースにした前輪駆動車を造ったが1年足らずで消滅した。同じ頃、「マティス」という、1898年創立の名門ながら当時経営不振陥っていたメーカーが、その設備を使って「マット・フォード」の製造を開始する。その車はV8エンジンを持つイギリス・フォードの「モデルV8」を左ハンドルに変えたもので、ストラスブールのマティスの工場は1935年には独立して「SAフランセ・マット・フォード」となった。この車は「扱い易さ」と「頑丈さ」が取り柄だったが、第2次大戦で乗用車の製造が中止されるまで順調に製造が続けられた。戦後の1947年「マッド・フォード」の生産を再開するにあたって、戦争で壊滅的な打撃を受けていたストラスブールの工場を捨て、パリ近郊に新たに工場を建設、社名も「「フォードSAF」と改め、戦前の「マット・フォード」から生産を開始した。1949年戦後型の「ヴデット」が登場したが、大メーカーによって既にがっちりと固められていた中型車市場に食い入る余地はなかった。年間2万台程度では大規模な生産施設が生かされず、1954年ついに15%の株を持つという条件で「シムカ」と合併せざるを得なかった。
(写真04-1) 1949-54 Ford Vedette (フランス版)
殆ど無視されている「フランス・フォード」だが、存在した証として、パリで開かれる「レトロモビル」で購入してきた資料がこれだ。レトロモビルではこのような「レア物」を掘り出すのも楽しみの一つだ。
(写真04-1) 1952 Ford Vedette (2002-02 フランス国立自動車博物館(シュルンプ・コレクション)
フランス・フォードとして最初のモデルがこの「ヴデット」だ。デビューした1949年から52年までは殆ど変化なく作られた。スイス国境に近いミュールーズにあるこの博物館は現在は「フランス国立自動車博物館」となったが、「旧シュルンプ・コレクション」と言った方が車好きにはお馴染みだ。
(写真04-2a) 1953 Ford Vedtte 4dr Saloon (1961年/六本木付近)
(写真04-2b) 1953 Ford Vedette 4dr Saloon (1959-12 /銀座)
(参考・よく似た車) 1949 Mercury 2dr Coupe
1953-54年はグリルの意匠を変えただけのマイナー・チェンジに留まった。本体のボディは最初から最後までプレスの型は変わらなかったようだが、そのベースは本国の「マーキュリー」から、そっくり受け継いだものだ。参考に比較されたい。「ヴデット」シリーズは、「シムカ」と合併した後もそのまま引き継がれ、1963年まで名前が残った。
(写真04-3ab) 1954 Ford Comete Monte Carlo (2004-08 (ペブルビーチ/カリフォルニア)
フランス・フォードには1951年からスポーツタイプ゚の「コメト」シリーズが誕生した。写真の車はスペシャルバージョンの「モンテカルロ」で、この車を造ったのは先月登場した「ファセル」社だった。
(05)<ドイツ・フォード>(独) 1924~
ドイツ・フォードが設立されたのは1924年で、最初はベルリンで「T型」の組み立てから始まった。1930年にはルールの工業地帯に近いライン河沿いの「ケルン(地名)」に新しい工場を建設し、1931年からは生産が始まったがこの段階ではまだ「A型」「B型」の組み立てだったようで、「ドイツ・フォード」としての資料に初めて登場するのは、独自のモデルを造り始めた1933-36の「ケルン(車名)」からとなっている。その後1935-39「アイフェル」、1939-41「タウヌス」と1 ℓ クラスの小型車を造り、ほかに1934-36「ラインランド」(3285cc)、1935-39「V8」(3620cc)、1939-41「V8」(2225cc)の大型車も造り戦前を終わる。戦前同じように欧州に進出した「GM」は「オペル」や「ボクスホール」を傘下に収めたが、そのまま社名もブランド名も残していたのに対し、「フォード」は自社のブランド名を前面に出した事で、アメリカから乗り込んできた「よそ者」と言う、あまりよくないイメージを持たれた面もある。
・敗戦国となったドイツの中でも、「ケルン」は第2次大戦中でも特筆される徹底した爆撃を受け破壊され尽くした。だから戦後は「復興」と言うよりはゼロから「再出発」という事になった。戦後は1948年から戦前のまゝの「タウヌス」の製造が始まり再スタートした。戦勝国アメリカ・フォードの息の掛かっているこの会社の復興が意外と遅かったのは、工場のあった「ケルン」が、アメリカではなく、イギリスの占領地区にあったため便宜が図りにくかったのかもしれない。イギリス・フォードは多くのモデルがあって複雑だが、ドイツ・フォードに関しては「タウヌス」一本で、そのあと排気量による数字でグレードを表すという非常に判り易いラインアップだ。
(写真05-1a~d) 1950 Ford Taunus Spezial Limousine (1970-04 CCCJコンクール・デレガンス/東京プリンスホテル)
この車の案内板には1946年製と記入されているが、戦後製造が再開されたのは1948年からであり、横バーのグリルは1950年から採用された。51年からはドアに三角窓が付くので、それが無いこの車は1950年型と判定した。
(写真05-2ab) 1951 Ford Taunus Deluxe 2dr Limousine (1961年 横浜市内)
一見「フォルクスワーゲン」のような印象を受けるが、よく見ると1940年頃のアメリカ・フォードの特徴もみえる。この車はヘッドライトのトリムが特殊でフォード風だが、ドイツで出版された資料には見られないものだ。
(写真05-3ab) 1952-55 Ford Taunus 12M Limousine (1958年 羽田空港駐車場)
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この車はナンバープレートに御注目頂きたい。あまり見慣れない「黒地」に「白文字」の「わ」ナンバーで、これは1957年10月レンタカー制度が認可された際決定されたものだ。(北海道は「れ」) レンタカーは今では旅先で簡単に利用したりする便利な制度だが、これが出来た昭和32年と言えば自家用車はまだ普及しておらず、免許証だけのペーパードライバー達がささやかな夢を叶えて彼女とドライブする時などに大いに利用された。しかしこのナンバーではレンタカーが見え見えで甚だ気分が良くない。又このナンバープレートは「葬式ナンバー」とも呼ばれ利用者からは不人気だったので、僅か2年で1959年10月には白地の橙黄色と変更された。ボンネットの先端には1949年以来フォードの象徴となっている「丸い突起物」がしっかり付けられている。
(写真05-4) 1955-57 Ford Taunus 15M 2dr Limousine (1959年 羽田空港駐車場)
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戦後モデルは1952年の「12M」から始まったが、1955年になると、上級モデル「15M」が誕生した。ボンネットの先端に「丸い突起物」を持つ戦後の第1世代は、細かい変化を受けながら1959年まで続いた。全体の印象は1949年以来の米フォードの影響が強く感じられる。
(写真05-5) 1957-59 Ford Taunus 17M Deluxe 2dr Limousine (1965年 虎の門)
(参考・よく似た車) 1956 Ford Fairlane Sunliner
1957年には「17M」シリーズが新しく加わった。「15M」がグレードアップしたものではなく「12M」「15M」「17M」の3本建てとなった。ここからはボディは戦後第2世代となり、米フォードの1956年型と共通するイメージを持つ。特徴あるサイドモールは「フェアレーン・ライン」と名付けられたフォード独特の物だ。(このグリル・パターンはデラックス・シリーズのもの)
(写真05-6) ford Taunus 17M Standard Combi(1960年 アメリカ大使館付近/虎の門)
前項「デラックス」とは全く違ったグリルを持つこの車は17Mの「スタンダード・モデル」だが、同じシリーズでこんなに違っている例が他にあっただろうか。
(写真05-7) 1960-64 Ford Taunus 17M 4dr Limousine (1962年 一の橋付近)
自動車が誕生し石油ランプから電灯式になった1906~7年頃から「ヘッドライト」は丸いものだった。という事は1934年生まれの僕にとっては初めて見た時から自動車のヘッドライトは「丸いもの」と決まっていた。人間「当たり前」と思って居たものが「当たり前でない」ものに出会った時の違和感は、まさに「未知との遭遇」ということで、この車に初めて出会った時の印象は「宇宙人に見つめられている!」と思ったものだ。今では変形ガラスが当たり前で丸いヘッドライトとの方が珍しく、どんな形でも気にならないから、慣れとは恐ろしいものだ。
(写真05-8) 1960-64 Ford Taunus 17M 2dr Limousine (1965年 アメリカ大使館付近/虎の門)
同じモデルの2ドア版もあった。
(写真05-9)1960-64 Ford Taunus 17M Super 4dr Limousine (1961年 アメリカ大使館付近)
同じモデルの四ツ目バージョン。この車は「青ナンバー」なので、多分アメリカ大使館に用事で来たどこかの大使館の車だろう。
(写真05-10ab) 1960-64 Ford Taunus 17M Super 4dr Limousine (1961年 羽田空港駐車場)
この車は何故か後姿の写真はこれ1枚しかなかった。トランクの右下にグレードを示す「Super」の表示が見られる。
(写真05-11ab) 1960-64 Ford Taunus 17M 2r Combi (1961年 横浜市内)
「コンビ」と言う種類は「ステーション・ワゴン」よりも「ライトバン」に近い。この車は乗用車の後部を延長して荷物室を継ぎ足した、と言う雰囲気はなく、最初からライトバンとしてデザインされたものだ。
(写真05-12) 1963 Ford Taunus 12M 1.5Litre 2dr Limousine (1964-11 豊島園前/練馬区)
「12M」の第3世代として登場したのが写真の車で、今回はアメリカ・フォードからのデザインの影響は全く見られず外見は平凡だが、見た目と違って中身は斬新だ。1959年アメリカの各社がコンパクトカーを発表した際、フォードでは「ファルコン」の他に、前輪駆動の「カーディナル」の開発も進めていた。主要部品は「英・独フォード」で生産しアメリカで組み立てて売り出す計画だった。しかし、マーケットリサーチの結果や、組合の反対もあって、この計画は実現しなかった。変わってこの計画を実現したのがドイツ・フォードで「タウナス12M」となった。FWDでエンジンは「ランチャ・アッピア」以外に例のない狭角V4と言う珍しいものだった。80×55.86mmと言う超オーバースクエアで1183cc 40hp/4500rpmが基本だったが、強化エンジンではボアを10mm広げた90×55.86mm 1498ccとなり、伝統を破って「12M」でありながら排気量1.5 ℓと言うモデルが誕生してしまった。この強化エンジンは「17M」シリーズにも搭載され「17M」なのに1.5 ℓと言うモデルもあり、煩わしくなった。
(写真05-13ab) 1964 Ford Taunus 17M Super 2dr Limousine (1966-04 東郷神社付近/渋谷区)
「17M」がモデルチェンジして3代目となった。卵形のイメージは変わらないが特異な楕円ライトの顔から、より一般受けのする違和感の少ないものに変わった。この場所は後ろの壁に「神宮前1丁目1」とプレートが貼ってあるので場所の特定はできるが、現在面影は全く確認できなかった。
(写真05-14abc) 1964 Ford Taunus 20M TS 2dr Hardtop Coupe (1966-04 本郷通り六義園付近)
第3世代の「17M」のボディにV6 1998cc エンジンを載せ新しく「20M」が誕生した。外見はトランクリッドのバッジ以外は全く同じで、データでは6気筒エンジンを積む「20M」の全長が4535mmで50㎜長い事になっているが見分けるのは無理だ。この写真にも背景に「上富士前町11」と読めるプレートが写り込んでいる。ところがこの町名は現存しない。昭和41年「本駒込」と変わってしまい、多分「本駒込6丁目」だと思うが確認できなかった。
- 次回はバリエーションの多い「英フォード」の予定です -