三樹書房
トップページヘ
kawasakiw
第4回 カワサキ+メグロの提携と吸収
2017.8.28

 カワサキの前身にあたる明発(明石の発動機の略)工業の生産台数は、主力の125ccを年間5000~7000台程度、東京・葛飾の工場で組み立てて、業界7位となるのがやっとであった。エンジンを供給していた川崎航空機工業では、戦後の新事業としてガスタービン・エンジンの事業拡大を目指していた。航空機事業では米国ベル・ヘリコプターのノックダウンなどを実施するなどしていたが、ガスタービンの開発と生産の資金を得るための策として「単車事業」を考えるようになる。1959年に英国マン島ツーリスト・トロフィーレースにホンダが参戦した頃であり、このニュースは多くの日本人の知るところともなって、二輪車が時代の寵児となっていた。
 そこで生産は明石、販売は東京で「カワサキ・オートバイ」をスタートさせることが決定、1959年12月25日から神戸製作所(明石工場)内に「単車準備室」が開設された。目的は「エンジンから完成車まで二輪車の一貫生産」とされた。メイハツオートバイは東京の下町の小さな工場で生産されていたため、川崎航空機の関係者が訪問した感想は「これ以上の拡大は望めない」ものであったからである。
 「航空機エンジニアが設計」したことで、関西圏のトップメーカーで、明石駅から数駅はなれた甲子園前に本社があった「ポインターの川西航空機(当時は新明和興業)の成功例もあった。さらに、この頃に「軽乗用車プロジェクト」も立ち上がってゆく。軽三輪ミゼット、軽四輪スバル360なども話題となっていたため、大胆にも軽自動車にも進出しようとしていた。
 しかし問題点があった。メイハツの販売網がしっかり確立していなかったのである。特に125cc以下の二輪車は「地場産業」的イメージがあり、二輪車販売店はブランド別に扱う事が多く、多くが自転車販売店主体で売っていた。

1_1951_3.jpg


 そこで川崎航空機が「販売網の確立」に有効と考えたのが、名門メグロの目黒製作所との業務提携だった。1950年に「メグロ号販売組織を全国代理店制から県単位代理店制とするメグロ会」を結成して以来、確固たる販売網が存在したからだ。上は1951年3月の広告で、自動車専門誌にようやくグラビアページが設けられ、1ページ広告が可能になった時期のものである。

2_19521.jpg

 これは1952年1月のメグロジュニアの広告。まだ250ccが軽二輪でなく自動二輪の時代で、規格の変遷は1950年4サイクル150cc、2サイクル100ccまで、1953年4サイクル250cc、2サイクル150ccまで、1955年から一律250ccまでと変わってゆく。メグロが軽二輪の排気量規格をリードした格好となった。

3_39th1.jpg

 これはメグロ創業30周年を迎えた1954年のラインナップ。軽二輪車250ccジュニアS型、経済的な自動二輪車300ccジュニアJ3型、S型とZ型の特徴を持つ高性能自動二輪車350ccレックス号、伝統の500ccZ5型がならぶ。この年の生産台数は自動二輪がメグロ1586台に対し陸王3985台、キャブトン8201台。軽二輪はメグロ4037台に対しホンダ2万4000台、トーハツ1万7000台、トヨモーター、昌和クルーザーが4000台ラインだった。「メグロは高価だが無故障」というのが人気の要因だった。

4_1953_7.jpg

 これは全国メグロ会の1953年4月における28店の販売網で、まさに県単位、多くが輸入外国車や国産重量車の販売店で、当時のバイクマニア達が出入りしていた。これが1960年まで続くわけで、全店オートバイに通じた販売店としてのプライドがあった。このため川崎航空機との提携話には、多くの反対意見があったという。業績的に1958年度までは好況で資本金増資(3億円)に、株主配当はなんと4割だった。

5_1954RSYREAR.jpg

 川崎航空機工業が誇るRSY号、4サイクルOHV250ccの1954年型。エンジンは軽二輪の排気拡大に沿って150cc、200cc、250ccと大型化される。メイハツではRSY号をリアサスペンションをスイングアーム方式のフレームに近代化したメイハツ250を企画したが、販売網が確立せず計を断念した。

6_1960_ 1.jpg

 メグロとカワサキが提携したのが1960年11月30日だが、これはその直前である1960月1月から10月まで配布された販売店置きのペラちらし。主力の125ccキャデットCA型、250ccジュニア S7型で自動二輪は高性能でないため小さく扱われた。

7_61JUNIOR1.jpg

 これは1960年10月に配布された250ccジュニアS7A型のカタログで、500ccスタミナK1型など含めて全車個別のカタログ。この年は正方形2つ折の体裁で、印刷インクに銀などを使う豪華なものだった。一般向けにはモノクロ印刷、顧客にはカラーカタログが配られたようである。

8_1961_06.jpg

 1961年6月のメグロの広告。100台ほどが試作されたというアミカのスタンダードMA型50cc4速車。カワサキペットM5型50cc3速手動クラッチ車と競合するということで、アミカの販売は見送られたが、市場ではオートバイ型とセミスクーター型などはそれぞれ違うユーザー層が確立しており、いささか早合点の決断であったかもしれない。もっともメグロの工場も横浜に移転したばかりで50ccの生産は無理だったと思われる。

 9_61_12.jpg

 提携後の1961年5月に川崎明発工業がカワサキ自動車販売となり、都心の神田岩本町に移転、メイハツとメグロの販売担当が同じ社屋に席をならべた。これ以降メグロの広告には目黒製作所とカワサキ自動車販売の名が列記され、1961年12月から上のカワサキとメグロ車の混合広告となる。カワサキは排気量125ccまでを受け持ち50ccM5型、125ccB7型を、メグロは126cc以上を担当ということで170ccレンジャーDA型、250ccジュニアS7型の大衆向けモデルをアピールしていた。500ccのスタミナK1型は高性能すぎるために、主に白バイ用に納車されて個人に売る場合はメグロの顧客中心にユーザーを選んでいたようである。

10_sMB40年-01.jpg

 メグロ創業40年をアピールした1964年モデルの総合=フルラインナップカタログの表紙(2つ折冊子のため、実際は上の刻印画像部が逆になるが、みやすくするため画像処理した)。打刻はメグロの伝統を表し、下はカワサキの2サイクルエンジンを示している。

11_s40年-06oz.jpg

 川崎グループの川崎航空機工業と、40年の伝統ある目黒製作所が結集して「カワサキ・メグロ」の進路を列車の連結器を画像でみせているもの。「カワサキメグロ製作所」は1962年、目黒製作所の倒産により資本金の半分を川崎航空機工業が肩代わりしてカタカナの社名になったもの。

12_s40年-09oz.jpg

 川崎航空機工業の神戸製作所(明石工場)では、第24工場を建設してコンベアラインによる単車一貫生産工場を完成、まずはメイハツ・ニューエースと姉妹車のカワサキ・ニューエースを1960年8月より生産した。
 本格的なカワサキ・ブランドとしては1961年1月にニューエースから発展させた「125B7」、同年6月に「カワサキペットM5」を発売、同時に明石工場の400mテストコースを二輪雑誌社に解放してテストさせたりした。
 工場内敷地には戦争前の滑走路などが残っていたが、爆撃されたままで、工場の中央に改めて舗装して造ったもの。当時の二輪メーカーで400mコースのあるのはカワサキぐらいであった。ホンダは荒川土手をコースにして、1962年に鈴鹿サーキット完成。スズキは竜洋に簡易なコースを造りGPレーサーを開発し、1964年に本格コースとした。

13_s40年-08oz.jpg

 排気量51cc以上125ccまでの原付二種バイクなら2人乗り可、交差点右折可だったため、各社が52cc、55cc、60ccクラスを50ccベースで完成させて空前の中間排気量車ブームが到来した。ただカワサキ車は細かなトラブルが多く、工場への戻り修理車輛も多かった。そこで急きょ125ccB7型の代替え的意味で、キャデット125ccCA型が復活した。

14_s40年-10oz.jpg

 浅間火山レース車両などを担当した、メグロの一部設計スタッフが明石工場に移り、販促PR活動にと実施したのが、モトクロスへの出場だった。カワサキB7型にメグロの部品を装備した「セミワークスモトクロッサー」が朝霧モトクロス等に姿をみせ、雑誌に掲載されて注目の的になった。これがカワサキ・レーシング活動のはじまりであった。
 それとは別にエンジンと車体ともに問題があったB7型のイメージを一新、丈夫で無故障の125ccB8型が1962年10月から生産開始、カタログには丈夫な設計であることが強調されていた。そして翌年5月、MFJ兵庫支部主催ではあったが、青野ケ原モトクロスでカワサキ初優勝、カワサキ車のPRに大いに役立つことになる。

15_s40年-04oz.jpg

 カワサキメグロ時代に生産された異色車が250ccジュニアの後部に大型荷台を持たせた「オートトラック」だった。ジュニア系の多くが商用に使われていたため、1950年代初めに大阪で造られた「テンバ号」のように低重心を得るため小径ホイールを採用したもの。生産記録には210台とあるが、売れなかった車両は希望販売店に渡され残ったのは処分されとされる。軽二輪の170 ccレンジャーは目黒製としては軽快で人気があり2432台が世に出ている。

16_s40年-03oz.jpg

 メグロのベストセラーが250ccジュニア系モデル達である。オートトラックの後輪を通常サイズにしたのが1956年から1959年まで生産されたS3型で3万1370台生産、後サスペンションにスイングアーム方式を採用したS7型は初期セルなしが1960年の6月の半年で2894台、以降1963年2月までのセルモーター始動S7A型が1万8126台も生産された。ジュニアの最終型S8型は1962年12月からカワサキメグロ終焉まで2600台生産。車体はカワサキ250SG型に継承された。

17_s500K1_40年-02.jpg

 1964年2月にカワサキメグロ製作所が倒産し川崎航空機工業に吸収。カワサキメグロ社員は退職したが、一部がカワサキに移り8月までカワサキ社員と横浜工場で500ccK1型を東京オリンピック用に組み立て、一部が川崎航空機工業の明石工場に出向してメグロ250ccSG型を完成させる。そして9月30日をもってカワサキメグロ横浜工場が閉鎖となる。カワサキメグロからカワサキの明石工場に移った社員は当初23名ほどであった。

このページのトップヘ
BACK NUMBER
執筆者プロフィール

1947年(昭和22年)東京生まれ。1965年より工業デザイン、設計業務と共に自動車専門誌編集者を経て今日に至る。現在、自動車、サイドカー、二輪車部品用品を設計する「OZハウス」代表も務める。1970年には毎日工業デザイン賞受賞。フリーランスとなってからは、二輪、四輪各誌へ執筆。二輪・三輪・四輪の技術および歴史などが得意分野で、複数の雑誌創刊にもかかわる。著書に『単車』『単車ホンダ』『単車カワサキ』(池田書店)、『気になるバイク』『チューニング&カスタムバイク』(ナツメ社)『国産二輪車物語』『日本の軽自動車』『国産三輪自動車の記録』『日本のトラック・バス』『スズキストーリー』『カワサキモーターサイクルズストーリー』』『カワサキ マッハ』『国産オートバイの光芒』『二輪車1908-1960』(三樹書房)など多数。最新刊に『カタログでたどる 日本の小型商用車』(三樹書房)がある。

関連書籍
カタログでたどる 日本の小型商用車
カワサキ マッハ 技術者が語る―2サイクル3気筒車の開発史
トップページヘ