1961 Facel Vega Facellia 1600 F2
(01)<ファセル>(仏) 1955~64
「ファセル」はフランスで造られた「豪華車」で、大排気量のアメリカ製エンジンを積んだ大型車「ファセル・ヴェガ」シリーズと、自社製1600cc高性能エンジンを積んだ小型車「ファセリア」シリーズに大別される。豪華な内装に大排気量で取扱い易いアメリカ製エンジンを積んでゆったりと長距離ドライブを楽しむスタイルは、「ベントレー」や「ジャガー」のようなこだわりの純正派に較べると、実用本位で、同じ「アングロ・アメリカン」の仲間「ジェンセン・インターセプター」などと同じ構想で造られたものだ。
・会社名の「ファセル(Facel)」はForges et Ateliers de Construction d'Eure et Loire(ユール・エ・ロワール金属加工所)の略で、1939年に工作機械や金属製家具の製造を目的にジャン・ダニノによって設立された。戦前の製品の中には1942年製として木炭を焚いて走る「代用燃料車」のためのボイラー(シトロエンの後部に積む2連で巨大な物)の写真が残されている。戦後もスチール家具の製造を続ける傍ら、その金属加工技術を見込まれてフランス国内の自動車メーカー「パナール」をはじめ、「ドライエ」「シムカ」「仏フォード」などから依頼され、ボディを生産する「コーチビルダー」としての活動を始める。中でも「パナール」は小排気量のため軽量化が必要で、ボディはアルミで造ることになったが、アルミ加工のノウハウを持つ「ファセル社」に依頼したのがその始まりだった。しかし1953年「パナール」がモデルチェンジの際、ボディを自社内で製造する事が可能となり、「ファセル社」への量産車の外注は打ち切られた。
<ヴェガの誕生>
戦前のフランスでは「ブガッティ」「イスパノ・スイザ」「ドラージュ」「デラエ」などの大型高級車が数多く存在していたが、戦後は疲弊した経済事情から小型車を優遇するため、大型車に対しては禁止的贅沢税として途方もない高額の税金がかけられ、高級車は絶滅してしまった。そんな中、かねてからフランス製高級車の復活を考えていたファセル社のダニノ氏は、「パナール」の製造中止で遊んでいる生産設備を使って、政府の方針に逆らってあえて「大型高級車」を造ることを決意し「ファセル・ヴェガ」のブランド名で1954年から市販が始められた。戦後10年足らずのヨーロッパではフランスをはじめイギリスもドイツもこれだけの豪華車を購入する市場はまだ成熟しておらず、当然対象はアメリカで、やや大げさな派手なグリルもアメリカ好みに仕上げられ、内装も家具メーカーの経験が生かされたのか豪華そのものだった。
大型「Vega」は大別すると以下の5シリーズに分けられる。
1954 FV1
1955 FV2 クライスラー V8 4528cc
1958 EX(Excellebce) クライスラー V8 6430cc
1958 HK500 クライスラー V8 5907cc
1961 HK2(FacelⅡ) クライスラー V8 6270cc
(写真01-1ab) 1954-55 Facel Vega FV (2008-01 ジンスハイム科学技術博物館/ドイツ)
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この車の案内板には「1958-64 Excellence」となっているが、「EX」は縦4つ目、中央グリルは格子の目が細かく中央に太いラインはない。正面左右のサイドグリルはもっと大きくほぼ全面を覆い、横に一本クロームバーが入っている。かつて何回も指摘してきたが、ここの博物館の表示は残念ながら自分で確認しないと使えない。この車の特徴は明らかに最初期のモデル「FV」と思われる。
(写真01-2ab) 1957 Facel Vega FV2B (1995-08 モンタレー市内オークション会場/アメリカ)
この車は毎年8月クラシックカーイベントに集まる車好きを対象にモンタレー市内のコンベンションホールで毎晩開かれるオークションの出番を待っている車だ。この時はまだカラーフィルムとストロボを使用していたので、ご覧の様に奥には光が廻らず露出不足になってしまう。これを改善するため、ストロボの角度を斜め後ろにシフトしたり、天井が低い場所では天井からの反射光を利用する、など色々試みてきたが、デジタルとなった今は高感度に助けられストロボは一切使っていない。
(写真01-3ab)1958 Facel Vega HK500 (2002-01 レトロモビル/パリ)
パリのレトロモビルは珍しいフランス車に出会える絶好の機会だ。だがここは盛りだくさんで一区画が狭いのが欠点だ。だからここに行く時は広角レンズが絶対不可欠だ。
(写真01-4abc) 1958 Facel Vega HK500 (1997-05 ブレシア・ヴィットリア広場/ミッレミリア)
こちらはミッレミリアの車検場「ビットリア広場」に見物の為登場した「ファセル・ヴェガ」だ。流石に堂々たる貫録で周りの注目を集めていた。
(写真01-5a~e) 1962 Facel Vega HK2(FacelⅡ) (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
この車は60年代に入ってからのモデルで、初期のオーバー・デコレーションのデザインに較べ、嫌みのないすっきりしたスタイルダ。このモデルをそっくり小型化したのが「ファセリア」だ。
(写真01-6ab) 1961 Facel Vega HK2(FacelⅡ) (2004-08 ラグナセカ/カリフォリニア)
この車はイベントで展示された物ではなく、レース場の駐車場に停まっていた車だから足として使われているのだろう。アメリカらしく真っ赤に塗られていたが、これだけ大きな車になると赤は派手すぎ、ダークブルーなどが似合うのに、と僕の勝手な感想。
(写真01-7ab) 1962 Facel Vega HK2(FacelⅡ) (1998-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
この車も前の車と同じく大型としては最終モデルとなった「FacelⅡ」で、ペブルビーチのコンクールに出展されている。エンジンはクライスラー製V8 6270ccの強力なものが載せられている。
<小型車ファセリアシリーズ>
大型車「ファセル」はアメリカへの輸出が予定通り成功し、自信を得た「ファセル社」は、より多くの市場を目指し小型スポーティカーの開発を始めた。それは高級車「ファセル」のイメージをそっくり小型化した魅力的なボディに、自社製の4気筒DOHC 1600cc で、当時としては画期的な110hp の高性能エンジン載せた自信作だった。1960年完成した「ファセリアFA」はアメリカの他、そろそろスポーツカー市場が成育してきたヨーロッパへの販売も視野に製造が始まったが、この凝りすぎた高性能エンジンが故障の原因となって逆に「ファセリア」の評判を落とす事になった。1962年からは頑丈な「ボルボ」の4気筒や「BMC」の6気筒を載せたモデルが造られ問題は解決したが、大量に販売するまで人気は回復しなかった。そして1964年ついに倒産してしまった。
(写真01-8abc) 1960 Facel Vega Facellia FA(F2) Coupe (2012-04 トヨタ自動車博物館・収蔵庫)
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「ファセリア」としては発売当初の初代モデルで、念願の自社製DOHC 1600ccの高性能エンジンを搭載している。引き締まったスタイルは大型車「ファセルベガ ファセルⅡ」をそのまま受け継いだもので、非常に魅力的だ。場所はトヨタ自動車博物館の収蔵庫で、一般公開を待つ車たちが多数出番を待っているお宝の秘密基地だ。
(写真01-9a~d) 1961 Facel Vega Facellia FA(F2) Hardtop (2016-04 ジャパン・クラシック・オートモビル/日本橋)
この車には1961年製と表示があり、ボンネットの中にエンジンが「ファセルベガ」製なので間違えなく初代のF2だ。「ファセリア」は機能的には1960-61年の自社エンジンを搭載したモデルと、1962年以降ボルボ(その他)・エンジンとなった「F2 62」に大別される。
(写真01-10) FacelVega 2-Litre Engine
レトロモビルに展示されていたこのエンジンは、外見は市販車の1646ccと同じように見えるが排気量1998ccとある。
(写真01-11a~d) 2014-11 1961 Facel Vega Facellia FA(F2) Cabriolet (2014-11 トヨタクラシックカーフェスティバル/神宮)
外見上の変化は、初代のこの車はヘッドライトが剥き出しの4つ目で、ライトの前のバンパーが大きく抉(えぐ)れている。1962年以降は上下のヘッドライトが縦長のガラスカバーで覆われ、バンパーの切り込みは無くなった。1963年以降の「ファセルⅢ」はサイドグリルに横バーが入った。
(写真01-12abc) 1962 Facel Vega Facellia FA(F2) Hardtop (2011-10 ジャパン・クラシック・オートモビル/日本橋)
この車も名古屋在住のオーナーの車だ。案内板によると1962 年製だがエンジンが自社製となっているし特徴も初期型なので、ボルボ・エンジンになる直前に造られた最終期の物だろう。
(写真01-13) 1962 Facel Vega Facelia F2 62
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ボルボ・エンジンになってからの「ファセリア」は「F2 62」となり、ヘッドライトに縦長のガラスカバーが付いた。
(写真01-13a~d) 1962 Facel Vega Facellia FA(F2) Coupe (1966-07 一の橋付近/港区)
この車は左のフェンダーを損傷して、一の橋付近にあった小林自動車工業と言う修理工場に入っていた。これを見つけた日は、損傷個所が見えない横から後ろにかけて何枚か撮影し、修理の終わった頃を見計らって、綺麗になった正面から撮影した。ダッシュパネルは金属に巧みに塗装されてものだそうだが、垂直に立ったステアリング・ホイールとびっしり並んだメーターは物凄く魅力的だ。
(写真01-14ab) 1962 Facel Vega Facellia FA(F2B) Coupe (2003-01 レトロモビル/パリ)
レトロモビルで捉えた「ファセリア」で、この車も後姿は撮れていない。ナンバープレートの最後の数字「75」が「パリ」を表していると言うのが僕の知っている唯一の知識だ。
(写真01-15abc) 1962 Facel Vega Facellia FA(F2) Coupe (1977-01 第2回TACSミーティング/東京プリンスホテル
1977年東京プリンスホテル駐車場で開かれた第2回TACSミーティングは、大雪に見舞われたが数々の名車が参集したので後々までも記憶に残る印象深い大会だった。
(写真01-16a~d) 1963 Facel Vega Facellia FB(FacelⅢ) Coupe (1967-05 第4回日本グランプリ/富士スピードウエイ)
1963年FAからFBにモデルチェンジし「ファセルⅢ」と名前を変えたこの車は「ボルボ」のPV544やP120シリーズに使われている1778ccの「B18Bエンジン」が搭載された。外見では中央グリルの格子目が少し粗くなって、左右のグリルが細かい格子から横一本のクロームバーに変わった。ドライバーシートの雰囲気は基本的には同じだが、初期型の方がスポーティだ。
(写真01-17abc) 1963 Facel Vega Facellia FB(FacellⅢ) Coupe (2004-08 モンタレー市内/カリフォルニア)
この車の様に数の少ないものは街中で出会う事はめったにない。8月のカリフォルニアのイベントでは毎回モンタレーに宿泊していたが、この日夕食のため街に出て時、偶然見つけた。夕暮れ近い刻限だったがダークグリーンの車を何とか捉えることが出来た。この車はヘッドライトに縦型のガラス・カバーが付いて居ないのは最初からで、アメリカの法規上の制約と思われる。
(02)<ファーガソン> (英) 1961~64
「ファーガソン」と言えば農業用トラクターのメーカーとしてよく知られた会社だ。1953年「マッセイ・ハリス社」と合併し「マッセイ・ファーガソン」となり、現在は世界140カ国に普及している。1884年北アイルランド生まれの「ハリー・ファーガソン」は、機械について正規の教育を受けたわけでは無いが、持ち前の才能から16才で自動車の修理工場を開く程で、常に工夫、改善して新しい物にチャレンジする発明家としての素質は生まれ付きだろう。1920年36歳で油圧式トラクターの開発に着手、13年かけて完成させ、イギリスとアメリカで生産が始められた。初期のトラクターは「動力」と「鋤」が別物だったのを一体化し今日のトラクターの基本を確立し、多くの特許を得て同時に多くの財産も手に入れた。「ファーガソン」の発明家精神は「4輪駆動」にも強い関心を持っており、それを有効に生かしてレーシングカーで試してみようと計画したのが「ファーガソン・クライマックス・プロジェクト99」だった。
<ファーガソン・クライマックス・プロジェクト99>
1960年ファーガソン研究所のクロード・バーチがチーフとなり4輪駆動の有利さをアピールするプロジェクトがスタートした。当時既にミッドシップが主流となっていたがこの車はフロント・エンジンで、コベントリー・クライマックスの4気筒を中心線からずらして斜めに搭載することで車高を低く抑え、右に寄せたコクピットの左側をプロペラシャフトが通っている。5段変速機を介してセンターデフに伝えられ、そこから前後にプロペラシャフトが伸びてデフ、ファイナルドライブ・ユニットを経て前後の車輪を駆動した。ファーガソン研究所はレーシングチームではないので、この実験車をロブ・ウオーカーのチームに貸出し1961年のレースで走らせる事となった。しかしこの年からフォミュラー1の規定が1.5リッターに変更され、2.5リッターとして設計されていたファーガソンは排気量を下げることで重く複雑な構造は従来のバランスを失い、著しく不利となった。ただこの年のイギリス・インターコンチネンタル・レースが旧フォミュラーで開催されたので、そのままこのレースでデビューした。そして1週間後、既定の1.5リッターに載せ変えた「ファーガソン」は、イギリスGPにエントリーした。レースは土砂降りの雨となり、各車殆どグリップしない状態の中で、素晴らしいグリップと加速を示し「4輪駆動」の有利さを示した。この日同じロブ・ウオーカー・チームから「ロータス18」で出場していた「スターリング・モス」は、自分がリタイアすると途中から「ファーガソン」に乗り換え、この車の潜在能力に強い関心を持った。元々「4輪駆動」がグリップ面で有利なことは周知の事実だが、レーシングカーとしての操縦性、挙動が従来の感覚とは全く別物なのでドライバーからは敬遠されていた。ところが、「スターリング・モス」はこの癖のある操縦性を征服し、この車の持つ大きな可能性を引き出してやろうと、試行錯誤を繰り返しコントロールのコツを積んだ。そして、9月のオルトンパーク・ゴールデンカップ・レースで「モス」は再び「ファーガソン」を駆って出走し、にわか雨と言う好条件(?)にも恵まれ見事優勝した。この車はレースのために造られたのではなく、実験車がその一環としてレースを走ったのだが、結果的にはF1レースで優勝した唯一の「4輪駆動車」としての歴史を残した。
(写真02-1a~f) 1961 Faeguson-Climax Project 99 (2007-06 フェスティバリ・オブ・スピード/イギリス)
この車が造られた1960年代はレーシングカーの主流は既にミッドシップ・エンジンとなっていたが、この車の一番の特徴は「4輪駆動」による駆動力と操縦性の実験車だったので、あえて従来のフロントエンジン・リアドライブ方式だった。エンジンが傾斜していたのは結果的にはボディを低く出来たが、本当の理由はセンターデフを中央に置くためプロペラシャフトが左側にオフセットされたのだろう。だからモノポストなのにドライバーシートは中央より少し右にずれているのが判る。
(03)<フライング・フェザー> (日)
わが国では昭和33年(1958)発売された「スバル360」などを中心に軽自動車ブームが始まり、それが成長して1960年代終わりから70年代にかけて、庶民でも自家用車が持てる「マイカーブーム」を迎えた。しかしこれらのブームより前の1950年代初めから「スクーター免許でも乗れ」、「維持費も安い」を売り物に、30万円代で「軽4輪自動車」と言う新しいカテゴリーの車が次々と名乗りを上げた。1952年の「オートサンダル」をはじめに「NJ/ニッケイタロー」「テルヤン」、「パドル360」、「コンスタック」、「オーミック」、「ベビーコンドル」などだったが、いずれもメーカーとしてはいわゆる町工場的な規模の小さいものだった。それらは自動車を小型にした車体に、スクーターやオートバイのエンジンを積んだもので、技術的には特別注目すべき物はなく、戦後の資材や技術の十分でない時代に生み出された「窮乏型」で、イギリスの「サイクルカー」に近い存在ともいえる。その中で、1955年発売された「スズライト」は既に2輪メーカーとして基礎を持ち、ドイツの「ロイト」をモデルに2サイクルFWDの独自のメカニズムを持つた完成度の高い製品で、唯一生き残って「軽自動車ブーム」の一翼を担った。
・同じく1955年誕生した「フライング・フェザー」はこれら軽自動車が群雄割拠するなかに突如出現した専門家の生み出した「野心作」だったが、当時の自動車ユーザーからは正しく評価されず200台足らずで生産が打ち切られ「軽自動車ブーム」には乗れなかった。
・この車を造った「住江製作所」は、1943年(昭18) 設立された「奈良木材工業」が1945年10月社名変更したもので、戦前から日産自動車に内装用の布地を納入していた「住江織物」が織機のため持って居た木工技術に目を付けた日産が、板金技術を加えればボディが造れると勧められて作った日産ボディの下請け会社だった。1949年、当時日産に在籍していた富谷龍一氏は、親友で後年アメリカ日産の社長となった片山豊氏の勧めもあって、東京大森に造られた工場にチーフデザイナーとして移籍、最初の作品は1951年の「ダットサン・スリフト」だった。
(参考写真 01) 1952 Datsun Thrift Sedan
・「住江製作所」に移ってからは、20年来暖めていた「大衆の為の軽量小型車を量産する」と言う夢が急速に実現に向かって動き出した。それは若き日に横浜港で軽やかに飛ぶカモメを見て発想した「最小の消費で最大の仕事」をする機械(自動車)を造る事だった。この車は片山氏によって「フライング・フェザー」と名付けられ、1949年から設計が始められ、試作、テストを経て、1950年4月には通産省に「FF小型自動車製造許可申請書」を提出している。通産省では当時「国民車構想」を模索中だったから富谷氏の考えていた「構想」も大いに影響を与えたと思われる。結果的には通産省もバックアップし、平尾収(東大教授)、亘理厚(機械工学)などの権威の協力も得て当時としては最高技術を結集して造られたものだった。
・第1号車は1950年完成している。エンジンは瓦斯電製の空冷直立単気筒SV 141.1cc 2hp/3500rpmと言う極めて非力な物で、後車軸の直後に置かれ、スクーター式の遠心自動変速機を介してチエンで左後輪のみを駆動しデフを省略している。その為後輪の幅は前輪より20センチ近く狭い。空車重量は僅か250kgだった。しかしこの1号車はクラッチが不調で走ることは無かった。
・第2号車は1950年から51年にかけて造られた。エンジンはメグロ製の空冷直立単気筒OHV 246cc 7hp/4500rpmに3段ギアボックスの組み合わせで1号車に較べれば大分強力になった。ボディはクレイモデルまで造ってデザインされ、実車の製造に当たっては頑丈な木型が組まれているので、本気度は高い。空車重量は2号車も250kgに抑えられていた。この車は箱根や湘南など各所でテストドライブの際撮られた写真が残っている。
・第3号車は1952年に完成した。エンジンは2号車と同じで、シャシー、サスペンションを改良し、ボディはよりモダンで、かつ板金加工がしやすいよう絞りの浅い曲面を使用したデザインとなった。空車重量は280kgとやや増加したが、最高速度55km/hで当時としては十分実用となる速さで、燃費も33km/ℓと極めて経済的だった。
・第5号車は1年後の1953年完成した。(3号車の次は4号車となる筈だが3号車は同じものが2台造られたので次は5号車となった。)エンジンは住江製空冷V2 350cc 12.5hp が新しく造られた。それは国民車構想の排気量360ccに見合うエンジンが国内には存在しなかったための苦肉の策だったのだろう。ボディは平面的だった3号車に較べると曲面が深くむしろ2号車に近い印象を受ける。シャシーを強化した結果空車重量は400kgまで増加したが、馬力が増えたお蔭で最高速度は60km/hまで上がった。
・第6号車(最終プロトタイプ)は1954年完成した。1949年設計に着手し50年の試作1号車から5年の歳月と5世代にわたり試作車のテストを繰り返して完成したのがこの車で、1954年の東京モーターショーでデビューした。
・市販型はモーターショーで発表された翌年の1955年から発売された。内容的には6号車(最終プロトタイプ)と殆ど変りはない。エンジンは住江製強制空冷V2 OHV 350cc 12.5hp/4500rpm で設計は富谷氏自身が行った。カタログ上の最高速度は60km/hで、燃費は平坦舗装路最大荷重出25km/ℓ、湯本~箱根間で17km/ℓ で、価格は36万円だった。
・この車のカタログには次のようなことが書かれていた。「(前略)自動車の本来の使命は簡便に、しかも誰にも利用できることにあると考えます。高級車のような姿になる事のみが進化といえるでしょうか。私どもは戦争が終わるとすぐ、自由に使える自動車を作ろうとして研究を始めました。いわば私どもの経済力で購入し運営できるものを。試作に取りかかって既に五年を経過し、あらゆる角度から批判を重ねて、加うべき機能はこれに加え、除くべき負担や無駄はこれを除き、漸く一つの明瞭な目的に叶うものとして登場致したわけであります。(中略)あるいは自動車とお呼びにならない方があるかも知れませんがお呼びにならないでも結構です・・・だが自動車よりも安価に心持よく仕事をしてくれるのが此のF/Fです。F/Fは皆様の足としてお使い願えればそれでいいのです。」ここにはこの車を造った人たちの理念が凝縮されており、これを踏まえて改めて「フライング・フェザー」を見た時その熱い思いが感じられる。しかし、残念ながら当時の日本人の大部分は、年々派手になっていくアメリカ車こそ最高と思い込んでいたから、この何の飾り気もない隙間だらけの質素な車の持つその本質を見抜いた人は少なかった。だから5年の歳月を費やしてようやく完成させたこの車だったが、僅か200台足らずを世に送り出したのみで1年で製造は中止されてしまった。
(写真03-1a~d) 1955 Flying Feather FF7 (1966-01 帝国ホテル前/日比谷)
この写真はレストアされたりイベントに参加したものではなく、市販されたものが街中で日常の足として使われている姿を捉えたものなので、ある意味貴重な資料と言える。場所は帝国ホテルの前で、既にネギ坊主型のパーキングメーターが設置されている。駐車禁止の標識も四角形の旧型だ。
(写真03-2abc) 1955 Flying Feather (2012-04 トヨタ自動車博物館1階整備工場)
この車は方向指示器の位置がウエストより高い位置に付いており、僕が帝国ホテルの前で見た車と同じ特徴を持って居る。数の少ない車なので若しやあの時の車ではないかと思いたくもなるが、そんなことは無いだろう。トヨタ自動車博物館1階の整備工場で点検中だった。
(写真03-3a~d) 1955 Flying Feather (2015-04 ジャパン・オートモビル・クラシック/日本橋)
この車は小松の「日本自動車博物館」に収められている1台で、毎年4月日本橋で開かれるイベントに参加した際撮影した。
(写真03-4abc) 1955 Flying Feather (1990-01 JCCA汐留ミーティング)
この車の参加プログラムを確認したら紛れもなく前項の車の25年前の姿だった。この年はその昔国鉄時代あった汐留貨物駅(操車場)の跡地で開催された。この広大な場所は現在はテレビ局やオフィス街となっている。
<富谷龍一氏のプロファイル> 1908~1997
1908年東京の資産家に生まれ、芝浦の高等工芸図案科装飾絵画に籍を置いたが機械科に入りびたり、卒業後は無給で機械科の助手を務めていた。1934年学校の推薦で日産自動車の前身「自動車製造㈱」に特別待遇で入社した。入社後、車体設計科の久原光男(後の取締役),片山豊(後のアメリカ日産社長)と言う、有能でかつ財界名門出身でしかも役員と姻戚関係にあるという実力者と意気投合し、かなり自由気ままに振舞っていたらしい。しかしそのデザイン・センスは遺憾なく発揮され、最初に形となったものは「ダットサンの象徴」ウサギのマスコットだった。
(参考写真 02) 富谷氏が日産に残した最初の作品 1935 ダットサン・マスコット
・最初にスタイリングを担当したのは1936年後期型と言われる「ダットサン15型」で、グリルはそれまでのフォード風のハート型から、縦にすらりと長いキャディラック風に変わった。このグリルパターンは1938年製造を中止するまで変わらなかった。
(参考写真 03) 1936 新ダットサンのグリル
・デザイナーとして特筆すべきものは、戦前の国産小型車の中でベスト・ワンと言える「1937 ダットサン16型クーペ」のデザインだ。
(参考写真 04) 1937 ダットサン16型クーペ
・戦後は1949年前述のとおり「住江製作所」に移籍し、ダットサンの「スリフト」や「コンパー」を手掛ける傍ら「フライング・フェザー」の開発を行う。
・1956年 富士自動車に入社、「フジキャビン」の開発を行う。
・1972年 富谷研究所設立
・1975年「アイダエンジニアリング」の協力の元に、スバルR2のエンジンを用いて実験車「F/F Ⅱ」の開発を行う
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(04) <フジキャビン>(日・富士自動車) (1955~57)
「フジキャビン」は住江製作所で「フライング・フェザー」を造った富谷龍一氏が「富士自動車」へ移籍して発表した「キャビン・スクーター」として知られている。
これを造った「富士自動車」は戦前輸入自動車のボディや洋家具などを製造していた「日造木工」と言う会社が、戦後日産自動車の指定工場となって1948年「富士自動車」と改名したもので、主に在日米軍の軍用車両の修理・解体を行っており朝鮮戦争の特需の恩恵を受けて急成長した。1958年には「東京瓦斯電気工業所」を吸収合併し「ガスデン」ブランドを引き継ぎオートバイ用のエンジンメーカーでもあった。
・「フジキャビン」の原型は「メトロ125」として1955年(昭30) 5月開かれた「第2回全日本自動車ショウ」に登場した。ここで時系列を確認すると「F/F」の最終プロトタイプは1954年で完成し開発は終了している。富谷氏はその後「F/F」が発売された1955年には住江製作所を退職し、1956年「富士自動車」に移籍した事になっている。しかし、「メトロ125」が登場したのが1955年5月という事は間違えない事なので、時間的に見ても「F/F」の開発終盤で、すでに「フジキャビン」の構想を温めて居たのだろうか。いずれにしても「フジキャビン」は、自動車としての最小限度だった「F/F」よりも更に下のクラスの乗り物で、当時自動車に手の届かない庶民の足として普及していた「スクーター」に屋根を付けたものだった。イタリアの「イセッタ」、ドイツの「メッサーシュミット」、イギリスの「ピール」、フランスの「インテル」などの他にも「キャビン・スクーター」は多く造られていた。ところで、前作の「F/F」がブリキ細工の様に直線の多いデザインだったのに、1年も経たないうちに何で卵のような流線型に成ってしまったのだろうか。それにはこの車の製作理念が大きく関わって居る。<最小の消費で最大の仕事を>は「F/F」時代から引き継がれた根本理念で、そのためには先ず軽い事が不可欠であり、コストが余り高くないこと、工作が容易なこと、耐久性が高く丈夫なこと、などの条件から、未知の素材「FRP」を選んだものと思われる。そして、この素材は鉄板と違って曲面が容易に造り出せるという利点を持って居た。だから「スリフト」や「F/F」時代の様にプレス加工技術の壁に阻まれて思うように曲線のデザインが描けなかったうっぷんを思いっきり吐き出したら、こんな形になってしまった、と言うのは僕の勝手な想像で、実際はモノコック構造の強度を保つ上ではこれが理想の形だったのかもれない。
・「FRP」はFiber Reinforced Plasticsの略で「ガラス繊維で補強されたプラスチック」と言う意味の通り、製造方法はフジキャビンの場合木型に貼り付けられた3枚のガラス繊維のマットにポリエステル樹脂を浸み込ませて成型する。 「FRP」は1942年アメリカで加熱、加圧不要な「不飽和ポリエステル樹脂」が開発され、これで救命ボートを造ったのが実用化の最初だった。自動車の量産車に最初に使われたのは1953年発表された初代コルベットのプロトタイプで、よく知られる「ロータス・エリート」のデビューは「フジキャビン」より2年後の事だ。因みに日本ではフェアレディの前身「ダットサン・スポーツ」が4年後の1959年誕生している。
・富谷龍一氏は「フジキャビン」に全く未知の素材を採用するに当たっては、不飽和ポリエステル樹脂のパイオニアで、1953年国産化に成功した「日本触媒化学工業」(後の日本ポリエステル)を訪問し、ノウハウを勉強すると同時に協力を取り付けると言う周到な準備をした上で、実行に踏み切ったものと思われる。
・「フジキャビン」の構成は極めて簡素化されている。それは「軽量化」の為と「コスト削減」の為と言う、この車が狙う両輪だった。ヘッドライトが一つだったら二つより軽くて安い。車輪も4つよりも3つの方が軽くて安い。しかも「デフ」がいらないから軽くて安く出来る。方向指示器は前後ではなく中央に1組だけ、ワイパーは手動式で、ドアは左の助手席側1個だけ(後期型では両側になった)だった。エンジンはガスデン製125cc 4.75hp 車体重量150kg 最高速度60km/h 乗車定員2名 価格は23万5千円 生産台数85台だった。
(写真04-1a~d)1956 Fiji Cabin (1982-01 神宮外苑絵画館前)
「フジキャビン」は1956-57年に僅か85台しか造られなかったが、「前期型」と「後期型」の2種が造られた。写真の車は「前期型」で、その最大の特徴は右側の運転席側にドアが無い「1ドア」だった。この車は最もオリジナルに近く復元されている車だ。
(写真04-2ab) 1956 Fuji Cabin (1962-04 場所不明)
この車も「前期型」だが方向指示器はオリジナルの位置の物は埋め込みとなり、別にフロントに追加されている。バックミラーが後から追加され、窓は2分割となっている。
(写真04-3a~d)1957 Fuji Cabin (1967-03 港区内)
この車は右側にもドアが付いた後期型だ。オリジナルの方向指示器に追加して「腕木式アポロ型」の方向指示器とバックミラー、テールランプが追加され、窓は2分割で室内の換気が改善された。
(写真04-4 abc)1957 Fuji Cabinn (1959年 清水市内)
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この写真は僕がまだ静岡に住んで居た頃、バスの中で見つけ戻ってきて撮ったものだ。発売されて2~3年しか経っていない現役バリバリの姿で、趣味でコレクションしたものではない。窓は2分割にはなっていないが、右側面の写真にかすかにドアの痕跡が見られるので「後期型」とした。
(写真04-5abc) 1955 Fuji Cabin 5A (2007-04 トヨタ自動車博物館)
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この車の案内板には「1955年製」と表示されている。トヨタ自動車博物館の時代考証は、僕が知る限りの各国の博物館の中でも最も信頼のおけるものと信じているが、1955年と言えば第2回全日本自動車ショーに原型の「メトロ125」が初めて登場した年で、一般的には「フジキャビン」は1956年から市販されたことになっている。しかしそれは「モデル・イヤー」の事で、実際には55年中に一部発売されていたのだろうか。そうだとしても、「初期型」には右ドアは無かった筈だから謎の残る車だ。分類上は「後期型」としたが年式は案内板通り1955年とした。
(写真04-6ab) 1957 Fuji Cabin (1977-01 東京プリンスホテル)
シトロエンDS21に牽引されてイベント会場に登場した「フジキャビン」。この車も余計な改良がされていないオリジナルに忠実な姿が保たれている。
(05)<F/F Ⅱ>(日)1975
「富士自動車」を退社後の富谷氏は同じ日産系の「セントラル自動車」に移籍、顧問を務める傍ら1972年「富谷研究所」を開設し、さまざまな動物の動きを小型モーターを動力とする機械に置き換えた「メカニマル」(メカニカル・アニマルの略)の開発を手がけロボット工学の世界にあった。ここに登場する「F/FⅡ」は、彼の才能を惜しむ旧友片山豊氏をはじめとする多くの友人たちからの後押しで1975年プロジェクトがスタートした。今回の目的は販売を目的とした物ではなく、富谷氏の持論「4輪の内1輪が障害物に乗り上げると、ボディ全体がゆすられ、それをダンパーで吸収することは直進のためのエネルギーの損失ではないか」と言うサスペンションに対する理論的仮設を検証するための、純粋な実験車だった。当初大手メーカーの後援を予定していたが、この種の目的の実験車は成果の見返りが少なくご破算になった。それに代わって工作機械の大手「アイダエンジニアリング」の協力を得て、実現されることになった。
・完成後のロードテストによると、交互に関連しているサスペンションは、単独の障害物に対しては概ね初期の予定通りの作動をしたが、左右が同時に乗り上げた場合は、お互いが作動し合ってロック状態になり、酷いピッチングを起こして減速せざるを得なかったようだ。
(写真02-1ab) 1975 F/FⅡ (2001-08 河口湖自動車博物館)
総アルミ製のボディは、サスペンションの実験車と言うよりは空気抵抗の実験車の様に洗練されたものだ。航空機の技術を導入したとあったので「零戦」の様に枕頭式(埋込式で表面が平面なのでリベットによる気流の乱れや空気抵抗が起きない)かと思ったが、拡大してよく見ると普通の山形リベットだった。ドアは無く、キャノピーを跳ね上げて乗り込むのは戦闘機並みだが、かつて「フジキャビン」を造る際、研究対象だったであろう「メッサーシュミット」も、この方式だったことを思い出す。
・今回はフラインフ・フェザーに力が入りすぎて予定の半分で打ち切りました。
次回は「フランクリン」「フレーザー」「フレーザー・ナッシュ」「欧州フォード」などの予定です