1958 Edsel Pacer
<エドセル> (1958~60・米)
「エドセル」はフォード・グループの一員として、アメリカ車の最も華やかだった時代に誕生した。ネーミングはよく知られるように、1943年、50歳の若さで早世したヘンリー・フォードの長男の名前からとったものだが、皮肉にも長男と同じように1958、59、60と僅か3年の短命だった。「エドセル」と名付けられた車が登場した1958年と言えば、当時はアメリカ車が世界のスタイリングをリードしていたもっとも華やかな時期だったが、「エドセル」は幅広く平らなイメージの顔をしたアメリカ車の中では、顔の真ん中にお面型の縦型グリルを持つ異端児だった。フォード社が「エドセル」を誕生させた狙いは、1950年代後半に至って大きく差を付けられた「GM」がミドルクラスに「ビュイック」「オールズモビル」「ポンティアック」と3つのシリーズを備えていたのに対して、フォード社は「マーキュリー」しかなかったから、この市場の充実を図るためだった。「Eカー」と命名された新プロジェクトは、当初独自のエンジンとボディシェルを持つ全く新しい車を造る筈だったが、あまりにも金がかかりすぎる事から結局ボディは「フォード」と「マーキュリー」から転用され、2種のエンジンの内、一つはマーキュリーから流用した。という事はニューモデルでありながら、変わり映えがしないという思いもあってか、異例のクラシカルな「縦長グリル」が採用された。ネーミングについてもすんなり決まったわけでは無く、候補の中には後年モデル名となった「サイテーション」「ペイサー」「レンジャー」などもあったが、最終候補「エドセル」はフォード一家が「うちの父親の名前がアメリカ中の車のハブキャップについてくるくる回るのは御免だ」と難色を示したのを副社長アーネスト・ブリーチが説得して決まったというエピソードがある。価格帯は2,519ドルから3,801ドルで、「フォード・フェアレーン500」よりほんの少し高く、「マーキュリー」よりは少し安く設定された。この車が短命の終わった一番の要因はデビューしたタイミングの悪さで、開発に入った当時、市場のミディアム車は約40%を占めていたが、市販開始時には25%まで落ち込んでおり、購買層の意識はコンパクトカーの先駆けともいえる「ランブラー・アメリカン」や輸入小型経済車に移っていた。そんな時代背景の中で追い打ちをかけたのは、ディーラーの組織造りのまずさ、と言うかこれしかできなかったのだろうが、全国2400店舗の内「エドセル」専門店はわずか118店で、残りはマーキュリーと兼業だったり、フォード系以外の車を扱って居たりしたのだ。だからこの価格帯の車が売りづらくなると、顧客に勧めるのは新顔の「エドセル」よりは扱い慣れた車となるのは否めない。もう一つマイナス要因となるのはディーラーや顧客の間で「エドセル」の品質不良と言う噂で、その真相はその製造過程にある。「エドセル」専用の小規模な組み立て工場はあったが、大部分は「フォード」「マーキュリー」の組み立てラインで、最後の1時間が割り当てられて造られたことで、工員の集中度も下がって高い品質は望めなかったのだろう。しかも「エドセル」はこのラインを使うに当たっては1台ごとに金を払い、お願いして造っていただく関係にあり品質不良についても強く言えない立場にあったようだ。1958年は「マーキュリー」の133,271台に対して「エドセル」は63,110台が造られた。しかし翌1959年には44,891台に留まり、縦型グリルを止めて去年の「ポンティアック」そっくりの2分割グリルとなった1960年は僅か2,846台しか造られず、これが最後となった。(最後の60年型は僕のカメラに収めることは出来なかった。)
(写真01-1a~e) 1958 Edsel Citation 4dr Hardtop Sedan (1961-12/ 港区・一の橋付近)
デビューした年の「エドセル」のラインアップは、上から「サイテーション」「コルセアー」「ペーサー」「レンジャー」と3種の「ステーションワゴン」だった。2ドア、4ドアに「セダン」「ハードトップ」「コンバーチブル」の3タイプが用意された。写真の車は「サイテーション」の4ドア・ハードトップで、場所は現在都心環状線一の橋インターとなって居る付近だから、今考えると既に用地が確保されて空き地になって居たのだろう。それにしても車好きの僕に取って恵まれた環境だった事がお分かり頂けるだろう。
(写真01-2a~d)1958 Edsel Citation 2dr Convertible (2012-04 トヨタ自動車博物館・収蔵庫)
この車はトヨタ博物館が所蔵する「エドセル」で、最上位の「サイテーション」の中でも一番値段の高い2ドア6人乗りのコンバーチブルだ。3人掛け2列の「ベンチシート」だが、本当に正真正銘何の仕掛けもない「ベンチシート」だ。
(写真01-3ab)1958 Edsel Pacer 4dr Sedan (1962-04 撮影場所不明)
僕は殆どの車について撮影場所を覚えているのだが残念ながらこの時撮った3種7枚については場所が思い出せない。周りの車を見てもイベントで集まった車では無さそうだ。別の車の背景に京王電鉄のバスが写っているので八王子方面かもしれないが、偶然駐車場で見つけたので印象に残っていないのだろう。
(写真01-4a~d)1958 Edsel Pacer 2dr Convertible (1990-07 幕張メッセアメリカン・ドリームカー・フェア)
赤と白2色を使い分けたデザインは見事だ。インテリアはトヨタ博物館のピンクの車より派手でグレードは下だがこの車の方が魅力的だ。コンバーチブルは「ペーサー」が914台、「サイテーション」が1,571台しか造られていない希少モデルだ。
(写真01-5abc) 1958 Edsel Pacer 4dr Sedan (1958-08/羽田空港)
この車は僕が最初に見た「エドセル」だ。青ナンバーは大使館用で外の字が○でかこまれているのは大使の公用車だ。アメリカ大使は「キャディラック」だからそれ以外の国だが、出来立ての車を公用車に購入するとは、よっぽど車好きか、新し物好きか。ホイールをよく見ると何処にも「エドセル」の文字は入っていないからフォード一家が懸念した父親の名前がぐるぐる回る事態は避けられたようだ。
(写真01-6a) 1958 Edsel Pacer 4dr Sedan (1959-03 /港区・虎の門)
虎の門にはアメリカ大使館があったから、路上駐車禁止になる前は、その周辺の道路には最新のアメリカ車がぞろぞろ駐車していた。この車はアメリカ大使館の車のようだ。
(写真01-7ab) 1958 Edsel Bermuda 4dr Station Wagon (1961-11/立川市内
)
ステーションワゴンには3シリーズがあり、6人乗りと9人乗りが用意された。写真の「バーミューダ」は最上位の4ドア6人乗りだ。場所は立川市内で、生活臭の濃い車はアメリカ人家族が住んでいる場所に近いこの近辺で多く見ることが出来た。
(写真01-8abc)1959 Edsel Ranger 4dr Sedan (1959-12 /港区・六本木付近)
前年不振だった「エドセル」は4つあったシリーズを「レンジャー」と「コルセアー」に絞った。外観はグルル内の細い格子が太めの横バーに変わっただけで、あとはモールディングで変化を付けた「マイナー・チェンジ」だった。結果的には伸び悩んだ去年よりさらに3割近く売り上げが落ちて44,891台しか売れなかった。この車もどこかの大使館の車だ。
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<エドワーズ>(1954~55・米)
殆ど知名度の無いこの車は、それもその筈で2年間にたった5台しか造られていない。何処の国かも判らないから、名前からなんとなくイギリスかと思って居たが実はアメリカ生まれだった。造ったのはスターリングH.エドワーズと言う男で、1940年代からウエスト・コーストでレース活動を続けていたが、1950年代に入って市販車の生産を計り1954年最初の車が完成した。この車は大きく、重く、豪華な内装は何処から見てもスポーツカーとは呼べなかったが、そのアメリカン・テイストこそ此の後パーソナル/ラグジュアリーカーとして発展していった車の先駆けとなったもので、当時モータージャーナリストの注目を集めた。スタイリングはリアフェンダーが一寸段付きになった感じなどはピニン・ファリーナのフェラーリを思わせるが、テールランプが1952-53年のマーキュリーから頂いたと言っている所から社内でデザインされた物だろう。
(写真02-1a~d)1954 Edwards America Convertible Coupe (1999-08/ペブルビーチ)
最初に造られた「エドワーズ」で54年型は2台しか造られていない。この年はリンカーンのV8 OHV 5,192cc 205hp/4200rpmエンジンが載せられた。スポーティーな車に大排気量のエンジンを載せ、長距離を楽々とドライブする「グランド・ツーリング・カー」(GT)の誕生だ。
(写真02-2ab)1955 Edwards American Coupe (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
(参考)テールランプを頂いたオリジナルの1952年マーキュリー
2年目に入った「エドワーズ」だが外見に大きな変化は見られない。唯当時アメリカ車が我も我もと競って付けた「テールフィン」がこの車にも取って付けられている。もう一つの変更はエンジンで、リンカーンに代わってキャディラックのV8 OHV 5,423cc 250hp/4600rpmとより強力になった。エンジンの変更に伴ってボンネットにエア。インテークが付けられた。一見固定式のトップの様に見えるが、取り外し可能なハードトップらしい。この車のデザインで一つだけ気になったのはグリルで、立体感の少ない目の粗いパターンはいかにも大雑把で、もっと繊細なグリルにしたら、フェラーリにも負けないハンサムに成る筈だ。.
<E.R.A.> (1934~38/英)
(前史)
E.R.AはEnglish-Racing-Automobils の略でイングランドの力をモータースポーツの世界に示そうという意気込みの表れだった。中心となったのはイングランド中部のリンカンシャーで生まれ、羊毛商を父に持つレイモンド・メイズ(Raymond Mays 1899-1980)だった。上流社会で育った彼は、典型的なエリート・コースを辿りケンブリッジ大学を卒業した。父親もモータースポーツ好きで、幼いころから父と共にレース場に通い、著名な技術者とも交流を持つなどますます自動車にはまり込んでいく。初めて自分の車を持ったのは大学時代に購入した「ヒルマン・スピード・モデル」で、学生時代知り合い後年スーパーチャージングの権威となった「アムハースト・ヴィリアース」と組んでレース用チューニングを施し、デビュー戦アストン・クリントン・ヒルクライムでいきなりベスト・タイムを出して注目を浴びた。その後家業を継ぐため暫くレース活動は中断していたが、1922年フランスのブガッティがイギリスで限定販売した「ブレシア」を購入することを決め、ヒルマンを売り、有り金を全部はたいて、まだ足りない分を分割払いにして手に入れた。
(参考)1922 Bugatti Type13 "Brescia"
この車の優れたパフォーマンスを足掛かりにめきめき実績を挙げ、メイズは一流ドライバーとして知られるようになった。そして彼の名はモルスハイムのエットーレ・ブガッティも知るところとなって居た。その頃モリスハイムを訪問し直接エットーレ・ブガッティに自分のチューニング方法や将来のレース・プランについて熱弁を振るったところ、ブガッティは無償でチューニングを引き受けたうえ、同型車を1台提供してくれたというエピソードが残っている。1926年にはこの後重要なパートナーとなる「ピーター・バーソン」と出会う。元々モータースポーツ好きだったバーソンは、英空軍の士官候補生だったが事故で怪我をし、その治療の為の休暇がメイズと共にレーシングカー造りの時間を与えた。彼は技術者としての専門教育を受けたことは無かったが、レーシングカーの改造については天才的な素晴らしいひらめきを持って居た。この才能は「E.R.A.」だけに留まらず、戦後の「B.R.M.」の設計にも生かされることになる。メイズはバーソンの才能を高く評価し、これだけのパートナーは二度と見つからないだろうと信じて彼を説得し空軍を退役させた後、羊毛業の共同経営者として迎え,その傍らレース活動も行う事となった。最初に手掛けたのは、メルセデスの「タルガ・フローリオ」2リッターで、「バーソン」の手でチューニングされた車を「メイズ」がドライブし各地で好成績を残し、本家メルセデスを脅かした。
(参考)1922 Mercedes Targa Florio 2.0 ドイツ籍のこの車が何故真っ赤なイタリアンカラーかと言うと、イタリアのシチリア島で開かれるレースの大多数の観客は遠目で赤い車が爆走してくればイタリア車と思って大歓声で応援したとか。「メイズ」の愛車は皮肉にもドイツのナショナルカラー「白」だった。
・1932年「メイズ」と「バーソン」はライレーのスポーツモデルをベースに1.5リッター6気筒のレーシングカーに仕上げ、オーストリア人ハンス・シュトックに奪われていたシェルズレイ・ウオルシュ・ヒルクライムの記録をイギリス人/イギリス車に奪還するという計画を持ってコベントリーのライレー本社を訪問、その日のうちにライレー社の全面協力を取り付けた。「マーレイ・ジェイミソン」の手になるスーパーチャージャーで強化されたこの車は1.5リッターから147hpを絞り出し、「ホワイト・ライレー」と名付けられた。
デビューは1933年のブルックランズ・レースだったがこの時はスーパーチャージャーの駆動ギアが破損してリタイヤした。しかし2週間後のシェルズレイ・ウオルシュ・ヒルクライムでは当初の目的だったハンス・シュトックの記録を破り約束を果たした。この年のシーズンが終わるまでには「ホワイト・ライレー」は1.5リッタークラスではイギリスで最速の車と認められる存在となった。
(E.R.A.の誕生)
1934年シーズンを迎えようとしていた「メイズ」の元に旧友の実業家「ハンフレー・クック」から一通の手紙が届いた。それは「ホワイト・ライレー」の活躍に可能性を期待し、この車を基本に国際レースでイギリスを代表する1.5リッタークラスのレーシングカーを造らないか、と言う誘いだった。1933年 11月新しい会社は設立され「イングリッシュ・レーシング・オートモビルズ」(E.R.A)と命名された。出資者の「ハンフリー・クック」が社長、取締役兼主任設計者が「ピーター・バーソン」、取締役兼ドラオバーが「レイモンド・メイズ」と言う体制で、本社はリンカンシャー州ボーンのメイズ邸に置かれた。1920年代後半から30年代の前半にかけて、世界のGPフォーミュラは1922-25年「2リッター」、26-27年「1.5リッター」、28-33年「3リッター」と変わっており、34年再び「1.5リッター」の時代が来ると予想していた「E.R.A.」にとって、排気量ではなく「最小重量750kg」と言う新フォーミュラは予想外であった。新フォーミュラで「E.R.A.」は「ヴォワチュレット」という、現代の「F2」に相当するクラスになってしまった。しかし、この年のGPクラスにはナチス・ドイツの国家的支援を受けた「メルセデス・ベンツ」と「アウトウニオン」と言う2大モンスターが参入して総なめにしてしまったから、弱小チームの「E.R.A.」にとっては別の舞台でレースしたことはむしろ幸運だったかもしれない。
・「E.R.A.」の活動は3つに分けられる。第1期1934-38年には、原型「Aタイプ」が4台、その発展型「Bタイプ」が13台、それらを改造して「Cタイプ」「Dタイプ」と名付けられた合計17台がある。第2期は1938-39年の「Eタイプ」2台、第3期は経営者が変わった戦後の「Gタイプ」となる。
・1935-37年が「E.R.A.」 にとって最も活躍した時期で、1939年に入るとアルファ・ロメオが「ティーポ158」と言う強敵を投入してきたことで独占体制は破られてしまった。この年「Eタイプ」の開発を担当していた「マーレイ・ジェイミソン」がレース観戦中に暴走した車の事故に巻き込まれて死亡し、「レイモンド・メイズ」と「ピーター・バーソン」は「E.R.A.」から手を引き、メイズは愛車を買い取ってプライベート・ドライバーとなり、バーソンは航空部門に転職した。
・「E.R.A.」のスピリットは1939年の「Eタイプ」までで終わり、戦後オーナーが「レスリージョンソン」に代わってから造られた「Gタイプ」は、BMW328のエンジンを積み「スターリング・モス」のドライブでレースに挑んだが不振で全く結果は残せなかった。この車は設計図と共にブリストル社に売却され、1953年ルマンに登場した「ブリストル・スポーツカー」の開発に貢献した。そんな訳で「Gタイプ」は真の「E.R.A.」の後継車とはなりえなかったが、その精神は戦後の「B.R.M.」に引き継がれた。 .
(写真03-1abc) 1934 ERA 1.5Litre (2004-06 /フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)
設計者は「ピーター・バ-ソン」と「レイド・レイルトン」で、シャシーは「ケン・リチャードソン」が担当した。エンジンはライレーからの転用で直6 1488cc 150hp/6500rpm サスペンションはリッジド・アクスルと横置き半楕円形スプリングと言うシンプルな組み合わせだった。この車はファクトリーチームの他にプライベーターの為にも提供され、後年メルセデスのエースとなる「リチャード・シーマン」(英)に活躍のチャンスを与え、21歳の誕生日プレゼントにこの車を贈られたタイ国の皇太子「プリンス・ビラ」も後年「メイズ」のライバルになった。「タイプA」と「B」の違いは「B」の方がドライバーシートの下にX形の補強メバー-追加され、リアサスペンションが少し柔らか目と言うから、外見からは全く識別はつかない
(写真03-2a~d) 1935 ERA D-type 2-litre (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)
「C・Dタイプ」は「A・Bタイプ」の改造型に付けられた名前だ。写真の「タイプD」は「メイズ」自身の「R4B」のナンバーを持つ「Bタイプ」車を実験的に改造したもので、シリーズ生産されたものではなく この車1台だけである。エンジンは1980cc で、より強力な高圧型ゾーラー型スーパーチャージャーに変え340hp/6500rpmを得た。フロントサスペンションはポルシェ特許のダブル・トレーリング・アーム独立懸架に変えられた。この車はシーズン終了後ブルックランズ・コースで「スタンディング・スタート1km」に挑戦し2リッターの小型車としては驚異的な平均89.73mph(144km/h)の世界記録を樹立している。平均速度と言う感覚はピンと来ないので別の単位で表現すると、1秒間に平均で40メートル走り、スタンディング・スタートでは1000メートルを25秒で走り切る速さだ。
(写真03-3a~d) 1938 ERA E-type 2Litre (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)
「Eタイプ」は「マーレイ・ジェイミソン」をチーフに次世代の車として全く新しい車造りをスタートしたが、計画半ばで「ジェイミソン」が予期せぬ事故で死亡するアクシデントに見舞われたが開発は続けられ1939年には2台が完成する。この車は第2次大戦の勃発と重なり戦前は殆ど活躍していない。戦後経営陣が替わってからレースを走っていたが1台は1950年マン島のレースでクラッシュ炎上してしまった。だから写真の車はたった1台残された貴重な車という事になる。
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<エルミーニ> (1946-55/伊)
フィアットをベースに独自のスポーツカーを造り出すマニアックな工房は、イタリアには数多く存在する。トスカーナ出身でフィレンツに本拠を置いて活動していた「パスキーノ・エルミーニ」もその一人で、総生産台数は約40台と少ないが、現役時代「タルガ・フローリオ」や「ミッレ・ミリア」で大活躍した強者である。その強さの秘密はフィアット1100のエンジンに装着したエルミーニが独自に開発した「DOHCヘッド」に有るらしい。そんな訳で知る人ぞ知る名車、といってもわが国ではまだ知名度は低いが、2014年ジュネーブショーでは現代版が復活する程の評価が高い車で、その車「エルミーニ686」は2リッターながらターボ付きで320hp,最高速度は270km/hと物凄い車だ。
(写真04-1ab) 1955 Ermini 357 Sport (1992-10 ラ・フェスタ・ミッレミリア/神宮絵画館前)
この車は日本に定住した車ではなく、1992年第1回「ラ・フェスタ・ミッレミリア」のためイタリアからやって来た車だ。始めて見る車で名前を聞いたことも無かった全く未知の車だった。余談だが本場のミッレミリアでも突然見たことも聞いた事もない手造りに近い車に出会う事があるが皆フィアットベースのこの車の兄弟分だ。4気筒DOHC 1431cc 120hpで最高速度は200km/h、ボディはスカリエッティ製で、中身もそれに相応しい高性能をもっている。モデル名の「375」は、フェラーリでお馴染みの1気筒当たりの排気量から採ったもので、4気筒だから1500ccとなる。
(写真04-2ab)1948 Ermini 1100 Sport (1997-05 ミッレミリア、スタート/ブレシア)
(参考)1952 Ferrari 225 Sport Vigniale
この写真は1997年のミッレミリアでスタートを待つ出場車の行列を順々に撮って行ったときのものだ。午前中「ヴィットリア広場」で車検を済ませた車は、ブレシアの町中のありとあらゆるところに駐車しているからこの時が僕の活動するチャンスとなるのだが、夕方になると町の東側にあるスタート地点「ヴェネチア通り」へ続々と集まってくる。少し高めに作られたスタート台で1台づつ紹介されて出発する。ところで写真の車はどう見ても「フェラーリ」にしか見えないが、ボンネットに跳ね馬のエンブレムが無い。憧れの「フェラーリ」をそっくり頂いた「エルミーニ1100 スポーツだ。参考にオリジナルの「フェラーリ225」を掲載したのでじっくりと見比べて頂きたい。一番の違いは全体の大きさで人間と較べればその差は歴然だ。
(写真04-3abc) 1948 Ernini Tinarelli 1100 Sport (2000-05 ミッレミリア/ブレシア)
こちらもミッレミリアで捉えた「エルミーニ」だが、この種の車はミッレミリアでしか見つけることは出来ないだろう。葉巻型のボディにウィングを付けた「ロータス7」と同じ様な雰囲気を持った車だ。レースナンバーを張り付ける前の車はなかなか特定がむずかしいが、この車はボディサイドの参加車名「Gaburri」から#161 Ermini Tinarelli 1100 Sportを割り出した。場所は車検場「ヴィットリア広場」のすぐ隣にある「ロッジア広場」で、ご覧の様に名車、珍車がごろごろしている。
(写真04-4a) 1950 Ermini 1100 Sport (2000-05 ミッレミリア/ブレシア)
この車は葉巻型でもサイクル・フェンダーでよりレーシングカーに近い雰囲気で、「ロータス」でいえば「Mk6」という感じだ。この車は日本から参加したもので、国内のイベントにも参加しているからご存知の方もあるかもしれない。
(写真04-5a)1953 Ermini 1100 Sport (2000-05 ミッレミリア/アッシジ)
(参考)1955 Ferrari 250GT Berlinetta
こちらの車は最初登場した375と同じスポーツカータイプで、とても小規模生産の車とは思えない程完成度が高い。遠目で見れば紛れもなく「フェラーリ」だ。という事で、ここでもそっくりさん「フェラーリ250GT」に登場を願ったが、似ていると印象付けるのがラジエター・グリルだとすれば、普遍的な楕円のモチーフは意識的でなくても偶然似てしまったという事も有り得るかな、とも思ったりする。
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<エセックス> (1919-32・米)
「エセックス」と言う車を知っている人は日本では少ないだろう。1919年から32年まで存在したアメリカの車で、「ハドソン」と言う1950年代まで存在したメーカの廉価版を担当した車だ。戦前、といっても大正から昭和初期にかけてわが国にも何台かは輸入されたようで写真が残っているが、戦後まで生き残ったかどうか、戦後自動車に興味を覚えた僕は街中で出会う事は無かった。1917年10月「エセックス」を造るためデトロイトのフランクリン・アベニューにあった「スチュードベーカー」の古い工場を借りて生産体制を整えた。1918年には92台造られただけだったが、本格的に稼働した1919年には本家「ハドソン」を抜いて21,879台を生産した。「エセックス」のネーミングはハドソンの役員がイギリスの地図を指さして決めたといわれている。「エセックス」のネーミングから6気筒(Six)をほのめかすという説もあるが、実際は4気筒Fヘッド 2952ccだった。廉価版と言っても決してヤワな車では無く、1919年12月にはシンシナティ・スピードウエイで50時間に3037マイル(4890km)を走り世界長距離耐久記録を樹立したのを手始めに、無改造のツーリングカーでアイオワの雪道を24時間で1061マイル(1708km)を走ったり、翌1920年には東西に分かれて2台づつでアメリカ大陸横断にチャレンジし最速は4日14時間43分を記録するなど、性能、耐久性を大いにアピールした。しかしこの車は性能だけだはなく自動車史上初と言われる価格面で革命的なことをやってのけ、その結果一般大衆の所有する車の形態に変化をもたらした。早く言えば「オープンカー」から全天候の「箱型」に変わったという事だ。自動車と言う乗り物が発生した19世紀末以来、1920年初めまではいわゆる上物の無い「オープンカー」が普通で、現代のセダンのような「屋根付き」は高級車だった。1919年「エセックス」が誕生した年の価格は、ツーリング1395ドル、ロードスター1596ドル、セダン2250ドルと箱型はオープンの1.6倍も高いのが常識だった。ところが1922年にはツーリング1045ドル、カブリオレ1145ドル、2ドアコーチ1245ドル、セダン1895ドルと全天候の「屋根付き」でも「オープン」と殆ど変わらない値段で手に入るという流通革命が起こったから、1924年には「エセックス」の90%がクローズド・モデルとなる。1926年には4ドアセダンはツーリングと同じ795ドルとなり、2ドアコーチは100ドルも安い696ドルまで下げられた。この影響を受けてクロズドボディの普及はアメリカ全土に広がり、10年前には10%程度だったものが 1929年には総販売数の90%は「クローズド・ボディ」だった。1932年はエセックスのニューモデルを「エッセク-テラプレーン」として市場に出したが、翌年からはエセックスが取れて「テラプレーン」となったので、売れなくなって消滅した多くのケースと違って、後継車に名前を引き継いで引退したという事で良いだろう。
(写真05-1a~d)1923 Essex 2de Coach (1999-01 トヨタ自動車博物館)
写真の車はトヨタ博物館が所蔵している「エセックス」で、このタイプが話題の「2ドアコーチ」である。小型セダンで5人乗りだから、実用性から見ればオープン・モデルに較べれば雨にも風にも完全防備のこちらが売れるのは当然と言える。
(写真05-2ab) 1923 Essex Special (1995-08 モンタレー・ヒストリック・オートモビル・レース/ラグナセカ)
この車は前項の車と同じ年式だ。当時レースに出ようと思ったらあらゆる物を取っ払って軽量化するのが常套手段だった。本来決して速い車ではないと思うのだが、やっぱりいろいろな記録に挑戦した古い記憶がこの車の血統に生きているのだろうか。
(写真05-3a~d)1929 Essex Challenger Speedabout (1971-03 ハーラーズ・コレクション/晴海)
この車の最大の特徴は「ボートテイル」と言われるそのボディ・タイプだ。このタイプで頭に浮かぶのは「デューセンバーグ」「オーバーン」「スタッツ」「パッカード」など高級車ばかりだが、この車は1000ドルを切る僅か945ドルの大衆車だから驚く。後ろにランブル・シートが有るが、絞り込まれたテイルのため1人しか乗れない。日本では知名度の低い「エセックス」だが、この車が造られた1929年(世界的大恐慌の起きた年)には「フォード」「シボレー」に次いでアメリカ第3位の生産台数を製造した大メーカーだった。エンジンは6気筒 SV 2628cc 55hp/3600rpmと言う平凡なスペックだが、一つだけ面白い仕掛けがある。それはギアボックスで、前進3段のシフトが1速、3速、2速という変則パターンで、通常は1速と3速で走り、ハイウエイで55マイルに達したら2速のオーバー・ドライブを使うと説明されて、なるほどと思ったが、3速を2速、2速を3速と言えば別に「普通じゃん」と割り切れない気持ちもある。
<エヴァ> (1968~/日)
日本のレーシング・シーン黎明期に存在したメーカーで、代表の三村信明を中心にマクランサで実績を持ち、後年「童夢」を立ち上げた林みのる、など7人のスタッフで立ち上げた会社で、基本的にはキットを販売するのが目的で、ファクトリーチームでレースをするための車は造らない。
(写真06-1a~d)1969 Eva Anteres Type 1A(Fairlady2000) (1969-02 東京レーシングカー・ショー-/晴海)
最初の製品が「エヴァ・アンタレスタイプ1A」で、ボディはFRPの2座モノコックでパワーユニットにはフェアレディ2000の4気筒SOHCをミッドシップに搭載している。ギアボックスはヒューランドMk5の5段で最高速度は270km/hを見込んでいる。販売価格はAキット165万円(ボディのみ),Bキット245万円(ボディ+ヒューランドMK5)、Cキット270万円(ボディ+ヒューランドFT200)、Dキット285万円(Bキットの完成品)となっている。
(写真06-2ab)1969 Eva CAN-AM Type2A(Honda N360)(1969-02 東京レーシングカーショー)
CAN-AMシリーズにはこの当時はA/Bの2種が用意されておりAタイプは「ホンダN360/N600」のパワー・ユニット用で、 Bタイプは「ホンダ1300」用として造られた。写真の車は360バージョンで総重量300kg 最高速度170m/hが可能だった。月産10台を目指し、既に12台が売約済みと書いてある。この車もキット売りでAキット19万5千円(ボディの各パネルは組み立て前)、Bキット24万5千円(完成ボディ)、Cキット57万5千円(タイヤ以外のすべて)、その他パーツ別にも購入が可能だった。
(写真06-3abc)1970 Eva CAN-AM 2AT (1970-03 第3回東京レーシングカー・ショー/晴海)
「CAN-AM 2AT」は去年のスポーツカーショーで発表された「CAN-AM 2A」の発展型で、N360のユニットの他に2輪の500ccエンジンの搭載も可能となっている。
(写真06-4abc) 1970 Eva CAN-AM 2BS (1970-03 第3回東京レーシングカー・ショー/晴海)
「CAN-AM 2BS」はホンダ1300のSOHC 1298ccのエンジン用に造られた車で、FRPツインチューブ・モノコックに鋼管サブフレームを持つ。総重量は」490kgで最高速度は250kn/hが可能だ。この車もキット出販売され、ボディの外皮のみ20万円からエンジンとタイヤを除く完成品180万円まで用意されていた。
(写真06-5abc)1970 Eva CAN-AM 2U (1970-03 才3回東京レーシングカー・ショー/晴海)
第3回のスポーツカー・ショーで新しく登場したのが「CAN-AM 2U」タイプで、エヴァ・カーズの究極のマシーンとして自信を持って登場させた車だ。展示された車にはホンダの500ccエンジンが搭載されている。
(写真06-6abc) 1970 Eva CAN-AM 3A F-J (1970-03 第3回東京レーシングカー・ショー/晴海)
エヴァ・カーズにとって全く新しい3つ目のタイプが、この「タイプ3A」で、JAFのGPレース運用に合わせたローコストの「F-J」を量産することを目途に、1970年1月から開発が始まった。5月のGPレースに7台」を出走させ、以後各種キットを販売するという日程で始まった。2月中旬には1号車のシャシー/ボディが完成し、東京自動車技研でチューンアップされていたホンダN600用のエンジンが載せられ、3月のスポーツカー・ショーに展示されたのが写真の車だ。価格はAキット45万円(下地塗装されたボディの半完成品)、Bキット75万円(エンジン、タイヤを除く下地塗装済み完成品)、Cキット120万円(フル・レーシング仕様完成車)と3段階が用意され、比較的少ない資金でレースに参加できる道を開いたと言える。
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<エクスキャリバー> (1965~ /米)
アメリカの工業デザイナ「ブルックス・スティーブンス」は戦後間もなくジープの民間仕様版として登場した「ジープスター」で卓越したデザイナーとして知られるが、1964年当時「スチュードベーカー」社のコンサルタントだった。会社イメージの活性化を図るため何か人目を引くショーモデルを造ろうと、自身のコレクションしている1930年「メルセデス・ベンツSS/SSK」をモデルに「現代版クラシックカー」を造ることを思いついた。そこでスチュードベーカーの中から「ラーク・デイトナ」のシャシーと「アヴァンティ」のV8エンジンを使って造り上げたのがこの車だ。1964年4月ニューヨーク・ショーで、スチュードベーカーのスタンドに飾られる予定だったが、「健全で良識あるメーカーのイメージにまがい物のクラシックカーは相応しくない」との上層部の意見で中止となってしまった。やむなく会場の一画に僅かなスペースを借り、プライベートで展示することになったが「スチュードベーカー」の名前は使えないので、考えた末、スティーブンスが1952年「ヘンリーJ」をベースに造ったスポーツカーの名前を踏襲して「エクスキャリバー」と命名された。(もしスチュードベーカーのブースに展示されて居たらこの名前は生まれなかったかも知れない)アメリカの資料ではオリジナルを「エクスキャリバーⅠ」1965年以降のモデルを「エクスキャリバーⅡ」と区別している。ショーであまり評判が良かったので、この車を市販するためウイスコンシン州ミルウオーキーに「SSオートモビルズ」社を設立し商業ベースで生産を続けた。展示車を見て12台注文したのがニューヨーク・ショーのオーガナイザーで、スティーブンスに土壇場で展示場を手配してくれた「ジェリー・アレン」だった。彼はニューヨークのGM社屋の1階にショールームを持つシボレーのディーラーと言う立場だったから「スチュードベーカー」のエンジンを積んだ車を展示するのは具合が悪いので、シボレーのエンジンに積み換えてくれるよう要請し、その結果量産される車は全て「シボレー」のエンジンが積まれた。ただしシャシーは1969年まではスチュードベーカーが使われた。初期のボディは職人の手でアルミから叩き出されたが、後半からはFRPとなった。フレキシブルの排気パイプがアメリカで手に入らなかったので、やっとドイツで見つけた会社に注文したら、なんとその会社はオリジナルのメルセデスに提供していた会社だった。
(写真07-1abc)1968 ExcaliburⅡSSK Roadster (1967-11 東京オートショー/晴海)
(参考)1930 Mercedes Benz SSK お手本となったのはこんな車だった。
市販型は1965年から販売は開始された。ショーに展示された車はサイクルフェンダーだった。シャシーはスチュードベーカーの109インチが1969年まで使われたから、写真の車はおそらく塗装以外はオリジナルのエクスキャリバーと同じだろう。最初の年は7250ドルとかなり高価だったが56台が売れた。この車の日本での価格は1100万円だった。
(写真07-2a~d)1968 ExcaliburⅡSS Phaeton (1967-11 東京オートョー/晴海)
2年目の1966年からはサイクル・フェンダーに代わってランニングボードに続くフェンダーの付いた4人乗りフェートンが追加された。写真の車がそのタイプだ。日本での価格は1200万円だった。
(写真07-3abc) 1968 ExcaliburⅡSS Roadster (1967-11 東京オートショー/晴海)
3台目はフェンダー付の「SSロードスター」で価格は1023万8千円だった。オリジナルの「メルセデス」ではホイルベース3400ミリが「SS」、2950ミリが「SSK」と分けられる。「K」はドイツ語で「Kurz」(短い)と言う意味だ。しかしこの年にエクスキャリバーは全部109インチ(約2770ミリ)だからどこで区別しているのだろう。
――E項は1回でクリアーしましたが、次のF項にはフェラーリ、フィアット、フォードなど大物揃いで年内にはとても終わりそうにありません――