三樹書房
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第54回 D項-7 デューセンバーグ・1
2017.5.27

(00) 92-16_36b 1923 Duesenberg Corsa Sport.jpg

長い間アメリカ人が誇りに思っていた「クルマ」が今回の「デューセンバーグ」だ。それは唯一ヨーロッパのグランプリで優勝した本物のスポーツカーであり、インディ500 で3度も優勝した実績を持ちながら、1920年代後半から30年代にかけてはその類まれなポテンシャルを大型超高級車に生かし値段、性能ともに最高の地位を占めた憧れの車だった。デューセンバーグを造ったのは、ドイツの中西部ハノーファーに近いリッペで生まれた「フレデリック・サミュエル・デューセンバーグ」(1876-1932)とオーガスト・サミュエル・デューセンバーグ」(1879-1955))の兄弟で、父の死後、一足先にアメリカへわたっていた長兄「ヘンリー」を追って、母と共に10代でアイオワ州ロックフォードにやって来た。数年後17才になった「フレデリック」は、持ち前の機械に対する才能を生かし、農機具の修理で独立できるまでになって居た。その一方、彼は「自転車レーサー」としても才能を発揮し、1898年には2マイル区間と3マイル区間の世界記録を樹立したという記録が残っている。21才の時は自分の「自転車工場」を造り、それがやがてオートバイに発展、1902年、ついにウイスコンシン州の「ランブラー社」に就職し、自動車との係わりを持つことになった。1903年には弟の「オーガスト」と共に、アイオワ州ディモインズで「アイオワ自動車会社」を設立、地域の農民に適した自動車を造ったところ、「メーソン」と言う弁護士の目に留まり、それを生産するための資金援助を受けて1906年「メーソン自動車会社」を設立した。

(00) 1908 Masonn の広告
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この会社のイメージアップを図るためレーシングカーの設計を始めたのがデュ-センバーグのレース活動のスタートとなった。ここで造られた4気筒、5.7リッター100馬力のエンジンは「ウオーキング・ビーム」と呼ばれ各地のレースで実績をあげ、1913年の「インディ500」では9位になっている。「インディ500」とこの会社の係わりは長く、1913年の「メイソン」から始まり、1914年」「デューセンバーグ」となってからも毎年チャレンジが続いた。1924、25、27年と3回優勝した他、1933年までの20年間(1917,18年を除く18回)で2位4回、3位3回と常に上位の常連だった。

(写真16-abc) 1916 Dusenberg Indy Racer (1995-08 ラグナ・セカ/カリフォルニア)
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・1914年兄弟はミネソタ州セントポールに移転し、ここで「デューセンバーグ自動車会社」を設立、いよいよ自分の名前の付いた自動車を造ることになった。設立当初は乗用車は造っておらず、「レーシンカー」と「エンジン」のメーカーだったが、このエンジンに注目したパワーボート・レーサーのJ.A.パー准将からボートレース用エンジンの注文を受け、ウオーキング・ビーム式の直列12気筒を完成させた。このエンジンは2気筒ずつ鋳造されたものを組み合わせて造るので、必要に応じて2,4,6,8気筒に対応でき、これで「船舶用エンジンメーカー」としても認められる存在となった。当時この業界大手の「ロウ・ビクター社」は6気筒と8気筒エンジンの製造権を買い取り、「フレデリック」とはコンサルタント契約を結んだ程だ。そのあと、「航空機エンジン」の開発も手掛け、4気筒エンジンをギアでつないだ並列8気筒を完成し水上機に搭載された。この成功をみて、「ロウ・ビクター」社のオーナー「J.R.ハーベック」は「フレデリック」との話し合いで、両社の共同事業としてニュージャージー州エリザベスに新工場を造り航空機エンジンの生産を計画した。それは第1次世界大戦中で大幅の需要を見越したものだった。最初に造られたのは16バルブ4気筒125馬力の練習機用エンジンだった。1917年アメリカ政府は大戦に参戦するため緊急に大型航空機のエンジンを必要としており内外のプランを検討した結果、ヨーロッパに派遣した視察団が持ち帰った「ブガッティ」のエンジンを採用し、「チャールスB.キング」がアメリカでの生産に適するように設計変更した「ブガッティ・キング・エンジン」が、ここエリザベスの工場で生産されることになった。しかし、生産がはじまって間もなく大戦が終わってしまったので軍需は中止となってしまった。

(写真19-1abc) 1919 Bugatti-King U Type Aero Engine (2001-08 河口湖博物館)
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プレートは明らかに「ニュージャジーのエリザベス工場で造られたことを示している


・これと並行して、大戦中もレース活動は続けられ、その間も順調に勝利を収めてきた「デューセンバーグ」のエンジンの評判は高く、このエンジンを積んだ車も何社か現れた。しかし「フレデリック」はこの4気筒エンジンの限界を感じており、次期エンジンとしての直列8気筒SOHC 5リッターの設計をはじめ、1919年のインディ500のため何とか1台完成させたが、50ラップでコンロッドを折りリタイアした。しかし、このレースでは33台中7台が「デューセンバーグ」製のエンジン(6台は4気筒)を積んでいたから、如何に人気があったかが知られる。


<モデルA>
大戦が終わるとデューセンバーグ社は「インディ500」の地元インディアナ州インディアナポリスに移転した。1920年12月のニューヨーク・ショーで遂に「デューセンバーグ」初の乗用車「モデルA」がデビューする。そのエンジンは市販車としてはアメリカ初の直列8気筒で、SOHC 4.3リッター、3バルブはレ-シング・エンジンの血を引くものだった。4輪油圧ブレーキを備え、水準を超えた高い性能と品質を備えていたが、残念なことにそのスタイリングは平凡でそのポテンシャルに相応しいものとは言えず、パッカードでさえ5000ドル前後で買える時代に6500ドルと極めて高価だったから、その後5年間造られたが営業的には成功とはいえなかった。

(02) 1921 Duesenberg Model A の広告
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(写真23-1abc) 1923 Duesenberg Model A Millspaugh & Irish Roadster (1995-08 ペブルビーチ)
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この車が「モデルA」の標準的なスタイルで、ロードスターの他に、「フェートン」「「クーペ」「セダン」「リムジン」と各種タイプが造られたが、性能は別として、値段に見合う「見た目」や「貫録」が備わっていたかは判断しがたい。

(写真26-1a~d) 1925 Duesenberg Model A Krueger Special Speedster (1998-08 ブルックス・オークション/カリフォルニア)
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この車は「モデルA」のシャシーを大幅に短縮している。1933年頃セオドール・コスロフの依頼でハリウッドの「バド・リヨン」と言うボディ・ショップで改造されたようだ。この猫の目のようなヘッドライトは「Woodlite」の商品名で、1930年代の高級車に付け替えられたものを幾つか見ている。

(写真23-1a~d) 1923 Dusenberg Corsa Sport (1992-10 ラフェスタ・ミッレミリア/神宮絵画館)
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この車は「アルゼンチンの有名なドライバー「マーチン・アルサガ」の手によって4ドアセダンから改装されたもので、彼は1924年のフランスGPで優勝したドライバー」と説明されていたが、寡聞にして僕はこの名前を知らなかったし、結果も確認できなかった。直列8気筒、4500cc 120hp 最高速度190km/hで、今は恒例行事となって居る「ラ・フェスタ・ミッレミリア」が最初に開かれた際アルゼンチンから参加した車だ。

<フランスGで優勝>
1921年7月26日「デューセンバーグ」はアメリカ車としては初の快挙を成し遂げる。ル・マンのサルテ・サーキットで開催された「フランスGP」で優勝したのだ。(この後アメリカ車がヨーロッパで勝利したのは1976年「イーグル・ウェスレーク」で46年後の事だった)

(写真21-11a~d) 1921 Dusenberg 8 Racer (2007-06 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
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(写真211-2ab) 1921 Dusenberg 8 Racer (1995-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
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1919年から登場した「8気筒」の新型エンジンは、1921年のインディ500 で2位に入っているが、写真の車こそアメリカ人ドライバー「ジミー・マーフィー」がル・マンの「フランスGP」で優勝した車で、インディアナの博物館からの参加とされていた。(フランスGPはル・マンのサルテ・サーキットで開催されたが、24時間レースではない)ジミー・マーフィーは翌1922年「インディ500」で優勝しているが、車は「ミラー・エンジン」だった。

(写真24-1abc) 1924 Duesenberg 2-Littre Supercharged Indy Racer (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード)
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「インディ500」は排気量が去年までの「2リッター」から「1.5リッター」に縮小された。そこで「デューセンバーグ」では新たに効率の良い「2サイクル・エンジン」に「スーパーチャージャー」を付けたエンジンを開発した。この年の「インディ500」には2台エントリーし、4サイクル・エンジンは5位で完走したが、2サイクル・エンジンは54周でリタイアした。原因は「壊れた」となっており詳細不明。  

・華々しい勝利は「モデルA」の売り上げには連動せず、レース活動には膨大な費用が掛かるため1926年には「デューセンバーグ社」は銀行管理を受ける羽目に陥った。この危機を救ったのが「オーバーン社」の社長「エレット・ロバン・コード」だった。彼はデューセンバーグ兄弟の才能を高く買っており、自分が理想とする究極の車造りを兄弟に託すため、買収して吸収合併するのではなく、この会社の株式の大半を取得してそのまま存続させた。そして自分のアイデアを示して、その実現の全てをまかせた。2年の準備期間を経て1928年12月、待望のニューモデル「モデルJ」がニューヨーク・ショーにデビューした。


<モデルJ>
エンジンは「モデルA」の流れをくむ直列8気筒で、95mm×121mmで排気量は6900cc,サイドバルブが一般的だった当時、チエン駆動のDOHC、気筒当たり吸排気各2の4バルブと言うグランプリ・ンジン並みのスペックをもち、圧縮比は5.2と低めながら出力は265hp/4250rpmで、ベア・シャシーだけでも2トンも有る車を、高速度186km/hまで引っ張ることが出来た。
(写真29-1abc)1929 Duesenberg Model J Murphy Convertible Coupe (1998-08 ブルックス・オークション/カリフォルニア)
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いよいよ「モデルJ」が登場する。このモデルが「デューセンバーグ」の基本となるもので、ボンネットサイドの右側に排気管が無く、ルーバーは縦に切られているのが特徴だ。

(写真29-2a~d) 1929 Duesenberg Model J Willoughby Berline (1998-08 ペブルビーチ)
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メッシュでカバーされたグリルは、一般的に知られている「デューセンバーグ」とは一寸違った印象を受ける。立派な広いボディーを持つこの車には荷物のためのスペースは無いから、後ろに大きな「箱」を積んでいるのが当時の普通のスタイルだった。

(写真29-3a~f) 1929 Deusenberg Model J LeBaron Barrelside Phaeton (2008-11 トヨタ博物館クラシックカーフェスタ/神宮外苑絵画前)
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流石はトヨタ博物館で、これぞ「デューセンバーグ」と言う我々がイメージする典型的なのモデルを保有している。ラジエターにはクローム・メッキされた縦のシャッターが付いてこそ「デューセンバーグ」だ。(個人的な意見です)

(写真29-4a) 1929 Duesenberg Model J Bohman & Schwalz Berline (1999-08 クリスティズ・オークション・テント/ペブルビーチ)
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この車は僕の基準では全く「デューセンバーグ」らしい所が無い。唯一ボンネットの先端のマスコットだけが見慣れたものだ。1930年代後半に改造されたと思われるヘッドライトの小さいのも、当時としては「モダン」な感覚だったかもしれないが、角ばったボディには似合わない。そんな訳でこの車は1枚しか撮って居なかった。

(写真30-1a~d) 1930 Duesenberg Model J Willoughby Limousine (1998-08 ペブルビーチ)
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この車は同じ「ウイロビー」社製だが前出のメッシュでカバーされたグリルと違って、ごく当たり前のクロームメッキのグリルを持って居る。アメリカで架装されたボディについては、顧客の注文やコーチビルダーの暴走で「デューセンバーグ」の品位や名声が傷つけられないためすべてを管理下に置いてコントロールしていたから、あまり変なものは作られなかった筈だ。ランドウ・ジョイントが付いているが屋根は開かないから飾りだけの、「フォ-・カブリオレ」(見せかけの)と呼ばれるものだろう。


(写真31-2a~d) 1932 Duesenberg Model J Murphy Convertible Coupe (1998-08 ペブルビーチ・コンクール・デレガンス)
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「デューセンバーグ」の紹介をする場合は、必ず「何処で造られたボディ」かが入っている。という事は「全てがスペシャル・ボディだ」という事だ。その中でも最も多かったのが「ウオルターM・マーフィー」社で、約1/3にあたる150台以上を手掛けた。写真の車もその1台だ。用意された「オフィシャル」のカタログ27番にデザインNo.22301 として「マーフィー」コンバーチブル・ロードスターが載っており、この車は、ほぼ忠実につくられている。


(写真32-abc) 1931 Duesenberg Model J Murphy Convertible Roadster (1995-08 モントレー市内のオークション会場にて)
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8月のカリフォルニアではモンタレー周辺で「ラグナ・セカ・レースウエイのヒストリック・レース」、アメリカ中のイタリア車が全部集まったかと思う程の「コンコルソ・イタリアーノ」、そして伝統と格式の「ペブルビーチ・コンクール・デレガンス」と3大イベントが同時期に行はれる。それと合わせて、モントレー市内のホールではクラシックカーのオークションが毎晩行われ、夜も車好きを飽きさせない。前項と同じ「マーフィー」によるコンバーチブルだが、こちらは「クーペ」ではなく「ロードスター」となっていた。しかしどちらも幌を下ろしてしまえば「ロードスター」だ。殆ど同じように見えるが、こちらのドアはカタログと違って前ヒンジとなって居る。

(写真34-1abc) 1934 Duesenberg Model J Murphy Convertible Coupe (1995-08 ペブルビーチ)
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これも又「マーフィー」のコンバーチブル・クーペだが、前出の2台と違って「ランブル・シート」は備えていないようで乗り込むためのステップが無い。と言う事は後ろ半分に荷物が積めるから、「つづら」のようなトランクを背負う必要がないのだろう。その代りにスペアタイヤを2組積んでいる。


(写真32-1a~d) 1932 Duesenberg Model J Murphy Sport Sedan (1995-08 ペブルビーチ)
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次も「マーフィー」製でデューセンバーグとしてはやや小ぶりな引き締まった「スポーツ・セダン」だ。4ドアの蝶番を中央に纏め、見た目をすっきり収めている。マーフィーは蝶番が外に出ているが、技術的には見えないようにも造れる筈だから、デザインの為のアクセンととして残して居るのだろうか。

(写真32-2a~d) 1932 Duesenberg Model J Judkins 4-Passenger Coupe (1995-08 ペブルビーチ)
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この車は「ジャドキンス」製の4人乗りクーペで、キャビンが小さい分、後方に余裕がありボディ・デザインと共通イメージの固定された大きなトランクが備えられている。

(写真35-1ab) 1935 Duesenberg Model J d'Ieteren Freres Cabriolet (1998-08 ペブルビーチ)
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この車はベルギーのカロセリアで造られた物だが、メーカーの事は僕の調べた範囲ではよく判らなかった。比較的オーソドックスなデザインでサイドウインドから後方へ流れるラインが特徴だ。

(写真35-2ab) 1935 Duesenberg Model JN Rollston Convertible Sedan (1999-08 モントレー)
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「ロールストン」も「デューセンバーグ」を数多く手がけた有力なコーチビルダーだ。かなりしっかりしたトップは畳めばかなりかさばりそうだ。場所はペブルビーチのゴルフ場から風光明媚な海岸を巡ってモントレーに至る「17マイルドライブウエイ」で、コンクールの前日デモンストレーション・ランを捉えたもの。

(写真29a~e) 1929 Duesenberg Model J Prueitt Roadster (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)
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ここからは「J」にフレキシブル・エキゾーストを付けた「SJ」風の外観を持った車を集めた。この改造はメーカー公認で、後付けでスーパーチャージャーを付け、本物の「SJ」に変身することも可能だったが、外観だけの物もあり、その見分け方はなさそうだ。最初に登場するこの車は極めて珍しい車だ。と言うのはたった2台しか造られなかった「ゲーリー・クーパー」と「クラーク・ゲーブル」のための「SSJ」と名付けられたスペシャルと同じスペックに改造されているからだ。元々「デューセンバーグ」のシャシーは」は153.5インチ(3900ミリ)と142.5インチ(3620ミリ)の長短2種しか無かったが、この2台の為には特別に125インチ(3175ミリ)の超ショート・ホイールベースが造られた。勿論普通のシャシーを短縮すれば改造は可能だが、いろいろな文献でも見たことが無いのは、あまりにも高価な車に大手術をする勇気が出ないのだろうか。次回紹介する「レプリカ」の項でこれとそっくりの車が出て来るがそれはあくまでもレプリカで、この車は明らかに本物の「デューセンバーグ」を改造したものなので、3台目の「SSJ」と言いたいのだが、スーパーチャージャーが付いていないので、本物の「Short Supercharged J」ではなく、「Short J」となってしまう。いずれにしても魅力的な車だ。

(写真29-2ab) 1929 Duesenberg Model J Murphy Boattail Speedster (1991-03 ワールド・ビンテージカー・オークション/幕張)
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この車も「マーフィー」のボディだ。ボートテイルのスピードスターは当時の若者のあこがれの的だった。この時はなぜか会場で貸出されたカメラしか使う事が出来ず、フィルムも1本しか使えなかったので、興味深い沢山の車に枚数が足りず、隠れて自分のフィルムを詰替えた覚えがある。

(写真31-1ab) 1931 Duesenberg Model J Bohman & Schwartz Aero Coupe (1999-08 クリスティーズ・オークションのテントにて)
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1931 年生れにしてはモダンすぎると思ったら、やはり元は「ダーハム」製のセダンで、1936年に「ボーマン&シュワルツ」のエアロ・クーペに換装されたものだった。その際スーパーチャージャーも追加されている。この年はペブルビーチのコンクールが始まる前日に現地入りしたので、準備中のクリスティーズ・オークションのテントを特別に覗かせてもらった。流石に逸品揃いだった。

(写真32-1ab) 1932 Duesenberg Model J Darham Tourstar (1999-08 ペブルビーチ付近)
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132-1b (99-08-11) 1932 Duesenberg  J Derham Tourster.jpg
コンクール前日の「17マイル・ドライブウエイ」でのデモ・ランを捉えたもので、クラブハウス近くのコンクール会場となる18番?のフェアウエイから続く海岸沿いにずっとゴルフ場は展開していた。

(写真 33-1a~d) 1933 Duesenberg Model J Mirphy Convertible Coupe (1995-08 ペブルビーチ・コンクール・デレガンス)
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「マーフィー」が約1/3のボディを架装したと言われるだけあって、又々登場する。前にも一度登場しているが、このタイプはメーカーが予め用意して顧客に勧める、公式カタログに掲載されている「デザインN0.22301」そのもので、それにエグゾースト・パイプが追加されている。この車にはランブル・シートが装備されているので、別に大きなトランクを背負っている。

(写真 34-1a) 1934 Duesenberg Model J Murphy Dual Cowl Phaeton (1995-08 ペブルビーチ・コンクール・デレガンス)
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この車は「モデルJ」として登録されているがボンネットの排気口からエグゾーストを外出しにした「SJ」タイプに改装されている事が判る。前後席の間にもカウルがあり後席にもウインドシールドがあるボディは「ダブルカウル」と呼ばれ高級車の象徴でもある。

(写真35-1ab) 1935 Duedenberg Model JN Bohman & Schwaltz Convertible Coupe (1991-03 ワールド・ビンテージカー・オークション/幕張)135-1a 91-09-02 1935 Deusenberg JN Bohman & Schwartz Convertible Coupe.jpg

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この車は往年のハリウッド・スター「クラーク・ゲーブル」の物だが、悲しい物語が秘められている。「ゲーブル」は自分の好みを生かした個性的な車を地元のコーチビルダー「ボーマン&シュワルツ」社にオーダーしこの車が生まれた。そして当時売出し中の女優「キャロル・ロンバート」とこの車でデートを重ね1939年結婚し幸せな生活が続いていた。しかし1942年1月、戦時国債キャンペーンのためインディアナに行っていた彼女がロスアンゼルスに帰るために乗った飛行機がラスベガス付近で墜落し「キャロル・ロンバート」は死亡した。ゲーブルとロンバート夫妻は、この事故の少し前、この車でカナダのバンクーバーまでドライブし、車を置いたまま鉄道で帰ってきた。今度はそれを取りに行く旅行プランを立てて居たが、愛する妻を失ったゲーブルは思い出の詰まったこの車を二度と見たいと思わなかった。落胆したゲーブルは映画界を引退して第2次大戦に従軍するほどの精神的な打撃を受けたのだ。1960年死亡したゲーブルの遺体は遺言によって「キャロル・ロンバート」の脇に葬られたという。


・「デューセンバーグ」の乗用車は多様のスタイルを持つ個体が多いので、多くのモデルがあったように見えるが、基本的には1920~25年の「モデルA」と、1928~37年の「モデルJ」の2つだけで、32年からは「モデルJ」にスーパー・チャージャーを付けた改造型「モデルSJ」が追加された。(モデルJには後からスーパーチャージャーを追加しSJ化が可能だった)シャシーも142.5インチ(約3.6m)と153.5インチ(約3.9m)の2種だけだった。

― 次回は「デューセンバーグ」最後にして最強の「モデルSJ」です -


  

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第107回 L項-8 「ロータス・1」(マーク1からタイプ14エリートと23エラン迄)

第106回 L項-7 「リンカーン・2」(米)

第105回 L項-6 「リンカーン・1」

第104回 L項-5 「ランチャ・2」

第103回 L項-4 「ランチャ・1」

第102回 L項-3 「ランボルギーニ」

第101回 L項-2 「ランチェスター」「ラサール」「リー・フランシス」「レオン・ボレー」「ラ・セード」「ロイト」「ロコモービル」「ローラ」「ロレーヌ・デートリッヒ」

第100回 L項-1  「ラゴンダ」

第99回 K項-1 「カイザー」「カイザー・ダーリン」「ケンワース」「キーフト」「ナイト」「コマツ」「コニリオ」「紅旗」「くろがね」

第98回 J項-5 「ジープ」「ジェンセン」「ジョウエット」「ジュリアン」

第97回 J項-4 「ジャガー・4」(大型サルーン、中型サルーン)

第96回 J項-3 「ジャガー・3」 (E-type、レーシング・モデル)

第95回 J項-2 「ジャガ-・2」(XK120、XK140、XK150、C-type、D-type、XKSS)

第94回 J項-1  「ジャガー・1」(スワロー・サイドカー、SS-1、SS-2、SS-90、SS-100)

第93回 I項-2 「イターラ」「イソ」「いすゞ」

第92回 I項-1 「インペリアル、イノチェンティ、インターメカニカ、インビクタ、イソッタ・フラスキーニ」

第91回 H項-8 「ホンダ・5(F1への挑戦)」

第90回 H項-7 「ホンダ・4(1300(空冷)、シビック(水冷)、NSX ほか)」

第89回  H項-6 「ホンダ・3(軽自動車N360、ライフ、バモス・ホンダ)」

第88回 H項-5 「ホンダ・2(T/Sシリーズ)」

第87回  H項-4 「ホンダ・1」

第86回 H項-3 「ホールデン」「ホープスター」「ホルヒ」「オチキス」「ハドソン」「ハンバー」

第85回 H項-2 日野自動車、イスパノ・スイザ

第84回 H項-1 「ハノマク」「ヒーレー」「ハインケル」「ヘンリーJ」「ヒルマン」

第83回 G項-2 「ゴールデン・アロー」「ゴリアト」「ゴルディーニ」「ゴードン・キーブル」「ゴッツイー」「グラハム」

第82回 G項-1 「GAZ」「ジャンニーニ」「ジルコ」「ジネッタ」「グラース」「GMC」「G.N.」

第81回 F項-25 Ferrari・12

第80回 F項-24 Ferrari・11 <340、342、375、290、246>

第79回  F項-23 Ferrari ・10<365/375/410/400SA/500SF>

第78回 F項-22 Ferrari・9 275/330シリーズ

第77回 F項-21 Ferrari・8<ミッドシップ・エンジン>

第76回 F項-20 Ferrari・7 <テスタ ロッサ>(500TR/335スポルト/250TR)

第75回 F項-19 Ferrari ・6<250GTカブリオレ/スパイダー/クーペ/ベルリネッタ>

第74回 F項-18 Ferrari・5<GTシリーズSWB,GTO>

第73回  F項-17 Ferrari・4

第72回 F項-16 Ferrari・3

第71回 F項-15 Ferrari・2

第70回 F項-14 Ferrari・1

第69回 F項-13 Fiat・6

第68回 F項-12 Fiat・5

第67回 F項-11 Fiat・4

第66回 F項-10 Fiat・3

第65回 F項-9 Fiat・2

第64回 F項-8 Fiat・1

第63回 F項-7 フォード・4(1946~63年)

第62回 F項-6 フォード・3

第61回 F項-5 フォード・2(A型・B型)

第60回 F項-4 フォード・1

第59回 F項-3(英国フォード)
モデルY、アングリア、エスコート、プリフェクト、
コルチナ、パイロット、コンサル、ゼファー、ゾディアック、
コンサル・クラシック、コルセア、コンサル・カプリ、

第58回  F項-2 フランクリン(米)、フレーザー(米)、フレーザー・ナッシュ(英)、フォード(仏)、フォード(独)

第57回 F項-1 ファセル(仏)、ファーガソン(英)、フライング・フェザー(日)、フジキャビン(日)、F/FⅡ(日)

第56回 E項-1 エドセル、エドワード、E.R.A、エルミニ、エセックス、エヴァ、エクスキャリバー

第55回  D項-8 デューセンバーグ・2

第54回 D項-7 デューセンバーグ・1

第53回  D項-6 デソート/ダッジ

第52回 D項-5 デ・トマゾ

第51回 D項-4 デイムラー(英)

第50回 D項-3 ダイムラー(ドイツ)

第49回  D項-2 DeDion-Bouton~Du Pont

第48回 D項-1 DAF~DeCoucy

第47回 C項-15 クライスラー/インペリアル(2)

第46回 C項-14 クライスラー/インペリアル

第45回 C項-13 「コルベット」

第44回 C項-12 「シボレー・2」(1950~) 

第43回 C項-11 「シボレー・1」(戦前~1940年代) 

第42回  C項-10 「コブラ」「コロンボ」「コメット」「コメート」「コンパウンド」「コンノート」「コンチネンタル」「クレイン・シンプレックス」「カニンガム」「カーチス]

第41回 C項-9 シトロエン(4) 2CVの後継車

第40回  C項-8シトロエン2CV

第39回  C項-7 シトロエン2 DS/ID SM 特殊車輛 トラック スポーツカー

第38回  C項-6 シトロエン 1 戦前/トラクションアバン (仏) 1919~

第37回 C項-5 「チシタリア」「クーパー」「コード」「クロスレー」

第36回 C項-4 カール・メッツ、ケーターハム他

第35回 C項-3 キャディラック(3)1958~69年 

第34回  C項-2 キャディラック(2)

第33回 C項-1 キャディラック(1)戦前

第32回  B項-13  ブガッティ(5)

第31回 B項-12 ブガッティ (4)

第30回  B項-11 ブガッティ(3) 

第29回 B項-10 ブガッティ(2) 速く走るために造られた車たち

第28回 B項-9 ブガッティ(1)

第27回 B項-8 ビュイック

第26回 B項-7  BMW(3) 戦後2  快進撃はじまる

第25回 B項-6 BMW(2) 戦後

第24回  B項-5   BMW(1) 戦前

第23回   B項-4(Bl~Bs)

第22回 B項-3 ベントレー(2)

第21回 B項-2 ベントレー(1)

第20回 B項-1 Baker Electric (米)

第19回  A項18 オースチン・ヒーレー(3)

第18回  A項・17 オースチン(2)

第17回 A項-16 オースチン(1)

第16回 戦後のアウトウニオン

第15回  アウディ・1

第14回 A項 <Ar-Av>

第13回  A項・12 アストンマーチン(3)

第12回 A項・11 アストンマーチン(2)

第11回  A項-10 アストン・マーチン(1)

第10回 A項・9 Al-As

第9回 アルファ・ロメオ モントリオール/ティーポ33

第8回 アルファ・ロメオとザガート

第7回 アルファ・ロメオ・4

第6回 アルファ・ロメオ・3

第5回 アルファ・ロメオ・2

第4回  A項・3 アルファ・ロメオ-1

第3回  A項・2(Ac-Al)

第2回  「A項・1 アバルト」(Ab-Ab)

第1回特別編 千葉市と千葉トヨペット主催:浅井貞彦写真展「60年代街角で見たクルマたち」開催によせて

執筆者プロフィール

1934年(昭和9年)静岡生まれ。1953年県立静岡高等学校卒業後、金融機関に勤務。中学2年生の時に写真に興味を持ち、自動車の写真を撮り始めて以来独学で研究を重ね、1952年ライカタイプの「キヤノンⅢ型」を手始めに、「コンタックスⅡa」、「アサヒペンタックスAP型」など機種は変わっても一眼レフを愛用し、自動車ひとすじに50年あまり撮影しつづけている。撮影技術だけでなく機材や暗室処理にも関心を持ち、1953年(昭和28年)1月には戦後初の国産カラーフィルム「さくら天然色フィルム」(リバーサル)による作品を残している。著書に約1万3000余コマのモノクロフィルムからまとめた『60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ編】』『同【アメリカ車編】』『同【日本車・珍車編】』『浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録』(いずれも三樹書房)がある。

関連書籍
浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録
60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ車編】
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