RX-7開発物語が三樹書房から刊行されてすでに12年が経過する。ここ数年間在庫切れとなっていたが、来年のRE(ロータリーエンジン)車市場導入50周年を記念して三樹書房さんから増補新訂版として再版されることになった。前回の車評オンラインで「再版によせてのメッセージ」を二回に分けてお伝えしたいと述べたが、それぞれの項目にそれなりの写真も含めた方が良いと考え、今回を(後編その1)、次回を(後編その2)とし3分割とさせていただくことにした。今回はRX-7の開発にとっても貴重なアドバイスをいただいたポール・フレール氏と、2009年にドイツで開催されたコスモスポーツカーミーティングを開催、すべてのRE車を所有、2017年春にはミュージアムを開設される予定のドイツのフライ一家をご紹介したい。
R100(ファミリアロータリークーペ)から始まり、RX-2(カペラロータリー)、RX-3(サバンナロータリー)など日の出の勢いでRE車の販売台数を伸ばし始めたアメリカに、1972年初頭から技術駐在員として送り込まれた私は、市場におけるRE車の技術課題解決に全力を注ぐが、1973年秋の第1次エネルギー危機の直後にEPA(アメリカの環境庁)が市街地モードのみで計測した燃費値を発表、「REはガソリンをがぶ飲みするエンジン」というレッテルを張られたことに起因して販売台数が激減、マツダは経営危機に直面した。どん底となった1976年春に帰国、一旦開発に帰任したが早々に「広報へ来い」という誘いを当時の広報部長(故田窪昌司氏)から受けた私の最初の言葉は「広報で何をするのですか?」だった。地に落ちた海外におけるマツダのイメージを何とかするために海外広報をやってほしいといわれ、その後1984年まで海外広報に携わることになる。広報に移動しての最初の仕事が、山口京一氏のご紹介によるポール・フレール氏のマツダ招聘だった。
3.ポール・フレール氏
ポール・フレール氏はベルギー出身のレーシングドライバーとしてF1を含む数々のレースに参戦、1960年のフェラーリでのルマン優勝を機にジャーナリズムの世界に専念、世界自動車ジャーナリスト連盟の会長も務めた方で、日本メーカー、中でもマツダとの結びつきは深い。ポール・フレール氏の自叙伝『いつもクルマがいた』(二玄社刊)にもあるように1969年春、カーグラフィックの招聘により鈴鹿サーキットにおけるドライビングスクール開催も兼ねてご夫妻で初来日され、最後に広島のマツダも訪問されている。その時のことをポール・フレール氏は、「山本健一氏はわれわれを手厚くもてなされ、ロータリーエンジンの開発に関して非常に興味深い意見を述べられた。海沿いの短いテストコースで何台かのマツダに乗り、事務所だけでなく工場が素晴らしく清潔なことに強く印象付けられた。」と述べられている。
1976年5月、ポール・フレールご夫妻を広島に招聘、欧州市場導入を控えていた後輪駆動ファミリア(輸出名は323)の評価をお願いし、三次試験場での試乗評価も含めて非常に参考になるご意見をいただくことが出来た。輸出仕様のフロントグリルが縦グリルではなく横グリルとなったのは奥様のお陰だ。経営陣に対する貴重なご意見とも相まって、その後毎年のようにご夫妻で来日いただき、323(日本名ファミリア)、626(日本名カペラ)(いずれもFRから後にFFとなる)など欧州市場で十分に通用する運動性能を目指したモデルはもちろんのこと、歴代のRX-7も色々な段階で評価いただくことが出来た。さらには、三次試験場における開発エンジニアに対するドライビングスクールが開催できたことは思い出深い。
ポール・フレール氏が現地評価の大切さを強調されたことも後押しとなり、マツダの欧州テストチームの派遣は加速され、現地テストにも何回も参加いただいた。三次試験場のグローバルサーキットの一部はポール・フレール氏おすすめの南仏のワンディングロードを再現したものだ。ポール・フレール氏の助手席には何度も乗せていただいたが、まるで奥様をいたわるかのような非常に優しいマシンの取り扱いと、クルマの極限を知り尽くした運転技量はまさに頭が下がるものだった。1976年以降奥様の体調が許した間は、ほぼ毎年ご夫妻で来日いただいき、全ての対応を私がさせていただくとともに、ニース近郊のご自宅にも何回かお邪魔させていただき家族ぐるみのお付き合いをさせていただくことが出来た。
1992年2月、75歳のお誕生日に対するささやかなプレゼントは、ポール・フレール氏からご依頼をうけたマツダのルマンカーによるご家族のためのサーキット走行イベントだった。ポール・フレール氏が当初ポルシェに依頼したが実現せず、代わりに1991年のルマン優勝後ポールリカールのオレカに1台だけ残っていたマツダのルマンカー(787)で孫たちを乗せてサーキット走行できないかというご依頼だった。私がオレカの社長に電話で打診したところ即座に無償で協力してくれることになった。あいにく同席することはできなかったが787の助手席に補助シートを装着、14名のお孫さんやご親戚の方々を助手席に乗せて69ラップもして、「おじいちゃんは、本当は75歳じゃない」ことを証明できたとして、このイベントの実現を晩年まで喜んでいただいたようだ。
1991年のルマン24時間レースでは、深夜ダンロップブリッジに向かうコースのすぐ横のプレス専用道を一緒に歩きながら、規則正しく周回する787Bと787を確認するともに、マツダの優勝を我が事のように喜んで下さった。ポール・フレール氏には優勝した787Bに、2001年三次試験場で優勝10周年を記念する米国ロード&トラック誌取材イベントで、また2003年にはラグナセカの「マツダレースウェー」でハンドルを握っていただいたが、いずれも全く年齢を感じさせない走りだった。このようにポール・フレール氏は、マツダ、RE、そしてRX-7と大変深いご縁があったとともに、近年マツダが標榜してきたZoom-Zoomの原点の一人といっても決して過言ではない。2008年91歳で他界されたがこの場をお借りして改めてご冥福をお祈りしたい。
下記は、ポール・フレール氏に対する追悼記である。
https://www.mikipress.com/shahyo-online/ronpyo03.html
4.ドイツのフライ一家とフライコレクション
1980年代初頭からドイツでマツダ車を販売、今では大きなマツダディーラーを2店舗もっておられるフライ一家のことはRE車のファンに是非ご紹介しておきたい。日本におけるコスモスポーツオーナーズクラブの会合に参加されたヴァルター・フライ氏が、ヨーロッパでの「コスモスポーツ国際ミーティング」を提案され、14台のコスモスポーツが南ドイツのアウグスブルグに2009年8月に集結した。私にも是非との声をかけていただき、日本のコスモスポーツオーナーズクラブの方々のグループツアーに加わった。欧州内から集まった5台も加わり、総数19台のコスモスポーツを連ねてヴァンケル研究所があったリンダウ往復や、ノイシュバンシュタイン城往復などロマンティック街道を満喫する1週間に及ぶ素晴らしいイベントをフライ氏が一家をあげて開催してくださった。幸い1台も不具合を起こさずに全イベントを終了できたことはこの上なくうれしかったのと、日本から持ち込まれた旧車に簡単にライセンスプレートを装着して公道走行が出来、終了時にはそのプレートを記念品として持ち帰っても良いというドイツの旧車に対する愛情深いルールを本当にうらやましく思った。
また是非ともご紹介しておきたいのはフライ一家のRE車コレクションだ。2009年時点ではREを搭載したマイクロバス(パークウェイ)を除くすべてのRE車を含む100台を超えるコレクションを自宅の車庫などに納めておられており、それらのクルマを前にしての豚の丸焼きパーティーを開いていただいた。その後コスモスポーツオーナーズクラブの方の尽力により、国内でパークウェイが見つかりフライさんのコレクションに追加されたため今ではすべてのRE車がそろったことになる。
フライ一家はその後アウグスブルグ市内にある路面電車の車庫の跡地を手に入れ、フライコレクションを一般公開できるように準備を進めてこられたが、2017年初頭には準備が完了するようであり、公開されたら是非一度訪ねてみたいと思っている。フライ一家へのささやかな恩返しとして、2015年春二人の息子さん(ヨアヒム&マーカス・フライ氏)が広島でのマツダのミーティングに出席された帰路、是非とも山本健一氏にお会いしたいとの希望を聞きミーティングをアレンジ、二人の息子さんとともに山本健一氏にお会いすることが出来たが、お二人の息子さんはもちろんのこと、山本健一氏にも大喜んでいただけた。
下記は、その時のことをまとめた車評オンラインと、フライさんの博物館のホームページアドレスである。