1966 DAF Kini (Beach Car) by Micherotti
(01)<DAF>(オランダ)
「DAF」という自動車は日本では知名度が低い。主力車種の大型トラックもヨーロッパではかなり見かけるが日本では見たことが無いから、大型車に特別興味を持った人しか知らないだろう。この会社は1928年オランダのアイントホーフェンで「ハブ・バン ドールネ」(Hub van Doorne)が始めた自動車修理工場からスタートした。1949年社名を「van Doorene's Aanhangwagen Fabriek」と変え、自動車(商業車)の生産を開始、1958年には初の乗用車「DAF 600」を発表し、数少ない乗用車生産国の仲間入りをした。1959年以降小型車部門がボルボに吸収される1975年までの間に600ccから1100ccクラスの小型車を幾つか生産している。大型車については1987年イギリスの「レイランド・トラック」と合併し、社名が「DAF」となる。この会社は1993年倒産し「DAFトラック」として再出発したが1996年アメリカのトラックメーカー「パッカー」に買収され「ケンワース」や「ピータービルト」などと並んで「DAF」ブランドのトラックを製造している。
(写真01-1abc) 1959 DAF 600 2dr Saloon (2012-04 トヨタ自動車博物館・収蔵庫)
写真の車は、1958年2月のアムステルダム・ショーでデビューした車と同じ初代モデルで1959年から63年まで製造された。エンジンは空冷フラット・ツイン 590cc 19ps/4000rpmだったが、特徴は自社で開発したVベルトとプーリーの無段式自動変速機「バリオマティック」を採用していた事だ。場所はトヨタ博物館の展示スペースではなく、未整備も含め多数の車が収められている広いガレージで、未公開だが博物館でトークショーを行った際特別見せていただいた時に撮影したもの。
(写真01-2ab)1968 DAF 44 2dr Sedan (2011-11 トヨタ博物館クラシックカーフェスタ・神宮)
1961年には「600」の後継車として746ccとなった「Daffodil」とデラックス版「750」が発売された。これらは1966年844ccの「DAF 44」が発表されると、車名系列を明確にするため、1段下の「DAF 33」と改名され、以後2桁の「DAF 55」「DAF 66」と造られた。「DAF 66」は1975年ボルボに吸収された後は「ボルボ66」として1980年まで生産された。写真の車「DAF 44」からボディデザインはジョバンニ・ミケロッティが手掛けている。
(写真01-3abc)1966 DAF Kini Beach Car by Micherotti (2010-07グッドウッド/イギリス)
オープンカーに籐椅子のビーチカーはイタリアのフィアット500,600「ジョリー」が知られているが、写真の車もイタリア人「ジョバンニ・ミケロッティ」がデザインした。当時「DAF」のデザイナーだったミケロッティが750ccの「Daffodil」をベースに造ったもので、翌年オランダ王室にウイルム・アレクサンダー王子が誕生すると、「DAF」社からお祝いとしてプレゼントされた。王室では大変お気に入りだったようで、2才位の王子と3人でドライブしている写真も残っており、この後も長く愛用されたようだ。
(写真01-4ab) 2010(推定) DAF XF105-460 Racing Lotus Service Truck (2010-07 グッドウッド)
現在「DAF」と言えばこのような大型トラックの事だ。写真の車は代表的な「XF105」シリーズだがロング・セラーの上資料も少ないので年式は特定できなかった。この時は1989年中島悟がドライブした黄色いキャメルカラーのロータスのF1カーが出展されていた。
-
(2)<ダイハツ工業>(日)
ダイハツの歴史は1907年(明治40年)大阪で設立された「発動機製造」から始まる。世界的には第一次世界大戦の経験から輸送手段として自動車の重要性が高まり、わが国でも1917年(大正6年)軍用自動車保護法が作られた。1919年に大阪砲兵工廠の依頼で2台のトラックを造ったのが、この会社としては自動車製造の第1号という事になる。この時は「発動機製造社」としては設計図から主要部品の材料まで一切を支給され、設計にはかかわっていないから、戦後のノックダウン方式に近いものだろう。しかし時代は自動車産業の黎明期の事なので、この経験はその後のオート3輪製造技術に大きな影響を与えたことは確かだ。この会社は1951年(昭和26年)に「ダイハツ工業」と一度社名を変更しただけで現在に至っており非常に長い歴史を持って居るにも拘わらず社名の変わらない珍しい例だ。僕は「ダイハツ」の由来について長い間勘違いしていた。多分旧社名が「大日本発動機」でそれを縮めたものだろうと思っていたら、「大阪」の「発動機製造」がそのルーツだった。だから素直に読んでいたら「オオハツ」となっていたかもしれない。
(写真02-1a) 1932 Daihatsu HB Tsubasa(ツバサ号)3-wheel Truck(1973-11 くるまのあゆみ展)
戦前から昭和20年代までは、街中の輸送手段はオート3輪が主役だったが、その典型的なスタイルが写真のようなタイプだった。荷台から前は基本的には当時のオートバイ「陸王」や「ハーレーダビッドソン」などと同じ構造で、ガソリンタンクの後ろの革製のサドルに跨がり、バーハンドルで向きを変えた。写真の車は1931年から市販された「ツバサ号」の32年型で、この基本スタイルは戦後の1950年型SSHまで殆ど変っていない。空冷4サイクル498ccで全部で45万台も造られた。排気量498ccはこの当時500ccまでのオート3輪は無免許だったためで、1933年からは750ccに引き上げられている。この車は定員1名となっていたので助手席が付いたのはもう少し後からのようだ。タンクには大きく「ダイハツ」と書いてあるが、社名はまだ「発動機製造」の時代で、車名には古くから「ダイハツ」を使用していたようだ。
(写真2-2a-e) 1938 Daihatsu H-series 3-wheeler Truck (2012-04 トヨタ博物館・収蔵庫)
1932年からオート3輪の市販を開始した「ダイハツ号」は、日本エアブレーキ社と共同制作したものは「ツバサ号」として販売されたが、1933年で提携は解消され以後は「ダイハツ」に統一されている。写真の車は1938年型と思われ、前項の1932年HB型と見た目は殆ど変っていないが、エンジンは750ccになっている筈だ。アップの写真で当時の操縦装置をご覧頂きたい。①始動はキック・ペダル、②シートは皮のサドル、③クラッチはペダル式、④丸い握りのシフトレバーとサイドブレーキは自動車と同じ、⑤フットブレーキは多分左足の前の黒いぺダルがそれでハンドブレーキは無いと思う。⑥アクセルはハンドルの右手で操作するレバーで、2つあるうち一つはガソリン量、もう1つは空気量をコントロールした。
(写真02-3a) 1955 Daihatsu SCE-7 3-wheel Truck (1958-07 山梨県桃の木鉱泉)
...............
戦後しばらくは戦前と同じむき出しのままだったオート3輪も、だんだん居住性に気を使うようになって1950年以降は風防が付き屋根が付いた。写真の「SCE-7」型は1トン積み、荷台は7、8、10尺の内一番短い7尺(212cm)ボディー、空冷2気筒1140cc 28hpで、始動はキックの他セルモーター付となり、ブレーキも機械式から油圧式に進化している。(当時の日本の計量単位は「尺貫法」が併用され、材木などを積む大工さんのような職人の世界は「1メートル」より「3尺3寸」の方がピンときたのだ。)写真の向かって左が24才の僕で、アマチュア合唱団の仲間と南アルプスの山麓にある秘境「桃の木鉱泉」に宿泊した際、身延線の駅に来た「送迎車」に乗った姿だ。
(写真2-4a) 1957 Daihatsu RKM 3-wheeler Truck (1961-08 長崎市内)
...............
1957年からは1.5トン積で丸ハンドルの「RKM」が登場し、窓のない下半分だけのドアが付いた。写真は昭和36年8月新婚旅行で九州へ行った際長崎市内で撮ったスナップ写真だ。
(写真02-5a) 1962 Daihatsu CM 3-wheel Truck (1968年 北区王子5丁目)
1962年1.5トン車に水冷エンジンが登場した。直4 1500cc 68hpで、丸ハンドルの完全密閉キャビンとなったから、運転のフィーリングは4輪の自動車と変わらなくなった。場所は赤羽から王子へ向かう北本通りの王子5丁目電停付近で、前方には大火災が発生している。
<ダイハツ・ミゼット>
1951年公布された「道路運送車両法」で第4種小型自動車の排気量は360ccに引き上げられ、それに合わせたように1951年軽4輪の「オートサンダル」(中野自動車工業製)が登場すると、それに続いて小規模の街工場から次々と軽自動車が誕生した。しかし「ダイハツ」が小型オート3輪車を発売したのはそれから5年以上後の1957年12月になってからだった。というのは1951年当時は1950年から始まった朝鮮戦争の特需景気で増産に追われ、小型車の開発まで手が回らなかったという事だったのか、開発は後年ダイハツの傘下となった「旭工業*(参照)」で1952年から始められたと言う説もあるが、実際にはもう少し後かもしれない。1953年朝鮮戦争は休戦となり一気に需要が減少した上、1954年からはトヨエースの前身「トヨペットSKB」(1000cc 1トン積)が低価格で発売され、小型トラック市場は「3輪」から「4輪」へと徐々に移っていく。この危機に際して3輪メーカーは4輪への転身を図る一方、いまだ未開発の「小口配送市場」への進出を狙って蓄積されたノウハウを生かせる「小型3輪」の開発を始め、1957年発売されたのが「ダイハツ・ミゼットDKA」だ。この車のセールスポイントは①普通免許より簡単に取れる「軽免許」で乗れる、②2輪の自転車やバイクに較べ積載量が多く雨にも濡れない、③自動車に較べ値段が安く月賦(分割払)も可能、④税金を含め維持費が安い、⑤狭い小路でも小回りが利く、など魅力的で、自転車やオートバイなどに頼っていた商店などの配達方法に大きな変化をもたらした。価格23万円 249cc 10ps定員1名、積載量300kg だった。
・2年後、ミゼットシリーズは丸ハンドルで2人乗りの「MP」シリーズに発展した。1959年4月発表された最初の「MPA」は対米輸出用として造られた。半年後の59年10月には国内向け「MP-2」(228,000円)が、バーハンドルの「DSA」(184,000円)と併売という形で登場した。2か月後の12月には305cc 12hp 350kg積の強化版「MP-3」も造られた。60年5月の「MP-4」ではサイド・ウインドが上下可動となり、62年12月の最終モデル「MP-5」ではルーフが幌からスチールになり、三角窓が付いた。
・1957年から生産終了となった1971年までに合計で317,152台造られ、約1万9千台が輸出された。
*(参考) 「旭工業㈱」
1957年以降ミゼットの製造を担当していたのはダイハツの傘下にあった「旭工業」の西宮工場だった。この「旭工業」という会社のルーツは第二次大戦中数々の傑作機を生み出した航空機メーカー「川西航空機」である。川西は水上機が得意分野で九七式飛行艇、二式大型飛行艇(二式大艇)、フロート付の水上戦闘機「強風」で知られる。「強風」からフロートを取った陸上戦闘機「紫電」の優れた性能が認められ制式採用されたが、中翼のため脚が長い欠点があり、低翼で足を短くした「紫電改」が「零戦」の後継機として第2次大戦最後の傑作機となった。これだけの高い技術力を持って居ても、敗戦により飛行機の製造は禁止され、他の航空機メーカー同様エンジンが付いて動くものへと転身を図る。川西は1946年(昭和21年)「アキツ号」という3輪自動車メーカーとして再スタートした。1947年には「明和興業」と社名変更したが、1949年企業再建整備法で分割され、一方は「新明和興業」となり、西宮工場を中心とする自動車部門が「明和自動車工業」となった。引き続き「アキツ号」の製造を続けるも1956年経営不振で、ダイハツ工業と三和銀行の資金援助を受け、社名を「旭工業㈱」と変更しダイハツの系列会社となった。1957年からはダイハツ・ミゼットの生産を行う事になり「アキツ号」の生産は終了、1970年にはダイハツ工業に合併され「ダイハツ工業西宮工場」となった。
(写真02-6abc) 1959 Daihatsu Midget DKA (2007-04 トヨタ自動車博物館)
初代のタイプ「DKA」は、バーハンドルで中央に跨るレイアウトは基本的には戦前のスタイルをモダン化した感じで、ドアは無い。始動はキックで、中央にあるH型のシフトレバーは前身3段、後進1段だ。
(写真02-7a)1961 Daihatsu Midget DSA (1991-01 汐留レールシティ・ミーティング)
バーハンドルの後期型「DSA」は1959年11月から発売され価格も18.4万円まで下がりスクーター並みとなったからより買い易くなった。(セル付きは「DSA2」で9000円高)外見上ではサイドにドアが付いた。
(写真2-8a) 1960 Daihatsu Midget MP-4 (1961-08 長崎市内)
手前を左に向かっているダイハツ・ミゼットは屋根のトップがキャンバス張りで3角窓が無いので「MP-4」と判定した。左端に半分写っているのは1957 ダイハツRKMと思われる。この写真も新婚旅行で九州へ行った際撮影したもので、後方の3角屋根は長崎駅。
(写真02-9ab) 1963 Daihatsu MP-5 (2012-04 トヨタ自動車博物館)
MPシリーズは丸ハンドル、並列2人掛けシート、密閉キャビンと乗り込んでしまえば自動車と変わらない仕様となったから、バーハンドル、扉なしでサドルに跨るオート3輪仕様に較べれば別世界となった。「MP-5」の特徴は、キャビンの屋根まで鉄板張りの全鋼製となり、窓には3角窓が付いた。
(写真02-10ab) 1996-98 Daihatsu Midget-Ⅱ(K100P) Pick (2011-06 千葉市幕張)
すれ違った時、間違えなくオオッ! と目を引く車で、ミゼットを名乗っているが4輪だ。少量生産のため同時期の軽貨物トラックS100系「ハイゼット」と部品共通化を図っている。エンジンは直3 660cc 定員は1名(MT),2名(AT) 積載量は150kgとなっている。トラック・タイプの「ピック」の他にライトバン・タイプの「カーゴ」がある。
(写真02-11ab) 1951 Daihatsu Bee 3-wheeler Sedan (1973-11 くるまのあゆみ展)
1951年に発表されたので、改正された軽自動車枠に適合させた車かと思いきや、それとはまったく関係なく、3輪トラック・メーカーが初めて「乗用車」に挑戦した意欲作だった。3輪とはいってもトラックとは全く別物で、乗用車専用の低床式シャシーにリアエンジンを採用し車内スペースを確保した。価格は55万円、2ドア 定員4名で、エンジンは新しく開発された空冷水平対向2気筒 804cc (540ccもあり)18psが用意された。約1年市販されたが数はごく少数で、一部関西のタクシーで試用したが部品の強度に問題があり、改善される前に製造中止となった。一つ目の「フジキャビン」と共に戦後の過渡期に現れた変わり種として印象に残る1台だ。
(写真02-12ab) 1962 Daihatsu 700 Prototype (1961-10 第8回全日本自動車ショー/晴海)
(参考)ダイハツ初の乗用車が似ていると言われたピニン・ファリナの1961年「フィアット1800」
1000cc以下のライバルは日野コンテッサ(893cc)、日野ルノーPA(784cc)、パブリカ(697cc)、三菱500(493cc)しかなく、ダイハツもこのクラスを狙った試作車をモーターショーに登場させた。水冷直4 678cc 30ps/5500rpmのエンジンで 最高速度110km/hとなっていた。
直線を生かしたダイナミックなボディのデザイナーは不明だが、どこかピニン・ファリーナがデザインした「フィアット1800」に似ていると言われるので参考に添付した。このプロトタイプを出展した時の「ダイハツ」の紹介記事は「トラック・メーカーの乗用車」とか「乗用車の生産に経験の全くないトラック・メーカーの乗用車部門へのデビュー作」など、トラック・メーカーが一寸場違いの所へ顔出ししてしまったような扱いであった。 この車はプロトタイプで終わったが、翌年イタリアの「ヴィニアーレ」がデザインした「コンパーノ」がダイハツ初の「乗用車」として市販を始める事になる。
(写真02-13ab) 1964 Daihatsu Compagno Berlina 800 Deluxe (1964-09 東京モーターショー)
「コンパーノ」シリーズは1963年5月から3ドアのバン「F30V」が発売された。(トラック・メーカーなのでいきなり乗用車より、取りあえず荷物を積める方が売り易かったか)11月になってやっと「ベルリーナ」(2ドア・セダン)の発売に踏み切った。800ccで 57.8万円だった。
(写真02-14ab) 1964 Daihatsu Compagno Spider (1964-09 東京モーターショー)
モーターショーに展示されたスパイダーは翌1965年4月から「スパイダー1000」となって市販が始まった。国産乗用車はまだセダンが主力で、オープンのスパイダーは非常に珍しい存在だった。
(写真02-15ab) 1968 Daihatsu Fellow (1968-10 東京モーターショー)
今や軽自動車界では押しも押されもしない一流メーカーとなった「ダイハツ」だが、最初に売り出したモデルは1966年9月の「フェロー」だった。写真の車は町を走っている車と全く同じ仕様の「フェロー」が、アフリカのカイロからモンバサまで砂漠と悪路の17,000キロを3か月かけて走破した、とその耐久性を誇らしげに報告している。
(写真02-16abc) 1966 Daihatsu P-3 (1966-05 第3回日本グランプリ/富士スピードウエイ)
「ダイハツ」がついに日本グランプリでレースに挑戦した。2台が出走したレースの結果は⑤がクラス優勝(総合7位)、③はラップ16でリタイアした。レーシングカーには「シャシー」「ボディ」「エンジン」の3要素が揃って完璧なものになるのだが、残念ながらこの車のシャシーは殆ど市販のコンパーノそのままで、ホイールも市販車のプレス・スチールにダンロップR7のタイヤを履いていた。ボディーは空気抵抗を減らすため細長く延ばされ、後端は切り落としの「コーダ・トロンカ」で空力性能はよさそうだが、鉄板を手叩たきしたもので重く、これを元に軽量化を狙ったFRPボディも厚くてかなり重かったらしい。リアウインドーの下には大きな空洞があり、本来はミッドエンジンを予定していたのではないかと思われるがこの車はF/Rである。エンジンは直4 DOHC 1261ccで、110ps/8000rpだった。現代の目で見れば純粋なレーシングカーとは言えない代物かも知れないが、殆どノウハウを持たない黎明期としては精一杯頑張った結果と評価したい。
(写真02-17a) 1967 Daihatsu P-5 (1968-03 第1回東京レーシングカー・ショー/晴海)
日本GPでクラス優勝に気を良くした「ダイハツ」チームは、より高みを求めて次期モデルの開発に入った。形式名は「P-3」の後「4」を飛ばして「P-5」となり、レイアウトは「ミッドシップ」とすんなり決まったが、さて、どうして造るのか全く手がかりがつかめないでいた。そこへレースでクラッシュしたミッドシップの「ポルシェ・カレラ6」が修理中との情報が入り、さっそく見学に行って撮ってきた写真を参考に「P-5」の設計が始まったという。このエピソードだけでも初期のレース活動が手さぐりでいかに大変だったかが推測される。問題のシャシーはチューブラー・スペースフレームで、サスペンションも本格的なものに変えられたが、なぜかホイールだけは依然としてプレス・スチールのままだった。ボディは時代の流れに沿った形状となり空気抵抗は20%も減少した。エンジンは基本的には「P-3」と同じ1261ccだが130hp/8000rpm まで引き上げられ最高速度240km/hとなった。さて、レースの結果だが、メインレースは大排気量の車との混合レースなので全体の速度差を少なくして安全を確保するという名目で、予選通過最低速度が2分20秒と小排気量の車にとってはかなり厳しい設定がされた。その結果、2台の「P-5」は2分20秒6と21秒0という僅差で決勝レースを走ることが出来なかった。だから写真の車はその時番号の①②を付けず、あえて「D」としてあるのはその悔しさの為だろう。
(写真02-18ab) 1968 Daihatsu P-5改 (1969-02 第2回東京レーシンウカー・ショー/晴海)
僅差で失格した前回の悔しさをバネに「P-5」の改良型の開発に取り組んだ。ボディは67年モデルのラインを踏襲したものだがより洗練され、ヘッドライトが縦の四ツ目となった。 シャシーも新しく組まれ、軽量化を図りながらも剛性を高めた結果、総重量は30kg軽い 510kgに収められた。エンジンは前年の「R92A」をベースにした「R92B」型で、排気量はボア、ストロークともに増やした1298ccで、140hp/8000rpmとさらに強力になった。問題のホイールもマグネシューム合金鋳物が用意されやっと本物のレーシングカーとしての準備が整った。日本GPではグループ6に2台、グループ7に2台、計4台がエントリ-し、予選では昨年涙を吞んだ「2分20秒」の壁は、2分09秒02/09秒39/10秒41/12秒02,と4台とも余裕をもってクリアした。決勝では⑮がクラス優勝(総合10位)、⑭がクラス3位(総合15位)、⑯がクラス4位(総合16位)という結果を残し昨年の悔しさを晴らした。写真の⑮番は優勝した吉田隆郎選手の車でカラーは黄色に赤のラインだった。
(3)< ダラック > (仏)
「ダラック」の生みの親は1851年フランスのボルドー生まれの「アレクサンドラ・ダラック」で、彼は時代を先取りする才能があったのか、移り気で飽きっぽかったのかは定かではないが、彼のビジネスは「武器の開発」からはじまり、平和な時代が来ると「ミシン・メーカー」となり、1880年代に入り自転車が有望と見るや「グラジェーターサイクル社」という自転車メーカーを立ち上げた。この会社は自転車やダンロップ・タイヤで財を成したアドルフ・クレマン・グループに入り、1895 年にはこのグループの自転車とオートバイ部門の責任者となると、関心がオートバイに移る。しかしこの年、クレマンが3輪ガソリン車を開発し自動車への進を図ると、自分も自動車を作ろうと既に完成品を造っている「レオン・ボレー(写真参照)」の技術の導入しようとしたが、これがクレマンの怒りを買い、グループから離れることになる。そこで自ら「A・ダラック社」を設立1898年から自動車製造を始めたから、自動車メーカーとしてはパイオニアの部類に入る。1900 年のパリ・サロンに展示された「ダラック」を見たドイツの「オペル」は、その特許を取得し1902年「オペル・ダラック8/9hp」を発売し本格的自動車メーカーとしてスタートした。当時の「ダラック」はエンジンがフロントに置かれ、3段ギアボックスとチェーンを介して後輪を駆動するという、その後約100年にわたって自動車の基本レイアウトとなる配置をすでに確立しており、「ベンツ」や「ダイムラー」などより一歩先に進んだ、世界でも最も進んだメカニズムを持った車の一つだった。後述するように「ダラック」は「オペル」だけでなく「アルファロメオ」の設立にも大きく関与したという、自動車史上で欠くことの出来ない存在である。
(参考) ダラックが参考にしようとした頃の「レオン・ボレー」(1896)
(写真03-1a~e) 1905 Darracq 200hp Racer (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード)
写真の車はシャシーにエンジンとガソリンタンク、座席、タイヤと、走るための最小限度の装置を付けただけのレーサーだが、当時はこれが普通のスタイルだった。ボンネットを開けてもどれがなんだか全く分からない現代の車に較べると、丸裸で非常に判り易い。バルブ機構ってこうなっているんだ、と拡大図を見るようだ。エンジンはV8 25.400cc 200hp で、当時としてはかなり高性能だったようで、一流のドライバーだった「ルイ・シボレー」によって速度記録を樹立している。この車は今でも立派に走るだけでなく、イギリスのグッドウッドで開かれる「フェスティバル・オブ・スピード」ではこのタイヤでドリフトするほどのフルスピード走行をみせ、20世紀初頭のワイルドなレースシーンを再現している。(インターネットに投稿画像あり)
(写真03-2ab) 1908 Darracq 8/10hp Voiturette (1997-05 アルファロメオ・ミュージアム)
写真の車は、直2、1528cc 10hp/1600rpm 最高速度40km/h で現代の目で見ても自動車の形をしており信頼が持てる印象だ。本国のフランスで好評を得た「ダラック」の小型車は、イタリアでも売れ行きが良かったため、1906年には「イタリアーナ・ダラック㈱」を設立、ミラノ郊外の工場で国内生産を始めた。しかし1907年に起こった経済危機によって売れ行きが伸びず経営が悪化する。丁度その頃、ミラノの実業家たちの間に、トリノの「フィアット」に対抗するべく、ミラノにも自分たちの自動車メーカーを持ちたいという強い願望があり、経営不振の「ダラック」を買収して1910年6月には社名を「ロンバルダ自動車製造有限会社」(Anonima Lombarda Fabbrica Automobili)と改めた。この頭文字が「A,L.F.A.」で、今日のアルファロメオに続く。だから写真の車は「ダラック」でありながら、アルファロメオ・ミュージアムに入って最初に目に入る場所に「Le Origini」(ご先祖様)として展示されている。
(4)< D.B.(ドイチェ・ボネ)→ ルネ・ボネ → マートラ > (仏)
「D.B.」という車名は創立者「シャルル・ドーチェ」と「ルネ・ボネ」の頭文字を組み合わせたものだが、日本語表示では「ドイチェ・ボネ」とされるので、うかつにも僕は「ドイチェ」を「ドイツ」と勘違いしていて、このフランス車をずっとドイツ車だと思っていた。1938年最初に造ったオープン2座のレーシングカーはシトロエン11CVをベースに極度に空気抵抗の減少を目指し、4輪ともサイクルフェンダーの流線型ボディを持って居た。徹底的に空気抵抗を抑えるという基本理念はこの時から引き継がれており、小排気量パナール・ディナのエンジンとコンポーネンツを使った750cc前後の小型レーシングカーで1950年代にはル・マンの常連として活躍した。 レースの実績を背景に、市販車の売り上げは順調だったが、1962年「D」と「B」の意見が対立し会社は解体した。この会社を引き継いだのは「B」の方で、自分のフルネームを車名とした「ルネ・ボネ」が誕生した。1963年この会社が売り出した「ジェット」こそ、世界最初の市販ミッドシップGTで、翌1964年にはミサイル製造会社の「マートラ」の傘下に入って「マートラ・ジェット」となった。
(写真04-1ab) 1952 DB HBR Barqette by Antem (2008-10 ラフェスタ・ミッレミリア/神宮)
戦後はシトロエンをベースにレース活動を続けていたが、1948年レーシング・エンジンにより適した「パナール・ディナ」のパワートレーンに乗り換えた。F3、F1に挑戦するもシングルシーターでは好結果は得られなかった。しかしこの車の得意分野はスポーツカー・レースだった。1949年から始まった「ル・マン24時間」への挑戦は750ccを中心に小排気量が有利な性能指数賞を狙い、54年、56年、59-61年と5回獲得している。写真の車はルネ・ボネ自身のドライブで北米で活躍した元ワークスカーと言われ、2007年より日本に棲み着いている。
(写真04-2abc) 1955-61 DB-Panhard Corch (1968-11 東京オートショー/晴海)
最初の市販車「DBコーチ」は1952年パリ・サロンでデビューした。それはル・マンなどで活躍したレーシングカーのロード・バージョンとも言える。写真の車はその市販スポーツ・クーペで、一見2リッター・クラスにも見えるがエンジンは意外に小さく、パナールの851cc又は954ccの筈だ。しかし、もし一番強力なモデルだったら185km/hも出せる凄い実力を秘めた車だ。場所はオートショーと同時に開催されていた外車の中古車セールだが、正直言って僕にはこっちの方が面白かった。
(写真04-3abc) 1962 DB LeMans Luxe Cabriolet (2003-01 パリ・レトロモビル)
1961年パリ・サロンに展示されたのは、同じフランスの小粋な車「ファセルヴェガ・ファセリア」を目指して造られた「DBル・マン グラン ルクス」だった。この車の狙いは、スポーツカーよりもラグジュアリー・カー指向の車で、内装には木と本革が使われ、+2の予備シート付きだった。エンジンはルノー・ベースでゴルディーニ・チューンの4気筒OHV 1108ccの前輪駆動で、1959~62年で232台造られた。何度も言ってしまうが、レトロモビルのブースは車1台がやっと収める広さなので、カメラマン泣かせだ。この時はまだフィルムの時代で、感度の制約からストロボを使用していたので大きく光ってしまう、見栄えのしない仕上がりとなってしまった。
(写真04-4ab) 1966 Matra Jet MB-8 (1989-05 モンテ・ミリア/神戸ポートアイランド広場)
1963年誕生したのが、一般の市販車としては世界で初めてリア・アクスルの前にエンジンを置いた「ミッドシップ・エンジン」の車「ルネ・ボネ ジェット」だ。エンジンは1963年からスポンサーとなった「ルノー」の4気筒996cc/1108ccを積んで、63、64年のルマンに挑戦した。しかし結果は芳しくなかったため1965年のルノーは「アルピーヌ」1本にしぼり、「ルネ・ボネ」の援助は打ち切られた。この危機を救ったのが「マートラ」だった。「マートラ(正式には「アンジェン・マートラ社」)」は実業家「マルセル・シャサニー」が持って居た企業グループの中核となる会社で、「ルネ・ボネ ジェット」のボディのためのFRPを供給していた「ジェネラル・ダアプリカシオン・プラステイク」もその傘下にあったという関係だった。ミサイルの先駆者として成功した結果、闊達な資金を保有していたから、グループには各分野の企業が集まっていた。だからその中に自動車・メーカーを加え、さらに充実を図るべく危機に瀕している「ルネ・ボネ」を救済したわけで、1964年10月、「マートラ・ボネ」と名前を変え傘下に組み込んだ。翌月「マートラ・スポーツ」と名前を変え「アンジェン・マートラ社」の自動車部門として再スタートした。写真の車は誕生当時の「ルネ・ボネ ジェット」ではなく、マートラ傘下となった後の「マートラ ジェット」なので、ボンネットの先端には「Matra Sports」と入っている。ただ、ボディサイドには「Rene Bonnet」と旧名もしっかり入っていた。
(写真04-5ab) 1967-70 Matra M530A (1970-03 第3回東京レーシングカー・ショー/晴海)
前項の「マートラ ジェット」は高価なうえにかなりマニアックな車で一般市場向けでは無かった事を踏まえ、新たに企画されたのが「M530」だった。ミッドシップのレイアウトはそのまま踏襲されたが、実用性を重視したスポーティカーを目指し、ミッドシップでありながら、なんと2+2の4シーターを実現してしまった。そのためリアホイールは後ろに下げられホイールベースは長い。エンジンはスペースを取らないドイツ・フォード15M用のV4 OHV 1699cc がコンポーネントごと採用された結果、リアシートの後ろの僅かな隙間に収まり、その後ろには独立した立派なトランクがある。1970年1台輸入されたのみで、その後正規輸入が図られたが、安全基準が障害となり実現しなかった。因みに親会社のミサイルの最高傑作の名は「R530」なので、「M530」はそれにあやかったものと思われる。
(5)< De Coucy >(仏)
(写真05-1abc) 1928 De Coucy GP Car (2003-01 レトロモビル/パリ)
今月最後に登場するこの車は 1928年製でエンジンは8気筒 1100cc 、1928年 7月1日 の第22回 F.A.C.F GPに出走したらしい、という事しかわからない。そんな車をなぜ登場させたかと言うと、この頬のげっそりこけた顔付が、あの有名なムンクの「叫び」にそっくり!と思ってしまったからだ。
―― 次回は「ドディオン・ブートン」から始まります ――