早いものでマツダが1967年5月に初めてのロータリーエンジン(RE)車「コスモスポーツ」を市場導入して間もなく50年になる。山あり谷ありの50年だったが累計生産台数は1,997,365台となった。RX-Vison市販バージョンの具体的な中身や導入時期がまだ明確には見えていないが、マツダがREへの「飽くなき挑戦」を続け、REの特性を生かした商品、中でもスポーツカーの開発に挑戦し続けていることは非常に価値のあることだと思う。RX-7開発物語が三樹書房から刊行されてすでに12年が経過するが、ここ数年間在庫切れとなっており、このたびRE車市場導入50周年を記念して三樹書房さんから増補新訂版として再版されることになったので「再版によせてのメッセージ」を二回に分けてお伝えしたい。
『マツダRX-7(ロータリーエンジンスポーツカーの開発物語)』は、三樹書房/グランプリ出版の小林謙一氏と、永年の親友でもあり私が三樹書房とともに立ち上げた車評プロジェクトのメンバーの一人でもあった日本在住のイギリス人のオートモーティブヒストリアン ブライアン・ロング氏にきっかけを与えていただくとともに、歴代RX-7の開発に携わったキーメンバーの方々の全面的なご協力により、2004年12月に刊行することができた。以下は再刊によせての私の思い出やこれからへの期待などの前半部分だ。
1.コスモスポーツ
まずはコスモスポーツから始めよう。マツダがREの開発に着手した最大の動機は「マツダの独立を守るためには独自技術の育成こそがカギになる」と考えた当時の社長松田恒次氏の決断だった。1960年10月に社長自らドイツに飛びNSU-Wankel(ヴァンケル)と契約を結び、1961年には山本健一氏をトップとする開発がスタート、1963年4月にはRE研究部が設立された。私がマツダに入社したのが1963年、幸いにも立ち上がり直後のRE研究部試験課に配属され、1971年までベンチテスト、実車テストなどで多岐にわたる初期の開発テストに携わることができた。
シングルローターで開発の始まったREだが、時をおかず2ローターの開発も進むとともに、「チャターマーク」と呼んだハウジングの波状摩耗(ローターハウジングの表面がアペックスシールにより波状摩耗する問題)を防ぐためのアペックスシールの開発は、最大の開発テーマの一つだった。「牛の骨から貴金属まで」といわれたほど多岐にわたる素材を模索した。そのほか燃焼室内にもれたオイルが燃えて排気管から"もうもう"と煙をだし「かちかち山」と言われた現象を止めるためのオイルシールの開発など、多岐にわたる開発課題に直面した。
初代RE搭載車としてスポーツカーが選択され、1963年全日本自動車ショーにはコスモスポーツのコンセプトカーの写真と試作エンジンを展示、松田社長が試作車で会場にのりつけるとともに、ショー終了後山本RE研究部長(当時)をともない東京から広島まで試作のコスモスポーツで行脚、多くの関係者にRE開発への支援を要請した。1964年の東京モーターショーにはコスモスポーツの試作車が展示され、1967年5月の市場導入に至るまで様々な技術課題を克服した。
1967年秋のロンドンモーターショーにコスモスポーツが出品されたが、まだ販売網も整備されていない中、私はイギリス人の家に下宿しながら3か月間、毎日サービス工場でつなぎを着て広報活動に活用されたコスモスポーツのメンテナンスにあたった。コスモスポーツは多くのイギリスメディアの注目を浴びるとともに、専門家からハンドリングやブレーキに対する色々な注文を付けられ、それも後押しとなりホイールベース延長やブレーキ倍力装置装着などをとり込んだL10Bが早くも1968年7月に誕生した。
コスモスポーツの生産台数は1,176台と非常に限られたものだが、市場導入されて50年も経過した今日でも、コスモスポーツオーナーズクラブの方々を中心にかなりな台数が素晴らしい状態で維持されていることは、開発段階に参画することが出来た一人として本当に頭が下がるものがある。その後各種のRE車が導入されるが、初代モデルにコスモスポーツというスポーツカーを選択したことは非常に賢明だったと思う。もしもGM、日産、シトロエンなどのように大衆車を選択していたら、果たしてその後の幾多の困難を乗り越えられたかどうか、また歴代のRX-7、RX-8などが生まれていたかは定かではない。
2.モータースポーツへの挑戦
マツダがモータースポーツの世界に踏み込んだのは、1964年5月の第2回日本グランプリレースにキャロル360とキャロル600で参戦したのが始まりだ。1966年以降ファミリア800、1000クーペでシンガポール、マカオなどのレースに参戦、数々の実績を残すが、REの耐久信頼性や性能を公の場で立証したいという思いがベースとなり、1968年のマラソン・デ・ラ・ルート84時間レース(ニュルブルクリンク)への参戦が決定した。
このエンジンの開発には、その後マツダモータースポーツレジェンドとなる松浦国夫氏と共に携わったが、三次試験場を利用しての三日三晩の事前テストでは近隣の農家から「牛が乳を出さなくなった」、「鶏が卵を産まなくなった」などのクレームが寄せられたのを思い出す。私はレースには参加せず、当時の緊急課題だった米国排気ガス規制対応と対米輸出の実現に注力することになったが、はじめての、しかも84時間という海外長距離レースで総合4位を獲得できたことは、その後のRE車によるスパ・フランコルシャン、ルマン、デイトナなどの耐久レース挑戦への大きなはずみとなったことはいうまでもない。
ファミリアロータリークーペ(R100)導入後は1969年のシンガポールGPクラス優勝を皮切りに内外で各種レースに参戦するが、特筆に値するのは1969年のスパ・フランコルシャン24時間レースでの総合5位入賞、同年のマラソン・デ・ラ・ルート84時間レースでの総合5位入賞、1970年のスパ・フランコルシャン24時間レースでは21時間まで総合1位を維持するものの最終的には総合5位で終わったレースなどだ。
以下は2015年9月にベルギーのスパで行われたクラシックカーレースに日本から参加したファミリアロータリークーペに関する「車評オンライン」だ。
https://www.mikipress.com/m-base-archive/2015/09/64.html
一方国内では1969年に導入された初代スカイラインGTRが国内ツーリングカーレースで無敵の進撃を開始、「マツダはスカイラインGTRに勝てないから国内レースに出ないのでは」という声も大きくなったため、その後のREによるレースは国内にシフト、当初は苦戦するものの、1971年末にサバンナクーペがスカイラインGTRの50勝目を阻止、以後サバンナRX-3を中心に国内でもRE車が大活躍することになる。
ルマンへ24時間レースへのRE初参戦は1970年の10Aエンジンを搭載したシェブロンB16だが、リタイアで終わり、その後1973年のシグマMC73(12Aエンジン)、1974年のシグマMC74(同じく12Aエンジン)と続く。マツダスピードとしてのルマンへの挑戦はIMSA GTO仕様RX-7による1979年からとなるが、1991年に総合優勝を勝ち取るまでのマツダのルマン挑戦の歴史については『マツダチームルマン初優勝の記録』(三樹書房刊)を是非ご覧いただきたい。
ここで一言触れておきたいのは2011年に優勝20年を記念してルマンで行われたイベントだ。決勝前日にはアメリカの人気俳優パトリック・デンプシー氏によるデモランを行い、決勝直前には1991年の優勝チーム最終ドライバーで脱水症状のため表彰台に上がれなかったジョニー・ハーバード氏が大観衆を前に4ローターの独特のサウンドを響かせてデモランを行い、大喝采をあびるとともに表彰台に上がるという感動のシーンも用意されていた。
下記はその時の模様を綴った私の「車評オンライン」だ。
https://www.mikipress.com/shahyo-online/ronpyo19.html
REのアメリカにおけるモータースポーツの実績にもご注目いただきたい。中でもIMSAシリーズにおける活躍は顕著で、一連の記録は是非本書の中の鈴木慎一氏の記述をご覧いただきたい。私は初代RX-7導入の1年ほど前に数名のメンバーとともに約1か月全米を廻って市場調査を実施、当初計画を大幅に上回る販売台数の可能性を見出すとともに、IMSAシリーズのレースを観戦、IMSAのオーガナイザーとも面談し、チームとしてIMSAシリーズへの参戦を推奨した。1979年のデイトナ24時間レースでGTUクラスでの1・2フィニッシュを果したことが起爆剤となり、RX-7によるIMSAシリーズ参戦チームが急速に拡大、1995年までに通算117勝という前人未踏の記録を打ち立てた。
以上のように50年の歴史の中におけるREによるモータースポーツへの挑戦の意義は非常に大きいものであることはご理解いただけたと思う。