(写真00-0)
(写真00-1) シボレー・顔の変化
.................1918.......................................1925.................................1927.......................
.................1927....................................1928.....................................1929......................
..................1932.....................................1934....................................1937......................
..................1939....................................1940......................................1941....................
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..............41~45.......................................1946.......................................1946...................
..................1947....................................1948.......................................1949..................
<馬車屋時代>
「シボレー」を語るには「ジェネラル・モータース」(GM)グループの成り立ちと、その中心人物「ビリー・デユラント」William Crapo"Billy"Durant (1861-1947)の足跡をたどる必要がある。ボストンで生まれ10歳の時母方の祖父が住むミシガン州フリントに移る。16才から21歳までは祖父の経営する製材工場で働き、そのあと色々な種類の物を販売してセールスマンとしての腕を磨いた。ある時友人に乗せてもらった2輪馬車の乗り心地の良さに感銘を受け、翌々日には120キロ離れた「コールドウオーター・ロードカート社」を訪問、2000ドルの借金をしてこれを買収し馬車業界に参入した。1885年24才の時に友人のジョサイア・ドートと共同で「Durant-Dort Carriage Works of Flint」を設立し、それまで多数の下請けに任せていた製造工程を自社内で一括して行い効率化を図り大量生産を可能にした。一方、大量に作られた製品を売りさばくため、全国規模の販売網を整備し、年間5万台を売り一気に全米一の馬車メーカーとなった。「デュラント」という人は車造りの技術者としてではなく、経営者として組織造りや経営統合、流通・販売方法などでその後の自動車業界に大きな貢献をしたが、馬車屋時代身に着けたこれらのノウハウこそが「GMグループ」造りの原点となったものだ。
<ビュイックからGM設立へ>
「ビュイック」は1902年創業したが、1903年6台、1904年37台しか造っておらず倒産寸前だった。「ビリー・デュラント」と「ダンバー・ビュイック」が手を組んだのは1904年だが、そろそろ自動車も「馬なし馬車」から「自動車」へと変わりつつあり、経営者として「先見の明」があるデュラントが時代を先取りして自動車に目を付けたのかと思ったら、救済の手を差し伸べた地元の大手馬車会社「フリント ワゴン ワークス」のジェームス・ホワイティングが手にあまり、馬車で大量生産の実績を持つ「デュラント」にその経営を委託したという事らしい。「デュラント」は元々自動車に対しては「騒々しい乗り物」のイメージであまり好感を持って居なかったようだが、これを機会に「自動車業界」に首を突っ込む事になり、翌1905年には750台、1906年には1400台、1907年には4641台でフォードに次いで全米第2位までのし上がった。
・40才になった「デュラント」はビュイックとの提携話が始まるより前、すでに馬車屋として業界のトップクラスにあり、1901年から1904年までニューヨークのウオール街で経済について学んでいたが、この時期にモルガン商会が「USスチール」という巨大トラスト企業を立ち上げるのを身近で体験し、いつの日か自動車業界でも、という思いを持ったとおもわれる。
・「ゼネラルモータース」(GM)が創立されたのは1908年9月16日のことだが、それまでには幾多の紆余曲折があった。その発端は1908年1月17日「モルガン商会」の主導で始まった。当時全米には約600 の自動車メーカーが存在したが、投資家にとってはもっと少数にまとめ管理・把握し易くする為、統合が必要とされていた。最初に候補に挙がったのは「フォード」「ビュイック」「レオ」「マックスウエル」のトップ4社で、その後何回も会議が開かれたが、5月末の会議でフォードはトラスト立ち上げによって安価で車が提供出来なくなるのは方針に反するので反対、傘下に入るよりは300万ドルで売却し、新会社を立ち上げると、結論を出し、「レオ」も300万ドル売却説に同調したが「モルガン商会」はこの提案を吞めずこの話は決裂した。
・次ぎは「ビユイック」のデュラントが「マックスウエル」のベンジャミン・ブリスコーと図り、2社の合併話が進められ6月末までには「ユナイテットモータース」と新社名まで用意されたが、モルガン商会をバックに資金援助するジョージ・パーキンス傘下のインターナショナル・グループに合わせて「インターナショナル・モーター・カンパニー」と変更された。デュラントがその出資者パーキンズと初めて逢って条件を煮詰めた結果、150万ドルの期待に対しては50万ドルしか出さない、出資側の本当の狙いが「業界の将来を見据えた合併」ではなく、「株価つり上げの投機対象」と見ていることが分かった。一方モルガン(パーキンス)側には別の構想があり、新会社には「インターナショナル・ハーベスター」(農機具)と「インターナショナル・マーカンタイル・マリン」の両社が資本参加し、これにビュイックとマックスウエルが合併する。というニュースが7月31日付けニューヨークタイムスに掲載される。8月4日これを知ったデュラントは8月末この計画に終止符を打った。
・新しい会社「ジェネラルモーターズ」(GM)は地元銀行から借り入れた僅か2000ドルの資本金で1908年9月16日登記、設立されたが、この時この持ち株会社に所属する会社は1つも無かったから、権利関係を調整する必要は生じなかったわけだ。新社名には「ユナイテッド・モータース」を予定したが、類似名が既に登録されており使用できなかった。設立直後の9月29日グループ第1号として「ビュイック」を買収、続いて11月12日には「オールズ・モーター・ワークス」(オールズモビル)を買収した。1909年に入ると1月には「オークランド」(のちのポンティアック)の株半数を取得、7月には「キャディラック」を550万ドルで買収、続いてオークランドの全株を手に入れ傘下に収めた。
・その後も「デュラント」の攻勢はとどまるところを知らず、1909年には950万ドルで「フォード゙」買収の合意を取り付けたが、期限までに資金の調達ができず実現しなかった。その後も次々と買収は続き、1910年までに25社を傘下に収めたが、その中で大失敗したのが自動車用ランプを製造する「ヒーニー・エレクトリック」で、電球バルブの特許が「GE」から訴えられ敗訴、買収と賠償で多額の損失を出し1500万ドルの負債を抱えることになってしまった。この状態に対して銀行団は「GM」に見切りをつけ清算を考えていたが、「GM」所有する株式の議決権の5分の4を銀行側が保持するという、事実上の支配権を放棄する「銀行管理」という形で存続が認められた。「デュラント」は引き続き取締役として、議決権の信託を受けた5人の共同経営者の1人として残ったが他の4人は銀行側だから実質経営権は全くなかった。この段階ではデュラントはGMから追い出されたわけではなく暴走を抑えるため権限を剥奪されたということだ。
・馬車屋時代からの相棒で、デュラントの後ビュイックの社長を継いだ「チャールズ・ナッシュ」が1912年11月19日「GM」の社長に就任、それまでの無制限な拡大一辺倒から堅実な経営方針に変わり事業も整備された。
・「GM」で手足をもがれたデュラントは1910年末から1914年にかけてそのはけ口をGM 以外に求め、数々の自動車会社を起業し、本来のバイタリティーを発揮したが、その活動は個人に関するものでGM側から何の制約も受けることは無かった。「メイソン社」「リトル社」「シボレー社(ミシガン)」「リパブリック社」「スターリング社」「モンロー社」「シボレー社(デラウエア)」が作られ、その中の「シボレー」が大ヒットして「デュラント」を再び「GM」に返り咲きさせることになる。(それにしてもメゲナイおじさんだなァ)
<シボレー>
「ルイス・シボレー」はスイス生まれで、フランスで育ち、カナダを経てアメリカに移住した。フィアットを扱うディーラーで修理工をしていたが、その運転の腕を見込まれ、フィアットの大馬力のレーサーを駆ってローカルレースで優勝を重ね、アメリカ最大のレース「ヴァンダービルト・カップ」に挑戦するまでの注目のレーサーとなっていた。1908年からビュイックに乗ってレース活動をしていたから「デュラント」とは旧知の関係で、1910年以降GMで腕を振るえなくなった「デュラント」が幾つか自動車会社を作った際に「シボレー」もその中の1つとして1911年11月3日設立された。「ルイス・シボレー」は修理工としての経験はあっても自分で設計するだけの専門知識はなく、1911年3月、修理工時代からの知り合い「エティエンヌ・プランシュ」を設計者に迎え車造りを始めた。最初の市販車は1912年の「クラシック・シックス」で、Tヘッド6気筒4904cc WB120インチの堂々たる大型車だった。もともと「デュラント」はT型フォードに対抗する小型で安価な車造りを目指していたが、「ルイス・シボレー」はキャディラックのような大型高級車が理想だった。「デュラント」は「ルイス・シボレー」がヨーロッパ旅行中の1913年に製造方針を小型車に変更し大量生産を可能にしたのが「Hシリーズ」だ。しかしこの車は「ルイス・シボレー」にとっては到底受け入れられる物ではなかったから、1914年持ち株のすべてをデュラントに売り払いこの会社から手を引いた。エピソードとしては「喫煙のトラブルが元で」となっているが、根本的に目指すところが違っていたから当然の結果といえる。
・1914年12月16日電気ヘッドライト、セルフスタータがついた小型車「490」を発表、1915年6月から名前の通り「490ドル」で販売を開始した。「シボレー」は「Hシリーズ」「490」など小型車を中心に順調に売り上げを伸ばしていた。1915年に入ると「デュラント」は「デュポン」と組んでGM株を買い集め、5年間の銀行管理が切れる1915年10月を目途に40%を入手、これをバックに株主総会に乗り込み復権を果たした。そして「デュラント」は1915年9月「シボレー・モーター(デラウエア)」を設立する。この会社は当時「デュラント」が支配していた「シボレー(ミシガン)」をはじめ多くの会社の親会社としてすべてを傘下に収め、8000万ドルの資本金でGM株1株に対しシボレー株5株の割合で交換すると発表、3年足らずでGMの大株主となり1918年5月には「シボレー」を「GM」に合併させた。登記上とは反対に実質は「GM」が「シボレー」に吸収されたという事で、「デュラント」は再び「GM」の支配権を取り戻した。ここで終わればメデタシメデタシだが、波乱万丈の人生はまだまだ続く。
<GM>
・1916 年6月「デュラント」は「GM」の社長に初めて就任した。その年10月「ゼネラル・モーターズ・コーポレーション」が持ち株会社として設立され、「ジェネラル・モーターズ・カンパニー」をそっくり引き継いだ。
・この一連の行動が何を目的としたのかは僕にはよく理解できないが、「デュラント」在任中は傘下会社は独立経営を認められていたが、1920年以降、「モルガン」と「デュポン」の支配体制になってからは、各会社は独立機能を失い「社内事業部」としてコントロールされることになった。
・再び拡張路線に方向転換した「GM」は、自動車だけではなく冷蔵庫や飛行機まで手を伸ばすが、なかでもフォードに対抗して始めた農業用機械部門が命取りとなった。手始めは1917年の「サムソン・トラクター」の買収で、価格の1750ドルはフォードソンの750ドルにはとても太刀打ち出来ず、「モデルM」を650ドルで売出し何とか対抗した。ところがこれに懲りず「ダンディ社」という耕運機も買い取ったがこれも全く売れず、足を引っ張ることになった。それやこれやの失敗がらみの買収戦術に対して危惧を感じ共同経営者「ヘンリー・リーランド」「ウオルター・クライスラー」と次々と「GM」を去る。
・1920年4月第1次大戦の反動から株安のあおりを食ってGM株も値下げが始まる。5月には経営が悪化、10月には資金不足で8300万ドルの借り入れを行う。11月には工場の操業停止。という最悪の事態に陥ってしまった。この段階で「モルガン」は「GM」に見切りをつけ@280ドルで10万株を売却し、このため株価は急速に下落を始め、「デュラント」は個人の資産を投げうって(株を担保に借りまくって)必死に買い支えたが@12ドルで力尽きた。投入した資金は9000万ドルともいわれる。結局所有した1000万株はすべて担保に取られ無一文となった。
・この局面は、すでに5000万ドル近くを「GM」に投資していた「デュポン社」が破産だけは避けたいと救済に乗り出し、「ピエールS・デュポン」の時代に入る。「デュラント」は1920 年11 月30日社長を辞任し「GM」を去った。「ビリー・デュラント」59才だった。
<デュラント・モーターズ>
「デュラント」という人は不思議な魅力で人を引き付ける力があった。「GM」を追われても彼の支持者は多く、4か月後の1921年1月には500万ドルが集まり自分の名前を冠した「デュラント・モーターズ」を立ち上げる。そして買収や幾つもの子会社を設立し、相変わらずにぎやかなグループでの経営が続いたが1929年からの大不況で1933年倒産した。
・最晩年はレストラン、スーパーマーケット、ボーリング場など車とは関係ない仕事で余生を送り1947年3月18日85才で波乱に富んだ生涯を閉じた。
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(写真01-1ab) 1918 Chevrolet Series 490 (2007-04 トヨタ自動車博物館)
初期のシボレーについては全く写真を撮っておらず トヨタ博物館が所蔵している1918年が一番古い。それでもこの年はまだ「デュラント」が「GM」の社長だった。
(写真02-1ab) 1925 Chevrolet Superior Series K (2007-04 トヨタ自動車博物館)
次は7年後まで写真はない。1920年代のシボレーは戦後街中で見かけたことは無くこちらもトヨタ博物館所蔵の車だ。
(写真03-1ab) 1927 Chevrolet Capitor AA (2008-01 VW博物館/ウオルフスブルグ)
写真の車はドイツのウオルフスブルグにあるフォルクスワーゲンの本社に併設されている博物館の車で、年代別の「ビートル」はもとより、傘下に収めている各メーカーの歴史的名車も多数展示されている。
(写真03-2a) 1927 Chevrolet StasionWagon (1998-01 ヨット&ビーチクラブ・ホテル/フロリダ)
1998年、ディズニーのアーチスト育成カリキュラムを受けるため息子が派遣され、6か月現地に滞在していたのでそれに便乗して夫婦で1週間フロリダの「ウオルト・ディズニー・ワールド・ディゾート」を楽しんだ。その時宿泊したホテルが「ウオルト・ディズニー・ヨット&ビーチクラブ・リゾート」という木造のアーリーアメリカン風に見える建物だった。その玄関脇に停めてあったのがこの車で、最近のような木目プリントではなく、本物の木でトリミングされている。もしかしたら「ステーション・ワゴン」ではなく「乗合バス」かもしれない。
(写真04-1ab) 1928 Chevrolet National AB Cabriolet (2010-10 トヨタ博物館クラシックカー・フェスティバル)
(参考)1931 Ford Model A Phaeton
写真の車はパッと見たところ「シボレー」よりも、見慣れた「A型フォード」かな?
と思ってしまうほど印象が似ている。ということで、参考に「慶応大学」の車を掲載した。
(写真05-1a~d) 1929 Chevrolet International AC 4dr Sedan (1973-11 くるまのあゆみ展/東京モーターショー)
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写真の車は右ハンドルだが、戦前から日本を走っていた車では無さそうだ。ナンバープレートが外国の物で、丁度この少し前「安宅産業」がニュージーランドから玉石混合で中古車を大量に輸入したので、その中の1台だと思われる。(ニュージーランドは英国連邦の一員で世界では少数派の右ハンドルだ)
(写真05-2ab) 1929 Chevrolet International AC Roadster (2014-04 トヨタ博物館クラシックカー・フェスティバル)
この車も近年日本に来た車ではないかと思われる。最高のコンディションでアメリカ映画に出てきそうな素敵な雰囲気だ。当時は極く一部にしかスポークホイールは採用されておらず基本的にはディスクホイールだったが、オプションで写真のような洒落た「ウッド・スポーク」も選ぶことが出来た。
(写真05-3ab) 1929 Chevrolet 1.5-Ton Truck (1998-01 MGMスタジオ/フロリダ)
フロリダのディズニー・リゾートにはいくつものテーマパークがあり、そのひとつ「ディズニー・MGMスタジオ」で撮ったのが写真の車だ。中に入ると映画のオープンセットさながらに町並みがある年代にすべてが統一されているから建物も街角の車もその時代にタイムスリップしたようだ。このころのトラックは乗用車とあまり変わらない顔をしている。
(写真06-1ab) 1932 Chevrolet Model BA Roadster (1973-11 くるまのあゆみ展/東京モーターショー)
この車も前出の車と同じルートで入ってきたものだろう。1932年といえばライバルフォードは「B型」の時代だから較べると面白い。
(写真06-2ab) 1932 Chevrolet Confedelate Series BA (2007-04 トヨタ自動車博物館)
前項と同じ年式の車でこの年はボンネット横の大きな通気口が特徴である。
(写真07-1ab) 1934 Chevrolet Master Series DA (2007-04 トヨタ自動車博物館)
この車は1934年製だから僕と同い年だ。この年代になると日本でもタクシーとしてシボレーも走っていた筈だが、戦後僕は一台も見ていない。1927年「日本ゼネラル・モータース」が関西財界の肝いりで大阪市大正区に設立されたが販売対象が主に関西地区だったのか?
(写真08-1ab) 1937 Chevrolet Master Busines Coupe (1998-01 オーランド市内のミーティング)
この写真はフロリダのディズニーランドへ行った際撮影したものだ。息子がこのイベントを地元の新聞で見付け面白そうだから行ってみよう、という事で出かけた。週末に地元オーランドのスーパーマーケットの駐車場で仲間が集まって見せ合いっこするだけのほんの内輪の集まりだったが、さすがアメリカで、いくつもの珍しい年代物に出会うことが出来た。撮影は夕暮れ時で見た目よりかなり暗かった。カメラはオートで撮っていたからスローシャッターに気付いていなかったが歩いている人から推定すると1/10秒位だ。しかし自動車はブレていないのは見事!(自画自賛)
(写真09-1ab) 1938 Chevrolet Master Deluxe Busines Coupe (1998-01 オーランド市内のミーティング/フロリダ)
この車も同じイベントで見つけたものだが、こちらは、ホイール以外は殆どオリジナルだ。
(写真10-1ab) 1939 Chevrolet Master 2dr Town Sedan (オーランド市内のミーティング)
写真の車は上品な色と、全くオリジナルのコンディションが保たれた車だ。このイベントには大改造した若者の車に混じって、老夫婦が新車時代から大切に乗り続けてきたと思われる車もある面白いイベントだった。
(写真10-2ab) 1939 Chevrolet Master Buisiness Coupe (オーランド市内のミーティング)
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こちらは前と同じ年式だがフェンダーやホイールがオリジナルではない。生き残っている古い車は2ドアのクーペボディが多い。
(写真11-1ab) 1940 Chevrolet Special DeLuxe (2004-08 カーメル市内/カルフォルニア)
1940年は自動車のデザインが大きく転換した年だ。それまでは「縦」を基調としていたラジエター・グリルが「横」に広がる気配を見せ始めたからだ。ただその土台となるシルエットは縦長時代と変わっていない。写真のパトカーは、こうして街の中でみると全く違和感は感じられず、子供のころにタイムスリップしたかのようだ。この車は地元パシフィック・グローブ警察のものとなっているから、今勤務中かもしれない!?
(写真12-1ab) 1941 Chevrolet five-Passenger Coupe (1962-08 港区内)
この車は戦後僕が撮影したシボレーでは一番年式の古いものだ。撮影当時車齢20年を超えているがまだ完全に現役で活躍中で、欠品もなく良いコンディションだ。1941年は昭和16年で太平洋戦争が始まった年だから、新車で輸入されたものではない。戦時中フィリピンあたりで鹵獲(分捕って)きたものか、あるいは戦後、米軍関係者から譲り受けたのか、いずれにしても大切に乗っているのが感じられる。ナンバープレートは1955年から改正された時代の物で、「な」は自家用を表し、「2000」という区切りのいい番号を持っている。現代は好きなナンバーをお金で買うことが出来るが、当時は陸運局で順番に振られるので好みの番号を取るのは至難の業だった筈だ。
(写真12-2ab) 1941 Chevrolet Special DeLuxe 2dr Town Sedan (オーランド市内のミーティング)
シボレーのグリルは前の年から兄貴分のビュイックとそっくりで、前面一杯に広がってきた。詳細にみるとビュイックは横バーが9本に対して、シボレーは11本とやや目が細かい。この車はどこも改造されていないオリジナルのままだが、隣はB型フォードを改造した過激なホットロッドで、こんなのがごちゃ混ぜに並んでいた。
(写真13-1a~c) 1941~45 Chevrolet 1/2-Ton Pickup Truck (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
この車も同じ1941年式だがトラックは乗用車とは別に完全に独自のデザインを与えられるようになった。アメリカ車は戦時中の1943年から45年にかけてはオリーブドラブ(アメリカの軍用車の色)に白い星の入ったおなじみの軍用車以外民間向けは造られていないが、このピックアップだけはそのまま軍用も含め民間用も製造され続けた。
(写真14-1a) 1946 Chevrolet DeLuxe Pickup Truck (1998-01 オーランド市内のミーティング)
戦後いち早く復活したピックアップは、戦前から造り続けてきた1/2トン3550cc で、モデルイヤーは変わっても中身も外観も全く変わっていない。
(写真14-2a) 1946 Chevrolet Fleetmaster 4dr Sedan (1959羽田空港駐車場)
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一方乗用車の方はグリルが単純化され、とうとう横幅一杯まで広がり、1950年代の黄金期へのスタートを切った、という感じだ。ここからは車の進化と僕の写真撮影が同時進行となるので、モノクロの写真が多くなる。この年は「スタイルマスター」と「フリートマスター」の2シリーズがあり、全部で約40万台造られたが、46年型に関してはあとのも先にもこの1枚しか撮っていない。
(写真15-1 Chevrolet Stylemaster 4de Sports Sedan (1949-08-14 東京駅前・旧丸ビル前)
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僕にとっては懐かしいこの写真は1949年(昭24)8月、15才の僕が夏休みに一人で初めて東京へ写真を撮りに来た時の物で、カメラは蛇腹式の「ワルタックス」というブローニー半切版(6×4.5センチ)だった。東京駅を降りてとりあえず丸ビルの前で撮ったのがこの写真だ。よく見ると後ろの歩道に2人進駐軍の兵隊さんが歩いており、その手前はランニング一丁のおじさんが自転車で走っているという典型的な戦後風景だ。(庶民の交通手段はまだ自転車だった。)土地不案内で、この後左の曲がって都電の線路沿いに少し歩いたら都庁(現東京フォーラム)の前に出た。後はどこへ行ったか記憶が定かではないが、皇居前広場やGHQ(現第一生命ビル)付近に珍しい車が一杯居る事はまだ知らなかった。
(写真15-2a) 1947 Chevrolet Fleetline Aerosedan(改) Pickup (1959年 静岡信用金庫本店前/静岡市追手町)
場所は静岡駅から県庁方面へ向かう国道1号線(旧東海道)で、背景は新装なったばかりの静岡信用金庫本店、手前は戦災で焼失する前は御用邸、戦後テニスコートになりこの当時は県民会館があった所だ。車は窓の形からプレーンバックからの改造のようだ。この当時税金の関係でピックアップに改造される例がよく見られた。
(写真13-3a) 1947 Chevrolet Stylemaster 2dr Business Coupe (1959年 羽田空港駐車場)
この車は前項の改造車のベースになった車かと思ったが、後ろの窓が少し短い。スポーツクーペは後ろの窓がこの車よりもっと短くキャビンも小さい。このビジネスクーペはセールスマンが後ろに見本を積むことになっているので2人乗りだ。実用本位で飾り物も少ない。
(写真16-1ab) 1948 Chevrolet Fleetmaster 4dr Sports Sedan (1963-01 横浜市内)
1947年と48年はグリルの外枠がない。48年は47年のグリルの中央に縦に一本太い柱が入っただけの変更だ。ボディスタイルは過渡期の40年代の典型的なもので、フロント・フェンダーが独立した最後の年となった。庇(ひさし)はカタログ仕様ではないが多分純正オプションとして用意されたものだろう。この当時他車でもよく見られた。
(写真17-1ab) 1949 Chevrolet Styleline DeLuxe 4dr Sedan (1957年 静岡市内)
ここからスタイルは大きく変わり、いわゆる「戦後型」となった。一番大きな変化は
フロント・フェンダーが無くなった分、客室の幅が広くなり「フルウイズ・ボディ」と呼ばれる。同じフルウイズでも「カイザー」「パッカード」「フォード」は側面全部が同一面となったが、GM系はリアフェンダーに未練を残している。場所は静岡市内でも一流ホテル中島屋の横で、併設されているグリルには市内の客ばかりでなく、東京―大阪間を往復する外車所有者も多数立ち寄った。(高速道路が出来る前は国道1号線を利用した)この場所は実は僕の勤務先の職員通用口の前だから昼休みに外へ出ると様々な車が外で待っているという恵まれた環境だった。
― 次回は1950年代の黄金期のシボレーをお伝えする予定です。-