(01)<チシタリア> 1946-49(伊)/49-52(アルゼンチン)
(写真00-0)チシタリアのエンブレ
"チシタリア"という車は知る人ぞ知る名車だが、一般人の知名度はそれほど高くない。戦後いち早くイタリアでレース活動したが実質2年と活動期間が短く、台数も少なかったからイタリアで猛烈なインパクトを与えた割に海外には広く伝わらなかった。この車を造ろうと考えたのはイタリア人でサッカーと自動車レースが大好きな実業家、主に「防水布」で財を成した「ピエロ・ドージオ(Piero Dusio)」だった。プロサッカーチーム・ユベントスのセンターハーフから1941年にはチーム会長となるなどサッカーとの関わりも深い。1930年代後半には自動車レースでも国内の数々のレースで優勝し名を挙げている。会社は1946年設立されCisitalia(Consortzio Industoriale Sportivo Italia)と命名された。
< Type201 > (D-46) 1946-48
既存のパーツを多用して小型で比較的安価な手に入り易いレーシングカーを多数製造し、小排気量でワンメーク・レースを開催することを目指していたピエロ・ドージオは、後年「D-46」と呼ばれるレーシングカーの設計を当時フィアットに在籍中のダンテ・ジアコーサ(トポリーノの設計者)に依頼したのは1944(45?) 年10月のことだったとされている。ジアコーサは1945年暮れから休日と夜間を使って設計に取り掛かる。途中からフィアットの航空機部門に居たジョバンニ・サヴォヌッツイが加入し共同で開発に当たり、46年中に12台が完成した。エンジンはフィアット1100用のOHVをベースに32hpから 60hpにチューンアップされた。デビューレースのドライバーはヌヴォラーリ、タルッフィ、ソメール、ビオンデッティ、シロン、コルテーゼ、ドゥジオ自身と当代一流の7名でアルファロメオやマセラッティを相手に無名のチシタリアが圧勝した。1948年までに48台造られた。通称D-46のDはドゥジオから、46は年式 で 社内名称はType201だった。
(写真01-1)1948 Cisitalia D-46 GP (2002-01 シュルンプコレクション/ミュールーズ)
一見平凡に見えるが戦後間もなく登場した年代を考えれば、戦前モデルに較べれば平均以上のものだろう。後ろに見えるのはライバル1948年マセラティ4CLT GPである。
(写真01-2) 1946 Cisitalia D-46 GP ( 2000-05 モナコ)
場所はF1レースでお馴染みのモナコ公国の有名なカジノ・コーナーで、前がチシタリア、続く赤い車は戦前の名車アルファロメオP3 である。
(蛇足)「1944年(昭19)10月ジアコーサとレーシングカーの相談をした」とあるがイタリアの終戦は何時なのか? ドイツ、日本と組んでいたイタリアが連合国に無条件降伏したのは1943年(昭18)9月8日(敗戦)だが、それ以後も連合国をバックにした南部の「王室、パルチザン組」と、ドイツをバックにした北部の「ファシスト、ムッソリーニ組」が内戦状態にあり、これが決着した1945年4月25日が終戦記念日とされている。この日は日本と違って「敗戦」ではなく「パルチザンによるファッショ/ナチスからの解放記念日」である。因みに第2次大戦におけるイタリアは途中で連合国側に立場が変わり最終的には戦勝国扱いである。
< Type202 >
1946年夏でジアコーサは手を引き、サヴォヌッツィが後任として次期チシタリアの設計にかかる。指示は小型軽量2座スポーツカーでジアコーサによって描かれていたラフスケッチが引き継がれた。エンジンは「D-46」と同様フィアット1100から改造し61hpを発生させている。
(1号車202CMM プロトタイプ)
(写真02-1a-c) 1947 Cisitaria Type202 Prototype By Colli (2001-05 ブレシア/ミッレミリア)
プロトタイプは「カロッツエリア・コッリ」でボディが架装された。我々が知っているチシタリアとはかなりイメージが違っているのでデザインにサヴォヌッツイの息がかかっているとは思えない。
(2号車・3号車 サヴォヌッツイ)(202CMM)
大きな尾翼を持った特異なクーペが、設計者・デザイナーの名前を付けた「サヴォヌッツィ」と呼ばれる2台で、航空エンジニアだった経歴を彷彿させる作品だ。機械工学だけでなくデザインにも非凡な才能を持ち、開発ドライバーとしても優れたセンスを持ち合わせるマルチ人間だった。ボディは2台ともヴィニアーレで造られ、赤い方はボディサイドに丸い2つの排気孔があるので2号車と思われる。3号車はサイドに4つの熱気抜きを持つとあるのでシルバーの車が該当する。サヴォヌッツィ自身がデザインしたクレイ・モデルを基に造られた木型はトリノ工科大学の風洞でテスト、熟成され、後年の測定でもCXO1.9という見た目通りの優れた空力特性を示した。特筆すべきは既にこの時期にリアウインドーの上縁に気流の剥離を防ぐスポイラーを備えている事で、風洞実験で得たデータを活かしたものだろう。
(写真02-2a-d) 1947 Cisitalia Type202 Savonuzzi Coupe by Vignale (1997-05 ミッレミリア)
場所はミッレミリアの車検場の隣りにあるロッジア広場で、ナンバーから日本から参加していることが判る。(ACNは名古屋ナンバーの海外登録時の略称でAichi Nagoyaから採ったもの)
リアウンド上縁にある気流の剥離を防ぐためのスポイラーに注目!
(写真02-3a~d) 1947 Cisitalia Type202 Savonuzzi Coupe by Vignale (1994-05 ミッレミリア)
こちらもオーナーは違うが日本から参加している。場所は車検場ビットリア広場で、背景に見える白い横縞のある建物は1927年ミッレミリアが始まった当初から同じ姿のままの郵便局だ。
既に空気抵抗に配慮した「V形スクリーン」が採用されている。
エンジンルームの熱を効率的に排出するための「穴」はこの車だけは「四角」だ。
(4号車 スパイダー・ヌヴォラーリ) 202SMM
クーペと同じシャシーの一部を補強してオープンモデルも同時期に開発された。4号車はサヴォヌッツイのデザインで控えめながらテールフィンを持っていた。カロセリア・ガレッリで造られたがフィンが厚すぎてぼってりした印象を与え不満が残った。
(写真02-4a~c)1947 Cisitalia Type202 Spider Nuvolari (200-05 ミッレミリア)
写真の車が4号車との確証はないが、僕の撮った5種の202スパイダーの中でこの車のフィンだけが後ろから見ると三角形の厚みがあるので、多分これではないかと推定した。
(5号車・6号車~) (202SMM)
4号車スパイダーに満足できなかったので修正を加え更に2台造られる事になり、スタビリメンテ・ファリーナが架装することになった。これが5・6号車で、1947年再開された戦後初のミッレミリアには1号車のプロトタイプ、2号車クーペを含め5台が出走し2,3,4位に入賞した。スパイダーに乗ったタッツイオ・ヌヴォラーリはゴール目前のボローニャまでトップで走り続けたが、豪雨のため電気系統に浸水し、修理中に抜かれて2位となった。1位は3リッター・クラスのアルファロメオ8C 2900だったが、僅か1100ccのチシタリアが総合で上位を占めたのは驚異的な出来事だった。この時のヌヴォラーリの超人的な大活躍を称えこれらのオープン・モデルは「スパイダー・ヌヴォラーリ」と呼ばれている。
(写真02-5a~c)1947 Cisitalia Type202S MM Spider Nuvolari (2000-05 ミッレミリア)
前の車に較べると明らかにテールフィンは薄くすっきりして見える。
(写真02-6a~c)1948 Cisitalia Type202S MM (1997-05 ブレシア/ミッレミリア)
この車のはっきりした素性は僕には判らないがテールフィンが無いので6号車ではない。「MM」のコンぺティション・スパイダーで市販のカブリオレでもない。5・6号車の後6台が追加で造られた、とあるのでその中の1台かもしれない。
(ピニンファリーナ・クーペ) (202CM)
一般的に「チシタリア」と言えばこの車の事を指すように、チシタリアを代表し、ピニンファリナの評価を高め、1950年代以降の自動車のスタイルを先導したのがこの車だ。ドゥジオが示したこの車のコンセプトは「日頃僕が使っているビュイックの様に広く、最新のグランプリカーの様に低く、ロールスロイス並みに快適で、D46のように軽快な車」を設計せよ、という事だった。これに応えて書き上げたサヴォヌッティのレンダリングは一発でドゥジオのOKが出た、というからこの2人はよっぽど気心の通じ合った良いパートナーだったと思われる。それまでのレーシングカー志向と違って、日常使用が可能な現代の「グランツーリスモ」に相当する車で、量産して市販する事を目指したものだ。6台のシャシーがピニンファリナに送られ、サヴォヌッティのアイデアに手を加えて完成したのがこの車だ。1947年9月コモ湖畔で開かれた「ヴラ・デスタ」のコンクールデレガンスで総合優勝の金賞を受賞、10月のパリ・サロンでは世界的に大注目を浴びた。しかしあまりにも高価過ぎてこの時期はまだイタリアでの販売は難しく、対象をアメリカに求めた。1948年202のアメリカでの価格は6.800㌦だったが、これはキャディラック60Sの3,829㌦、リンカー・コンチネンタルの4.746㌦と較べれば相当高価で、ヘンリー・フォードⅡ世が2台買ってくれたものの、期待どうりの売れ行きは見られなかった。しかし車の価値・評価は売れ行きとは関係なく、1951年ニューヨーク近代美術館の特別展で"動く彫刻"として展示され、自動車と言う造形が美術作品として伝統芸術の世界で初めて認められ、美術館の永久展示物に指定されている。1947年から生産が終わった1952年までにカタログモデルとしてクーペとカブリオレを合わせて170台が造られた。
(写真02-7ab) 1947 Cisitalia 202 SC Pininfarina Coupe (2001-05 ミッレミリア)
チシタリアを代表する「202クーペ」には「Vスクリーン2分割」「Vスクリーン窓桟なし」「1枚ガラス」の3種がある。写真の車は2分割ウインドスクリーンを持つ初期モデルで、全体のイメージが最もオリジナルの感じを出している。
(写真02-7c~e) 1947 Cisitalia 202 SC Pininfarina Coupe (2004-08 ペブルビーチ/アメリカ)
格式の高いペブルビーチ・コンクールに出展されている車だから、変な改造はされていないだろうが、グリルとホイール・キャップは手の込んだものが付いている。特徴のあるサイドポートも付いていないがメーカー写真と思われる初期の車もポートはなく、これと似たホイールキャップが付いている。メーカーによるスペシャル・カスタマイズなのだろうか。
(写真02-7f~i) 1948 Cisitalia 202 SC Pininfarina Coupe (2011-10 クラシックカー・イベント/日銀本店前)
この車も年式は1年遅いが日本にある車の中で最もオリジナルが感じられる美しい車だ。
(写真02-7j) 1949 Cisitalia 202 SC Pininfarina Coupe (2009-10 ラフェスタ・ミッレミリア)
こちらも日本にある車で非常にいいコンディションが保たれている。これはVスクリーンだが中央の窓桟が外側にないタイプで、ポルシェ356の初期のタイプにも同じようなものが見られた。
(写真02-7k) 1950 Cisitalia 202 SC Pininfarina Coupe (2001-05 サンマリノ/ミッレミリア)
この車はフロントガラスの折れ目が無い完全な1枚ガラスとなった。場所はサンマリノの王宮前のチェックポイントを過ぎて急坂を下った所で、この先2百メートルほど行くとグランドホテル前だ。
(写真02-7lm)1950 Cisitalia 202 SC Pininfarina Coupe (1997-05 ブレシア/ミッレミリア)
この車も後期型で窓は1枚ガラスとなっている。ラジエターグリルの目が粗く横バーも強調されたものが付いているが、これが年式によるモデルチェンジなのかこの車だけのものかは不明。しかし僕が撮った20台以上の「202」に同じものは無かった。
(カタログモデルのカブリオレ)
(写真02-8a) 1948 Cisitalia 202 SC Cabrio (1997-05 サンマリノ・チェックポイント)
オープンモデルは全てスパイダーだと想っていたらカタログモデルのオープンはカブリオレと書いてあった。それを見た時は記事の間違えではないかと思ったが、手持ちの写真を調べてみたら確かに幌が納まり切っていない車を発見した。他のオープンモデルに比べて、フロントの窓枠ががっちりできている。ピニンファリーナのデザインを基にスタビリメンテ・ファリーナで造られた。
< Type204/204A >
1947年末サヴォヌッツイがチシタリアを去り、後任は元ポルシェのルドルフ・フルシュカが就任し、カルロ・アバルトがレーシング・マネージャーとなった。カルロはただちに「Type202」の後継モデルとなるレーシング・スポーツカーの開発に着手した。それは前の「202スパイダー・ヌボラーリ」がロードカーに近い外観を持っていたのに対して、グランプリカーにヘッドライトとサイクル・フェンダーを付けたような、よりレーシングカーをイメージしたもので、1948 年5月9日デビューした。初戦こそリタイヤに終わったが、第2戦では出来立ての2号車と1・2フィニッシュし3位も202 SMMが続いた。このように車としては申し分ないパフォーマンスを示していながら、その「懐(ふところ)事情」は.火の車で、半年後には工場が閉鎖され倒産してしまった。カルロ・アバルトはチシタリアを去るに当たって「D-46」1台、「204」2台と、未完成の「204」3台を引き取った。倒産した会社は1949 年3月そっくりそのまま実業家のアルマンド・スカリアーニが買い取り、カルロ・アバルトを社長に据えた「アバルト&C(Carlo Abarth & C.)」と言う名前で存続させた。それはD-46でレース活動を続けイタリア国内チャンピオンとなった息子グイド・スカリアリーニをサポートするためでもあった。同時にカルロ・アバルトは手元の未完成の「204」をここで完成させ、この3台は「Type204A」の形式番号が振られた。(AはAbarthの表示で性能上は全く変わらない)「204」は全部で5台造られたというのが有力説で、8台と言う説もあるが研究者の資料にあるシャシーNoの最後が「08」だったからかもしれない。
(写真03-1a-d) 1948 Cisitalia 204 Spider Corsa (2008-10 ラフェスタ・ミッレミリア/明治神宮)
僅か5台しか造られなかったうちの1台が日本にある。しかもチシタリアが倒産する直前だから戸籍上で言えば正真正銘の「チシタリア」最後期の作品だ。
(写真03-2ab) 1950 Cisitalia 204A Spider Corsa (1999-08 ペブルビーチ/アメリカ)
こちらはチシタリア倒産後、会社が「アバルト」となってから完成した車だが、事実上はオリジナルと何も変わらず、形式名が「204A」とアバルトの「A」が追加されただけだ。ただしノーズの先端にあったチシタリアのバッジはアバルトの「さそり」に変った。しかしチシタリアの文字はまだ入っている。だからこの車は「チシタリア」なのか「アバルト」なのか判然としない。アバルトを語る資料では204」「204A」から「アバルト」として認めているようだ。
<アバルト Type 205A>
(写真04-1a~c) 1950 Abarth 205A Berlinetta Vignale (2004-08 コンコルソ・イタリアーノ)
この車はチシタリアの資料には載っていなかったが204のシャシーを使って造られたもので、その流れの中で「205A」と命名された。ボディはヴィニアーレが架装したものだが随所にピニンファリーナの「202」クーペの影響がみられる。
<チシタリア-アバルトType 207A >
前のモデル「204」を造っている途中で「チシタリア社」は倒産してしまったので、それ以後のモデルは「204A」となり。実質「アバルト」がスタートした、とも考えられる。だから、その後に造られたこの車は「チシタリア」ではなく「アバルト207A」として扱うべきかもしれないが、ボンネットの先端にアバルトのサソリのバッチの他にチシタリアの文字もはいっており、当時まだ知名度が低かったアバルトがチシタリアの名前を利用していたのだろう。現代では自動車好きでアバルトを知らない人は居ないが・・・。アバルト・バイヤーズガイドでは「アバルト207A」として載っており、その後もチシタリアは名乗らないが「208A」209A」までこの系統は続き、その後アバルトはフィアットをベースとした独自の路線を進むことになる。
(写真05-1ab) 1955 Abarth 207A Boano Barchetta (2009-03 東京コンクール・デレガンス/六本木ヒルズ)
この車は完全に「アバルト」だが、まだ「チシタリア」の名前をボンネットの先端に付けているのは当時はまだアバルとよりもチシタリアの方がネームバリューがあった証拠だろう。
(写真05-2ab) 1955 Abarth 207A Boano Spider Corsa (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
こちらの車は前の同じ年式だが、どこから見ても完全な「アバルト」で「チシタリア」を感じさせるものは影も形もない。
<チシタリア1.5リッター 4WD GPカー(ポルシェType360)>
ピエール・ドゥジオは本格的なグランプリレースに参加するための車を造りたいと考え、1946年12月30日オーストリアのグミュントにあったポルシェ設計事務所を訪問した。当時フェルディナント・ポルシェはナチスに協力した戦犯容疑でフランスに収容されており、この車は息子のフェリー・ポルシェを助けてカール・ラーべ、エベラン・フォン・エバーホルスト等が完成させた。ポルシェにおけるタイプ・ナンバーは「360」で戦後の大ヒット「356」よりも一寸後に着手されていた事が判る。フェルディナント・ポルシェは戦前勇名を馳せたアウト・ウニオンGPカーの生みの親だが、彼がフォルクスワーゲンの計画で多忙になると、フォン・エバーホルストが後任となった。1939年当時アウト・ウニオンでは1.5リッターGPの設計を進めていたが、未完成に終わっており、それらのアイデアの多くがチシタリアの為のGP(Type360)に取り入れられたと推定される。この車のエンジンは56×51mm 1492cc 水平対向12気筒 DOHC SC付き 296hp/8500rpm がミッドシップに搭載された。この車には4WD(任意)が採用されたが、GPカーとしては一般に知られている「ファーガソン」よりも13年も早かった。しかし残念ながら正規のレースを走っていないので記録として残されることは無かった。不幸なことにこの車がレースを走るまで熟成される以前の1949年初めにチシタリア社は倒産してしまい、イタリアでは1度も実戦を経験していない。この設計料がポルシェ博士を釈放するための保釈金として使われたのはよく知られた話だ。
(写真06-1a~d) 1947 Cisitalia 1.5Litre GP (Porsche Type360) (1999-08 サグナセカ)
(参考)1939 AutoUnion typeD GP
<第2幕・アルゼンチンのチシタリア>
一説ではポルシェに依頼したGPカーを完成 させるための膨大な出費でチシタリアが倒産したように言われるが、D46によるレース活動にも費用が掛るうえ、収入源となるべき「202」も収益を助ける程売れなかったから、「富豪」と言われても「大富豪」ではなかったドゥジオからの支援が底をついてしまうのは当然の成り行きだった。1949年「チシタリア」を失ったドゥジオは、ペロン大統領のもとで国民車「アウトアル」(Autoar/ Automotores Argentinos)を実現すべくアルゼンチンに移住した。そこでジープのエンジンを用いて多目的車から乗用車まで完成させ、チシタリアのバッジを付けて売り出す。ドゥジオはアルゼンチンへ渡るに際して、ほぼ完成していた「1.5リッターGP」を持ち込んだ。車好きのペロン大統領へのプレゼントと言う説もあるが、結果的にそうなったのであって、本当は完璧に整備してレース活動をしたかったというのが本音ではないだろうか。その後ドゥジオが全てを清算した際ペロン大統領に贈られ、彼の自動車博物館のコレクションに加えられていた。しかしペロンが1955年9月クーデターで失脚して亡命した後車は消息不明となっていた。これを探し出してドイツに取り戻すまでには想像を絶するドラマがあった。
<アルゼンチンからの脱出劇>
ポルシェのレーシング・マネージャー、フシュケ・フォン・ハインシュタインはペロンが失脚した2年後行方不明となっている「Type360GP」をなんとか取り戻したいと、ブエノスアイレスでポルシェのデーラーを営む事情通のアントン・フォン・デリーを通じて情報を入手し存在を確認していた。しかしポルシェが欲しがっていると知れれば法外な値段を要求されるので、しばらくはほとぼりを覚ます期間を置き代理人を使って交渉に当たらせたが不調に終わった。結局このシャシーにフォード・エンジンを積んでフォーミュラ・リブレに出ようという男がこの車を手に入れた。だから売主はこの車が歴史的価値のある車とは気が付かず単なるポンコツぐらいにしか思わなかった筈だ。その後1958年に代理人はこの男からまんまと目的の車を買い取った。あまりにも出来過ぎた話で中に入った男と言うのは仕組まれた筋書なのかと疑いたい気もする。ここで気になるのはこの車の正規の所有権は誰のものかという事だが、ペロンから暫定政府が押収し国有財産となったが、そこから先は保管されているうちに忘れ去られて、要領のいい人が自分のガレージに運び込んで何食わぬ顔をして所有者に成りすましていたという事らしい。ラテンアメリカでは権限は絶対的なものではなく、相対的なものなので持っている人が所有者と言う考え方が通用するようだ。ただこのままでは元国有財産をポルシェが違法に購入した事になってしまうので、この車をなんとか合法化して海外へ持ち出したいと色々考えた末、ポンコツ・レーシングカーを購入しそのナンバープレートその他をそっくりすり替えて成りすます、という方法で、修理のためイタリアへ送りたいと申請したが認められず失敗に終わった。そしてついに劇的な脱出が試みられることになった。それは1960の年ブエノスアイレス1000kmスポーツカー・レースを舞台に繰り広げられた。このレースにポルシェは「RSK」を2台送り込んだのには深いわけがあった。レースのため「保税」で入国させたので、レース後は西ドイツに持ち帰らなければならないが、その際外観の似ている問題の「チシタリアType360GP」に「RSK」と同じレース・ナンバーを書き込み木箱に詰め込んで、箱にはナンバーが確認できるように小窓を付ける小細工までした。レース場で封印された上 翌日他のレースカーと一緒に税関に運ばれ、役人の目を掻い潜ってとうとう生まれ故郷のドイツに帰ってきたのだ。その後完全にレストアされ現在はポルシぇ博物館に展示されている。
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(2)<クーパー>(英) (1947~68)
「クーパー」と聞いてイメージするのは葉巻型のグランプリ・マシンで、乗用車は思い浮かばない。それもその筈でこのメーカーはレーシングカーしか造っていないのだ。(ミニ・クーパーは名前を貸しただけ) 同じ頃同じようにバックヤード・ビルダーからからスタートしたロータスは市販スポーツカーも造って経営の安定を図ったが、クーパーはレーシングカー一筋でタイトルを幾つも獲得したが結局は行き詰ってしまった。この会社のルーツをたどれば、戦前からロンドン郊外で自動車の修理やチューニングを行っていた「チャールズ・クーパー」のガレージが始まりで、そこの息子が我々の知る「クーパー」の代表者「ジョン・クーパー」(1923-2000)である。第2次大戦後は父子でヴォクスホールとフォードのデーラーを兼ねてガレージを経営していたが、友人のエリック・ブラントンの提案で「500ccレーシングカー」の製作を始めた。それは「フィアット500トポリー」のフレームに、後輪にも前輪用横置きリーフサスペンションを付け、エンジンはモーターサイクル用として定評のある「JAP500」を座席の後(ミッドシップ)に搭載したものだった。1946年7月には完成し初戦のプレスコットでは結果は残せなかったが、順次トラブルを克服し当時の2 ℓクラスに相当するタイムは大反響を呼び権威ある「Autocar」にも紹介される程だった。1947年はシーズンを通してぶっちぎりで勝ち続け、このマシンの購入希望申し込みが殺到した。これに対応するため、1947年10月「クーパー・カーズ社」を設立し、第1期市販車「クーパー500Mk2」の設計、製作に取り掛かった。
(クーパー500 MkⅡ)
(写真07-1a)1949 Cooper 500 MkⅡ(最初に市販された12台の内の1台)(1995-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
12台がシリーズで量産され一気にレースで活躍を始めると、これに刺激された幾つかの車が現れ「500cc」レース全体が活気を帯びてきた結果、FIAでは1950年以降「F3」クラスとして正式に認定されることになった。このクラスは将来レーシング・ドライバーを目指す若者にとっては、第1ステップとして腕を磨く絶好の機会を与えたから、1948年18歳のスターリング・モスが初レースで優勝したのもこの車で、他にもピーター・コリンズや多くの超1流の名手を育てている。
(クーパー500 MkⅢ)
(写真08-1a) 1949 Cooper MkⅢ (2010-06 ビューリー英国国立自動車博物館)
前の車と殆ど変らないレイアウトだがこの角度で見るとエンジンが運転席の後ろに搭載されたミッドシップという事が良くわかる。この着座位置は前項「チシタリア」で参考に載せた「アウト・ウニオンTypeD」とまったく同じで、戦前のグランプリカーのドライバーはリア・アクスルに近い所に座って車の挙動を体で感じ取っていたから、位置が前進すると後輪の滑り出しを感じるタイミングが遅れる、という事で敬遠されたようだ。しかし戦後の若いドライバーは圧倒的に速いこの車のバランスの良さが強力な戦闘力となる事をよく理解していたから次々と同じ構想の車が生まれ、いつの間にかレーシングカ-はミッドシップが当たり前となってしまった。クーパーはこの当時から既にマグネシュウム合金のホイールが標準装備だった。
(フロント・エンジンのクーパー)
(写真09-1a) 1949 Cooper・MG (1996-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
クーパーMkⅣのシャシーにMG-TDの1250ccエンジンを載せたのがフロント・エンジンで2シーターの「クーパー・MG」だ。クーパ-は後年ミッドシップ・エンジンを普及させた功労者の様に見られているが、本人たちにはそれほどの考えがあった訳ではなく、最初造った車のために選んだエンジンが、モーターサイクル用で、チエン・ドライブにするためには座席の後が都合がよかったわけで、結果的には重量バランスが良く速かった、という事なのだ。だから次のF2 を計画するに当たってはあっさりとフロント・エンジンに変えてしまった。その手始めとして造られたのがこの車で、全部で6台造られたが皆手造りなのでそれぞれ違った顔をしている。ざっくりいえば「アラード」や「フレーザー・ナッシュ」に近いスタイルをしている。この車は後述する「モナコ」や[キングコブラ]など2座レーシング・スポーツの原形といえる。
(写真09-2a)1952 Cooper-Bristol MkⅠF2 (2000-06 モナコ)
フロントエンジンの集大成が1952年の「クーパー・ブリストルF2」で、エンジンはブリストル(と言っても元々は戦前の名車BMW328用を戦後ブリストルがライセンス生産したもの)で、直6 OHV 66×96mm 1971cc 135hp/5800rpm 高性能ではあるがレーシング・エンジンではないので重量は重かった。デビュー戦は1952年4月のグッドウッドで、第1レース優勝と2~3位、第2レース優勝、第3レース2位と圧勝した。このレースではマイク・ホーソンが優勝2回、2位1回と大健闘した。この当時の世界選手権は2ℓのF2クラスで争われていたので、ホーソンはこの車でドイツGP、オランダGPで4位、イギリスGPで3位となり、その成績が認められてフェラーリ・チームにスカウトされ、一方この活躍で「クーパー・ブリストル」も大いに名を挙げた。
(写真10-1a~c) 1960 Cooper FJ MkⅠ (2004-08 ラグナセカ・カリフォルナ)
この年から発効した1000ccFJの規定に対応すべく造られたマシンで、BMCのシリーズAエンジンを948ccから994cc までボアアップしたものが搭載された。 全部で28台が造られている。
・1957年にはジャック・ブラバムの提案で本格的なミッドシップF2を完成させる。これが「クーパー・クライマックスF2」(1460cc)で、本格的なミッドシップ・レーシングマシンとしては最初のものだった。1958年シーズンはF1に挑戦するのだが、それはF2用のマシンで、エンジンを1960cc までボア・アップした車をスターリング・モスが操縦してアルゼンチンで初優勝を飾った。因みにこの時の相手はファンジオやホーソンが乗った2.5ℓのフェラーリ、マセラティだった。この年は7戦中優勝2回の他上位入賞を重ねコンストラクターとしてはヴァンウォール、フェラーリに次ぐ3位を獲得した。(このシリーズは全て僕自身が撮影した写真で構成しているので、ここまでの写真は残念ながらお見せできない)
・そして翌1959年シーズン用として造られたのが最も華やかな活躍をしてクーパーに栄光をもたらした「クーパー・クライマックスF1 T-53」である。F1用に開発されたコベントリー・クライマックスFPFエンジンは直4 DOHC 94×88.8 2465cc 239hp/750rpmで、去年の間に合わせエンジンに較べると50~60hpもアップしたが、それでもライバル フェラーリの280hp にはかなり差を付けられている。この年の成績は8戦中優勝5回、2位3回、3位5回(複数出走)と文句なしでコンストラクターズ・チャンピオンを獲得した。因みにこの年のチーム・ドライバーは「ジャック・ブラバム」「スターリング・モス」「ブルース・マクラーレン」「ジャン・トランティニアン」など、殆ど伝説上の名手ばかりだった。加えてNo1ドライバーの「ジャック・ブラバム」はドライバーズ・チャンピオンとなり、「イギリス製」のマシーンに乗った「イギリス人」としては初の快挙を成し遂げた。そして翌1960 年になるとそれまでは "変わった車"扱いだった唯一のミッドシップが、適切な重量配分、空気抵抗の減少、重量の軽減などレーシングカーにとって最も必要としている要素が容易に満たされることが立証されたのを見て、「ロータス」「BRM」をはじめとしてミッドシップに転向した車が次々と実績を挙げた。そして世界中のレーシングカーをはじめインディ・カーからスポーツカーに至るまでミッドシップカー全盛時代が到来した。1960年もクーパーは2年連続したコンストラクターズ・チャンピオンに輝いた。この看板をBMCに売り込んでミニの高性能バージョンを「クーパー・チューン」と称して「ミニ・クーパー」が誕生した。これは「クーパー」がチューニングに手を貸したかも知れないが、名前を利用しただけで実際にクーパーが車を製造したのではない。
(写真11-1a~c) 1960 Cooper・Clinax F1 T-53 (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)
クーパーが最も輝いていた1959~60年に活躍したのがこの車だ。これだけレースにのめり込んでいるにも関わらずこの会社は自分でエンジンを造ろうとしなかったから、常に相性の良いエンジンを探してきて、斬新ではないが信頼性の高い手慣れたシャシーに積んで、確実に成果を挙げていた。コベントリー・クライマックス社はイギリスのエンジン・メーカーで創業は1903年と古い。戦前はスポーティな車にも搭載されていたが、戦後はフォークリフトや消火ポンプ用のエンジンを造っていた。この消火ポンプ用の1100ccエンジンは高性能で「FWA」型として自動車用エンジンとなり、1957年には新しく造られた「FPF」エンジンがクーパーのF2のシャシーに搭載され大活躍して以来、クーパー・クライマックスのコンビが続いた。
(写真11-2a) 1960 Coopr・Climax F1 T-53 2.5ℓ (1995-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
クーパーではワークス・カーの識別用に1959年からノーズ・カウリングに2本の白線を入れた。
(写真11-3ab) 1960 Cooper・Climax T-53 F1 1.5ℓ (ホンダコレクション・ホール/茂出木)
この車はホンダの2輪ライダーだったボブ・マッキンタイアがF1 進出を目指して練習用に購入したものだったが、本人が1962年8月事故で死んでしまったのでその年の暮れ頃未亡人から引き取ったものだ。T-53は60年までは2,5ℓエンジン付きだが1961年からF1の規定が1,5ℓに変更されたので当初は旧型の4気筒コベントリー・クライマックス「FPF」エンジンでスタートし、8月のドイツGPからは新型V8の「WMV」が登場した。写真の車は排気管が上に出ていないので初期型である。コレクションホールに展示されている車はホンダF1の開発にどの程度影響を与えたか、因みにホンダのF1 参戦は1964年8月の「RA271」からだが、初めて造ったF1のプロトタイプ「RA270」は1964年2月に完成しており、シャシーは本番用「RA271」のモノコックとは別で、明らかにクーパーを参考にしたと思われるスペース・フレームだった。だから本番用シャシーが完成するまでエンジン開発の試走用として利用されたのではないだろうか。
.(写真12-1a~c) 1961 Cooper/Climax T-54 Indy 2.7ℓ (1998-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
見た目では殆どF1 と変わらないが、写真の車は排気量が2750ccの「インディ500」用のマシンである。この当時のインディはオーバルコースを時計の反対周りに回るだけの単純なパターンだったから、マシンもそれに対応してボディがシフトされている車もあった。そう思って見ると正面の写真は向かって左のサスペンションが微妙に長い?
(写真13-1a) 1962 Cooper T-59 FJ (200-06 モナコ)
真ん中の黒い車がクーパーだが1.1ℓのFJと言う事以外 細かいことは不明。エンジンは多分BMC-A 993ccだろう。場所はモナコのグランプリではお馴染みの「カジノ前コーナー」で、何故ロングショットかと言うと、この日望遠の付いたメインカメラが故障し、やむなく固定焦点のサブカメラで撮ったためだ。
(写真14-1ab) 1959 Cooper T49 Monaco MkⅠ (2004-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
この車はアペンディックスCクラスのスポーツ・レーシングカーで、クーパー社としては珍しく商売気を出したカタログ・モデルである。勿論ミッドシップでエンジンはF2と同じ1475cc で145hpだった。その後1964年になってインディ用と同じ2750cc のエンジンを搭載した「モナコMkⅡ」が発売されている。
(写真15-1a~c) 1963 Cooper T-63 Monako King Cobra (1999-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
1963年 クーパー・モナコにマセラティのV8 5リッターを搭載した「クーパー・モナコ・マセラティ」が造られ、アメリカのスポーツカー・レースに登場した。これに反応したのが「キャロル・シェルビー」でシェルビー・コブラを上回る強力なマシンの素材として白羽の矢を立てたのが、「クーパー・モナコ」だった。この車は1963-64年に合計で8台が造られたがいずれもエンジンレスで納入され、シェルビー・アメリカンでフォード・289エンジンが載せられた。すでに「シェルビー・コブラ」で戦っているチームとしてはそれを上回る名前はこれしかないと「キング・コブラ」と命名された。
(結論)クーパーと言うメーカーは、ひたすらレーシングカーを造り続け、乗用車には見向きもしなかったし、最後までエンジンには手を出さなかったから、自動車メーカーではなく、自動車のシャシーを造った会社という事になる。自慢のシャシーが優位だったのはミッドシップ・エンジンを独占していたからで、ライバルが皆同じミッドシップになってしまったからアドバンテージは無くなってしまった。1963年は殆どがモノコック化した中で依然としてマルチ・チューブラフレームに拘り流行に乗り遅れた。1966年には傑作と言われた「コスワース・フォードDFV」がライバル達に提供されたが、クーパーは「ミニ・クーパー」でお世話になっている「BMC」のライバル関係にある「英フォード」が資金援助している「DFV」には手を出せず、止む無くマセラティV12をチョイスしたがこれが命取りで、重い上に力が足りなくホンダのRA273EやRBM・H16の400馬力 より50馬力も低く戦闘力は低かった。最後のF1は1968年クーパー・BRM T-86Bで、ついにマセラティを見限ってBRMに乗り換えたが、このエンジンもコスワースDFVには歯が立たず、1946年手造りの「500」からスタートした「クーパー」は、1959-60年を頂点に一気に競争力を失い、1970年の「T70」を最後に姿を消した。
(3)<コード> (1929-32/36-37)
自分の名前を付けた「コード」と言う車を造ったのはエレット・ロバン・コードで、若くして成功した彼はこの車を造った1929年には既に「オーバーン」と「デューセンバーグ」2社を買収・所有していた。だからこの3車を語るときは「A」「C」「D」といつも一緒に引き合いに出される。コードは「L29」を造った後、3年間の空白を経て、1936-37年の2年間だけ「810」「812」を造っただけだが、構造、スタイルの特異さによって自動車史上に名を遺した。量産車としては初めての「前輪駆動」だった事、「810」のスタイルはヘッドライトがリトラクタブル式の上、ボンネットがのっぺりとした形から「CoffinNose」(棺桶)と呼ばれる程、当時としては時代を先取りしたものだった。
・「コード」についての詳細はこの「Mベース」に連載中の当摩節夫氏の「カタログとその時代」(第18回)に掲載されているので重複を避けるため割愛した。
(コードL-29)1929-32
(写真21-1a~c) 1929 Cord L-29 2dr Convertible Coupe(1995-08 モンタレー市内/アメリカ)
オークション会場の外で順番を待っている車だが、ストロボを使用して撮影している。この当時はまだフィルム使用の時代で、フィルの感度はASA(ISO)100(標準)、200(高感度)、400(超高感度)だったから、暗い所では補助光に頼らざるを得なかった。現在使用中のデジタルカメラ「EOS 5D MkⅢ」は何とISO 25,600(昔の256倍の高感度)まで使用可能と書いてあるが、僕はせいぜいISO1600までしか使っていない。それでも大抵の物は撮影できるのでメインカメラにはストロボを持っていない。ストロボを使うと、正面の場合はヘッドライトが異常に光ってしまうし、斜めから奥行きのある場合は均等に光が廻らないから奥が暗くなる、などの欠点がある。この写真は比較的均等に光が廻っているのは、ストロボの光量が余裕のある大容量だったからだと思う。
(写真21-2a~c) 1932 Cord L-29 2dr Convertible Coupe (2003-02 レトロモビル/パリ)
パリのレトロモビルに展示された車で、前項の車と全く同じものが幌を下した姿だが、畳んだ際の嵩が大きく、内張りを持つヨーロッパで言うカブリオレ仕様だ。
(写真21-3ab) 1931 Cord L-29 4dr Brougham (1998-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
L-29シリーズは同系列の最高級車「デューセンバーグ」の弟分として重厚なボディが載せられた。4ドアには「6ライト・セダン」「4ライト・セダン」「ブルーアム」「タウンカー」「フェートン・セダン」の5種があった。写真の車はレザー張りの屋根を持つ「ブルーアム」仕様で、ペブルビーチのコンクールでも、堂々たる存在感を示している。
(写真21-4ab) 1931 Cord L-29 4dr Convertible Phaeton Sedan (1998-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
こちらもペブルビーチのコンクールに出展された車で、窓を上げれば完全なクローズド・ボディになり、幌を下げればフル・オープンと言う2通りの使い分けが出来る、というのが本来の「コンバーチブル」と言う車種名の由来だが、後年その基準はやや甘くなって、幌付きの車を総称して「コンバーチブル」と呼ぶ傾向にある。
(写真21-4a) 1930 Cord L-29 4dr Murphy Town Car (1995-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
この車も庶民とは縁の無いハイソサエティの人達の車で、制服制帽のお抱え運転手がドライブするのだが運転席には屋根が無い。それだけでもかなり階級差別を感じてしまうが、この車の使い方は例えばハリウッド・スターが授賞式の会場に乗りつけるとか、パーティに招かれた紳士淑女がタキシード、イブニング姿で颯爽と乗り付ける、など極めて特殊な用途で使用される。間違ってもこの車で旅行などはしないから「タウンカー」と名付けられたのだろう。元々この型式は馬車時代から引き継いだものだが、フロント・ドライブがセールス・ポイントのコードの広告に、馬が馬車を押している絵と、馬車を引っ張っている絵があり、前輪駆動がいかに自然な方式であるかを強調している物があった。1930年という時代はまだ馬車時代を知っている人が沢山居た証拠だろう。
(写真21-5ab) 1930 Cord L-29 2dr Brooks Steavens Speedster (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
「ブルックス・スチーブンス・スピードスター」と名付けられたこの車は、多分ワンメイクのスペシャルだろう。猫の目の様な変わったヘッドライトはWood社製で方向操作が出来るらしい。パッカードにも使用されておりこの車のだけの物ではないようだ。オートモデロ社からこの車の1/24のモデルカーも発売されている。
(コード810) 1936
「810」のボディ種類としては①Beverly Sedan(4人乗り)、②Westchester Sedan(5人乗り)、③Convertible Phaeton Sedan(5人乗り)、④Convertibler Coupe(2人乗り)、⑤Coupe 以上の5種があった。しかし、これとは別に「ボディ・ナンバー」と言う分類があり「C90」から「C105」まで14に分かれている。例えば「C90」はファストバック・セダンで、「C96」はトランク付セダンだが、両方とも「Beverly Sedan」にも「Westchester Sedan」にも存在するが、外見の写真からでは4人乗りか5人乗りかの区別はつかない。唯一の手掛かりは内装で、バケットシート=4人乗り(Beverly)と、ベンチシート=5人乗り(Westchester)の違いだけだとすれば、外から見ても判らない筈だ。
(写真22-1a~c) 1937 Cord 810 4dr Sedan (1966-02 /駒沢公園)
この車は戦前輸入されたもので、戦後お茶の水の東京医科歯科大学のガレージで発掘された後、東京大学に引き取られてレストアが図られていた。この写真を撮った頃は自動車好きのドクターの元にあり、余計な物が付いていた姿は、すっかりオリジナルに戻され好ましい形となっていた。4ドア・プレーンバック・セダンだから「ボディNo.90」であることは確認できるのだが、これが「Westchester」なのか「Beverly」なのかは、資料に記載がない限り外見からは判らない。
(写真22-2a~d) 1936 Cord 810 4dr sedan (2014-11 /トヨタ自動車クラシックカー・フェスティバル/神宮外苑)
この車はトヨタ博物館のコレクションの1台で毎年恒例となっている神宮外苑で行われるイベントで撮影したものだ。流石見事にカタログ通りに仕上がっている。かすかに見える座席がベンチシートの様に見えるので「ウエストチェスター」だろう。
(写真22-3a~d) 1937 Cord 810 4dr Westchester Sedan (2010-07 ビューリー英国国立自動車博物館)
この車は僕が最も信頼している博物館に展示されているのに謎の多い車だ。プレートに書かれたデータの「1937」「810」「125bhp」が写真と辻褄が合わない。1937年製なら「812」ではないか。外見はスーパーチャージャー付きだから175bhpの筈が125bhpはノン・チャージャーの値だ。謎解きのヒントにとなるか判らないが、810と812の間にはからくりがある。それは1936年9月以降は1937年型として在庫の810のプレートを812に張り替えているのだ。手元の資料で数えたらちょうど150台(内SC付きに換装したもの5台)が確認できた。この事実から810と812 の中身は同じで年式だけの違いと言っていいのだろうか。尚スーパーチャージャー付きが発表されたのは1936年11月なので基本的には810には存在しないが後付けで載せた物はあるだろう。
(コード812) 1937
「812」のボディは810と同じ5種+Berlineの6 種となり、セダンにはトランク付きが登場した。812のビバリー・セダンは原則として「C96」トランク付きのボディー(除く810から812への転換組)だが、ファストバックが多かったウエストチェスター・セダンにもトランク付きは存在した。
(写真23-1ab) 1937 Cord 812 Supercharged 4dr Beverly Sedan (2008-01 ジンスハイム科学技術館/ドイツ)
この年から登場したバッスル・トランク (bustle trunk) 付き4ドアセダンで、このタイプはビバリー・セダンには標準装備された。
(写真23-2ab) 1937 Cord 812 Supercharged 2dr Convertible Phaeton Sedan (1998-08 コンコルソ・イタリアーノ/カリフォルニア)
2ドアだが2列シート5人乗りだから、運転席の他にもう一つ窓がある。
(写真23-3a~c)1937 Cord 812 Supercharged 2dr Convertible Coupe (1999-01 /2012-04 トヨタ博物館)
こちらはトヨタ博物館の車で、同じ2ドアだが2人乗りなので窓はドア分しかない。スポットライトも含め非常に引き締まったバランスで精悍さを感じる。最後の写真は特別見せて頂いた博物館の整備工場で撮影したもの。
(写真23-4ab) 1937 Cord 812 Coupe (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
この車も前項のトヨタ博物館の車と同じ2人乗りだが、前から見るとボンネットサイドにエクゾースト・パイプが無い分何か物足りない。初期のクーペにはランブルシート付きも少数あったらしいが、この車には付いていない。ハードトップ・クーペは全体でも数台しか造られていない希少価値のある車だ。
(4)<クロスレー>(英) 1939-52
今回対象とした「クロスレー」(Crosley)は、アメリカの小型車メーカーだが、日本語では同じ「クロスレー」(Crossley)と読む英国のメーカーもある。1920-30年代に2リッタークラスのかなり大型の車も造ったメーカーだが僕は1枚も写真を撮っていないので今回の対象に入っていない。アメリカで「クロスレー」を造ったのはパウエル・クロスレー(Powel Crosley Jr.)で、一連の小型車を造ったのは1939年からだが、最初は1909年「マラソン・シックス」と言うかなり大きい車を造っていた。その後1913年には「デ・クロス」と名付けられたサイクルカーも造っており、小型車は3度目のチャレンジだった。1920年代にはラジオの量産で財をなし、戦時中は軍需契約を多く持っていた。戦後はその中の発電機用6気筒エンジンを基に、4気筒722cc 26.5hpエンジンを造り、これを動力とするアメリカでは最も小さい自動車を造った。似たような車はイギリスのオースチンをライセンス生産した「アメリカ・バンタム」しかなかった。アメリカの様な広大な国では移動手段としては大型で大排気量が常識なのだろうが、街中で一寸した配達などには小型も便利だとは思はないのだろうか。全国で普及するまでは行かなかった。
(写真24-1a) 1949-50 Crosley Sedan Deluxe (1950年 神田付近)
まだ静岡に住んで居た頃、僕16歳、兄21歳、二人で東京見物に来たお上りさんが格好いい車の前で記念撮影。後の映画館のポスターは昭和25年封切りの田中絹代主演「奥様に御用心」。(昭和32年封切りの洋画「奥様ご用心」ではない)
(写真24-2ab) 1951-52 Crosley 2dr Super Sedan (1962年 六本木)
この車はフロントフェンダーに「Super」のエンブレムが無いのでスタンダード・モデルと思っていたが、スタンダードには同じボディを持つ「ビジネス・クーペ」(三角窓なし)しかないので、スーパー・セダンだが文字が取れてしまったのだろう。
(写真24-3a~c) 1951-52 Crosley 2dr Station Wagon (1957年 静岡市内)
静岡市内では結構珍しい車が見られたがこの車もその一台だ。[静5-30008]と言うナンバーは、静岡近辺の民間外国人が所有する小型乗用車で8番目に登録された、と言う事だが多分このナンバーの続きは20番までは無かっただろう。(3万番代の車は少なかった)1949-50年フォードやスチュードベーカーで話題となった飛行機のスピンナーかジェット機の空気取り入れ口の様なクロームの丸い造形は、アメリカでは」「Bullet-nose」(銃弾の先端)と言われたが、この車の場合は翼とプロペラが付いているので間違えなく「飛行機」をイメージしたものだ。
(写真25-1a) 1949-50 Crosley Hotshot (1950年12月 銀座付近)
すっかり忘れていたが僕は「クロスレー・ホットショット」の完全オリジナルの写真を撮っていた。自動車を目的に撮ったのではなく、スナップショットのフィルムに入っていたので、後年分類保存作業の際漏れてしまったものだ。真冬なので自慢のオープンはサイドカーテンまで付けた姿だが、新車同様で良いコンディションだ。
(写真26-1a~c) 1951 Crosley Hotshot(改)(1998-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
殆どオリジナルだが、突起したヘッドライトはプレキシグラスの埋め込み式に、空気抵抗の多いフロント・ウインドは小型のレース仕様に改装され、頑丈なロールバーも付けられている。
(写真26-2a~c)1949-52 Crosley Hotshot/Supersport(改)(1959年 静岡市内)
改造車なのでオリジナルが何かは推定するしかないがホットショットとスーパー・スポーツはドアが無いか有るかの違いしか無いようだ。だからドア部分がどちらにも似ていないこの車は判定できない。グリル、ヘッドライトのひさし、ボディサイドの3つの穴はオリジナルには無いもので、スーパースポーツのドアは前端が丸くは無い。
(写真26-3a~c)1950 Crosley Supersport(改)(1961年 横浜市内)
この車はドアを含め後半は殆ど「スーパー・スポーツ」のオリジナルのままだ。前半分は「バンパーが逆さに付けてある」「ヘッドライトが埋め込み」「フロントにグリルが付けられた」「フロントウインドは上縁が丸い曲面ガラスに変った」などの変更点が見られる。正面に張り付けてある「CROSLEY」の文字とそれを貫く「矢」のデザインは広告にも使われている公式のレタリングだ。
(写真27-1ab) 1953 Crosley Special (2004-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
1952年までしか造られていなかったから1953年製のこの車は改造車ではなく、クロスレーの部品を使って造られたスペシャル・レーシングカーだろう。
・次回はシトロエン、カニンガムと続く予定です。