「キャディラック」の写真は1930年から1980年に至る50年間、殆どもれなくカメラに収めてきた。しかし残念なことに1942年から1946年にかけての5年間は欠落している。実際には43~45年の3年間は第2次大戦中で乗用車は生産されなかったから戦前最後と、戦後最初の年が欠けている事になる。両年とも生産台数が極端に少なく1万~2万台に止まっているから、通常の25~30%しか造られなかった。そのため日本国内では見る事が出来なかったのだろう。40年代から50年代にかけてのキャディラックには2つの大きな特徴がある。その一つは1938年の「60スペシャル」から始まった「格子」をモチーフとした「ラジエターグリル」で、今回取り上げた最後の1970年型でも、まだその伝統は続いており、これ程同一モチーフに拘り続けているのはアメリカでは他に例を見ない。もう一つは1950年代を中心に世界中にブームを巻き起こした「テールフィン」の火付け役として1948年から59年にかけての「キャディラックのテールフィン」だ。
・今回ご紹介する写真はモノクロの占める割合が高いのは、その殆どが現役で活躍している姿を街中で撮影したものだからだ。1950年代は僕が最もアメリカ車に熱中していた時代でもある。
第1部 <キャディラック・顔の変遷>
1938...1938...1940
1941...1942...1946
1947...1948...1949
1950...1951...1952
1953...1954...1955
19056...1957...1958
1959...1960...1961
1962...1964...1965
1966...1967...1968
1069...1970
第2部 < 戦前の名残 >
(写真00-1a)1942 Cadillac 60 Special1
(写真01-1a) 1946 Cadillac 61
この2枚は僕が撮影しなかった戦前最後と戦後最初のモデルで、デザイン上一見似ているが微妙に違うので資料を見て描いたものを使った。グリルでは41年 横10本×縦21本、42年 横6本×縦17本、46年 横6本×縦11本と目が粗くなって行くのが判る。
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(写真02-1) 1947 Cadillac 62 4dr Sedan (1961-03 横浜港 山下埠頭 大桟橋)
撮影したのは昭和36年、横に写っている車は「柿の種」と呼ばれた初代「ブルーバード」や2代目「トヨペット・コロナ」で、そろそろ国産車が活躍を始めている。
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(写真02-2abc) 1947 Cadillac 62 4dr Sedan (1958年 静岡市内)
写真を撮影した場所は静岡市役所の車寄せで、この建物は静岡出身で明治末期から大正・昭和にかけて活躍した中村與資平の設計で1934年建てられ、昭和20年6月20日B29の空襲でも焼け残った。丸いドームを持ち各所にスペイン風の装飾を施された洒落た建物で、現在は国の有形文化財に指定されている。車のグリルは縦が11本で46年型と全く同じだが、横は1本減って5本になり格子の目はますます粗くなった。ナンバープレートは昭和26年7月1日施行された「一般外国人用」で、通称「3万番台」と呼ばれていた。因みに「外国軍人・軍属用」は「3A00000」と「A」が付けられている。「3万番台」は戦後来日した一般外国人の他、戦前から日本に在住しており戦後外国籍となった方々にも適用された。
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(写真02-3ab) 1947 Cadillac 62 4dr Sedan (1987-01 25 明治公園・神宮外苑)
戦後2年目のこの年はシリーズ「61」「62」「60 Special」「75」の4つが造られたがエンジンはV8 5,668cc 150hp1種だった。この車は最も標準的な4ドア・セダンでリアウインドウは曲面ガラス以前なので2本の桟が入っているのも時代を感じる。
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(写真02-4ab)1947 Cadillac 62 2dr Coupe(2009-11-28 トヨタ自動車博物館クラシックカーフェスタ)
こちらは2ドア5人乗りのファストバック・クーペで小型セダン(セダネット)とも呼ばれる。なかなかスタイリッシュだ。
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(写真02-5ab)1947 Cadillac 62 Convertible (1990-07-22 アメリカン・ドリームカー・フェア)
1950年代を中心に興味深いアメリカ車が大量に展示された。コンバーチブルだがカブリオレに近いしっかりした幌を持っている。この時はストロボを多用したが、光を均等にまわすのは至難な技で結果はあまり満足できなかった。その後ストロボ・ヘッドを車の奥に向けて斜めにしてみたり、天井が低い場合は上向きにして反射光に期待したり色々試みたが、カメラがデジタルに変わってからはデジタルの高感度に助けられストロボは使わない。カメラに付いていない......。
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(写真03-1ab) 1948 Cadillac 75 Fleetwood Limousine (1986-01-26 明治公園/神宮外苑)
キャディラックは1948年からボディのスタイルが大きく変化し、フロントフェンダーが消えたいわゆる「戦後型」となったが、最上位の「75シリーズ」だけは1941,42,46,47 年とそのままのボディを使い、写真の車は1948年型だがボディだけでなくラジエターグリルもそっくり前年と同じだ。
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第3部 < 戦後スタイル/テールフィンの発生と進化 >
(参考) 早期にフルウイズ(車幅一杯の)ボディを採用した車たち
1947年から カイザー、フレーザー、スチュ-ドベ-カー(リアフェンダーあり)
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1948年から パッカード、ハドソン、、
1949年から フォード、
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(写真03-2abc) 1948 Cadillac 60 Special 4dr Sedan (2014-04-21 トヨタ自動車博物館)
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参考に示したように、車幅を広げる傾向は1947年からスタートした。GMでは1948年のキャディラックが先頭をきったが、後輪のフェンダーにはこだわりがあったのか、未練があったのか、手を変え、形を変え残留を図った。特筆すべきはこの年から、いわゆる「テールフィン」と称する突起物が後端に付けられたことだ。
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(写真03-3abc) 1948 Cadillac 62 4dr Sedan (1957年 静岡市内)
この年から始まったキャディラックの「テールフィン」はデザイナー「ハリー・アール」が「ロッキードP38」(第2次大戦の双胴戦闘機)のプロトタイプを見てその尾翼からヒントを得た、と言うのが定説となっている。両者を並べて見ても形の上ではそんなに似ているとは思えないが、最近話題となっているデザインの転用疑惑と違って、丸く盛り上がっている点が似ているだけなので、形を真似たのではなく「発想のインスピレーションを得た」と言う事だろう。写真の車は静岡市内の色々な場所で何回も撮影したもので、斜め後ろから写したものの背景は15代将軍徳川慶喜公が大政奉還後住んでいた屋敷跡の庭園を持つ「料亭・浮月楼」である。
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(写真04-1abc) 1949 Cadillac 62 4d Sedan (1957年 静岡市内)
撮影場所は昭和30年代初めの静岡駅 駅前。3枚目の背景に写っている「東海軒」は駅弁屋で、「駅弁」とは本来はデパートの催物でも、キオスクの目玉商品でもなく、列車が到着すると首から下げた箱に山の様に弁当を積んだ売り子がホームを売り歩いた「駅売り弁当」の事だ。静岡駅では昭和20年代までの蒸気機関車時代は給水をする為5分位の停車時間があったからかなり売れた筈だ。すごいのは走り出した列車と同じ速度で走りながらお釣りまで渡していた事だ。(最も蒸気機関車の初速はかなりスローだったが......)
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(写真05-1a~d) 1950 Cadillac 61 4dr Sedan 1960年 虎の門病院前)
この年のキャディラックのラインアップは「61」(W.B.122in.ボトム)、「62」(W.B.126in.スタンダード)、「60S」(W.B.130in.デラックス)、「75」(W.B.146.75in.スペシャル)の4種があった。「61」はホイールベースが短い分リアウインドウは寸足らずとなり、後端が切り落とされているのが特徴だ。日本ではキャディラックは権威の象徴的な存在なので寸足らずで貫録に欠けるこのシリーズ人気が無かったのか、国内では殆ど見かけなかった。戦前から続いた「シリーズ61」は次の年で消滅した。
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(写真05-2abc) 1950 Cadillac 61 4dr Sedan (1998-01 オーランド/フロリダ)
去年までは126インチだったホイールベースがなぜか122インチまで縮められショートホイールベース?になってしまったが全体のイメージは決してスポーティになったのではない。シリーズの中に2ドア・クーペもあるが2列シートの5人乗りで印象はセダンと変わらない。思い切って純粋の2シーターにしてしまえばこのショートホイールベースがもっと生かされたのにと勝手に想像した。値段的には「62」の3,234ドルに対して2,866ドルで、その差は1割強だったが、「62」の約6万台に対して「61」は2万7千台近く売れておりそれなりの需要があったという事はコストダウンの狙いが大きかったという事だろう。写真はアメリカの小さな町のショッピングモールの駐車場で土曜日の午後開かれたローカル・イベントで撮影したもの。オーナーの老夫婦はおそらく新車当時からずっと大事に乗って来られたのだろう。なぜかこのご婦人と車が妙に馴染んでいるように感じてしまう。
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(写真06-1a) 1951 Cadillac 62 Sedan (1957年 静岡市内)
静岡県は財政が割と豊かだったのだろうか。県庁の車庫に行くと戦後のアメリカ車がごろごろしていた。僕が写真に捉えた物を列記すると、とここまで書いてパソコンから車種別年代別に書き出して驚いた。当時製造していた対象全車種は残らず「お買い上げ」になっていた。対象は県庁だけではなく市役所、警察署、消防署など「官公署」全てだが以下、車種のおさらいを兼ねて列記する。[GM系]シボレー(6)、ポンティアック(1)、オールズモビル(1)、ビュイック(8)、キャディラック(5)、[フォード系]フォード(5),マーキュリー(2)、リンカーン(2)、[クライスラー系]プリムス(3)、ダッジ(4)、デソート(4)、クライスラー(3)、[独立系]フレーザー(1)、ハドソン(1)、カイザー(2)、パッカード(2)、スチュードベーカー(2)、以上16車種51台に達した。
写真の車は僕が撮った車の中で1番グレードの高い車なのでもしかしたら県知事さんの車かもしれない。
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(写真06-2abc( 1951 Cadillac 61 4dr Sedan (1958 年 静岡市内)
お役所の車が何故確認出来たのか、その秘密はナンバープレートの解読にある。昭和30年代初期に使用されていたナンバープレートは昭和27年(1952)制定された「横長1列」と、昭和30年(1955)変更された「平仮名入り2段」(初代)の2種が存在していた。横長では「4万番代」、平仮名入りでは「た行」が「官公署」用として割り振られ、区別されていたからだ。写真の車は「61」シリーズでグレードは低いが、明るい2トーンの塗り分けでなかなかお洒落な車だが、「た」ナンバーで明らかにお役所の車だ。
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(写真06-3abc) 1951 Cadillac 62 4dr Sedan (1960年 麻布十番付近にて)
この場所は東京での僕の勤務先に近く、自動車の修理工場が多く、面白い自動車が道端に一杯並べてあって、昼休みを利用して何回もパトロールして廻った所だ。中山自動車工業の看板が見える広い空地は背後に高台があり鳥居坂の上には東洋英和女学院があったように記憶している。
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(写真06-4abc) 1951 Cadillac 62 2dr Coupe e (1960年 港区飯倉にて)
東京で見るキャディラックは圧倒的に4ドア・セダンが多い。お役所や民間会社でも偉い人が乗るためだから 運転手つきを前提に購入されるからで、趣味の対象としてはアメリカではいざ知らず、この年代の日本では希な存在と言える。この年2ドア・クーペは「61」「62」「62ドヴィル」の3種があったが、写真の車はクオーターパネルに「de ville」の刻印が無く、ドア下にクロームラインが無いので「シリーズ61」と判定した。(この車はリアスパッツが欠落している)この場所は赤羽橋から飯倉へ向かう上り坂の途中 飯倉4丁目(現東麻布1丁目)から一寸左に入ったところで、この車の後ろに一寸見えるのは東京タワーの脚柱。
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(写真07-1ab) 1952 Cadillac 62 4dr Sedan (1961年 中野区内にて)
JR中央線の中野駅を出て北に向かって約400mで早稲田通りに出るが、そこを少し右に行った所に独身寮があった。場所はその早稲田通りを曲がって新井薬師に向かった所だが、背景の木造家屋はこの当時の標準的は街並みだ。
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(写真07-2ab) 1952 Cadillac 60 Special 4dr Sedan (1959年 港区三田・桜田通りにて)
都電がいてオート3輪が走っているこの写真は昭和30年代の東京を代表する風景と言えよう。場所は東京タワーの下から赤羽橋の交差点を過ぎて慶応大学方面へ向かう桜田通りだ。
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(写真08-1a) 1953 Cadillac 62 Convertible Coupe (1960年 立川市内にて)
この年キャディラックのシリーズは「62」「60S」「75」の3種で、オープンは「62」しかないが、今年からよりスポーティな「エルドラド」が誕生し2本立てとなった。写真の車は従来通りのスタンダードのコンバーチブルで、エルドラドはフロント・ウインドウがラップアラウンドだがこちらは直線である。場所は立川の米軍基地の第1ゲートを出てきたところで、この辺りだと個人所有の趣味性の高い洒落た車にも出会える機会が多い。
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(写真08-2a) 1953 Cadillac 62 Eldorado Convertible Coupe (1999-08 ペブルビーチ)
この年キャディラックはスペシャル・モデル「エルドラド」を発表した。外見上の大きな特徴は、市販車としては初めてラップ・アラウンド型のフロントグラスを採用し、「パノラミック・ウインドシールド」と呼んだ。写真はペブルビーチのコンクール前日に海岸沿いのドライブウエイをパレードしているところ。
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(写真08-3ab) 1953 Cadillac 62 4dr Sedan (1958年 静岡市内にて)
静岡市内では官民合わせればかなりの数のキャディラックを見る事が出来た。写真の車は明るい色の2トーンでなかなかお洒落な車だが、ナンバープレートの表示は官公署の「た」だ。昭和30年(1955)ナンバープレートに平仮名表示が使われるようになった際、一般と区別して官公署用に「た行」が割り振られたもので、昭和45年(1970)でこの区分は廃止されたから現在は「た行」も一般に使われている。僕なんか頭が固いから役所の車は黒いものと思い込んでいたが、偉くなると乗る人の好みもアリなの?
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(写真09-1ab( 1954 Cadillac 62 4dr Sedan (1957年 静岡市内にて)
またまた2トーンのお役所の車だ。モノクロ写真なのではっきりした記憶はないが、前に紹介した2トーンのお役所の車と同じ色の可能性が高い。まさか前の車の局長さんだか部長さんが新車に入れ変えた?なんてことは無いでしょうが......。
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(写真09-2ab) 1954 Cadillac Fleetwood 60 Spacial 4dr Sedan (1962-04 立川市内にて)
キャディラックの「60スペシャル」シリーズは1938年の誕生以来一貫して4ドアセダン一種のみを「フリートウッド」が専門に造ってきた。だから「60スペシャル」にはどこかに「フリートウッド」の証が示されている。この年はリアフェンダーの前方下部に縦8本のクロームラインが入っている。
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(写真10-1a) 1955 Cadillac 62 4dr Sedan (1961-03 虎の門/港区内にて)
車の停まっている場所は道を隔ててアメリカ大使館の正門まえである。路上駐車が禁止される前だから、この辺りは大使館に関係あると思われるアメリカ車がびっしり駐車していたから土曜日の午後よく撮影に足を向けた場所だ。特にその年発表されたばかりのニューモデルに良く出会った。
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(写真10-2a~d)1955 Cadillac 62 Coupe de Ville (2010-06 フェスティバル・オブ・スピード)
白黒写真が多く地味なので明るいイメージの車を登場させた。日本国内ではあまり見る事のない2ドア・クーペで、50年代のキャディラックのグリルの中では繊細で一番好きなモデルだ。
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(写真10-3abc) 1955 Cadillac 62 2dr Convertible (1990-07 アメリカンドリームカー・フェア)
こちらも同じ年のコンバーチブルで、トップを上げれば殆どクーペと同じプロポーションとなる。コンバーチブルと聞くと幌付きの車をイメージするが、本来の意味は屋根付きと「変換できる」所から来たネーミングだから、取り外しの出来る「ハードトップ」だって「コンバーチブル」なのだ。
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(写真11-1abc) 1956 Cadillac 62 4de Sedan (1958年 静岡市内にて)
場所は静岡県庁の前で、劣化した写真と修正後をお見せする。撮影後50年以上経ったフィルムは乾燥剤を入れた缶に密封して保存していた。最初に開封したのは密封してから40年以上たった2002年で、その時は全てが完全だった。しかそのまま1年すぎたら一部の膜面に気泡が出来たりカビが発生したりした。缶を開けるとツンと強い酸性の匂いがしたのでフィルムの水洗不足かと疑ったが自分で現像したものではなくカメラ屋に依頼したものに発生しており、同じフィルム・メーカーのものに集中している所から乳剤に関係あるのかもしれない。不思議なことに同時期に撮影したフィルムで家族や旅行のフィルムは、なんの手当もなしに紙袋に入れたまま棚に放り込んでおいたのに全く劣化の兆候は見られなかった。微量に発生していた「酸性ガス」が密閉したことで内部に籠ってしまったのが原因だったのだろう。
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(写真11-2a) 1956 Cadillac 62 Cobvertible Coupe (三田慶応前・港区)
都心へ向かう桜田通りは、魚籃坂を真っ直ぐ上って来ると慶応大学の正門前で右折する。約300mで今度は左折するのだが、写真の場所は左折する直前の辺りで、芝生花市場の左に見えるコンクリートの建物は慶応大学の校舎。
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(写真11-3a) 1956 Cadillac 62 Sedan de Ville (1960年 港区三田)
前の写真の場所から左折して少し走った所がここで、この場所は僕の勤務先の2階である。下に見える通りが桜田通り、都電は③系統(品川駅前―飯田橋)で車は東京タワーに向かっている。中央上部に見える建物は慶応大学の図書館の一部。
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(写真11-4a) 1956 Cadillac 60 Special 4dr Sedan (1958年静岡駅前)
昭和20年6月静岡市はB29に爆撃され現在の葵区を中心に市内は殆ど全焼した。一面焼け野原になった焼跡に幾つかのコンクリート建ての残骸が残った景色は各地の地方都市と同じ風景だった。この建物は数少ない戦前からの建物で静岡では唯一の「大東館」という洋風のホテルだった。(他は和風旅館)この当時は銀行となっていたが昭和初期に造られた建物は手が込んでおり、前に停まったキャディラックが良く似合う。
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(写真11-5ab) 1956 Cadillac 60 Special 4dr Sedan (1981-01/ 85-01 神宮絵画館前)
この辺でカラーで気分転換を。この年のシリーズは「62」「60S」「75」と「エルドラド」の4種がある。60スペシャルの見分け方はフロントフェンダーのバッジの下に「Sixty Special」の文字が入り、トランクのVマークに「Fleetwood」の文字が入るほか[62]と外見上の相違点は見当たらない。
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(写真11-6abc) 1956 Cadillac 75 Fleetwood 4dr Sedan (1960年 港区・一之橋付近)
シリーズ75はキャディラックのフラッグシップとして最上位にあり、長いホイールベースを活かしたリムジン仕様が造られているが、写真の車は運転席との仕切りが無いのでリムジンではない。リアフェンダーのエアダクト風のクロームラインが他のシリーズでは途中までとなったのに相変わらず下まであるのは、胴長の「75」にとってはバランス上正解だ。リアウインドウが小さいのは伝統の「VIP仕様」の証である。東京の街では極めて珍しい車で、この年約15万6,000台造られたキャディラックの中で「75」は4,075台(2.6%)しか造られていない。
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(写真12-0 a~d) 1955 Cadillac Eldorado Special Convertible Coupe(1959年 港区一之橋付近)
順番から言うと「1957年型」が登場する番だが写真の車は「1955年型」である。その理由は「エルドラド」シリーズがスタイリングの先行モデルとして2年前から市販していたテールフィンのデザインが、この年から標準型として採用されることになったので比較の為ここで登場させた訳だ。1959年頂点を迎える伝説のテールフィンは、この形が進化したものだ。この車は普通のキャディラックが4000ドル以下(シボレーなら最低価格は1600ドル以下)で買えたのに対し6300ドルもする超高級車で、東京に1台入って来ただけでも不思議な位の、幻の車だった。
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(写真12-1ab) 1957 Cadillac 62 4dr Sedan (1990年 葛西南高前・江戸川区)
カラーで撮ったものは現役を退いてから撮影したもので、この車も車齢33年を経て輸入され、整備を待っているところの様だ。場所は地下鉄東西線 西葛西駅で下車、葛西南高校に隣接する整備工場で50年代のアメリカ車が良く入庫していた。
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(写真12-2ab) 1957 Cadillac 62 Coupe (1962-07 港区内にて)
この年のキャディラックはシャシーからボディまで完全にモデルチェンジした。プロトタイプは1954年のモトラマに出展されたパークアベニューと言われ、75シリーズ以外は全てセンターピラーの無いハードトップとなった。写真の車は形も塗装も完全にパーソナル・ユースだが日本のユーザーの傾向は「リムジン風」好みで、ニューモデルのハードトップ仕様よりも、重厚な感じのする去年の柱付きに人気があったとか。
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(写真12-3ab) 1957 Cadillac 62 Convertible (2014-04 日本橋付近)
こちらは最近のイベントで撮影したもので、毎年日本橋周辺で開催される質の高いクラシックカー・イベントは見ごたえがあり楽しみにしている。写真の車はリアフェンダーにクロームのカバーを持ち、一見「60スペシャル」かと思ったが、60スペシャルは4ドア・セダンしか造らないので、リアのコンチネンタル風のスペアカバーと共に「62」シリーズにオプションで追加したものと思われる。なかなかお洒落でこの車によく似合っている。
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(写真12-4ab) 1957 Cadillac 60 Special 4dr Sedan (1962-04渋谷駅前)
写真の車は正真正銘の「60スペシャル」で、派手なリアフェンダーがその証だ。昭和30 年代後半東京オリンピック2年前に撮影したもので車の後方は現在のJR渋谷駅ホームで、反対に車の前方のビルの屋上には東急のプラネタリュウムがあった。駅前は東急、小田急、京王帝都などの路線バスターミナルで、当時世田谷区の祖師谷大蔵に住んでいた僕は、ここから三軒茶屋経由で成城学園行きのバスを利用していた。
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(写真12-a~d) 1957 Cadillac 75 Fleetwood Limousine (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
去年までは他のシリーズとは違ったデザインだった「75」シリーズのリアフェンダーは、今年はエアダクト風のクロームラインが下半分となり「62」「60S」と同じになった。運転席の写真を見ると後部座席との間に仕切りガラスが有り、この車がリムジン仕様と言う事が判る。
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(写真12-6a)1957 Cadillac Eldorado Brougham (レベル社・プラモデル)
「エルドラド」シリーズは1955年から「62」のサブシリーズとしてスタイリングの先行モデルの役目を果たしてきた。1957年からは従来の「62」シリーズの「セヴィル」「ビアリッツ」とは別に、新しく「70」シリーズを設定し「エルドラド・ブルーアム」を誕生させた。最初にエアサスペンションを装備し、4つ目のヘッドライトを採用したのがこの車で、1台ずつ熟練工によって手作業で仕上げられたスペシャル・エディションは、飛びっきり高価だった。「62」の4,713㌦、「60-S」の5,539㌦に対して13,074㌦と桁外れの値段で、僅か400台しか造られなかった限定モデルだ。故力道山がアメリカから持ち帰ったそうだが僕は本物の写真を撮っていないので、家にあった「レベル社」のプラモデルでご勘弁願いたい。
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(写真13-1ab) 1958 Cadillac 62 4dr Sedan (1958年 羽田空港駐車場)
去年までずっと「格子のパターン」を守ってきたキャディラックのラジエターグリルは、1958年になって「星が輝く」点をメインテーマにしたものに変ってしまった。と思ったがよく見ると「点」は「格子」の交差する所に置かれているだけでベースは伝統の格子で構成されていることが判る。当時唯一の国際空港だった羽田は各国の外交官などの利用も多く、それぞれの国の珍車やニューモデルに出会える機会が多かった。この車もこの時点では最新型車で登録前の「仮ナンバー」が付いている。
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(写真13-2ab)1958 Cadillac 62 4de Sedan (2004-08 カリフォルニア州モンテレー市内にて)
こちらはアメリカの街中で撮ったもので、アイボリーの洒落た車だが前項と全く同じ「62」の4ドア・セダンだ。アメリカの車はアメリカの街が良く似合う、なんて思うのは僕の思い込み?かも知れないが、一寸あたりが暗くなりかかった黄昏時はなかなか良い雰囲気だ。
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(写真13-3abc)1958 Cadillc Convertible Coupe (2008-01 ジンスハイム博物館/ドイツ)
同じ「62」シリーズで「セダン」の屋根を取っ払ったのがこちらの「コンバーチブル・クーペ」だ。色も同じで変わり映えがしないが、トップ以外はどこにも違いが見当たらない。
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(写真13-4ab)1958 Cadillac Fleetwood 60 Special 4dr Sedan (1960年 赤坂見附付近)
この車は「60スペシャル」だが前方から見た時の「62」との相違点はボンネットにある「L型のマスコット」で、「62」は中央に2つ並んでいるが、「60スペシャル」は左右のフェンダー上に分かれて付いている。車の後方に見える風景は立体交差になる以前の赤坂見附交差点で中央に「ボート乗り場」の小屋が見える。
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(写真13-5ab) 1958 Cadillac Fleetwood 60 Special 4dr sedan (1966-06 表参道)
「60スペシャル」を横や後から見た時の特徴は、「リアフェンダーの下半分が細かい横線の入ったアルミパネルで覆われている」「テールフィンの上部にSixty Specialと入っている」「リアバンパーに8本の縦の区切りが入っている」この3点で見分けることが出来る。場所は原宿の表参道で道の向こう側は日本最古の同潤会青山アパートメントが建っている。1926年(大正15)建築された鉄筋コンクリート3階建で、水洗式のトイレなど当時としては最先端の設備を備えた高級集合住宅だったが2003年解体され、現在は「表参道ヒルズ」となっている。現在の住所表示は「渋谷区神宮前4丁目」だが、参考までに完成当時の住所は「豊多摩郡 千駄ヶ谷町 大字隠田 字赤羽」って、イメージからすると物凄いローカルだ。
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(写真13-6ab) 1958 Cadillac Eldorado Biarritz (1990-01 汐留ミーティング)
この年も「62」「60S」「75」シリーズとは別に、「エルドラド・ブルーアム」だけは「70」シリーズとして特別扱いしている。しかし同じ「エルドラド」でも「セヴィル」と「ビアリッツ」は「62」シリーズの中のサブ・シリーズ扱いである。ただしこの2車のテールフィンは他の「62」とは違って直線的で、車幅より少し内側に入った所に生えている。その他テールランプやバンパーも全く異なるデザインだった。
・本当は今回で終わりまで行く予定だったが、意外と中身が濃く1958年以降は次回送りとなってしまった。