<最後にして最高傑作のツーリングカー「Type57」シリーズ>
エットーレ・ブガッティが亡くなったのは1947年だが、存命中に発表されたシリーズは、1934-40 Type57(ツーリングカー)、1934 Type58( 鉄道用ディーゼルエンジン)、1933-36 Type59(GPカー)で最後となった。(1940年以降は第2次大戦で一時中断)「Type57」のエンジンがベースとなったGPカー「Type59」は、当然の事ながら「T-57」より後で完成したが、レースに出場したのは、「T-57」が発表されるより1年前だった。既に完成していた「T-57」が完成後発表を遅らせていたのにはお家の事情があった。この段階でまだ同じ分野の「T-46」や「T-49」の在庫があり、これを売り切ってしまうまではこの魅力的な「新型車」を発表する訳にはいかなかったのだ。エンジンのボア・ストロークと排気量が「T-49」と同じ、と言うだけでエンジンを含めすべてが新設計の上、ジャン・ブガッティの下で優れた職人の腕で造られた各種のファクトリー・ボディは、オーダーメイドのスペシャル・ボディを凌ぐ魅力を持っていた。
・シャシーとエンジンによる分類
<Type57> 1934-40 直8 SCなし DOHC 72×100mm 3257cc 137hp/5000rpm WB.3300mm (57+57C 630台)
<Type57C> 1937-40 直8 SC付き DOHC 72×100mm 3257cc 160hp/5000rpm WB,3300mm
<Type57S> 1936-38 直8 SCなし DOHC 72×100mm 3257cc 170hp/5500rpm WB.2980mm (ローシャシー)(57S+57SC 40台)
<Type57SC> 1937-38 直8 SC付き DOHC 72×100mm 3257cc 200hp/5500rpm WB.2980mm (ローシャシー)
シャシーは3300mmと僅かに短い2980mmnの2種があり、短い方はローシャシーで「S」(スポーツ)に使用された。エンジンの排気量はすべて同じだが、スーパーチャージャーで強化した物は「C」(コンプレッサー)の表示が付けられた。同じエンジンだが「S」シリーズ用は圧縮比を8.5まで高めて強化している。
・ファクトリー・ボディのバリエーション
(1)「ヴァントー・4ライト」(2ドア・コーチ)
(2)「ヴァントー・2ライト」(2ドア・コーチ)--写真なし--
(3)「ギャリビエ」(4ドア・ベルリーヌ)
(4)「ステルヴィオ」(2ドア・カブリオレ)
(5)「アタラント」(2ドア・クーペ)
(6)「アトランティーク」(2ドア・ファストバック・クーペ)
「Type57」を紹介する順序には大別すれば①機能・構造からの分類と、②外見からボディタイプによる分類と2通りがある。今回は写真によるので外見の共通するものを集めて区分し上記「ボディ・バリエーション」別に並べ、スライドショーで下見したが今一つしっくり来ない。実は、外見を大きく印象付ける「ラジエターグリル」が、57/57Cは平面なのに、57S/57SCは中央から折れ曲がったV形をしているので交互に出てくると落ち着かないのだ。そこで平面グリルとV形グリルを別グループに分けて紹介することにした。
(1)<Vantoux Coach>(2ドア・4窓セダン)
[ 戦後の日本に最初に棲みついたType57 ]
日本でType57のブガッティを語る場合、まず最初に登場させなければならないのは、ボブ・ハサウエイ氏(Bob Hathaway/日本名・波嵯栄 菩珷)の車だろう。オーナーはイギリス人で当時は学習院の学生だった。1957年留学の際イギリスの港で船積みされるこの車を見かけたが、偶然にも留学先のアメリカで広告を見つけて購入した。1960年になって日本に入って来てからの整備については、オーナーと親しかった人の証言に食い違いがあるが、初期整備段階で「日英自動車」で全塗装(マルーンとシルバー)され、ブレーキをワイヤーからオイルに変更している。全塗装、改造やエンジンのオーバーホールが赤坂の「小林工業所」で行われたとの説もある。
(写真01-1a) 1937 Bugatti Type 57 Vantoux Coach (1960年 赤坂・日英自動車ガレージ/撮影・西端日出男)
写真は日本に上陸した直後、日英自動車で整備を受けた時に撮影されたもので、当時の塗装は「ダークレッド」だったそうである。と言うのは、この車が愛好者の間に知られるようになった時は「マルーンとシルバー」の2トーンに塗り分けられていたから、この色を見た人はごく一部の関係者しかない。もちろん僕は見ていないし写真も撮っていないが、貴重な資料なので西端日出男氏(元日英自動車)が撮影されたこの写真を使わせて頂いた。
・僕がこの車と最初に出会ったのは1965年9月「大英博覧会」が開催され晴海にクラシックカーが集まった時だった。その後都合8回この車を撮影する機会があったが、初めの3回は「マルーン/シルバー」だった。その最後は1966年2月だったが、今考えると残念なのはカラーが1枚もないのでマルーンがどんな色か証明出来ない事だ。当時カラーはまだまだ貴重品だった。(最近古い雑誌の表紙でこの車のカラー写真を見つけた。興味のある方はモーターマガジン1962年6月号を探して見てください。)
(写真01-1bc)1937 Bugatti Type57 Vantoux Coach (1969-09 大英博覧会/晴海)
車の前にあるプレートに注目されたい。そこにはフルネームRobert(Bob) Hathawayで学習院大学 学生と記されてある。
(写真01-1d) 1937 Bugatti Type57 Vantoux Coach (1966-02 駒沢オリンピック公園/世田谷区)
この日は「NET-TV (現テレビ朝日)」の「なんでも100年」と言う番組の収録があってクラシックカーが集まると聞いて、会社を休んで駆けつけた。旧塗装では最後の撮影となった。
・この車はこの後クラシックカーの塗装では定評のある「わたびき」で、問題の「イエローとライトブルー」に塗り替えられ、現在に至っている。新しい色になって最初公式の場所に現れたのは1967年11月高輪プリンスホテルで開かれた第4回CCCJのコンクールデレガンスで、困惑する審査員に「ブガッティ・オーナーズクラブ」のネクタイピンを示し、標準カラーである事を納得させ見事優勝した、と言うエピソードはよく知られる。この車を塗装した中沖氏はこのコンクールを、完成の「翌年の暮」としているので、この車の塗装が完了したのは1966年という事になる。
(写真01-1e)1937 Bugatti Type57 Vantoux Coach (1970-04 CCCJ コンクールデレガンス/東京プリンスホテル)
僕が新塗装の車を撮影したのは1970年になってからで、この時も大半はモノクロ撮影だったが、1本だけカラー(リバーサル)で撮っていた。
(写真01-1f)1937 Bugatti Type57 Vantoux Coach (1977-04 筑波サーキット)
珍しく筑波に現れた「T-57」はNo.9の車番を付けサーキットを軽快に走った。
(写真01-1g~j)1937 Bugatti Type57 Vantoux Coach (2010-04 ジャパン クラシック オートモビル)
この年はこの車が日本に上陸して50周年だ。新しい塗装になってからでも44年が経過している。現在はオーナーも変わったが大切に保管されているようで、久しぶりに対面したが素晴らしい状態だった。この車を「わたびき」で塗装した際、地肌まで完全に剥がしたあと、速乾性のラッカーパテを使わず時間と手間のかかる乾きの遅いオイル系パテで仕上げられた。もちろん最高の材料と技術で仕上げられたイエローとブルーは昔のまま色あせず今にあるのか、それとも再塗装されたのか、どちらとも判らないほど良いコンディションだ。大きな丸いカーブで塗り分けられるラインは最初に黄色が塗られ、その上にライン決めのテープが張られたが、右側はオーナーのハザウエイ氏によって決められ、左側は塗装を担当した中沖氏に託された。手叩き仕上げのボディは左右に寸法の違いがあってコピーした型紙どおりでは行かなかった由。今回この車の案内板には「ボブ・ハセー」と紹介があった。Hathawayの正しい発音については専門外の僕だが、本人が付けた日本名「波嵯栄 菩珷」を尊重して今まで通り「ボブ・ハザウエイ」とした。「ブガッティ」の事を戦前の古い呼び方「ブガッチ」と言う程の日本語通だった彼が考えた「波嵯栄」の元は「ハザエイ」→「ハザウエイ」と推定したからだ。(因みに女優のオリビア・ハッセーはOlivia Husseyと書き、Anne Hathawayはアン・ハサウエイと読むのが日本での通例だ)
(写真01-2ab)1937 Bugatti Type57C Vantoux Coach (1998-08 ペブルビーチ)
この車は日本にある「T-57」と同じ年に造られた全く同じ形をした色違いの車だ。色以外で違うのは塗り分けの位置で、日本の車の境界はドア より後ろだが、この車を含め殆どはドアの中で納まっている。GPモデルと違って、コンプレッサー付きでも吹き出し孔が無いので「T-57」と「T-57C」は外見では全く区別はつかないが、この車はコンプレッサー付きの「T-57C」である。
(写真01-3ab)1937 Bugatti Type57 Vantoux Coach (2004-06 プレスコット・イギリス
)
ディスクホイールなので一寸雰囲気が変わるが、ボディは前の2車と殆ど同じだ。
(写真01-4ab)1935/36 Bugatti Type57 Vantoux Coach(2003-02 シュルンプコレクション)
この2台は初期モデルと言っていいのだろうか、今まで見てきた1937年型に較べるとヘッドライトは埋め込みではなく完全に独立しており、バンパーがまだホーン埋め込みになっていない。
(写真01-4cd)1937 Bugatti Type57 Vantoux Coach (2003-02 シュルンプ・コレクション)
シュルンプコレクションのこの2台も日本の車と同じ1937年型で、全く同じボディだ。日本にあれば1台でも数々のエピソードが語られるのに、ここには説明するのも嫌になるくらい同じモデルがゴロゴロしている。
(写真01-5ab) 1936 Bugatti Type57 Paul Nee Coach (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
ヘッドライトが独立している前期タイプ。あまり聞いた事の無い「Paul Nee」と言う多分フランスのカロセリアが架装したコーチ(2ドア・セダン)で、補助ライトに特徴を見せている。
.
(2)<Vantoux Coach>(2ドア2窓セダン)-写真なしー
(3)<Galibier Berline>(4ドア・セダン)
(写真03-1abc)1938 Bugatti Type57C Galibier (2002-02 シュルンプコレクション)
「T-57」の中でも後期に属する車だが、この車はジャン・ブガッティがデザインしたファクトリー・ボディのカタログに描かれた「ギャリビエ」(4ドア・セダン)そのものだ。ブガッティとしては比較的おとなしい形は、1930年代後半のアメリカ車にも似た印象を受けるが、リア・トランクのなだらかな曲線などやはり非凡だ。
(写真03-2ab) 1939 Bugatti Type57C Galibier (2002-02 シュルンプコレクション)
この車の一番の特徴はヘッドライトだろう。アメリカ車では1937~8年頃は既にフェンダーに埋め込まれ、傾斜したガラスで覆われたたヘッドライトが出現していたが、ブガッティでは僕が知る限り傾斜したガラスのヘッドライトはこの車しかない。1940年ジャン・ブガッティによって改装されたこの車は「潜水艦ノーチラス号」を連想する、とあったが、今我々が連想するノーチラス号は1954年のディズニー映画「海底二万哩」からのイメージで似ても似つかわない。ジュール・ヴェルヌの原作にそれらしい挿絵があったのだろうか。
(4)< Stelvio > (カブリオレ)
(写真04-1ab)1938 Bugatti Type57 Letourneur & Marchnd Cabriolet (2004-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
運転席の屋根だけを巻き上げた「ド・ヴィル」仕様もできるこの洒落たボディはブガッティの工場製ではないが、ボンネットの3列のベンチレーション、後ろ下がりのドア上縁など、全体のラインはカタログ・モデルの「ステルビオ」と酷似している。
(写真04-2abc)1937 Bugatti Type57 Stelvio (2004-06 プレスコット/イギリス)
オーソドックスだががっちりした印象のこのボディはブガッティの工場製ではないだろう。イギリスとは一寸印象が違う。フェンダーの流れ方や後輪のスパッツ、ボンネットサイドの大きなベンチレーション、低い位置の幌の収納など「ドイツ」の匂いがすると見たのは誤りか。トランクの上にある5本のクロームラインは幌を畳んだとき疵を付けないためのプロテクター。
(写真04-3) 1939 Bugatti Type57C Stelvio (2003-02 シュルンプコレクション)
この車も標準ボディでファクトリー・デザインをカロセリア「ガングロフ」が形にして架装したもの。
(写真04-4) 1939 Bugatti Type57 Stelvio (2003-02 シュルンプコレクション)
ヘッドライトが独立しているこの車は1935~6年の特徴を持っているがカタログでは1939年型となっている。本当か?とまず疑ったが、シャシーNo.は57764で、1938年のNo.57630より後ろではある。(670或いは680台と言われる生産台数からいえば最終期に造られたものに違いない) シュルンプコレクションのカタログに収蔵されているブガッティは「タイプ57」だけでも23台あるが、これらのシャシーNo.を年度別に調べてみたらいくつかの若い番号が後ろに交じっており、必ずしも番号順とは言い切れない。売れ残っていた車で登録年度が年式として通用している事も考えられる。
(写真04-5) 1936 Bugatti Type57C Ganglpf Cabriolet (1991-03 ワールドヴィンテージカー・エクスポジション'91/幕張メッセ)
ボンネットサイドのルーバーが横長のスリットだがこれもファクトリー・デザインをガングロフが架装したものだろう。珍しく幌を下している所だが、後方視界を妨げない程にこじんまりと収納されている。
.
⑤<Atlante Coupe >
(写真05-1)1936 Bugatti Type57 Labourette "Vutotal"Fixedhead Coupe '2003-02 シュルンプコレクション/フランス)
顔だけ見ているとうっかり見落としそうだが、フランスのカロセリア「ラブールデット」が手掛けたスペシャル・クーペだ。ラジエター周りはオリジナルのままだが、一番の特徴は「Aピラー」(ロントガラスの柱)とドアサッシュがなく素晴らしい見通しが確保されていることだ。インターネットでこの車の1/43ミニカーの広告を見つけたが¥37,800.とかなり高価だったのに売り切れ(!)だった。
(写真05-2ab)1936 Bugatti Type57 Atlante Coupe by Ganglpf (2004-06 プレスコット)
黒一色の地味な塗装だが、標準タイプのシャシーに架装された「アタラント・クーペ」だ。この後登場する丸みの多いふっくらしたボディに較べると、背も低くぜい肉もない形は、ファクトリー・カタログの線に忠実だ。
(写真05-3ab) 1937 Bugatti Type57 Atlante Coupe (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
前の車に較べると後輪がカバーされて居るせいか丸みが目立つ。
(写真05-4ab)1937 Bugatti Type57C Atlante Coupe (2001-05 ミッレミリア/ブレシア)
ミッレミリアで見つけたこの車も前の車と殆ど同じだ。
(写真05-5abc) 1938 Bugatti Type57C Atlante (2009-11 トヨタ博物館クラシックカーフェスタ/神宮外苑)
トヨタ自動車博物館が所蔵している車で標準型のアタラントだが、ボンネットサイドのルーバーが網目になっているところは標準と異なる。
(写真05-6ab) 1939 Bugatti Tupe57 Atlante (2004-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
ヘッドライトが埋め込み式となった後期モデルで、全体のラインは今まで紹介したものと同じだが、後輪のカバーが無い分ぼってり感が軽減されているように感じる。
⑥< GP Type >
(写真06-1ab)1936 Bugatti Type57 GP (1995-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
正式には「T-57」にGPモデルは無いが、「T-59 GP」のエンジンは「T-57」から転用した位だから、この車にも立派な戦闘力はあるはずだ。
⑦< Atlante Coupe >S/SC Series
(写真07-0)1938 Bugatti Type57 SC Atlante Coupe (1959年(推定) 場所不明 撮影・西端日出男)
戦後ブガッティが日本に上陸したのは1959年初めの事で、横須賀に居住する米海軍の軍医大佐が広告で見つけベルギーから取り寄せた「Type57SC アタラント」という、ブガッティの中でも最もホットなモデルだった。この車は、日本でナンバーを取得したが1年足らずでアメリカへ行ってしまった。最初は「黒」だったそうだが、モーターマガジン1959年6月号 の表紙を飾った時には「真っ赤」だったと記憶して居る。この歴史の1ページを飾る車には残念ながら僕は出会う機会がなかったので、ここでも西端日出男氏のアルバムからお借りした写真でご紹介する。
(写真07-1ab)1927Bugatti Type57 SC Atlante Coupe (1999-08 クリスティ・オークション・カリフォルニア)
殆ど地面についてしまいそうに低い。真横から見るとドアの下から後車輪にかけての直線以外はすべてが曲線で構成されており、フロントフェンダーの下端のライン、窓まわりの曲線、キャビンの占める絶妙なプロポーションと、どれをとっても美の極致で一部の隙もない。何回見ても見飽きない。
(写真07-2ab)1938 Bugatti Type57SC Atlante Coupe (1991-03 ワールドクラシックカー・エクスポジション/幕張)
91台の魅力的な車を集めて幕張メッセで日本初の本格的なオークションが開かれた。この時は慣れない雰囲気にのまれて法外の値段までせり上げてしまった例も中継で目撃した。写真の車は会場を盛り上げるため展示された名車の1台で、オークションの対象ではなかったから、日本に棲みつくことは無かった。
(写真07-3abc) 1938 Bugatti Type57 S Atlante Coupe (1995-08 ペブルビーチ)
この車も前3車と全く同じボディ・シェルを持っているがヘッドライトが埋め込みではない。ボンネットサイドのルーバーも3列に切られており、同じように見えても細かい点で相違があることが判る。
(写真07-4a~d)1937 Bugatti Type57 S/SC (2003-02 シュルンプコレクション/フランス)
全部で40台しか造られなかったS/SCシリーズの中でアタラント・クーペが何台造られたか判らないが、ごく僅かだろう。その内4台がここにコレクションされている。しかも事も無げに只並べてあるが、この車は横から見た時あの感動的なラインが確認できるのでこの展示方法は不満だ。それと、何度も言うが夜景のセッティングも残念だ。
(写真07-5ab) 1936 Bugatti Type 57S Atlante Coupe (1997-05 ミッレミリア/ブレシア)
この車は街中で見ても特異な印象は受けなかったのはヘッドライトの位置が他のアタラントに較べてやや高く普通の車に近かったからだろう。ジャン・ブガッティがデザインしたカタログ・モデルをベースに、どこかのカロセリアで街乗り用に少しずつ「平凡化」を図った?と見るのは考え過ぎか。でもすごくカッコ良かった。
(写真07-6abc)1938 Bugatti Type57 SC Corsica Coupe (2003-02 シュルンプコレクション)
ここからはカタログ・モデルから離れて、イギリス・ロンドンのコーチビルダー「コルシカ」の作品が続く。高級車に洒落たボディを架装するので知られるが、知名度の割にはあまり規模は大きくないようで代表する作品の多くにブガッティが登場する。写真の車はコルシカ製では珍しいクーペで、サイドビューはフロントフェンダーや窓周りはカタログ・モデルに近いが、キャビンの後端はスペース確保のためか、膨らみ過ぎて軽快感がない。4シーターではないと思うが・・。正面から見るとフロントガラスが2分割で僅かにV型に折れており、大きなヘッドライトと開いたフロントフェンダーが独自の雰囲気を作り出している。
(写真07-7ab)1937 Bugatti Type57S Corsica Drpohead Coupe (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
この車は、ヘッドライトが埋め込まれていない以外はカタログ・モデルのアタラント・クーペと殆ど変らない。屋根を取り払ってオープンカーにしたような感じだが、窓の下端が直線になっただけで一変して直線が強調された印象に変った。
(写真07-8ab) 1937 Bugatti Type57 SC Corsica 4seater Sports Tourer (1999-08 クリスティズ・オークション・テント/カリフォルニア)
同じコルシカ製でもこの車は前の車がフランスの原型を残していたのと違って、イギリス・スタイルで仕立て上げられている。その一番の特徴はドライバーの肘が外に出るためのドアの切欠きで、MGのTCやTDなどイギリスのスポーツカーではお馴染みの定番だ。4シータの後席のカバーもアストンマーチンなどでよく見る図式だ。
(写真07-9a~d)Bugatti Type57SC Corsica Roadster ( 1998-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
この車はコルシカ製を代表する逸品として色々な機会に紹介される有名な個体だ。この写真を撮影したペブルビーチのコンクール・デレガンスで受賞した後、その姿は1/18スケールで超精密モデルカーが造られて5万前後で販売されている。室内はすべてが「クロコダイル」(ワニ革)で内張りされており、シート 一つに1匹が使われる贅沢の極致を行く車だ。
(写真07-10abc)1938 Bugatti Tuype57S Vanden Plas Drophead Coupe (2003-02 シュルンプコレクション/フランス)
この車はイギリスの老舗でロールスロイスなども多数手掛けているコーチビルダー「ヴァンデン・プラス」が架装した。奇を衒(てら)うことなくオーソドックスで上品なスタイルが伝統のヴァンデン・プラスのデザインは直線が強調され、曲線の多いオリジナルのフランス・スタイルの影響は全く感じられない。
(写真07-11ab)1938b Bugatti Type57SC Ganglof Stelvio(Drophead Coupe) (2003-02 シュルンプコレクション/フランス)
前の車とほぼ同じタイプの車で、「ガングロフ」はファクトリー・カタログ通りに造っているので各所に曲線が見られ柔らかい印象を受ける。
(写真07-12ab)1937-38 Bugatti Type 57SC GP-Type Roadster (1995-08 ラグナセカ)
ストリップダウンしてこの形になったのか、最初からGPタイプだったのかは判らないが、これだったら街中でも走れ、レースにも出られそうだ。
⑧ < Atlantic Coupe > 1936-38 3台
最後にして最高の傑作と言われる「アトランティーク」の製作台数は「市販された本物は3台」と言われる。平面ラジエターを持つプロトタイプが2台あり、それ以外はレプリカ、或いは偽物ということになる。プロトタイプはマグネシュウム合金で造られたため、高熱での溶接が出来ずリベット止めが採用された。市販モデルはアルミを使っているので溶接は可能だったが、デザインのためのデザインとしてあえてリベット止めを残したと考えられる。全体のラインは「アタラント」の丸っこい屋根をプレーンバックに換えたものだが、この車を印象付ける最大の特徴は爬虫類の背中を連想するボディの中央の「梁とリベット」で、これが無かったら二度と忘れない程のインパクトは与えなかっただろう。
3台の中で最もよく知られるのはイギリスからアメリカに渡り現在は「ラルフ・ローレン」のコレクションとなっている「EXK-6」の登録番号を持つ車で、多くのミニカーも造られている。(1938シャシーNo.57591)、「EXK-6」は当初「S」仕様のシャシーに架装されたが1939年ブガッティの工場でコンプレッサーを取り付けたので、現在は「SC」として区分されている。以前はフレンチ・ブルーだったが現在はオーナーの好みの「ブラック」に塗り替えられた。2台目はイギリスのレーシングドライバー「ウイリアムス」の車で、戦後皮肉にも踏切でブガッティのレ-ルカーと衝突して大破してしまった車だ。しかしこの残骸を引き取って何とか修復したお蔭で廃車にならずに生き延びた。その後ブガッティ愛好家に買い取られパリの信頼できるレストアショップ「ルコック」で、3年かけて完璧に修復された。この車の特徴はリアフェンダーの峰がストレートに後ろに流れている点で、オリジナルでは背中のふくらみに沿ってカーブして中央で繋がっている。(1936/1980シャシーNo.57374)、 さて、3台目についてはシャシーNo.57473 1936年フランスの「Hortzchub」という人が購入したとあるが、この車についてはその後のエピソードが見当たらない。その他偽物については論外だが、レプリカに付いては無視できない逸品がある。それはデンマーク出身の「エリック・クック」が「EXK-6」を隅々まで完璧にコピーして造り上げたもので、精度はもはやレプリカの域を超えている。クックの手で10台以上造られ初期はFRPボディで見た目だけのものだったが、8台目以降はアルミボディの本格的なものとなった。
「アトランテイーク」は既に75年以上前に造られた「自動車」という道具に過ぎないが、純粋に「美術・工芸品」として見ればその美しさに対する評価は年月を経ても永久不滅だ。
(写真08-1ab)1937 Bugatti Type57SC Coupe Atlantic (Replica) (2001-08 河口湖自動車博物館)
この車に出っくわした時はギョッ!とした。まさか!まさか!世界に3台しか無い車がこんなところに(失礼)ある筈は無いよ、と冷静になって考えれば世界中に数ある「そっくりさん」だろうと考え付く。ヘッドライトも含め各部分が「EXK-6」を忠実にコピーされている。オリジナルのカラーは「青」よりも「空色」に近いブルーの筈だ。ブルー時代のホイールはスポークだったが、ラルフローレンはカバーを付けディスク風にしているので見た目はこの車と近い。実は後から気が付いたのが例の「エリック・クック」が造ったレプリカのリストに11号車はボディのみで日本に販売したとあったので、それがこの車だろう。・
(写真08-2a~h)1938 Bugatti Type57SC Atlantic Couoe (2008-01 VWミュージアム/ウオルフスブルグ)
僕のいたずら書き。車は「ラルフ・ローレン」が買い取る以前のイギリス時代で、明るいブルーの塗装だった。
ブガッティは1998年からはVWの傘下に入っている。だからこの車を見つけた時は「まさか」ではなく「矢ッ張りあった!」だった。やっと本物に出会えた喜びで興奮した。しかしこれは本物だろうか。3台しか造られなかった「アトランティーク」の内2台は素性が判っているから、残る1台がこの車だろうか。ナンバープレートには「1939」とある。「アトランティーク」が造られたのは1936-38年で、しかも38年製は「EXK-6」だから残りは36年製でなければならない。いずれにしても39年は謎の残る数字だが、理由をこじつけるとすれば3台とも「S」仕様からコンプレッサーを取り付けて「SC」仕様に改造したのが1939年だったので「SC」に生まれ変わった年を誕生日にしたのだろうか。調べた資料で「ヒュー・コンウエイ」の写真集の中にイギリスからアメリカに渡った真っ赤な車があり、この車には「DGJ758」のナンバーが付いている。同じナンバーの車がシルバーに塗り替えられた最近の姿がインターネットで見られるが、元は埋め込みだったヘッドライトが奥行きの浅いむき出しクローム・メッキに変っていたので、この車ではなさそうだ。VWの車はルーフの先端に2つのベンチレターが開いている。これは「EXK-6」の初代オーナー(発注者)R.B.ポープの希望で開けられたものなので残りの2台には付いていない。だからこれは精密に造られた「EXK-6のレプリカ」で、もしかしたらこれも「エリック・クック」が手掛けた1台かもしれない。
⑨< 市販されなかった計画中の車>
(写真09-1abc)1939 Bugatti Type64 Corch Protitype (2003-02,2003-02 シュルンプコレクション/フランス)
エットーレは存命中だったがType57の後継車として造られたこの車は息子のジャンが中心となって進められた。完成車はここに展示されている1台のみで他にシャシーのみが1台造られた。時代にマッチした丸みの多いボディはType57に見るような個性的なアクの強さが感じられず現代の目で見ればやや平凡だ。後姿を見てふと思ったのは、ファストバックの流れる曲線はあの「アトランティーク」とそっくりなのに特別に強い印象を与える程ではない。やっぱりあの「リベット止めの背びれ」のインパクトは偉大だった。(ジャン・ブガッティはこの車完成後の1939年8月11日路上テスト中事故死した)
(写真09-2ab) 1947 Bugatti Type71A Fixedhead Couoe Prototype (2002-02 シュルンプコレクション/フランス)
エットーレ・ブガッティは1947年8月21日66歳で他界したが、この車が最後の作品となった。大戦末期、戦後を見越して市販する目的で計画されたが完成車が世に出ることは無かった。
⑩<戦後の再開> 1951-63
(写真10-1)1936 Bugatti Type57 Sautchik Drophead Coupe (2002-02 シュルンプコレクション)
(写真10-2)1939 Bugatti Type57SC Fixhead Coupe (2002-02 シュルンプコレクション)
この2台は明らかに戦後1950年代になってからボディを現代風に載せ替えたのだろうが、今考えると残念なことをしたもんだ。
(写真10-3) 1951 Bugatti Type101 Drophead Coupe (2002-02 シュルンプコレクション)
(写真10-4) 1951 Bugatti Type101 Fixedhead Coupe (2002-02 シュルンプコレクション)
(写真10-5) 1952 Bugatti Type101 Saloon (2002-02 シュルンプコレクション/フランス)
エットーレの死後、会社の経営権はローランとその2人の娘によって所有され、実際の経営はピエール・マルコによって運営されていた。戦後の混乱期を経て1951年ようやく自動車の生産を始める段階までたどり着いた。しかし新しい車を設計するだけの余力はなく基本的にはT-57のシャシーに当世風のフルウィズ(車幅一杯)のボディを載せたものを「Type101」として、過去の名声におんぶした形で市販を始めた。世間では長い間待たされて登場するニューモデルに大きな期待をかけていたが「開けてびっくり!」で、結局6台造られただけだった。
1963年7月でイスパノ・スイザに買収されブガッティ一族が経営する「ブガッティ社」は消滅した。
⑪<ブガッティが造った珍品たち>
(写真11-1abc)1929 Bugatti Type45 GP (2002-02 シュルンプコレクション/フランス)
並列16(直8×2) SOHC 60×84 3801cc 250hp/500rpm
馬力の強いエンジンを手に入れる一つの手段として気筒数を倍に増やして排気量を上げれば単純計算で2倍になる。一般的には縦に並べる直列、半分づつ分けるV型、H型(水平対向)が普通でいずれも1本のクランクシャフトで出力する。これに対してこの場合は同じエンジンを2台並行に並べそれぞれの出力を後端でギアを介して一つにしており、分類上では「U型」と呼ばれる。ブガッティは第1次大戦当時から航空機エンジンの開発にも熱心で、アメリカのデユーセンバーグで量産された有名な「キング・ブガッティ」航空エンジンもこのタイプである。この車は1台の完成車とかなりのスペアパーツが残されたので、後年別の完成車が組み上げられたが、写真の車がオリジナルである。
(余談)アルファロメオにも同じ発想で2台のエンジンを積んだレーシングカーがある。1931年の「TipoA」はボンネットの下に独立した2台のエンジンを並べ、そのままプロペラシャフトを延ばして左右の後輪を別々に駆動する。もう一つは1935年の「Bimotore」でTipoBのエンジンを前後(エンジンルームとトランク)に積み、一旦前のエンジン後端で合体した後、更に左右それぞれのプロペラシャフトで別々に後輪を駆動する。
(写真11-2ab)1927.28 Bugatti Type52 Baby (2002-02 シュルンプコレクション/フランス)
当時5歳になった次男ローランドのために造った子供用のグランプリカーで、これを基に市販車が造られ正式に「Type52」と言う形式名が与えられた。ローランドの車はホイールベースが1.2mで「Type35GP」の丁度半分の寸法で造られていたが.6~8歳を対象としたため1.3mに延長されボンネットのルーバーの数も16から21に増えた。ベビーカーと言ってもペダルカーではなく、12Vの(V12ではない)バッテリーとモーターで走るりっぱな「自動車」で時速20キロ近い速度が出せた。シュルンプコレクションはシートに縫い目の無い方が1927年製、縫い目のあるのが28年製でローランドの物ではない。
(写真11-3a) 1927-28 Bugatti Type52 Baby (1998-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
(写真11-3b)1927-28 Bugatti Type52 Baby (1995-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
(写真11-3c)1927-28 Bugatti Type52 Baby (2012-04 トヨタ自動車博物館)
これらの3台は詳しい説明が付いていないので真贋の程はわからない。と言うのは、これと言った難しいメカは無いのでその気になれば比較的容易に造れそうだからだ。
(写真11-5a~d)1930 Bugatti Type53 4WD GP (2000-06 フェスティバル・オブスピード)
グランプリカーとしては、世界で最初に試みられた4WDで、1961年の「ファーガソン」よりも30年も前にさかのぼる。4WDではステアーする前輪にも駆動力を伝える必要があり、今では当たり前のノウハウも当時としては未知の領域であった。前輪駆動を最初に実用化したのはJ.A.グレゴワールが造った1929年の「トラクタ」で、自らの運転で1927年から30年まで4回にわたってルマンを完走している。彼の前輪駆動の特許は1928年「DKW」、1932年「アドラー」、1934年「シトロエン」が購入、「ジープ」にも使われている。1930年「Typr53」の開発段階でエットーレがグレゴワールと話したエピソードによると、グレゴワール方式の「等速ジョイント」を勧めたが自説を曲げず「ユニバーサル・ジョイント」に拘ったようで、加速性能は抜群だが、ひどいアンダー・ステアでドライバー泣かせだったようだ。エンジンは「Type50」や「Type54」と同じツインカム4.9リッターが使用され3台造られた。
(写真11-6ab) 1932 Bugatti Type53 4WD GP (2002-01 レトロモビル/パリ)
レトロモビルは狭いスペースに色々なものが所狭しと展示されているが、その中にはフランスの珍品が混じっているのでそれを見つけ出すのも楽しみの一つだ。写真の車も3台しか造られなかった4WDの1台、イギリスで見たのとは別の車で、ナンバーからイタリアから来たと推定される。
(写真11-7) 1931 Bugatti Type56 Runabout (2003-02 シュルンプコレクション/フランス)
5歳になった息子のため「電動自動車」を造ったエットーレは、数年後そのメカニズムを使って自分にも「電気自動車」を造ってしまった。名目上は工場内を巡回する際の足として使用するためとされている。全体の印象は馬車風で操舵は1本の棒で行う。馬好きなエットーレにとっては馭者台の雰囲気を出したかったのかもしれない。最高速度は時速30キロ弱で市販も視野に入れていたが実現はしなかった。
<番外のおまけ>
(写真12-1)Bugatti Trust
イギリスのプレスコットにあるヒルクライムコースに併設されているブガッティの記念館で中に車、部品、工具、写真などが展示されている。
(写真12-2)Bugatti Bicycle
記念館の中に展示されていた変わった形の自転車で、ユニークだが乗りこなすのが大変そう。
(写真12-3) Bugatti Bise
ブガッティは工具までも自作していた。こんな万力が自分のガレージに置いてあればちょっとした自慢の種だが......。
.
--B項が終わり次回はC項「キャディラック」の予定です。--