<超豪華車Type-41 ロワイヤル>
エットーレ・ブガッティはモルスハイムで本格的な生産活動を始めて3年目の1913年、Type13、15など後年ブレシア型と呼ばれた小型軽量車を造っていた当時から、群を抜く「超大型車」を造る事を計画していたが、第1次大戦の為実現はしなかった。
「ロワイアル」は当初25台程度を生産する予定だったが、実際に生産されたのはシャシー・ナンバー(41100),(41111),(41121),(41131),( 41141),(41150)の6台で、戦後組み立てられた(41111bis)を含め7台全てが現存する。それに対して載せられたボディは11種の写真が残されている。内訳はプロトタイプ(41100)が5種、2号車(41111)が2種、それ以外はオリジナルの」ままである。
エンジン、シャシーの仕様は次の通りである。(除くプロトタイプ)
直列8気筒 SOHC 125×130mm 12,763cc 275~300hp/1800 rpm ホイールベース4.3m タイヤサイズ6.75×36
<1号車プロトタイプ>(No,41100) 1926 Bugatti Type41 Royal Coupe Napoleon
プロトタイプの1号車はホイールベースが4,572mm、エンジンは直8 SOHC 125×150mm 14,726ccで、2号車以降の生産型よりひと回り大きかった。このエンジンは アメリカのデューセンバーグがライセンス生産した「キング・ブガッティ」として知られる8気筒を2つ並べた航空機用の16気筒エンジン(Type34)と共通点が多く、もっと遡れば1913~14年に造られたType18(ギャロ)の100×160mm の流れを引いている。この車に載せられた「ボディ」は前述の通り5種類がある。最初は1926年にテストの為購入した「パッカード」の「スポーツ・フェートン」と思われるオープン・ボディを暫定的に乗せたものだが、違和感なく収まっているので、逆にパッカードも随分大きかった事を再認識した。2番目は馬車時代の名残を残す小じんまりとした「2ドア・コーチ」で、後ろに「つづら」のような大きな箱を背負っていたが、全体のバランスはいまいちだった。3番目は前と同じイメージを4ドアにして後ろまで一杯にボディを延ばしリア・クオーターに丸い窓を持っていた。「4ドア・コーチ」のこのボディは未だに馬車の名残を残していたが、エットトーレ自身はお気に入りだったようだ。次の4番目は再び2番目と同じレイアウトの「2ドア・コーチ」に戻ったが、パリの「ウエイマン」社が架装したボディはかなりモダン化しておりバランスも良い。このボディは評判が良く数々の賞を受賞したが事故で大破してしまった。そして、5番目が最後となり現存する「クーペ・ナポレオン」と呼ばれる4ドアで運転席の屋根が無いタイプだ。
(写真01-1a~k)1927 Bugatti Type 41 Royal Coupe Napoleon (2007-06 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
超豪華車「ロワイアル」には彫刻家として名を成した弟レンブラント・ブガッティの作品[象]がマスコットとしてボンネットを飾っている。
評判の良かった4番目のボディが事故で大破してしまったあと造られたのがこのボディで、主人が個室に収まり、御者はむき出しと言う馬車時代の身分関係がはっきり判るボディで「クーペ・ナポレオン」と呼ばれる。デザインには息子のジャン・ブガッティが関わっていたといわれる。
ボディはカロセリア・ブガッティによって架装されている。
.
(写真01-2a) 1927 Bugatti Type 41 Royal Coupe Napoleon (2003-01 シュルンプ・コレクション/ミュールーズ・フランス)
この車は長くブガッティ家が所有しており、戦後ブガッティ・コレクターのシュルンプ兄弟に買い取られた。その後ずっとコレクションの目玉として展示されているのだが、ここは超高級車の一角が何故か「夜景」に設定されており、薄暗くて写真写りが悪く大いに不満だ。
(写真ではそれほどに見えないが、実際はかなり暗い)
,
(写真01-3ab)1927 Bugatti Type 41 Royal Coupe Napoleon Replica (2008-01 ジンスハイム博物館/ドイツ)
この車を見つけた時一瞬、不思議な感じを受けた。世界に1台しか無い車はフランスにある筈なのになんでドイツのここに? 前後左右の写真を撮り、帰ってから詳細に本物と見比べてみたが何処にも違う所が見当たらない。しかしどこか違和感を感じる。それは寸法だった。マネキンの頭が屋根から出る訳がない。実は映画撮影用に精巧に造られた多分4/5(3/4?)スケールのレプリカだったのだ。
.
.
<2号車レプリカ >(No.41111bis) 1931(1990) Bugatti Type 41 Royale Esders Roadster
失われた2号車の最初のボディを忠実に再現したのが写真の車だが、オリジナルの注文主はフランスの富豪「アルマン・エズデール」だった所からその名を採って「エズデール・ロードスター」と呼ばれる。購入に際してはエットーレの息子ジャン・ブガッティに直接ボディのデザインを依頼したと言われる。このオリジナル・ボディは3年足らずでエズデールの元を離れ、6枚の写真を残しただけで当時のオーナー、フランス人トーム・パトレノートルの好みで1938年アンリ・バンデル社で現在のクーペ・ド・ヴィルに換装されたといわれ、その際降ろされたオリジナル・ボディはその後の消息は不明となった。その流れるような美しい曲線を持ったロードスターの再現を夢見たのは、既に2台の「ロワイアル」を所有していたシュルンプ兄弟で、ブガッティの工場からそっくり引き取った部品や仕掛かり品の中から「ドライブ・トレイン」と「エンジン(ロワイアルから転用した高速列車用)」を使って、シャシーは所有する2台から採寸して、と言う、「お金」と「暇」と「技術」がなければ実現不可能な作業が始まった。スタートした時期は定かではないが多分1960年代の後半と推定される。しかし1977年シュルンプ兄弟の会社倒産でこの作業は打ち切りとなってしまった。その時点ではシャシーの上にラジエターとボンネットが乗り、ボディ後半は木枠のみの状態で、1982 年以降国立博物館となってからはその状態でしばらく展示されていたが、3年後ついにこれを完成させようと決定した。そしてパリの一流のレストアショップ「アンドレ・ルコック」の協力でプロジェクトが再開された。その段階で「モルスハイム」レベルの仕上がりを目指すプロの目でチェックしたところ、使えるのはシャシーだけで、その他は素人細工同様で使い物にならずゼロからスタートした。残された6枚の写真を基に図面を引き直し、レンズの歪みまで修正されたと言う。そして1990年完成後はシュルンプ兄弟の夢をかなえてミュージアムの入口正面に展示される事になった。(写真を撮影したのは2002年なのでその後リニューアルされてからはどこに展示されているだろう)
(写真02-1a~i) 1990 Bugatti Type 41 Royale Esders Roadster (2002-01 シュルンプ・コレクション/ミュールーズ・フランス)
オリジナルの注文主エズデール氏は夜間は使用しないのでヘッドライトは付いていないが、装着用のステイは用意されて居り、いざと言う時の為トランクに格納してあったそうだ。
.
.
<2号車> (No.4111) 1931(1939) Bugatti Type 41Royale Coupe de Ville by Henri Binder
「ロワイヤル」各車の製造年については諸説があるがブガッティの権威「ヒュー・コンウエイ」の資料を参考にした。この車のシャシーは2号車のオリジナルで、1938年、もっと実用性の高い?ボディと換えるため、パリのアンリ・バンデルでプロトタイプを真似た「クーペ・ド・ヴィル」ボデイが造られた。プロトタイプと較べると少し背が高く、当時の流行に合わせフェンダーにスカートが付いて軽快感を損なっている。
.
(写真02-3a~d)1931 Bugatti Type 41 Royal Coupe de Ville by Henri Binder (1971-03 ワールドクラシックカーフェスティバル/晴海)
アメリカのリノにあるカジノに併設されている「ハーラーズ・コレクション」のクラシックカーが大挙して日本にやって来た。今から44年前の事だ。昭和46年と言えば海外旅行なんぞは一般市民にとっては夢のまた夢の時代だったから、日本国内でクラシックカーを見る事の出来る初めての機会だった。僕にとってブガッティは初めて見る車だったから随分たくさん写真を撮ってしまった。(勿論まだモノクロの時代だ)この当時、自動車に関する催しはすべて晴海の国際貿易会館で開催されたが、ドーム型の屋根の照明が写り込むのでキレイと言えない事もないが、僕はあまり好きではない。
このボディの注文主についてルーマニアの国王と記載されているが、カロル国王は車が完成する以前に失脚してしまった。換装時のオーナーはフランスで大臣を務めたトーム・パトレノートルで、この人の依頼で換装したように伝わっているが、実はカロル国王の意を受けての注文だったのかもしれない。10ミリ厚の防弾ガラスと3ミリ厚の鋼板が使われている所から推察すれば政情不安の国王が望んだ安全は、あの美しいロードスターを捨ててまで換装する必然性が読める気もする。
.
.
<3号車> (No.41121) 1931 Bugatti Type 41 Cabriolet(Fuchs Coupe) by Weinberger
この車はアメリカのフォード・ミュージアムが所有している車として知られる。オリジナルのオーナーはドイツの医師ヨーゼフ・フック博士で、1930年に発注し、翌31年完成納入された。ボディは地元ミュンヘンの「ルードヴィッヒ・ヴァインベルガー」と言うあまり知られていないカロセリアが架装した4座カブリオレだ。僕はフォード・ミュージアムに収蔵された後の写真しか見ていなかっので、ずっと「白い車」と記憶していたが、オリジナルの写真(モノクロ)では黒か紺かダークトーンに塗装されていた。この車はその後オーナーと共にアメリカのロングアイランドに移住したが1937~38年の冬、寒さで凍結しエンジンに亀裂が入ってしまい、アメリカでは修理不能と判断されてそのまま裏庭に置き去りにされていた。1943年になってこの車がスクラップヤードに送られ鉄屑となる寸前の危機を救ったのがGMの副社長チャールスA・チェインで、第2次大戦の最中だった事からそのまま保管され、戦後の1947年本格的なレストアが完了した。その際、現在の白(オイスター・ホワイト)とダークグリーンのルーフ(幌)に換えられた。なおホイールキャップとバンパーはノン・オリジナルである。その後ミシガン州ディアボーンにあるフォード・ミュージアムに寄贈され現在に至っている。写真は世界中に散らばっている「ロワイヤル」を一堂に集める企画が2007年6月グッドウッドのマーチ伯爵によって実現した際撮影したもの。
(写真03-2a) 1931 Bugatti Type41 Royale Victoria
写真のプラモデルはリンドバーグ社製1/24スケールのロワイヤル3号車です。これもいつか造りたいと思っているだけの未製作品です。
.
.
<4号車> (No.41131) 1933 Bugatti Type 41 Royale Foster Limousine by Park-Ward
この車は「シュルンプ・コレクション」としてミュールーズのフランス国立自動車博物館に展示されている。最初の注文主はイギリスのカスバートW・フォスター大佐で、ロールスロイスやデイムラーなどに見られるいわゆる"Dバック"と呼ばれる「英国伝統の」フォーマル・リムジンのボディがパーク・ウオード社によって架装され1933年完成した。その後1946年ロンドンのレモン・バートンに売却、1956年には更に転売されアメリカ人J.ウイリアム・シェイクスピアのコレクションに加えられた。1964年、この車は30台を超える彼の集めたブガッティと共にまとめて「シュルンプ・コレクション」に売却された。「ブガッティを貨物列車で一列車分まとめて買い入れた」と言う"伝説"の写真は多分この時の話だろう。
.
(写真04-2) 1933 Bugatti Type 41 Royale Foster Limousine by Park-Word (2003-01 シュルンプ・コレクション/ミュールーズ・フランス)
フランス国立自動車博物館になってからも目玉の一つだったが何故か薄暗い所に展示されている。以前「ダヴィンチ・ノート」の展示を見たときは、薄暗いのは劣化を防ぐためには止むをえない対応と納得したが、ここでは大量に造られた「街路灯」(セーヌ川のどこかの橋のレプリカ)を引き立たせるためだとしたら、どこか別のコーナーでお願いしたいものだ。
.
<5号車> (No. 41141) 1932 Bugatti Type 41 Royale 2door Sedan by Kellner
この車は個人の注文によって造られたものではなく、1932年ロンドンのオリンピア・モーターショーで展示されたがロールスロイスの3倍の価格では買い手が現れず、その後はずっとブガッティ家に止まっていた。1950年ルマンに初参戦したアメリカ人ブリックス・カニンガムが、帰りがけにブガッティ家の別邸に立ち寄って、売れ残っていたこの車と、もうⅠ台(41150)を格安で購入した。長らく「カニンガム」のロワイアルとして知られていたが、1987年クリスティのオークション掛けられ、スエーデンのハンス・チューリンが落札、1990年には日本の関口氏の所有するところとなった。写真を撮った2007年にはスイス人がオーナーとなっており、なかなか安住の地が定まらない車だ。
.
.
<6号車 >(No. 41150) 1928-30 Bugatti Type 41 Royale Berline de Voyage
この車はエットーレ自身のデザインによりブガッティ内の工房で製作された。エットレはこのモチーフがお気に入りのようで、プロトタイプの2番目と3番目のボディに採用され、この車で集大成された。乗合馬車風のボディは一般的には「ベルリーヌ・ド・ヴォワイヤージュ」とよばれる。キャリッジ・スイープと呼ばれる曲線が馬車風の雰囲気を強調している。しかしエットーレのお気に入りとはいえ、1930年代には時代遅れの懐古趣味と見えなくもない。前の5号車と同様買い手が付かず売れ残っていた一台で、カニンガムによってアメリカに渡り、国内を転々とした後、リノのハーラーズ・コレクションが購入したが、1986年競売にかけられた。
この車はアメリカのドミノ・ピザのオーナーが落札し、ミシガン州アナーバーの博物館に展示されている。この車だけは実物の写真を撮影していないので、ストックしているプラモデルの箱でご勘弁願いたい。「イタレリ社」原型の1/24スケールで 、ボディの後端まで原料が廻っておらず一部欠落があったので造るのを止めた。
.
.
<ブガッティのレイルカー>
自動車の「ロワイヤル」は全部で6台しか造られなかったうえ、実際に売れたのは3台で事業としては全くの不採算の失敗作だったが、そのエンジンを転用して造られたのが一連の「レイルカー」シリーズで1両編成は①400hp(200×2) ②800hp(200×4),3両編成(前後客車中央動力車)と3種のバリエーションがあった。エンジンはロワイヤルと同じ直8 SOHC 12,763cc 200hpだが、レイルカー用エンジンの燃料は「アルコール」「ガソリン」、「ベンゾール」の3種混合燃料を使用した。1932年から39年にかけて製造され、大恐慌以降の大型高級車不振の中、ブガッティの中心となって財政を支えた。1933年からパリ~ドーヴィル間、約200キロを時速70キロで巡航する定期運航を皮切りに順次各線に進出していった。ジャン・ブガッティの運転でパリ~ストラスブール間512キロで平均時速144.8km/hを出した後、70キロ区間では196km/hと言う当時の鉄道における速度記録を出している。この見るからに速そうなデザインは現代のフランスのTGVにも連綿と受け継がれているように思われる。これだけ高性能のレイルカーも安価の燃料で走る「ディーゼルエンジン」の台頭と言う時代の流れには勝てず、次のモデルは出現しなかった。
(写真07-1a~h) 1935 Bugatti Railcar (2007-01 ミュールーズ鉄道博物館)
運転は車体中央部の屋根に突き出たドームで行い見通しは良くない。(3両編成の場合は前後に客車が付くので視界はもっと悪くなる)
エンジンは車体中央部に置かれ、プロペラ・シャフトで車輪に伝達される。エンジン側は展示車の為内部が見えるようになっているが、本来はベンチレターで覆われている。エンジンルームの背後は前後客室の連絡通路で窓が付いている。
レイルカー用エンジン単体にはブガッティの「Type58」と言う型式番号が付けられている。写真は河口湖自動車博物館に展示されていたもの。
写真の車はETAT(フランス地方鉄道/パリ~ブルターニュ方面)で活躍した車両で1両編成で運行される800hpモデルだ。閉館間際で時間がなかった事と、冬の日差しが既に傾いて太陽光主体の場内はかなり暗かったが、前回ストロボ光が回りきらず失敗したので、今回はデジタルの高感度の助けを借りて自然光で撮影した。
次回は高性能ながら日常の足として使える「ツーリングカー」を中心にお伝えする予定です。