(写真(00-0) エットーレ・ブガッティのレリーフ
「ブガッティ」という車は「エンジニア」である以上に「芸術家の血」を受け継いだ一人の天才によって生み出された車で、高性能であるとともに、随所の独特の「美学」を持った魅力的な車だ。車を作ったのはミラノ生まれの「エットーレ・アルコ・イジドロ・ブガッティ」(1881-1947)で、父親の「カルロ・ブガッティ」はイタリアで家具製作者として高い評価を得ていたが、後にパリに工房を持ちフランスに永住をきめる。エットーレはミラノの美術学校に入学するも、自分の才能は絵や彫刻では父や弟のレンブラント(彫刻家)には及ばないと悟り別の道に進む事になる。父を説得して美術の勉強を辞め、ミラノにあった「プリネッティ・エ・ストゥッキ社」に徒弟として入社した。この会社はフランスの「ド・ディオン・ブートン社」のエンジンを後ろに積んだ3輪車(トライシクル)を造っていたが、「エットーレ」は1896年7月行われた「トリノ-アレッサンドリア間往復192キロのレースに自分で改造した車で参加し2位となっている。その車は、通常1台のエンジンを2台積んで馬力を強化したものだが、自分の作品というよりは改造しただけと考えたようで、このあと始まる「タイプ・ナンバー」の中には入っていない。(1998年17歳でこの道に入ったが、日付から逆算するとレースに出たのは14歳10ヶ月となるが......)
<ブガッティの時代分類>
ブガッティには「タイプ・ナンバー」が付けられているが、その歴史を語る場合、大きく分けると次の5つに分けることが出来る。
第1期(1899-1909)T 1~T12 モールスハイム以前
第2期(1910-1947)T13~T59 モールスハイム時代(エットーレ存命中)
第3期(1947-1949)T60~T84 〃 (エットーレ没後)
第4期(1951-1957)T101~T252 復活第1期
第5期(2005-......) ヴェイロン 復活第2期
< 創世期 Type1~type9>(コンサルタント・デザイナー/外部からの依頼による自分の名前が付かない車)
Type1からType9まではフランス国立自動車博物館のType7「マチス」以外は現存しないので、僕の撮った写真で構成するこのシリーズでは画像の紹介は出来ない。、
< Type 1 >
・1899 プリネッティ・エ・ストゥッキ クアドリシクル(4輪車)
プリネッティ・エ・ストゥッキ をベースに、ドディオンのエンジンを後軸の前後に1対ずつ配置した4気筒。「トライシクル」の発展型で、「クアドリシクル」はまだ自動車の域に達していないが、エットーレ自身が自分の最初の作品「タイプ1」であると認めたと言われる。サドルとハンドルを持つ自転車の発展型で先端に客席のシートを持つ。(異聞・ミラノの「ヴィスカレッティ博物館」に1899年製と言われる車が展示されているが既にフロント・エンジンの自動車の形になっており、もしかするとブガッティ本人が認めたType1はこちらかも知れない。)(18歳)
< Type 2 >
・1900 グリネリ
全てを自力で作り上げた車は、資金援助してくれたグリネリ伯爵に因んで「グリネリ」と名付けられた。当時、車のレイアウトがまだ確立していない時代に、ブガッティはその後長い間標準となった「エンジン、トランスミッションをフロントに置き後輪を駆動する「システム・パナール」方式を採用する先見性があったから、完成した車は現代の眼で見ても「自動車」に見える。この車はミラノ国際展覧会で市長杯を獲得している。(19歳)
< Type 3 >
・1902 ド・デートリッヒ 24HP(最初の市販車)
ドイツとの国境付近のアルザス地方は両国間で国境争いを繰り返した場所で、現在はフランス領となっている。1900年当時はドイツ領だったがここにユージン・ド・デートリッヒ男爵の経営する工場が有り、「ボレー」などフランス車のライセンス生産を行っていた。1901年「Type2グリネリ」をミラノ・ショーで見てブガッティの才能を見込み、ライセンス契約を結んだ。最初の車は4気筒114×130mm 5.3リッター24hpのツーリングカーで、台数は不明だがある程度の台数が造られ市販車の第1号となった車だ。(21歳)
< Type 4 >
・1903 ド・デートリッヒ 30hp
次に造られたのは4気筒 130×140mm 7.4リッター 30~35hpで、「バーリントン」と呼ばれ、外見はType3と同じだがラジエター・グリルが付いた。
< Type 5 >
・1903ド・デートリッヒ 50HP レーシングカー
1903年のパリ-マドリッド間レースのため造られたレーシングカーで、4気筒160×160mm 12.8リッター OHC 50hpのエンジンを持つ。この車は残された写真に依ると、ドライバーシートは最後端にあり、現代の車で言えばトランクの中に座って操縦している感覚だ。年式からは契約中のド・デートリッヒ社製と考えられているようだが、ブガッティの自叙伝では、「アルサス機器製造㈱」が造ったとされている。
< Type 6 >
・1904 マチス 50/60HP
デートリッヒと分かれたブガッティは、1904年4月、友人のエミール・マチスをパートナーとして再出発し、「Type6」と「Type7」を造る。当時エミール・マチスはストラスブールで「ド・デートリッヒ」「ロシェ・シュナイダー」「パナール」「フィアット」「ミネルバ」などヨーロッパ各国の自動車を扱うデーラーを営んでいた。1907年コンビを解消するまでに3種のモデルを発表したが4気筒136×150mm 8.7リッターの「50hp」と140×150mm 9.2リッター「60hp」の「エンジンを持つマチス・エルメス」が「ブガッティType6」に相当する。
< Type 7 >
(写真01-1abc)1904 マチス90HP/Bugatti Type7 (2002-02 フランス国立自動車博物館)
同じシリーズで4気筒160×160mm 12.9リッター「90hp」のエンジンを持つ「マチス・エルメス 90HP」が「ブガッティType7」に相当し、レース仕様のラナボートがフランス国立自動車博物館(旧シュリンプ・コレクション)に展示されている。いずれも製造したのは「アルサス機器製造㈱」といわれる。ブガッティがマチスと組んで得た最大の収穫は、そこに居たメカニック「エルンスト・フリードリヒ」を発見した事で、その後彼はブガッティのメカニックとして終生行動を共にした。
< Type 8 >
・1907 ドイツ(チエーン・ドライブ)
1907年エミール・マチスと決別したブガッティは、すぐに次の車を設計し、ケルンの「ドイツ・ガソリン・エンジン社」(Gasmotoren- Fabriks Deutz)との契約に成功したばかりか、弱冠25歳でエンジンメーカーとしては大手のこの会社の自動車製造部で技師長となりケルンに移住する。最初の車は4気筒OHC 145×150mm 9.9リッター 50~60hpで、チエーン・ドライブによる後輪駆動だった。
< Type 9 >
・1909 ドイツ (シャフト・ドライブ)
ドイツ社に対する2台目は、当時とすればかなり小型の部類に入る車で、4気筒 OHC 92×120mm 3.2リッターのエンジンは前の車をそっくり小型化したものだが、駆動方式はブガッティとしては初めてのシャフト・ドライブを採用している。
< ブガッティの誕生 >
<Type 10 1909ブガッティ・ピュール・サン>
1909年の暮れ近く「ドイツ社」との契約を解消するが、同社との契約条件の中に社員として給料を貰っているにも拘わらず、「自身の為の試作も行うことが出来る」という取り決めが入っていた。「Type10」は1909年、ドイツ社との契約中に完成したものだが、そんな訳で作業は1908年から続けられていた。この車はケルンの社宅の地下倉庫で組み上げたが、運び出せない事に気がついて一旦分解し外で組み直した、というエピソードが残っている。この車は 水冷4気筒 8バルブ SOHC 62×100mm 1,207cc のエンジンという当時としては物凄く小さい車だが、同時期に完成した「ドイツ」(ブガッティType9)とも共通点が多く、後年ブガッティを代表する「Type35GP」系で示した小型、軽量で、良好なハンドリングを武器にグランプリ・レースを戦った基本姿勢は既にこの時から芽生えている。この車は簡素なオープン2シーターのボディーを持っていたがその形から「バスタブ」とも呼ばれ、ラジエターは初期のブガッティに使われた肩に角のついた物だった。出来栄えについても満足の行くもので、大好きなサラブレッドに因んで「ピュル・サン」(純血種)と名付けている。1939年まではブガッティ家のもとに有り、戦後ベルギーを経てアメリカに渡り、ハーラーズ・コレクションに収められていたが今はどうなったのだろう。僕はこの車にはまだ出逢っていない。
(写真02-0)T-13とエットーレのスケッチ (僕のいたずら)
<モールスハイム時代始まる> 1910~
「ピュル・サン」の成功を契機に、注文主の意向に左右されない自分の思い通りの物を造るため、設計者から製造者へと転身する決意をした。1909年暮れには友人「ド・ヴィスカヤ」がアルサス地方の「モルスハイム」に所有していた染物工場の建物と隣家の一部を借り受け、1月からは内部に工作機械が運び込まれて工場に改装された。そこで産み出された車が「Type13」(8バルブ)で、初年度の1910年は僅か5台だったが、1911年には従業員は65名となり年間75台を生産している。この当時の車は「タイプ13」と総称されることが多いが、厳密には「T13」「T15」「T17」「T22」「T23」「T25」「T26」の7タイプが一族となる。(「ブレシア」の名前は厳密にはこのタイプがブレシアで開かれたイタリアGPで1~4位を独占した1921年以降がそれに該当するが、「T13」とそのバリエーション一族の代名詞として「ブレシア型」という意味でも使われている)なお1908年から9年にかけて「Type10ピュル・サン」に取り掛かっており、翌1910年モールスハイムに移って「Type13」を造っているが、その間の「Type11」「Type12」と、次の「Type14」が欠番となっており、試作車が造られたのかも知れないが、どの資料にも全く記載されていない。
以上の表でわかる様に幾つかのモデルが同時進行しているので、タイプ・ナンバーが制作年度順を示すものではない。
外見で最も判り易いラジエター・グリルの変化は、ごく大雑把に分ければ,①最初は馬蹄形になる前の肩が角型(6角形)→②頭すぼみの楕円形(西洋梨形)→③馬蹄形、と変化して行く。タイプ10~27に関しては①,②までで、②に関しては1913年から使われ前期の縦横比6:5の丸形と、後期の面長形があり、後期形にはクランクシャフトの為底辺が抉(えぐ)れたタイプと、ストレートの物がある。
1910 Type15.................................................1914 Type17 ....................................
1912 Type18............. ....................................1921 Type13 Brescia..................................
(写真02-1a~e)1910 Bugatti Type15 (2007-06 英国国立自動車博物館)
この車は現存するモールスハイム以降のブガッティとしてはプラハにある車に次いで2番目に古く、英国内では一番古いと書いてあった。Type15でありながら1910年製という事は「Type13」と同時進行だったことが判る。オリジナル・ボディは箱型で初代オーナーはマダム・ブガティだったが、第1次大戦後イギリスに渡り、現在の形に換装された。
(写真02-2a~d)1912 Bugatti Type15 Berline (2004-06プレスコット)
ポスターはサラブレッドの手綱をとるエットーレ・ブガッティで後ろに見えるのが写真の車と思われる。初期の車はまだ馬車の雰囲気を十分に残している。
(写真03-1a) 1915 Bugatti Type13 (2003-02 レトロモビル/パリ)
最初期の「T-13」は前項の「T-15」と同じく肩に角がついたラジエターを持っていたが、僕はそのタイプの「T-13」を撮影して居ないので、順序を変更してラジエターの進化順に記載した。写真の車は2番目に登場した典型的な「洋梨形」だが、このタイプにも縦横比に微妙なバリエーションがある。展示車はテールを長く延ばし空気抵抗の減少を図ったレース仕様である。
(写真03-2a)1919 Bugatti Type13 (1977-04 筑波サーキット)
戦後日本に上陸したブレシア・タイプは1976年3月の「Type22」に次いで、1977年4月に登場した写真の「Type13」が2台目となる。河口湖博物館のオーナーの名前でエントリーしていた車でグリルは洋梨形ではない後期型だが、この年式(1919)はまだ「ブレシア」は付かない。しかし外見で見る限り1921年にブレシアで優勝したといわれる車の写真とそっくりだし、この後(03-7)で登場する1925年のモデルとも瓜二つで、年式を変更する必要があるのか、それとも栄光のブレシア優勝モデルにあやかったボディに換装したのか。
(写真03-3ab)1921 Bugatti Type13 Brescia (1988-11 モンテミリア/神戸ポートアイランド)
この車も基本的には前の車と同じで、路上を走るための部品を付けたものと見られる。年式から「ブレシア」を名乗るようになった最初のモデルだ。
(写真03-4) プレスコット・サーキット
以下に登場するプレスコットで撮影した写真は、イギリスの「ブガッティ・オーナーズクラブ」結成75周年記念として開かれたミーティングで撮影したもので、有名なヒル・クライム・コースを年代を感じさせない元気さで駆け上がって行った。
(写真03-5ab)1922 Bugatti Type13 Brescia (2004-06 プレスコット/イギリス)
(写真03-6ab)1925 Bugatti Type13 Brescia (2004-06 プレスコット/イギリス)
年式は違うが殆ど同じ2台で、ラジエターは「洋梨形」が付いている。1921年ブレシアのレースで優勝したと言われる車は「オーバル形」なので、ある時期は好みで選択できたのか、「年式」或は「仕様」で区別されていたのか、参考とする基礎資料も曖昧で結論が出せない。
(写真03-7ab)1925 Bugatti Type13 Brescia (2004-06 プレスコット/イギリス)
(写真03-8ab)1925 Bugatti Type13 Brescia (2004-06 プレスコット/イギリス)
こちらは同じ1925年型だが2台共「オーバル形」のグリルがついている。ブレシアのレースで優勝した車にそっくりだが似た車が沢山あるのでこの車かどうかは解らない。この当時のレーサーはコクピットの幅が狭く、助手席側のシートは少し後ろにずらしてあるので、やや斜めに座っているのが判る。
< Type17 > 1912~
一連のシリーズの中で、一番長い2.55mのホイールベースは、初代が「Type17」で、「Type23」へと続く。タイプ番号は離れているが「Type-13」「Type-15」「Type-17」は同時進行していたモデルでホイールベースが異なるだけなので、ひっくるめて「8バルブ」或は「Type13」としている資料もある。
(写真04-1ab) 1914 Bugatti Type17 Torpedo (2002-02 フランス国立自動車博物館)
写真の車は「洋梨形」のグリルの中でも一番丸に近いタイプだ。トルペードと言う形式は「魚雷艇」からイメージされたオープンで木製のデッキを持ったボートのような洒落たボディのことを言う。この車は2+1の3人分のシートがあり確かにホイールベースが長い。
< Type22 >
2.4mと言う中間のホイールベースを持つこのシリーズは、初代が1912「Type15」で1913「Type22」(8バルブ)は2代目、1914「Type22モディフィエ」(16 バルブ)は3代目に当たる。一番短い2.0mの「T-13」は最初からレース仕様だったが、2.4mと2.55mはロード・ユースのため設定された車種で、それなりのボディが載せられたが、レース仕様も多数造られている、
(写真05-1ab) 1923 Bugatti Type22 Brescia Modifie (2009-03 東京コンクール・デレガンス)
未塗装で「きさげ加工」を施されたアルミ・ボディを持つこの車は,シャシーNo.001と言われるが、16バルブの「Type22」は1914年から既にスタートしており、同じ「Type22」ではあるが「ブレシア・モディファイエ」は別モデルとして採番されたのだろう。珍しいタイプだがボディがどこで造られたのかの説明はなかった。
(写真05-2ab)1925 Bugatti Type22 Burescia Modifie (2004-06 プレスコット/イギリス)
この車も簡単ではあるがレース仕様に較べれば立派な内装を持っている。
(写真05-3ab)1924 Bugatti Type22 Burescia Modifie (1977-01 東京プリンスホテル)
この車は一連の「ブレシア・タイプ」の中で戦後最初に日本に入ってきた車で、この日は寒かったのでラジエターにカバーを付けている。当時はまだカラー・フィルムが貴重でイベントに行く際も1本だけしか持って行かなかったから、色見本として撮るだけだった。
(写真05-4ab)1924 Bugatti Type 22/13R Brascia (2010-10 ラフェスタ・ミッレミリア/明治神宮)
モデル名に付いている「13R」が「T-22」に対してどんな改造が加えられているのか不明だが、明らかにレースを意識した仕上がりになっている。後ろから見るとボディ・サイドが凄く浅いのが判る。
< Type23 >
ホイールベースが2.55mでシリーズの中で一番長く,初代が1912「T-17」で、1913「Type23」(
8バルブ)が2代目、1914「Type23」(16バルブ)が3代目となる。
(写真06-1abc)1925 Bugatti Type23 Burescia Modifie (2004-06 プレスコット/イギリス)
ブレシア・シリーズの最後に登場するのがこの車で、さすがにロング・ホイールベースだからレース仕様ではない。今回登場した中で、数少ない実用車として使えそうな車だ。
< Type24 > ― 欠番 ―
< Type25 > Type22に8バルブ 68×108mmエンジンを搭載(写真撮影なし)
< Type26 > Type23に8バルブ 68×108mmエンジンを搭載(写真撮影なし)
< Type27 > 16バルブ69×100mm エンジン(後期のType13に使用)
(写真06-2ab) 1922-26 Bugatti Type13 Engine (2003-02 レトロモビル/パリ)
「Type13」も1914年以降は16バルブが採用された。写真のエンジンは1922年から26年までに1000台造られた。水冷4気筒16バルブSOHC 69×100mm 1496cc 30hp
<Type 18 5リッター"ギャロ">
1913 (08?)-14年に6台だけ造られた高性能レーサーで、Type13で既にシャフト・ドライブの車を生産しているにも拘わらず、何故か旧式とも思えるチエーン・ドライブを採用している。ひとつには1908年の「Type8・ドイツ」の発展型で、当時のメカニズムを踏襲しているとも言えるが、うち1台は当初シャフト・ドライブだったのを改めてチエーン・ドライブに改装しているので何らかの利点があったのだろう。(ホンダS500もチエーンだった)3台が現存する。
(写真07-1ab) 1912 Bugatti Type18 5Litre Garros Black Bess (2000-06 グッドウッド)
(写真07-2abc) 1912 Bugatti Type18 5Litre Garros Black Bess (2004-06 プレスコット)
シャシーNo.471はブガッティ自身が乗ってレースに出ていた車で、1920年代にイギリスに渡り、ブルックランズなど各地を転戦したが、この時、イギリスでは悪名高い追い剥ぎディック・タービンが乗っていた黒馬に因んで「ブラック・ベス」と名付けられた。テイルが細く長く後ろに突き出しているのがこの車の特徴だ。イギリスのプレスコット・サーキットに併設されている「ブガッティ博物館」に現存する。
(写真07-3a~e)1912 Bugatti Type18 5Litre Garros (グッドウッド/イギリス)
(写真07-4ab) 1912 Bugatti Type18 5Litre Garros (2004-06 プレスコット/イギリス)
シャシーNo.474は当時フランスの著名な飛行家「ローラン・ギャロ」が愛用した車で、この車が1935年転売される際添えられた手紙にブガッティは「最初の車が造られたのは1908年の事で、販売されたのは1912年からであり、この車は1913年9月18日故ギャロ氏の許へ送り出されたものである」と書いている。(1908年説にはT‐8「ドイツ」と感違え、或は「ドイツ」がベースとなった、との見方もある)著名人「ギャロ」が愛用したと言う事から、この車「474」に留まらず、「Type18」を称して「ギャロ」の愛称で呼ばれている。この車は有名なコーチビルダー「ラブールデット」の洒落たオープン2シーターのボディを持っており、レーシングカーではなく日常の足として仕立てられている。
(写真07-5ab) 1912 Bugatti Type18 5Litre Garros (2002-02 フランス国立自動車博物館)
シャシーNo.715はシャシーのまま新車で残されていたもので、ブガッティ・コレクターとして有名な「シュルンプ」が買い取り、現在はミュールーズにあるフランス国立自動車博物館に展示されている。
<Type 19 Bebe Peugeot >
エットーレ・ブガッティは1910年モールスハイムに工場を造り、初めて自分の名前の付いた車「ブガッティT-13」の生産を始めた。それまでは量産の出来るメーカーに設計を提供する形を取っていたが、この「ベベ・プジョー」もブガッティが設計したものを「プジョー社」が量産したものだ。この車のエンジンは4気筒55×90mm 855ccと当時の常識から見れば極端に小さく、自動車の範疇に入れて良いのかという程度の物だったが、簡素で安価な車を大量生産することを目指した車だったから、自分の工場では無理で、最初からどこかに売り込んで資金稼ぎをするのが目的だったと見られる。最初の売り込み先、ドイツの「ワンダラー社」はダメで、フランスの「プジョー社」との契約に成功し1913~16年までに3,095台が生産された。
(写真08-1ab)1911 Bugatti Type19(Bebe Peugeot Prototype) (2002-01 フランス国立自動車博物館)
「プロトタイプ」のこの車は「シュルンプ・コレクション」の1台で、ブガッティの手で造られたと思われるが、グリルは小形である為にType13に使われている洋梨形のデザインの下をカットしたら、それが偶然後年の「馬蹄形」を思わせる形になってしまった、と言う事だろう。ラジエターには「ブガッティ」のエンブレムが付いている。
(写真08-2a)1913 Bebe Peugeot/Bugatti Type19 (1999-01 トヨタ自動車博物館)
小さいながら立派な自動車で、プジョーで造られた量産型は1913年から市販された。大衆化を図ると言う構想も、その外見も1922年誕生した「オースチン・セブン」と殆ど同じだが、こちらの方が10年も早い。しかしオースチンが18年間に29万台も造ったのに対して、プジョーは4年間で3,095台に留まったので社会現象として歴史に名を残すまでには行かなかった。
(写真08-3abc) 1913 Bebe Peugeot/Bugatti Type19 (2002-02 フランス国立自動車博物館)
この3台も「シュルンプ・コレクション」で色は違うが殆ど同じだ。
(写真08-4a~d) 1913 Bebe Peugeot/Bugatti Type19 (2008-01 VWミュージアム)
こうして色々な角度から見ても、そのデザインは破綻がなく素晴らしい。ウオルフスブルグにあるフォルクスワーゲンの工場に隣接するミュージアムは傘下に多くのメーカーを吸収しているので、各社の歴史的遺産もしっかり収蔵している。
・「ブガッティ」については「年次順」や「タイプ順」に記載するよりも「性格別」(用途別)の方が流れがつかみ易いので「ブレシア」のあと、次回は「T-35 GP」を中心に「グランプリカー」について紹介する予定です。以下「スポーツカー」「グラン・スポール」「ツーリングカー」「特殊な車」などが続きます。