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第33回 1950年代のアメリカンドリームカー(2)
2015.3.27

 前回はGMのドリームカーを紹介したが、今回はクライスラーの1950年代初期のドリームカーを紹介する。
 1949年にクライスラー社は、元GMポンティアック部門のチーフデザイナーを務め、その後レイモンドローウィー事務所でスチュードベーカーのデザインを手掛けたヴァージル M. エクスナー(Virgil M. Exner)を迎え、生産モデルのデザインとは全く独立したアドヴァンスド・デザイン・スタジオを新設し、ディレクターに据えた。彼に課せられた使命は持てる能力で最も美しい車をデザインすること。具体的には、見た者をノックアウトするような一連のコンセプトカーを創ることと、将来生産可能なデザインアイデアを創り出すことであった。 当時クライスラー社の売上低迷の主原因が保守的なデザインにあると言われており、市場に受け入れられる車造りは緊急課題であった。
 期待を背負ったエクスナー最初の作品が1951年に発表されたクライスラーK-310である。1951年型クライスラー・サラトガのシャシーにイタリアのカロツェリア・ギアがボディ架装し、ブルーのツートーンに塗装された美しい2ドア・ハードトップクーペであった。当時エクスナーが最も高く評価していたのがイタリアのカロツェリアたちの仕事であった。 戦後いち早く復活し、ワン・オフのカスタムカーの需要も旺盛であったことから、毎年トリノ・ショーに多くの作品を並べ、スタイルリーダーを務めた時期があった。 従って、エクスナーが創り出す作品は、GM、フォードのコンセプトカーが新技術と未来志向のデザインを追及するのとは対称的に、純粋に車の美しさを追求したものであった。
 コンセプトカーのボディ架装をカロツェリア・ギアに託したのは、彼等の卓越した匠の技とスピード、加えて驚異的な製作コストの安さにあった。最後までコンペティションに残ったのはギアとピニン・ファリナであったが、最終的にギアが選ばれた。
 クライスラーのアドヴァンスド・デザイン・スタジオで制作された3/8スケールの石膏モデルをベースに、ギアではフルスケールの木型を作り、これに合わせてボディを造っていく。その技とスピードは目を見張るものであったといわれる。 しかもそのコストは1台当り1~2万ドルであった。 K-310の場合、クライスラーがギアに支払ったのはたったの1万ドル。 クライスラー社内で制作する場合の見積もりは12.5万ドルであったというから驚異的な安さである。前回紹介したGMのコンセプトカーの製作費が50万ドル~100万ドルと言われているのとは雲泥の差であった。
 1951~55年の5年間に15台(内1台はモックアップ)の魅力的なコンセプトカーを発表しており、一連のコンセプトカーのいくつかは、市販化を真剣に検討したようであるが、コストが高いのと、1934年に発売したエアフローの失敗がトラウマとなったためか、実現しなかったのは残念である。例外は1952年に発表されたクライスラー・スペシャル。 これはギア社でモディファイされたあと、クライスラーGS-1として1954年のパリ・ショーで発表され、フランスにあるクライスラー社のディストリビューターを通じて400台ほどが限定販売された。

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上の2点は1950年に発表された「プリムスXX-500」。1951年型プリムスのシャシーにギア社がデザインして架装したモデルで、手作りの出来栄えをクライスラー社にプレゼンテーションするために制作されたモデル。ホイールベース118.5インチのシャシーに217.8cid(3569cc)直列6気筒97馬力エンジンを積む。

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上の3点は1951年に発表された「クライスラー K-310」。クライスラーに移籍したヴァージル・エクスナー最初の作品。名前のKは当時クライスラー社の社長であったK. T. Kellerのイニシャルで、310はこの年発売された「ヘミ」ヘッドを持った新型V型8気筒「ファイアパワー(FirePower)」180馬力をチューニングによって310馬力に強化したエンジンを搭載するということで名付けられた。しかし実際にはノーマルの180馬力が積まれていた。カラー写真のようなブルーのツートーンに塗装された美しい5人乗り2ドア・ハードトップクーペであった。ホイールベース125.5in(3188mm)、全長220.5in(5601mm)、全幅76.0in(1930mm)、全高59.0in(1499mm)、8.00×17inの大径ワイヤホイールを履き、フラッシュマウントされたドアハンドルを持つ。照準型のテールランプ、トランクリッドにスペアタイヤを背負ったような造形は1955年型インペリアルに採用されている。フロントシートバックを前に倒すと、シートが前方にスライドして後席への乗降がし易くなる仕掛けも付いていた。「K-310」は「C-200」ともども量産化も検討されたが、コストが高く断念せざるを得なかったようである。1955年にクライスラー300レターシリーズが発売されたが、本当はこんなクルマが作りたかったのだと思う。

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上の3点は1952年に発表された「C-200」。若干手を加えたクライスラー・ニューヨーカーのシャシーに架装され、スタイルは「K-310」をオープンモデルにしたような5人乗りコンバーティブルクーペであった。ホイールベース及び全長はK-310と同じだが、全幅は79.3in(2014mm)と84mm広く、全高は26mm低い58.0in(1473mm)であった。エンジンはK-310と同じ「ファイアパワー」180馬力を積む。

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上の3点は1952年のパリ自動車ショーで発表された「クライスラー・スペシャル」。モディファイされたクライスラー・ニューヨーカーのシャシーに架装された3人乗りスポーツクーペで、ファーストバックルーフラインとナイフエッジ的フェンダーを持つ。水平のバンパーはグリルと一体となり、前後フェンダーの端部に縦型のバンパーガードが装着されている。ドアの開閉はプッシュボタンによって行う。背中の中央にある丸いのは、使い勝手は悪そうだが、燃料のフィラーキャップで運転席のプッシュボタンで開閉される。スペアタイヤはボタン操作によって、油圧作動でリアライセンスプレート取り付け部のパネルが開き、写真のような状態に飛び出す仕掛けになっている。シートは乗り降りの時に外側に回転するスイベル機構を備えており、これが量産車に採用されたのは1959年型であった。更に、当時はまだ珍しかったシートベルトを装着していた。サイズはホイールベース119.0in(3023mm)、全長214.0in(5436mm)、全幅72.5in(1841mm)、全高55.0in(1397mm)、7.00×16inのレーシングノックオフ式ワイヤホイールを装着していた。エンジンはK-310と同じ「ファイアパワー」180馬力を積む。

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「クライスラー・スペシャル」は再塗装され、上部が濃いメタリックグリーンで下部がライトグリーンとなった。ファーストバックのルーフライン形状がよく分かる。

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1953年にクライスラー社輸出ディビジョンの社長、C. B. トーマス(C. B. Thomas)のために製作された「クライスラー・スペシャル・モディファイドバージョン」で、「トーマススペシャル」とも称されている。クライスラー・ニューヨーカーのシャシーをそのまま使って架装されており、オリジナルとはかなり違っている。グリルアウトラインモールディング、フードパネルとカウルエアインテーク、ドアハンドル、ラゲッジコンパートメントのほか、ルーフラインもファーストバックからノッチバックに変えられ、トランクリッドもコンベンショナルな形状となり、スペアタイヤもトランク内に立てて収納され、燃料のフィラーキャップ、排気管の位置も変更されている。サイズはホイールベース125.5in(3188mm)、全長204.0in(5182mm)、全幅75.3in(1913mm)、全高57.5in(1460mm)、タイヤは8.20×15を履く。エンジンはK-310と同じ「ファイアパワー」180馬力。

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上の2点はクライスラー博物館に展示されている「トーマススペシャル」。大径のメーターユニットに注目。「トーマススペシャル」は何台かつくられているようだ。

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1954年のパリ自動車ショーで発表された「クライスラー GS-1」。サイズ、エンジンは「トーマススペシャル」と同じだが、フロントフェンダーからリアフェンダーにかけて細いキャラクターラインが加えられ、バンパーはクライスラー・ニューヨーカーのものが流用され、フロントグリルが変更され、ヘッドランプの下に一対のシグナルランプが追加されている。ギア社で400台ほど製作され、フランスにおけるクライスラー社のディストリビューターであるSociete France Motorsからヨーロッパ向けに販売された。

●クライスラーの「HEMI(ヘミ)」エンジンについて
 第2次世界大戦が終ると米国の自動車メーカーは一斉に高出力の新型エンジンを投入し、馬力競争の時代に入っていく。 口火を切ったのはGMで、1949年型キャディラックとオールズモビル用にオーバースクエア、331cid(5428cc) V8 OHV、圧縮比7.5:1、160hp/3800rpmを発売した。フォードも1949年型リンカーン用に、1932年から使ってきたV12を捨てV8を投入したが、デザインは旧式でL-ヘッド、アンダースクエア、336.7cid(5522cc)、圧縮比7.0:1、152hp/3600rpmであった。しかし、1952年型にはオーバースクエア、317.4cid(5205cc) V8 OHV、圧縮比7.5:1、160hp/3900rpmを発生する新しいエンジンを登場させている。
 クライスラーは1951年2月、後に「HEMI」の愛称で呼ばれる半球形(Hemispherical)燃焼室を持つ、オーバースクエア、331.1cid(5430cc) V8 OHV、圧縮比7.5:1で180hp/4000rpmを発生する「ファイアパワー」エンジンを積んだ1951年型クライスラー・インペリアル、ニューヨーカー、やや遅れてサラトガを発売した。このエンジンは同じ排気量のGM製に対し20馬力のアドバンテージを誇っていた。
 クライスラー社は1930年代中頃から燃焼室形状、バルブ配置等の研究を進めており、「HEMI」が最も効率が良いと確信していたが、製造コストは高く、量産車に採用したのはクライスラーが最初であろう。1911年にフランスのプジョーがレース用エンジンに採用したのが最も古い記録であろう。
 クライスラー社が「HEMI」エンジンを最初に試みたのは航空機用エンジンであった。1918年に第1次世界大戦が終結したあと、米国陸軍航空隊(U.S. Army Air Corps)の技術開発部門では、液冷航空機エンジンの優位性に着目しはじめていた。1930年代に入ると高性能エンジン開発を本格化し、「ハイパー(Hyper:High-Performance)エンジンプログラム」の一環として、コンチネンタル・アヴィエイション&エンジニアリング社、ライカミング社、ライト・エアロノーティカル社、GMアリソン社、フォード・モーター社などがそのプログラムに参画していた。
 クライスラー社もこの開発プロジェクトは、将来そのノウハウを自動車エンジンに活かせると判断し参画を決定、要求仕様に合ったプロポーザルを提出、1941年6月に開発契約を獲得した。そして開発されたのがクライスラー「HEMI」エンジンの元祖、XI-2220型航空機用エンジンである。このエンジン、当初XIV-2220型と呼ばれており、Xは試作機、IVはInverted V=倒立V、2220は排気量を表している。
液冷倒立V16 2220cid(36408cc) 2300hp、OHCで「HEMI」すなわち半球形燃焼室を持つ。
 このエンジンは開発中のカーチスXP-60C戦闘機に搭載する計画であったが間に合わず、しかも、同時進行していたアリソンエンジン搭載のXP-60A、XP-60Bも失敗し、星型18気筒のプラット&ホイットニー R-2800エンジンに換装してテストを受けたが、要求性能に及ばずカーチスP-60の開発計画そのものがキャンセルされてしまうというハプニングも起こした。
 1943年8月、軍からの要請で、既に1942年3月から量産体制に入っていたリパブリック P-47 サンダーボルト戦闘機2機に搭載することが決定したが、作業は難航し、クライスラー XI-2220エンジン搭載のXP-47Hの初フライトは終戦直前の1945年7月27日であった。しかも、合計飛行時間が18時間に達した時点で、高度5500mを飛行中にプロペラシャフトが折れてしまった。幸い優秀なテストパイロットのおかげで滑空して不時着し、 機体に大きなダメージも受けずに済んだ。この飛行での最高速は計画値の490mphに達したとの資料もあるが、2000年にクライスラーミュージアムから発行された資料によれば414mphに過ぎず、量産型P-47を超えることは出来なかったとある。 この機体は終戦後の1945年11月に修理の上納入。 他の1機も1946年1月に納入されたが、世はすでにジェット機の時代に入り、このプロジェクトが継続することは無かった。

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クライスラー「HEMI」エンジンの元祖「XI2220型」航空機用エンジン。シリンダーブロックはアルミ一体型だが、V8エンジンを2基背中合せにしたような構造を採り、出力軸は中央部から減速ギアを介し、さらに、中空のプロペラシャフトをVシリンダーの間を通して前方に出している。重量は1100kg、全長は3mを超え、機体への取り付けは写真のように出力ギアのある中央部から長いビームによる。合計5基生産され、これはそのうちの1基で、クライスラー博物館に展示されている。

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クライスラー製XI-2220エンジンを搭載したリパブリックXP-47Hサンダーボルト戦闘機。P-47D-REを改造して2機製作された。エンジンが長いため標準型より910mmほど長い。(Photo:USAF Museum Photo Archives)

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1951年2月発売当時、アメリカ量産車中最強を誇ったクライスラー「ファイアパワー」エンジンのカタログ表紙と断面図。「the sensation of the century!」のコピーが付く。低オクタンガソリンでもノッキングせず高出力を得られるとうたっていた。

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クライスラー最初の「HEMI」エンジンである「ファイアパワー」を積んだ1951年型クライスラー・ニューヨーカー。コンペティションでの戦闘能力も高く、数多くの戦績を残した。1951年にはメキシコ縦断3400kmに及ぶカレラ・パンアメリカーナ・ロードレースにおいて、クライスラー・サラトガがストックカークラス優勝、総合でもピエロ・タルフィ、アルベルト・アスカリが繰る2台のフェラーリ212インターに次いで3位でフィニッシュしている。

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1951~52年にかけて、クライスラーは各地で技術展示会を開催したが、これはその時配布された冊子に載った 4キャブレターのK-310用エンジン。プロダクションモデルの出力は180馬力であったが、チューニングによって400馬力+を得ることも可能であった。しかしルマン24時間のような耐久レースには300馬力前後のエンジンが使用されたようである。
 1950年に2台のキャディラックでルマン24時間レースに挑戦したブリッグス・カニンガム(Briggs S. Cunningham)は、その後、クライスラーから「HEMI」エンジンの供給を受け、1951年ルマンに3台のカニンガム・クライスラーC-2Rで参戦、1台が18位で完走した。1952年にはカニンガム自身の操縦するC-4Rが4位に。 1953年にはC-5Rが3位、C-4Rが7位、クーペボディのC-4RKが10位とトップ10に3台入るという好成績を収めた。クライスラー「HEMI」を搭載した最後の年、1954年には2台のC-4Rが3位と5位でフィニッシュした。 しかし米国内ではセブリング12時間はじめ多くのレースを制したが、アメリカ車でルマンを制するというカニンガムの夢は果たせなかった。

●1950年代の広告
 今回はアメリカにおける都市間移動手段のひとつである鉄道の広告を紹介する。第2次世界大戦直後には鉄道はまだ主要な移動手段であったが、1950年代に入ると飛行機にシェアを奪われ衰退していく。ここに取り上げた4点の広告は1950年3月から12月に「コリアーズ」誌に掲載されたものである。

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1950年3月18日号に載ったユニオンパシフィック鉄道の広告。夏休みの予約を取るため、ユニオンパシフィック特製のガイドブックを用意して乗客の獲得を図っている。当時の食堂車の様子が分かるが「in Cool Comfort」とあるように、既に全車エアコン付であった。女性たちのヘアスタイル、服装にも注目して欲しい。

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1950年3月25日号に載ったサンタフェ鉄道の広告。インディアンと思しき少年の関心は壁に貼られたディーゼル機関車にあるようだ。「Super Chief」「El Capitan」「The Chief」など6本の特別列車名と路線図が描かれている。サンタフェ鉄道は西部開拓ルートのひとつであったサンタフェ・トレイルに沿って開発された鉄道で、アメリカの南西部に主要ルートを持っていた。食堂車では上質な食事を提供することで人気のあった「フレッド・ハーベイ(Fred Harvey)」の食事が提供されるとある。

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1950年4月15日号に載ったニューヨークセントラル鉄道の広告。ここでも希望者に無料の休暇ガイドブックを送って乗客の獲得を図っている。「最初から最後まで、ニューヨークセントラルで休暇のくつろぎを満喫できます」とあるように、この頃の鉄道旅行のキーワードは安全、快適、おいしい食事であったようだ。

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1950年12月16日号に載ったニューヨークセントラル鉄道の広告。クリスマス休暇の帰省に夜行列車を勧める広告。家族や子供たち、兄弟、姉妹にギフトとしてチケットをアレンジすることも勧めている。列車名には「20th Century Limited」「Commodore Vanderbilt」「Luxury Coach Pacemaker」など8本が記載されている。

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執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

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