前回は1940年代のアメリカンドリームカーとして3モデルを紹介したが、いずれも1940年代初めのものであった。1939年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻によって、ポーランドの同盟国であった英、仏がドイツに宣戦布告したことで第二次世界大戦が勃発したが、この時点では米国は中立を宣言していた。しかし、英国のチャーチル首相の要請に応じ、1941年3月にルーズベルト大統領は議会で連合国に対する武器貸与法案を可決し、連合国との結束を強めていった。一方、日米の関係は、日本の中国支配、フランス領インドシナへの侵攻などを理由に、通商航海条約の破棄、対日石油禁輸、米・英による日本の在外資産凍結などで日本は経済的に孤立していった。無知で好戦的な政治家、官僚、軍部を押しとどめようとした有能な政治家、官僚も居たであろうが、おそらく平和的解決は弱腰と一蹴され、1941年12月8日、日本の真珠湾攻撃で大東亜戦争(太平洋戦争)に突入し、負けたのである。同じ轍を踏まぬよう心したいものだ。
対日戦に突入した米国では、1942年に民需用乗用車の生産中止令が出され、自動車会社は乗用車の生産を中止して兵器生産に専念することになる。1945年7月に中止令は解除されたが、乗用車の生産再開に当たっては兵器生産から乗用車生産への設備の入れ替えが必要で、更には資材不足、ストライキなどにも悩まされ、回復には時間がかかっている。米国の乗用車生産台数の推移を見ると、1941年型約420万台に対し、1942年型は約115万台に激減し、戦後は1946年型約223万台、1947年型約336万台、1948年型約342万台、1949年型は約524万台と増加し、1950年型は約663万台に達している。
1950年代に入ると自動車各社の活動も活発になり、ビッグ3のGM、フォード、クライスラーからはドリームカーと呼ばれたコンセプトカー、ショーモデルが次々と発表されるようになった。今回はGMから発表された戦後初のコンセプトカー「GM ルセーバー」と「ビュイックXP-300」を紹介する。
戦後、1946年頃から「Y-Job」の後継となるコンセプトカーの製作が考えられてきたが、スタイリング担当副社長のハーリー・アール(Harley J. Earl)は15年後でも新鮮なモデルを考え、ビュイックのチーフエンジニアであった技術担当副社長のチャールス・チャイン(Charles A. Chayne)は、より現実的な10年後でも新鮮なモデルを考えていた。両者の話し合いでは妥協点は見いだせず、解決策として2台造ることになり、「ルセーバー」(コードネームXP-8)をハーリー・アール、「XP-300」(コードネームXP-9)をチャールス・チャインが主導で製作され、1951年に発表された。
「どのようにGMのエンジニアは新しいアイデアを探るか」のコピーを付けて、米国の「コリアーズ(Collier's)」誌1952年6月28日号に掲載されたルセーバーとXP-300の広告。メディアでは「未来のクルマ」と呼ばれ、多くの人々がそれを見るために群がり、いつこのようなクルマを売り出すのかとの質問を受けるが、これは将来のクルマがどのようになるかを正確に示すことを意図するものではない。これからエンジニアとデザイナーたちによって可能性のあるアイデアについてはテストを重ねていくが、今の時点では何とも言えない。ただ、将来これらの機能のいくつかは、生産車に採用されることは約束することができます。と、誤解の無いようドリームカーの立場を紹介している。2車の開発基本コンセプトは快適性を損なわずに高性能車を造ることであった。この当時、高性能車に快適性は期待してはいけないと信じられていたのである。
ルセーバーの初期の写真。ガルウイングバンパー、テールフィンなどはキャディラックに採用された。ルセーバー、XP-300とも世界初のラップアラウンド(GMではパノラミックと称する)ウインドシールドを採用している。ハーリー・アールは1918年にラップアラウンドウインドシールドをデザインに取り入れようと試みたが、当時はガラスメーカーが製作できなかった。今回はGMへのガラスサプライヤーであったリビー・オーエンス・フォード社(Libby-Owens-Ford Co.)との共同開発で1949年に成功した。開発には4年かかかったと言われる。ラップアラウンドウインドシールドとテールフィンは1950年から1960年にかけて大流行となり、コンペティターもこぞって導入した。シボレーを含め、全車にパノラミックウインドーを採用した1955年型のGM乗用車の市場シェアは50%を超えている。
サイズは全長201.87in(5127mm)、全幅79.3in(2014mm)、全高(幌を上げた状態)50in(1270mm)、ホイールベース115in(2921mm)。フレームはクロームモリブデン鋼、ボディーの素材もトランクリッド、カウル、ロックピラー、ドアインナーパネルはマグネシューム鋳物、フード、フロントフェンダー、ドアアウターパネルはアルミニューム板、リアフェンダーにはFRPを使うなど軽量化が図られていた。サスペンションはフロントがウイッシュボーン+ラバートーションスプリング、リアはドディオン+テーパー付1枚リーフスプリング。ブレーキは4輪ともドラムでリアはインボード式。タイヤサイズは8.00×13であった。(Photo:GM)
「実験のための車輪の付いた研究室」のコピーが付いたルセーバーのカタログ。1953年GMモトラマ開催の前に一部改造され、これは改造後のもの。エンジン冷却と室内のベンチレーションのため左右バンパーの上部にエアインテークが追加され、写真では分からないが、フロントフェンダーサイドに装着されたFRP製のフィニッシャーにはエアアウトレットのルーバーが追加されている。更にリアフェンダースカートがおおきくカットされ、ホイールカバーもタービンブレード状のものに変更された。ルセーバーの製作台数は1台であったが、新しい試みのため何度も改造されている。
GMモトラマは1949年(カナダは1953年)から1961年にかけてGMが新型車紹介のために独自に開催した自動車ショーで、米国でのスタートは毎回ニューヨークのウォルドルフアストリアホテルで行われた。1953年は1月のニューヨークを皮切りに、マイアミ、ロスアンゼルス、サンフランシスコ、ダラスと巡回し、6月のカンザスシティーを最後に合計6都市で開催している。
カタログの裏表紙には完成当時の写真が使われている。ステアリングを握るのはハーリー・アールで、ドアに手をかけて話しかけているのはチャールス・チャイン。もう一人はビュイックのゼネラルマネージャー、アイバン・ワイルズ?(Ivan Wiles)ではないだろうか。ハーリー・アールはこのクルマに頻繁に乗っており走行距離は約4万5000マイル(7万2420km)に達したという。現在もGMヘリティッジセンターで健在である。筆者が中学生であった1950年代初めのある日、東京・高円寺の南口通りを青梅街道の方に南下するライトブルーメタリックのワイドで低い超モダンなオープンカーに遭遇したことがあり、ルセーバーではなかったかと思っている。しかし、このクルマが日本へ来たと記録された資料にはお目にかかったことはなく、モヤモヤした気分はず~っと残ったままである。
ルセーバーのエンジン。XP-300にも同じエンジンが搭載されている。新開発のアルミのブロックとヘミヘッドを持つ215.7ci(3535cc)90°V8にディーゼル用に開発したスーパーチャージャーを付けて335馬力を発生した。ベンディックス・エクリプス 2バレルキャブレターを2基搭載し、通常走行ではプレミアムガソリンで走行するが、アクセルを強く踏み込んだ時にはメタノールが供給され、同時にスーパーチャージャーが作動した。圧縮比は10:1。エンジン重量は550ポンド(250kg)であった。ハイドラマチックATは後部のディファレンシャルの前に積まれている。
幌はこのように半開きにすることが可能で、低い車両への乗り降りが快適にできた。また幌を下げた状態で車から離れていても、センターコンソール上にある雨滴センサーに雨が当たると、幌とサイドウインドーが自動的に上がる仕掛けもついていた。シートには設定温度に自動的に調整してくれるヒーターも内蔵している。
四隅に油圧ジャッキを内蔵しており、運転席からボタン一つで操作できた。油圧はパワーステアリング用オイルポンプから供給される。
ルセーバーのテールフィン後端にはテールランプとターンシグナルランプが装着され、中央にはジェットエンジンのノズルを模したブレーキランプが付く。ブレーキランプの照度は周りが暗くなると自動的に落ちる仕掛けになっていた。左右フェンダー内にはそれぞれ容量20ガロン(76ℓ)の軽量ステンレス製燃料タンクがあり、一方にはガソリン、もう一方にはメタノールが充填された。
飛行機の操縦席をイメージしてデザインされたルセーバーの運転席。デジタル式スピードメーター、タコメーターのほか、燃料計、エンジン及びATオイルレベルワーニングランプ、高度計、更にはエンジン及びATオイルの温度まで知ることが可能であった。
上の3点はフランクリンミントから発売された1/24スケールのダイキャストモデル。このモデルではフード先端に装着された2連のヘッドランプを点灯した状態となっている。消灯時は180°回転して隠蔽される。
XP-300を紹介するカタログ。XP-300のボディーはスチール製の骨格にアルミのアウターパネルを組み合わせて造られ、ボディーとクロームモリブデン鋼のフレームは溶接されて一体構造となっている。エンジンはルセーバーと同じスーパーチャージド3.5ℓ V8 335馬力で、トランスミッションはダイナフローATを積む。サスペンションはフロントがウイッシュボーン+トーションスプリング、リアはドディオン+コイルスプリング。ブレーキは前後ともドラムでリアはインボードタイプであった。タイヤサイズは7.10×15。フロントフェンダーからリアフェンダーまで伸びたサイドルーバーは、フロントフェンダーとドアの前1/3はエンジンルームの放熱用で、ドアの後方2/3は室内のベンチレーション用で開閉可能であった。サイズは全長192.5in(4889mm)、全幅80in(2032mm)、全高(幌を上げた状態)53.4in(1356mm)、ホイールベースはルセーバーより1インチ長い116in(2946mm)。車両重量はわずか3125ポンド(1417kg)であった。
1905年型ビュイック モデルCと並んだXP-300。モデルCに乗るのがチャールス・チャインで、もう一人はビュイックのゼネラルマネージャー、アイバン・ワイルズ。XP-300はチャインの運転で最高速度140mile/h(225km/h)に達している。走行距離は約1万400マイル(1万6740km)。1966年にアルフレッド P. スローン ミュージアムに寄贈されている。
XP-300のフードとフロントフェンダーは一体構造で、開閉は運転席のスイッチによって油圧で行われる。パワーウインドー、パワーシートも油圧作動で、シートバックは乗員の体型に合わせて形を変えることも可能であった。現在では気の利いたクルマには当たり前のようについているステアリングのテレスコピック機能も備わっていた。トランクリッドは中央のクロームフィンの下にピアノヒンジが隠されており、これを支点に左右から開閉するというユニークな方式が採用されている。リア中央のジェットエンジンノズル状の中にはシールドビームバックアップランプが装着されている。シート後方にはガソリンとメタノールを入れる2個の燃料タンクが収まる。なお、完成初期にはコンバーティブルソフトトップに加え、「リビエラタイプ」と称したリトラクタブルリアウインドー及び脱着式のハードトップも用意されたが、発表時にはごく普通のコンバーティブルソフトトップのみになってしまった。(Photo:GM)
ところで、1950年ごろのアメリカ人はどんな生活をしていたのか、当時の雑誌広告をいくつか紹介するので想像してほしい。いずれも1950年1月~4月の週刊誌「コリアーズ(Collier's)」に掲載されたものです。
アメリカを代表する清涼飲料といえばコカ・コーラ。しばらく前の朝日新聞に、敗戦後接収されてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)となっていた第一生命館(現DNタワー21)のカフェテリアの壁にコカ・コーラの表示が残っている写真が紹介され、価格もこの広告と同じ5セントとなっていたのを思い出す。コカ・コーラの社史から引用すると、1886年(明治19年)にアメリカ・ジョージア州アトランタで生まれたコカ・コーラは、アメリカ国民の圧倒的な支持を得た。この人気はアメリカ本土に留まらず、海外派兵の米軍兵士たちにも支えられ、世界的なものへと拡大していった。このため、他の清涼飲料水業者が砂糖の配給その他の面で厳しい規制を受けていた戦時体制下のアメリカで、コカ・コーラだけは特権的な立場を与えられており、米軍の転戦に伴って、南極を除くすべての大陸にコカ・コーラ壜詰め工場が次々と建設されていったとある。
日本の敗色が濃厚になった1945年4月1日、米軍は日本本土に先駆けて沖縄本島に上陸。米軍は軍政府の樹立を宣言し、日本政府の行政権を停止して沖縄統治をスタートさせる。沖縄に上陸した米軍兵士に対してもコカ・コーラの供給が行われ、占領直後から壜詰めされた製品がアメリカ本国から続々と搬入されるようになり、コカ・コーラをラッパ飲みする彼らの姿は、沖縄の人々の目に「強いアメリカ」そのものとして映ったという。この供給は沖縄のみならず、本土でも米軍駐留に伴い行われ、敗戦の年の10月、早くも「ザ コカ・コーラ エキスポート コーポレーション(CCEC)」の日本支社が横浜に開設され、北は北海道から、南は小倉にいたる6ヶ所に次々とコカ・コーラ工場が建設された。しかし、それらはすべて米軍関係者だけに供給するためのものであった。
1935年に登場したコカ・コーラの自動販売機は、1950年代には「ハイウエイのホスト」として道路のいたるところに設置されていたようだ。ちなみに、筆者が最初にコカ・コーラを飲んだのは、1950年代の後半に箱根湯本にあった小田急のドライブインで、確か自動販売機で求めたと思う。値段は忘れたが、初めて経験した味でうまいとは思わなかった。しかし、慣れるとやめられない不思議な飲み物だ。コカ・コーラが最初にわが国に輸入されたのは大正時代だそうだ。
ゼニス社のテレビ受像機の広告。アメリカでは1941年にテレビ放送が開始され、戦後は受像機が急速に普及したという。丸型のブラウン管で105平方インチ(直径11.6インチ)の価格が329.95ドル、1950年から1965年の固定相場であった1ドル=360円の為替レートで換算すると約11.9万円。165平方インチ(直径約14.5インチ)の受像機は449.95ドル(約16.2万円)であった。
わが国でNHKがテレビ放送を開始したのは1953年2月で、その前月にシャープから国産第1号の白黒テレビ受像機が発売され、14インチで17.5万円であった。
長距離の移動、特に冬の季節ではクルマより飛行機のほうが神経を使わずに済み安全ですよという、旅客機の普及を促進するための広告。この広告は航空会社ではなく、プラット&ホイットニー航空エンジン、チャンスボート軍用機、シコルスキーヘリコプターなどを生産したユナイテッドエアクラフト社から出されたもの。やがて旅客機による移動が普及すると、長距離鉄道輸送を脅かすことになる。
これはコリアーズ誌1950年4月8日号に掲載された記事で、コリアーズ誌が18都市、5万マイルにわたる調査の結果として、世界最悪の交通渋滞と戦うニューヨークが紹介されている。上段の写真は4レーンの通りの両側に駐車したため2レーンとなったところに、荷物の積み下ろしのためトラックが二重駐車してブロックしている。下段の写真は医者のクルマが駐車禁止の場所に駐車しているが、多くはレストラン、映画館、お店の前である。なかにはドライバーシートに警察官の制帽を置いて、仲間のよしみを利用して摘発を逃れようとする不埒な警察官もいたようだ。
1890年代に昼間は赤旗、夜は赤いランタンを持った人の先導でニューヨークに出現した自動車であったが、いまや3000万人(この頃のアメリカの人口は約1億5200万人)のアメリカ人が車を所有するほどの生活必需品になり「自動車の黄金期」と言われる時代になった。しかし、クルマの普及に伴い、都市における交通渋滞が大きな問題となってしまった。1941年の調査では都市の交通渋滞による経済損失は1日100万ドルと言われたが、今ではマンハッタン島だけで1日100万ドルの損失であろうと記されている。
渋滞の原因はクルマでの通勤者の駐車場が少なく、料金が高いので路上駐車すること。近郊の住宅地やターミナル駅から通勤者を載せたバス、タクシーの流入。荷物運搬用の商用車。更にはご婦人方の買い物で、運転手つきのクルマの二重駐車あるいはご主人待ちの無駄なノロノロ運転をあげている。渋滞問題は1946年ごろには指摘され、駐車場の増設、一方通行、片側駐車、駐車禁止の徹底などのアイデアも出されたが、政治的圧力も加わり、お役所はお金をかけて調査を繰り返すだけで、一向に先へ進まないと嘆いている。