<世界をリードしたアメリカ車の時代>
1950年代は戦後の自動車の歴史の中で「アメリカ車」が最も輝いていた時代だ。ビッグ・スリーと言われた「ジェネラル・モータース社」(キャディラック、ビュイック、オールズモービル、ポンティアック*、シボレー、)、「フォード・モータース社」(リンカーン、マーキュリー*、フォード)、「クライスラー・モータース社」(クライスラー、デソート*、ダッジ、プリマス)を筆頭に「パッカード」「ハドソン」「スチュードベーカー」「ナッシュ」「カイザー/フレーザー」「ウイリス・オーバーランド」「クロスレー」など、昔を知る人には懐かしい名前の中小メーカーが多数存在して、それぞれが個性豊かな車を世に送り出していた。デザイン的にも四ッ目ヘッドライトの採用、テールフィンの発生、派手なテールライトのデザイン、2トーン/3トーン塗り分け、ハードトップの出現など、デザインのオリジナルはヨーロッパ生まれだったとしても、大量生産して世に広めたのはアメリカ車の功績だ。
<アメリカ車の車名>
「ビッグ3」は傘下に幾つかの「メーカー」(ディビジョン)を持つ集合体で、「ビュイック」もその一つである。それらの多くは、かつては独立メーカーとしてそれぞれに創立者が居り、会社としての歴史を持っていた。そしてどこかが母体となって、合併が繰り返され次第に大きくなっていった。しかしディビジョンの中でもGM社の「ポンティアック」、フォード社の「マーキュリー」、クライスラー社「デソート」は例外で、空白の中間車種を埋めるため新たに作られたディビジョンだ。しかし50年代に入って競争が激しくなると共に車種が増え、「車名+モデル名」で呼ばれるのが普通となって行き、その中の幾つかは「モデル名」から「車名」に昇格したものもある。クライスラー・インペリアルは完全に転身した例だが、ビュイック・リビエラ、ポンティアック・テンペストなど資料によって扱いの異なる物もある。又、時代の要求と共に新しい分野の車種が生み出され、当然新しいモデル名が作られていく。GM社で言えば「スポーツカー「コルベット」、コンパクトカー「コルベアー」インターミディエイト「シェビーⅡ」などである。
<ビュイックの歴史>
創立者はスコットランド系アメリカ人「デヴィッド・ダンバー・ビュイック(David Dunber Buick )」(1854-1929)で、学校を卒業したあと配管業者に就職し、その間に「スプリンクラー」や「塗料の吹き付器」などを発明する他、鋳鉄製のバスタブを白いエナメルで塗装する方法(ホーロー加工)など次々と新しい技法を開発してゆく。1890年代には配管業の仕事の僅かな時間を見つけて「エンジン」の実験を始め「バルブ・イン・ヘッド」(OHV)を完成させたが、共同経営者と折り合いが付かず、1899年、新たに農作業用と船舶用エンジンの開発をするため「Buick Auto-Vim and Power Co.」を設立したがすぐに目的を自動車メーカーに変換し、1902年には試作車が完成する。その年「エンジンを他社に売り込む事」と、「ビユイック車の製造販売」を目的とした「Buick Manufacturing Co.」を設立したが資金難で、「ブリスコー兄弟」の資金提供を受け*1903年5月資本金75,000ドルで「ビュイック・モーター・カンパニー」(Buick Motor Co.)となったがブリスコーはその年の内に地元の三大馬車メーカーの一つである「フリント・ワゴン・ワークス」の経営者「ジェームス・H・ホワイティング」に売却、1904年1月「ビュイック・モーター・カンパニー・フリント」と再度社名が変わる。(*GMでは1903年5月を「Buick」の誕生としている)1903年「ビュイック」最初の市販車「B型」がやっと発売されたがこの年は16台、翌1904年が37台では到底先の見通しは立たず、そこで関係者が協議した結果、地元の馬車業者で年間5万台もの実績を持つ敏腕経営者「ウイリアム・C・デュラント(William Crapo "Billy" Durant)」(1861-1947)の助けを借りるしか無いとの結論に達する。当初自動車の将来に疑問を持っており乗り気でなかったデュラントを何とか説得して承諾を得た。1903年11月1日デュラントは資本金を7万5千ドルから30万ドルに増やし総支配人に就任し、半月後の11月15日には更に増資して50万ドルとなる。デュラント個人はこの段階で32万5千ドル分の株主となった。更に翌1904年一気に1500万ドルと30倍の増資を行い、強気の方針を打ち出す。「デュラント-ドート社」が大半を引き受けたが、地元の一般家庭にも積極的に株を売り込み地元の関連を密にしている。「アイデアと技術」が取り柄のエンジニア集団で商売下手だったビュイック達に対して、「物造り」とは無縁だが、「組織づくり」と「販売システム」は馬車屋で充分の実績を持っているデュラントの経営方針は、「大量販売」が大原則だった。その為に、既に確立している「馬車販売網」をそのまま「ビュイック」の販売に利用し全国ネットの販売を始めた。宣伝活動にも力をいれ「大陸横断」や「各地のレース」にも積極的に参加したり、ニューヨークで開かれたモーターショーにも出展し好評を得た。1905年には馬車会社の関連施設を「ビュイック・ジャクソン工場」として「C型」の量産を始める。その結果この年725台、1906年には1400台を販売した。こうして軌道に乗り始めたデュラント方式に対してはデヴィッド・ビュイック達が提案する数々の改良案はかえって効率を妨げるものであり、又より強力なエンジンを開発するために外部から人を雇い入れるなど、「デヴィッド・ビュイック」のエンジニアとしての存在する意味がなくなっていた。そして遂に1906年10万ドル(現在の300万ドル相当)と引換えに52才で自分の名前の付いた会社を去る事になる。1907年には総販売台数は4541台でフォードに次いで第2位だったが1908年には8,820台で第1位となった。1908年9月GM社設立。・
<顔の変遷>
アメリカ車は1930年代からは原則として毎年モデルチェンジをするのでその顔も年々変化を続けて来た。その中でも「ビュイック」は1939年から57年までの18年間は独特の「凸型」をモチーフを一貫して使い続けているので年々変化する姿をお楽しみ頂きたい。
1908.........................................1937........................................1938..............................
1940 .......................................1940........................................1942..............................
1946........................................1949........................................1950..............................
1952........................................1953........................................1954..............................
1955........................................1956.........................................1957.............................
1958.........................................1959........................................1960.............................
1961........................................1962........................................1963..............................
1964........................................1965........................................1966..............................
1967........................................1968........................................1969..............................
<創世期>
最初の市販車は1904年の「Model B」とされているので、それ以前に作られたものが「A型」かもしれないが「First Buick」とされる写真に「A型」とは書かれていない。
(08-1ab) 1908 Buick Model F Touring (2011-11-26 明治神宮絵画館前)
写真の車は毎年秋の恒例となっている「トヨタ博物館クラシックカー・フェスティバル」で撮影したもので勿論博物館のコレクションの1台である。1904年の「B型」から市販を始めたビュイックは、1908年には4種類のエンジンで「F]「G」「D」「S」「10」「5」の6種のモデルを揃えている。「F」型は2気筒SV 2606cc 22hpで3281台作られたこの年のヒット・モデルである。既にデュラント方式による大量生産方式が始まっており、創設者「ビュイック」は、この年会社を去っている。
(37-1ab) 1937 Buick Century(Series60) 4dr Sedan (2010-11-27 明治神宮絵画館前)
ビュイックは1920年代から30年代前半のモデルを国内で撮影された資料は少ない。僕自身も1937年まで撮影していない。この車はトヨタ博物館の車で、「ビュイック」としてでは無く、第2次大戦中ガソリンの代わりに木炭を使って走らせる「代用燃料車」(通称代燃車)に改造された車の見本として常設展示されている車だ。V8で5247ccの排気量からシリーズ60(Century)と推定した。木炭自動車の馬力はどの位か興味の有る所だが説明されてあった出力130hpはガソリンエンジンの資料と同じなので、多分木炭車では測定されていないのだろう。
(38-1a) 1938 Buick Special(Series40) 4dr Touring Sedan (1959年 桜田門・警視庁)
30年代を代表する縦型のグリルとしては最後の年で、1938年は昭和13年に当たり、戦前最後の輸入車だった。ビュイックのデーラー「梁瀬」でかなりの量を入れ、それが「宮内庁」や「警視庁」などお役所関係に納められたので、戦後も昭和30年頃まで大切に使われていた。写真の場所は改築前の警視庁で、正面入口の左脇をちょっと入った通路の奥に停まっていた。のこのこ入っていったが正面で立ち番していた警備の警官からもなにも咎められなかったのは世の中が今ほど物騒ではなかったからだろう。
(38-2a) 1938 Buick Special 4dr Touring Sedan (1957年 静岡市内・呉服町通り)
車のナンバー・プレートは2段書きとなる以前で「靜3-○○○○」と横一列の時代だ。柳並木だが銀座通りではない。場所は静岡市内で、昭和30年代はまだ和服が特別の装いではなく、日常普段着のご婦人も沢山居た。後の女の子のセーラー服も最近はあまり見られなくなった。
(39-1ab) 1939 Buick Century(Series60) 2dr Sport Coupe (1998-01 フロリダ州オーランド)
この年からビュイックを象徴する「凸型」のグリルが市販車に採用され、このあと1957年まで17年間の長いあいだ同じテーマが使われた。デザインは1938年発表されたドリームカー「Y-Job」をベースに市販化されたものでデザイナーは「ハリー・J・アール」だ。場所はフロリダ州オーランドで、今から17年前息子がウオルト・ディズニー社でアーチスト育成教育を受けていたのに便乗してフロリダまで遊びに行った際見つけた、地元の愛好家が集まるイベントだった。
(40-1ab) 1940 Buick Special (Series 40) 4dr Touring Sedan (1960年 羽田空港駐車場
)
羽田は成田が出来るまでは唯一の国際空港だったから高級車や珍しい車が沢山集まる場所で、何回も足を運んだ。写真の車は1940年型で翌年は太平洋戦争が始まった昭和16年なので日米間の関係は緊迫しており、自動車の正規輸入は出来なかった筈だ。ナンバーの「た行」は官公庁の車なので、戦後在日米人から中古車を購入したとは考えられない。とすれば、開戦直後の日本軍が破竹の勢いで勝ち進んでいた頃にフィリッピンあたりでアメリカ軍が撤退したあと戦場から接収してきた物かもしれない。
(40-2ab) 1940 Buick Century(Series60) 2dr Sport Coupe (1998-01 フロリダ州オーランド)
この年からビュイックはヘッドライトが完全に埋め込まれスタイルの上で一つの大きな変換を遂げた。この車もフロリダで撮影したものだが、地元のローカルイベントはショッピングモールの裏の一角に50台位が集まったもので、改造車もあったが、古い車は横にいるのがお爺さんやお婆さんが多く、多分若い時からずっと大切に乗ってきたワンオーナーカーだろう。
(42-1ab) 1942 Buick Special (Series40B)4dr Estate Wagon (1999-08 カリフォルニア州)
1942年は戦前としては最後の年で、この年の「ビュイック」は、戦後僕らが新車として見慣れたスタイルがもうすっかり完成している。場所はカーメルにあるゴルフ倶楽部「クエール・ロッジ・リゾート」で開かれる「コンコルソ・イタリアーノ」の会場で撮影した。アメリカを代表する「ステーションワゴン」は語感から「駅馬車」を連想するがあちらは「ステージコーチ」で、「ステーションワゴン」は近くの駅までちょっと荷物を取りに行ったりする目的の馬車だった。昔は本物の木で作られており木目もあってとてもいい感じだ。
(46-1ab) 1946 Buick Super(Series50) 4dr Sedan (1958年 静岡県庁周辺)
1943~45年は 兵器生産のため乗用車は造られていないので、42年型に続くのは戦後初の1946年型のこのモデルになる。シリーズは40(スペシャル)、50(スーパー)、60(ロードマスター)の3種で、46年型といっても発表は45年秋には行われるので8月の終戦から僅かしかたっておらず、戦前の42年型に少々の手直し加えたものだった。しかし「スーパー」と「ロードマスター」はフロントフェンダーが緩やかに下がってリアフェンダーに続く「Airfoil」と呼ばれるスタイルを取り入れている。
(47-1ab) 1947 Buick Special (Series40) 4dr Sedan (1957年静岡県庁車庫)
戦後の1946年から49年までは廉価版「スペシャル」(シリーズ40)だけは戦前の1942年型と同じプレス型を使ったフェンダーが後ろまで流れないスタイルだった。47年型と48年型は同じグリルなので区別されない資料が多いが、「スペシャル」シリーズではボンネットからボディの後部までモールの入っているのが48年型なので入っていない写真の車は1947年型である。
(49-1ab) 1949 Buick Super (Series50) 4dr Sedan (1957 年 静岡市内)
この年からキャビンが車幅いっぱいの「フルウイズ」ボディーとなり、戦前のスタイルに別れを告げた。このタイプのアメリカ車としては1949年の「フォード」が最初のように思われているが実は1947年の「カイザー/フレーザー」が最初で、48年には「パッカード」「ハドソン」がこれに続いた。GM系列も同じ発想ではあるがフェンダーのイメージが捨てきれず、特にリアフェンダーは長く残された。この年からビュイックの大きな特徴となったボンネットの横の丸い穴(ベンチポート)が始まった。数は「ロードマスター」が4つ、「スーパー」が3つなのでこの車は「スーパー」と判る。
(50-1ab) 1950 Buick Special Deluxe (Series40) 4de Touring Sedan(1958年 静岡市内県庁付近)
この年で一番目立つのは何と言っても自動車史上「空前絶後」のこのラジエター・グリルだろう。個人の気マグレならいざ知らず、天下のGMが量産車のこのデザインでOKを出したということは、当時のアメリカは日の出の勢いで怖いもの無しだったのか。英国人はちょっと皮肉をこめてこのグリルを「ドルの笑い」と呼んだ。他に「ナイヤガラの滝」などとも言ったが、本家アメリカでは「Buck-tooth」(出っ歯)と呼ばれ、あまり評判は良く無かったようだ。ボンネットの穴が3つでフロントガラスが2分割なのは「スペシャル」で、サイドのモールがあるので「デラックス」と判る
(50-1c) 1950 Buick Super (Series50) 4dr Sedan (1962-04 港区 田町駅付近)
場所は毎年お正月に箱根駅伝のランナーが駆け抜ける国道1号線の田町駅付近で車は品川から東京方面へ向かっている。建物も古臭いが、走っている車もいかにも「昭和」を感じさせ懐かしい。都電の敷石もかなり荒れているが、こんな悪路を物ともしないトヨペット・スーパーのような足腰の強い「神風タクシー」を育てた一因でもある。
(51-1a) 1951 Buick (1959-11 梁瀬モーターショー/港区芝浦)
1947年からずらりと並んだビュイックは、ここに見えるだけでも52年まで6台写っているが、59年まで揃っていた。当時は「メルセデス・ベンツ」「ビュイック」「フォルクスワーゲン」「ヴォクスホール」を扱っていた。東京に転勤したばかりだったが、勤務先が慶応大学の近くで、「梁瀬自動車」もお取引先だったのでご招待頂いた上司にお供して連れて行ってもらった。
(52-1ab) 1952 Buick Super (Series50) 4dr Riviera Sedan (1957年靜岡市紺屋町中島屋旅館前)
写真は初めて登場した「リビエラ」の4ドア・セダンだ。「リビエラ」と聞けば有る年齢より上の方なら、どこぞのナイトクラブを思い出すかもしれないが、それもその筈でビュイックの中でも一番お洒落で遊び心の有る車に付けられたネーミングだ。1949年ロードマスターの2ドア・ハードトップを「リビエラ」と呼んだのが最初で、そのあとは2ドア・ハードトップのことを総称して「リビエラ」と言っており、モデル名にも末尾に「R」と付記されている。ところが1952年になって4ドア・セダンにも「リビエラ・セダン」が登場した。写真では良く判らないが「リビエラ」を名乗るからにはサイドウインドウを下げた時はセンター・ピラーは無くなるのだろうか。但しモデル名に「R」は付いていない。この年のクロームラインはビュイックのデザイン史上で最大の面積があり思い切り大胆なデザインだが、上手く調和しており目障りではない。
(53-1ab) 1953 Buick Super (Series50) 4dr Riviera Sedan (1981-05 筑波サーキット)
この車はグリルは53年型だが、それ以外は殆ど前の車(52年型)と同じで、モデル名も同じ「52」でボディスタイル番号が「52-4519」から「53-4519」と変わっただけだ。アメリカ車は毎年モデルチェンジをするとは言え、フルチェンジは3年目くらいで、途中は「マイナー・チェンジ」でお茶を濁していた。
(53-2a) 1953 Buick Special (Series40) 2dr Convertible (1961-03 港区芝三田四国町/桜田通り)
この写真は昭和天皇が羽田空港へ向かっている所で、先行する警視庁の白バイに続いて、宮内庁の先導車 → 護衛のサイドカー(側車が左右異なる2台)→ 御料車(この時はロールスロイス・シルバーレイス) → 護衛のサイドカー(2台)→ 倶奉車、と本格的な隊形である。来日した外国要人を送迎するときも宮内庁から差し向けられるが要人の重要度によって略式の時はサイドカーは入らない。後方に東京タワーが見えるこの場所は赤羽橋から慶応大学下へ向かう桜田通りで、僕の勤務先の前の通りだから非常に都合が良かった。
(54-1abc) 1954 Buick Super (Series50) 2dr Riviera Coupe (1957年 静岡市紺屋町・江川町通り)
ビュイックはこの年デザイン上で革新的な変化を見せた。それは前年キャデラック・エルドラドで採用した垂直に立ったフロントピラーによる「パノラミック・ウインドー」(GMではラップアラウンドといった)を全車に採用した事だ。これはデザインの為よりも、むしろ機能として有効で、カーブを曲がるときにピラーが邪魔だと思ったことが無い人は居ないだろう。それが証拠には翌年はごく一部を除いてアメリカ車の殆どがこのスタイルになってしまった。しかし何故か1961年から又元の形に戻ってしまったのは残念だ。写真の車は2ドアのハードトップでこれぞ本物の「リビエラ」だ。3段塗り分けはお洒落で、繊細なグリル・パターンもビュイックの中で一番好きな年式だ。
(55-1abc) 1955 Buick Super (Series50) 2dr Convertible (1957年 静岡市紺屋町・中島屋旅館前)
この年からシリーズは今までの3つから一気に6つに増えた。下から40(スペシャル)、50(スーパー)、60(センチュリー)、70(ロードマスター)、100(スカイラーク)だ。四つ穴は「ロードマスター」の象徴だったが1955年からは「センチュリー」「スーパー」も四つ穴となり、三つ穴は「スペシャル」だけとなった。(「スカイラーク」には穴はない。)コンバーチブルの幌を上げた時は斜め後姿が一番だが、写真の車は後ろに背負ったコンチネンタル・スタイルのスペアタイヤが良く似合う。標準装備ではないが勿論純正のオプションだろう。ホイールベースが127インチもあり、かなり大きい車だが間延びした感じは全く無い。サイドのクロームラインも見事なバランスで、見ていても惚れ惚れしてしまう美しさだ。
(55-2a) 1955 Buoick Century (Series60) 2dr Riiera Coupe (1961-11 港区内)
この年から新しく加わった「センチュリー」シリーズで、ランクは「スーパー」と「スペシャル」の間に入る。実態は廉価版「スペシャル」のボディに、「スーパー」と同じ強力なエンジン(5275cc 236hp)を乗せたもので、ハイパワーなのでベンチポートは四つあるが、パーキングランプがヘッドライトに組み込まれておらず独立しているのは「スペシャル」と同じボディである事を示している。当時の道路事情は今よりずっと渋滞が激しかった。
(55-3ab) 1955 Buick Special (Seriez40) 4dr Sedan (2007-06 フェスティバル・オブ・スピード)
この年グッドウッドのフェスティバル・オブ・スピードでは特別企画「 ボンネビル・スピード・ウイーク」と称して、速度記録に挑戦したレコードブレーカーが展示されていたが、その脇にこの車が置かれていた。あまり気にもしていなかったが、今回ここに取り上げるにあたって「Wendover County Sheriff's Department」と書かれている場所は何処だろうと調べてみて、この車が置かれていた意味が判った。「ウエンドーバー」という町はユタ州のグレートソルトレークを真っ直ぐ西に向かって100キロ(といっても何もない砂漠だから1時間もかからない)行ったネバダ州との州境えにあり、「ボンネビル」のコースはこの警察署の管轄だったのだ。
(55-4a) 1955 Buick Special (Series40) 2dr Riviera Coupe (1957年 中央区銀座)
写真の車はビュイックの中では一番下のクラス「スペシャル」だが、廉価版とはいえ3段塗り分けの「リビエラ・クーペ」はさすがにお洒落だ。顔つきは一つ上の「センチュリー」と全く変わらず、ベンチポートが3つしか無いのがこのシリーズの特徴だ。エンジンはV8 4325cc 188hpもあり決して非力ではない。
(55-5ab) 1955 Buick Special (Series40) 4dr Riviera (1990-07 アメリカン・ドリームカー・フェアー/幕張メッセ)
1955年型の最後はスペシャル・シリーズの4ドア・リビエラだ。現代の表現では「4ドア・ハードトップ・セダン」となるが、この時は「リビエラ」=「ハードトップ」として使われている。2ドアだけでなく4ドアもセンター・ピラーの無いタイプは「リビエラ」で全シリーズに設定されていた。
(56-1ab) 1956 Buick Special (Series40) 2dr Riviera (1958年 静岡市紺屋町)
この年はマイナーチェンジの年で、イメージはそのままグリルの幅が少し広がり中央のバッジがひと回り大きくなった。この車はよく見ると後ろに「SCCJ」(スポーツカークラブ・オブ・ジャパン)のシールが貼ってあるので静岡市内にもメンバーの方が居たんだ、誰だったんだろうと、判る筈がないのにちょっと考えてしまった。車の前にリヤカーの半分が写っているが、まだまだ十分現役で活躍していた。
(57-1a) 1957 Buick Super (Series50) 4dr Riviera Sedan 1959年 港区赤坂溜池)
写真の車は赤坂溜池の「日英自動車」の向かえ辺りで見つけたもので、正面がガラス戸のショウルームのような車庫に入っていた。これは米兵が中古車として日本人に売ることが出来る2年後まで、走らせないでじっと保管されている状態だそうで、となりの「キャディラック」も同じ運命のようだ。
(57-2abc) 1957 Buick Supe (Series50) 2dr Riviera Hardtop Coupe (1962-04 渋谷駅付近)
1957年になるとビュイックは50年代最後の「完成品」を発表した。55年、56年と進化してきたグリルは、この年になって往年の縦バーが復活し、しかも非常に細い繊細なパターンは上品で好ましい。この年はシリーズ名がトランクの後ろにはっきりと表示してあり判り易い。雑多に駐車している車の中に左後ろには珍車「スコダ」も停まっている。
(57-3abc) 1957 Buick Roadmasuter (Series70) 4dr Riviera Sedan (1961-11 羽田空港駐車場)
この年の「ロードマスター」はややこしい。去年までは「70」だけだったシリーズに、新たにアップグレードされた「75」が加わった。「70」シリーズはコンバーチブル以外は全部ピラーレスの「リビエラ」仕様となってしまい、2種有る4ドアはモデル・ナンバー「73」と「73A」に分かれる。写真の車はリアウィンドが3分割されているので「73」で、「73A」はワンピースである。(一つ前の「スーパ-」の項参照)
(57-4a) 1957 Buick Special (Seriea40) 4dr Riviera Sedan (1961-11 羽田空港駐車場)
「ロードマスター」と同じ角度で捉えた「スペシャル」の後ろ姿。このシリーズは全部が3分割リアウインドでワンピースはない。屋根に映り込みがないので一見レザー・トップの様にも見えるが、前の車も同じように見えるので天候のせいだろう。
(58-1ab) 1958 Buick Special (Series40) 4dr Sedean (1959年 羽田空港駐車場)
1958年はフル・モデルチェンジの年で、今までのビュイックの最大の特徴だった1939年から19年も続いていたあの「凸型」から進化してきたグリルは全く消え去ってしまった。それと並ぶもう一つのトレードマーク、ボンネット横の「ベンチポート」も見当たらない。どうしたんだ!と思わず口走りそうだ。その所為かどうか、前年の総売上台数404,039台に対して240,837台と約6割まで落ち込んでいた。この年スタイリング・チーフがハーリー・アールからビル・ミッチェルの変わっている。
(58-2ab) 1958 Buick Century (Series60) 2dr Riviera Coupe (1998-01 フロリダ州オーランド)
この年「キャディラック」も同じようなモチーフのグリルに変わったが,あまり異和感がなかったのはかなりの面積をバンパーが覆(おお)っていたからだ。このビュイックは全面が全てむき出しでしかも中の光り物がキャディラックは丸型だったのにビュイックは四角だったから余計に目立った。しかしこのアイデアは翌年の1959年型「フォード」がそっくり頂いた。光り物は「星型」に変わっていたが「ギャラクシー」シリーズにはぴったりだった。
(58-3ab) 1958 Buick Limited (Series700) 4dr Riviera Sedan (1961-03 横浜港・大桟橋)
その昔、「レイモンド・ロウイ」がデザインしたシンプルなフォルムの1953年「スチュードベーカー」に、これでもかという程クロム・トリムを付けまくって改悪した例を知っているが、この車も究極のクロームずくめだ。グリルに埋め込まれた四角いチップは何と合計で160個もあり、リアのテールランプ周りもガラスが見えないほどクロームで固められている。リアフェンダーのロケット型トリムのなかの15本の縦のライン、トランクの後ろにも2本の横ラインと、ありとあらゆる場所をクロームのラインで埋め尽くしている。しかしこのオーバーデコレーションはこのシリーズだけで、「スペシャル」の4ドアが2,660ドルに対して、この車は5,112ドルもするからこの位サービスしたくなるのだろう。
(59-01ab) 1959 Buick Electra 225(Series4800) 2dr Convertible (1985-01 神宮外苑・明治公園)
1950年代はアメリカ車が年ごとに派手なデコレーション競争をしていた時代でその頂点は1959年だった。GMグループでは「キャディラック」と「シボレー」のテールフィンが特に話題となり印象に残る物だったが、両者共派手なのは後ろ姿だけで前は普通だった。しかしこの「ビュイック」は前後共に「普通」とは言えない華やかさだ。
(60-1ab) 1960 Buick Electra 225 4dr Hardtop (1960年 港区芝公園)
この年からシリーズが改変され、従来の「スペシャル」(40)が「ルセーバー」(4400)、に、「センチュリー」(60)が「インビクタ」(4600)に、「ロードマスター」(75)が「エレクトラ」(4700) に変わり、最上級に「エレクトラ225」(4800)が新設された。(これはあのクロームだらけの「リミテッド」の後継では無く「エレクトラ」のデラックス版となる)1949年以来続いていた「ベンチポート」は、見せかけだけだがまた復活したのは伝統を懐かしむ声が多かった為だろう。後方に東京タワーの足元が見えるここは赤羽橋交差点のガソリン・スタンド(芝公園給油所)で、この車も何処かの領事館のナンバーだが、飯倉の坂の上には当時は「ソ連」の大使館があり、珍しい「ZIM」もここで撮影した事があった。
(61-1abc) 1961 Buick Electra 225 (4800) 4dr Riviera Sedan (1961年 千代田区皇居外苑和田倉門)
1961年に入ると去年までの、デザインの為のデザインとも言える奇抜な発想は影を潜め、どちらかと言えばオーソドックスで常識的な、という事は平凡で特徴の無いスタイルになってしまった。前から見ても何処にもビュイックの「DNA」は見出だせない。写真のサイドビューでは、四つ穴のベンチポートがあるのでそれとわかるが、これが無ければ判断に迷ってしまう。先端がロケットの頭のようなデザインは58年のリアフェンダーを引き継いだものだろうが、その後フォード社の「サンダーバード」で使われたモチーフにも似ている。去年まではサイドまで廻り込んで居たフロントガラスは異常に曲がった柱のため殆ど回り込みが無くなってしまったのは残念だ。
(62-1ab) 1962 Buick LeSabre (Series4400) 4dr Hardtop Sedan (1962-04 世田谷区二子玉川園)
1960年代に入ってからは、これといって特徴が掴めないほど、当たり前の形になってしまった。僕が街中であまりアメリカ車の写真を撮らなくなったのは、路上駐車している車が少なくなったからだけでは無く、車の形そのものに個性が感じられなくなって魅力を失ってしまったからだ。写真の車にしてもグリルにビュイックらしさがある訳でもないし、ボデーのプレスラインも平凡で、あの50年代の強い自己主張を持った魅力的なスタイルは何処へ行ってしまったのだろう。
(63-1ab) 19632 Buick Special (4000) 4dr Sedan (1965年 エンパイア・モータース/虎ノ門)
1960 年ビッグ3各社から一斉に「コンパクトカー」が発売されたが、ビュイックにはコンパクトカーは設定されなかった。1961年からは「コンパクトカー」と「フルサイズ」の間を埋めるスモールカー「インターミディエイト」として「ビュイック」では「スペシャル」と「スカイラーク」が誕生し、フルサイズとは全く関係のないデザインのグリルやテールランプで区別している。
(64-1ab) 1964 Buick Skylark (Series4300) 4dr Sedan (1965年 虎ノ門)
正面のビルは「三井船舶」(現商船三井)で、右側は虎ノ門病院の前、その病院の後ろ隣がアメリカ大使館ということもあってこの周辺の道路にはアメリカ車を始め色々な車、特に年式の新しいいアメリカ車がいっぱい路上駐車していた。だから毎週土曜日午後の定期巡回コースだった。後ろ姿の車の前方のビルは「東京特許許可局」(現特許庁)。
(65-1abc) 1965 Buick Electra 225 (Series48200) 4dr Hardtop Sedan (1966-05 立川市内)
ずっと以前、山本直純さんの出ているCMで"大きいことはいい事だ!"というのがあった。この車が丁度その頃だったかはさだかで無いが、見た目が実に大きい。実際にもホイールベースが126インチ(3.2メートル)、全長が224.1インチ(約5.7メートル)もある巨大な車だ。横から見るとボンネット1対キャビン1対トランク1の割合なので、後ろから見るとトランクが異常に長く、丁度クーペかピックアップのような印象を受ける。写真をよく見ると屋根の上に荷物を積むためのキャリヤーが付いている。こんな高級車には場違いの感じもするが、生活の匂いも伝わってくる。それにしても、こんなに大きなトランクを持ちながらこの上なにを積もうと言うのだろう。
(65-2ab) 1965 Buick Skylark (44400) 4dr Sedan (1969-11 東京オートショー駐車場/晴海)
(66-1a) 1966 Buick Electra (48200) 4dr Hardtop Sedan (1965-11 東京オートショー/晴海)
この年のビュイックのラインアップは、スモールカーの「スペシャル」「スカイラーク」系を除いて、下から「ルセイブル」、「ワイルドキャット」、「エレクトラ225」の3つと、それぞれに上級モデル「カストム」があり、最上級に「リビエラ」がある。この当時のアメリカ車はオートショーでの撮影が多く、街で撮影する機会が殆ど無くなった。画一的なアメリカ車が僕にとってあまり魅力的では無くなって、オートショーで義務的に撮っていた時代だ。
(66-2a) 1966 Buick Riviera (49400) 2dr Sport Coupe (1965-11 東京オートショー/晴海)
1962年まではハードトップの代名詞のように使われて、ボデーのタイプを示す名称だった「リビエラ」が、1963年からはシリーズとして独立した。それは「スポーツ・クーペと呼ばれるタイプがひとつしか無く、あえて呼び名を「ハードトップ」とは言わなかった。そして今まで各シリーズのハードトップに付いていた「リビエラ」の名称は使われなくなった。
(67-1ab) 1967 Buick Electea 225 (48200) 4dr Hardtop Sedan (1969-11 東京オートショー)
(67-2a) 1967 Buick Electra 225 (48200) 4dr Sedan (1966-11 東京オートショー/晴海)
(67-3a) 1967 Buick Skylark GS400 (44600) 2dr Hardtop Coupe (1966-11 東京オートショー)
(68-1ab) 1968 Buick Electra 225 (48200) 4dr Hardtop (1967-11 東京オートショー/晴海)
(68-2ab) 1968 Buick Gran Sport GS400 2dr Hardtop Coupe (1967-11 東京オートショー)
(68-3ab) 1968 Buick Special Deluxe (43300) 4dr Sedan (1967-11 東京オートショー/晴海)
(68-4ab) 1968 Buick Riviera (49487) 2dr Sport Coupe (1968-11 東京オートショー/晴海)
(68-5ab) 1968 Buick Skylark Custom(44400)4dr Hardtop Sedan (1969-11 東京オートショー)
(69-1ab) 1969 Buick Gran Sport GS350(43437)2dr Sport Coupe (1969-11 東京オートショー)
(69-2ab) 1969 Buick Gran Sport GS400 2dr Hardtop Coupe (1969-06小金井免許センター付近)
(69-3ab) 1969 Buick Gran Sport GHS400) 21dr Convertible (1968-11 東京オートショー)
(69-4ab) 1969 Buick Skylark Custom 4dr Sedan (1968-11 東京オートショー/晴海)
(69-5a) 1969 Buick Wildcat Custom (Series46600) 4dr Hardtop (1968-11 東京オートショー)
(69-6a) 1969 Buick Electra 225 Custom (48400) 4dr Sedan (1968-11 東京オートショー)
(70-1ab) 1970 Buick Skylark Custom(44400)4dr Hardtop Sedan (1969-11 東京オートショー)
(70-2ab) 1970 Buick Gransport GS 455(6600) 2dr Hardtop (1969-11 東京オートショー)
(70-3ab) 1970 Buick Lesabre (45200) 4dr Hardtop Sedan (1969-11 東京オートショー/晴海)
(70-4ab) 1970 Buick Wildcat Custom (46600) 4dr Hardtop Sedan (1969-11 東京オートショー)
(70-5ab) 1970 Buick Electra 225 Custom 4dr Hardtop Sedan(1969-11 東京オートショー)
(70-6ab)1970 Buick Riviera (49400) 2dr Hardtop Coupe (1969-11 東京オートショー/晴海)
(75-1abc) 1975 Buick Skylark SR 2dr Landau Roof Sedan (1977-01 東京オートショー駐車場)
(75-2a) 1975 Buick Skyhawk 2dr Hatch Back Coupe (1977-01 外車ショー・中古車館/晴海)
(77-1a) 1977 Buick Skylark 4dr Sedan (1977-01 外車ショー/晴海)
77-2a) 1977 Buick Regal 2dr Landau Roof Sedan (1977-01 外車ショー/晴海)
(77-3a) 1977 Buick LeSabre 4dr Sedan (1977-01 外車ショー/晴海)
(77-4a) 1977 Buick Electra Limited 4dr Sedan (1977-01 外車ショー/晴海)
初めてのアメリカ車「ビュイック」が終わった。最後の方はモーターショーで撮った写真が多く、風景が無いのでつまらないが、僕自身がアメリカ車に対して情熱を失って街中で積極的に行動して居なかった結果です。次回から「B」項最後の「ブガッティ」に入ります。「フェラーリ」と並んで僕が一番力を入れて撮っている車なので何回で終わるか予想がつきませんが......。