(1)<501>
BMWの戦後は1952年の「501」からスタートした。1947年から再開したメルセデスからは5年遅れだったがそれには厳しい現実があった。戦後、アイゼナッハ工場は東ドイツ領となりソ連に接収され、アラハ工場はアメリカ軍の修理工場となり、ミュンヘンのミルバートショーフェン工場は機械、図面を含む全てが賠償として連合国側の各国に取り上げられ空っぽの工場だけが残った。先ずは細々と生活用品の製造から再開、自転車、オートバイへと発展し1947年に250cc のオートバイ「R24」が完成、生産体制の整った1949年からようやく市販された。戦後、得意な航空機エンジンの製造は連合国から禁止され、資金難の「BMW」を救ったのは、戦勝国でありながら軍需産業の縮小で新たな道を模索していたイギリスの「ブリストル」で、戦前の2リッター・エンジンや「BMW327」に関する全てのライセンスを獲得し、出来上がったのが1947年の「ブリストル400」で、中身はほとんど「BMW327」のままで「400」と言うネーミングも「327」を意識して付けられたという。一方、東ドイツのアイゼナッハ工場はソ連の国営会社「アウトヴェロ」の支配下に置かれ1945年終わり頃には戦前の「321」の生産を開始、1948年には「327」も併せ1955年まで製造が続けられた。それらは「BMW」の商標で売られたが、それは「アウトヴェロ」が「BMW」のブランド名を利用したとは言うものの、1949年9月解散の手続きを取るまでは登記上「BMW」に属していたようだ。さて、本家ミュンヘンでの自動車生産再開への道のりは、フォードのトラックを製造する案、フランスのシムカ8をライセンス生産する案などが次々と駄目になる。それとは別にモーターサイクルR51の600CCエンジンを使った小型経済車「331」という「Fiat500」に似た試作車が造られたが、復帰に当たっては「BMW]と云うブランドを経済車でイメージダウンをするよりは格式の高い大型車で勝負する事に決まった。そこで造られたのが「501」となるのだが、ペーター・シマノヴスキーがデザインしたこの形が上層部のお気に召さず、イタリアのピニンファリナにシャシーを送って依頼したところ、「アルファロメオ1900Cを4ドアにしてマスクをBMWに替えただけ」のものが戻ってきた。結局元の形が採用され1951年4月のフランクフルト・ショーでデビューすることになった。既にフェンダー・ラインが消えつつある流れの中では一寸古さも感じるが優美で高級感があり僕は好きだ。一見堂々としたリムジンに見えるが,エンジンは1971cc/65hpしか無く、それは戦前の「326」のエンジンに一寸手を加えただけの間に合わせだった。
(このボディーを持つモデルは次の7タイプである)
BMW 501...........1952-55 直6cyl 1971cc 66×96mm 65hp
BMW 501/6.......1955-58 直6cyl 2077cc 68×96mm 72hp
BMW 501/8.......1955-61 V8cyl 2580cc 74×75mm 95hp
BMW 502 2.6......1954-61 V8cyl 2580cc 74×75mm 100hp
BMW 502 3.2/S..1955-61 V8cyl 3168cc 82×75mm 120hp/140hp (Super)
BMW 2600/L......1961-62 V8cyl 2580cc 74×75mm 100hp/110hp(L)
BMW 3200L/S.....1961-62 V8cyl 3168cc 82×75mm 140hp/160hp
(01-1ab) 1952-53 BMW 501 Limousine (1960年 港区麻布東鳥居坂町・旧ドイツ大使館前)
初めて見たBMWは黒塗りで大きく凄く立派に見えた。2リッターに満たないエンジンで今なら「5ナンバー」だが、とてもそうは見えなかったのは流れるフェンダーに風格を感じたのかもしれない。当時のドイツ大使館は鳥居坂の東洋英和女学院の並びにあった。
(01-2abc) 1952-53 BMW 501 Limousine (1961年 JR 田町駅前)
この車は輸入したばかりで、まだ登録前の仮ナンバーだ。ここはJR田町駅前で、この当時は勤務先が慶應大学下の電車通りにあったので朝晩必ず通った懐かしい場所だ。
(01-3a) 1953 BMW 501 Limousine (1977-01 東京プリンスホテル)
「501」が発売された当初は生産費と工程を複雑にしないため塗装は黒一色のみだったが、一年後の1953年生まれのこの車はアイボリーが選べたのだろう。
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(2)<502>
誕生当時から馬力不足が泣き所だった「501」に対して計画されたのがより強力なエンジンで、しかもこのエンジンルームに収まるためにコンパクトな「V8」が採用された。「V8」は当時全ヨーロッパでアメリカ系列の仏フォードと戦前からV8だったチェコの「タトラ」の2車しかなかった。このエンジンを積み込んだ車はタイプ「502」と名付けられ1954年3月のジュネーブ・ショーでデビューした。ボディは「501」と同だがウエストにクロームのラインが入り、リアウインドウが幅一杯に拡大、フロントフェンダーの下方に補助ライトが埋め込まれ、テールランプが丸型で大きくなった等外観に変化があったが、象徴としてリア・トランクに「V8」のバッジが付けられた。しかし「502」という表示は何処にも見当たらなかった。翌1955年にはこのV8 2.6リッター・エンジンを501に積んだ「501/8」を廉価版として発売、同時に「502」の方はボアアップして3168ccとなり「502 3.2」と変わった。1957年にはツインキャブで強化した「502 V8 Super」が登場した。
(写真02-1ab) 1955 BMW 502 V8 3.2Litre Limousine (1969年 日本橋・三越本店付近)
写真の車は「502」の中では後期の3.2リッターだがシングル・キャブの120hp版だ。車は日本橋三越別館の一番奥にある一寸したスペースに停車して居り、先方が本館の南側にあたる。当時の勤務先が呉服橋の交差点にあったので昼食時三越の駐車場は良く足を運んだ場所だった。
(写真02-2ab)1960 BMW 502 V8 3.2 Super Limousine (1977-01 東京プリンスホテル)
こちらは「502」シリーズでは最強のツインカム仕様で140hpのエンジンを持つ「スーパー」シリーズだが、外観上の違いはトランクにあるV8のバッジの上に「SUPER」と入っているだけなので前からでは識別不能だ。
(写真02-3ab) 1956 BMW 502 V8 3.2 Coupe by Worblaufen (1986-11 モンテミリア・神戸)
「502」というモデル・ナンバーは元々はV8エンジンを使った2ドア・クーペの新シリーズを予定しており試作車も作られているが、それは「501」と同系の流れるフェンダーを持っておりこの車ではない。この車は、むしろ次に登場する「503」に近い。「ヴルブラウフェン」というボディ・メーカーはスイスにあって今もBMWと深いつながりを持っているようだが、造られた年代から推定すると、これが「503」に影響を与えたとは考えられず、逆に「503」を参考にした作品だろうか。
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(3)<503・507・3200CS>
「502」の2.6/3.2リッターV8エンジンを基にその後作られた車
BMW 503.....1956-60 V8 cyl 3168cc 82×76mm 140hp
BMW 507.....1956-60 V8 cyl 3168cc 82×75mm 150hp
BMW 2600....1961-62 V8 cyl 2580cc 74×75mm 100hp
BMW 2600L...1961-63 V8 cyl 2580cc 74×75mm 110hp
BMW 3200L...1961-62 V8 cyl 3168cc 82×75mm 140hp
BMW 3200S...1961-63 V8 cyl 3168cc 82×75mm 160hp
BMW 3200CS..1961-65 V8 cyl 3168cc 82×75mm 160hp
「502」は外見こそ「バロック・エンジェル」とあだ名されるほどクラシカルだったが、そのエンジン、シャシーともに優れた潜在能力を秘めており、これを使って戦前の「327」「328」に匹敵する大ヒットを待望する機運は早くからあったが、上層部のGOサインは中々出されなかった。1954年ライバル「メルセデス300SL」の大成功を見て遂に重役会でスポーツカー造りを決定した。その結果生まれたのが「503」と「507」で、設計主任はフリッツ・フィードラー、デザイナーはアルブレヒト・ゲルツが担当する事になりコスト削減の為できる限り既存の部品から転用することが求められた。両車は1955年9月のフランクフルト・ショーでデビューし1956年から販売を開始したが値段が高すぎて期待したほどは売れず約4年間で「503」が413台、「507」が252台しか売れなかった。しかし、現代では逆に希少価値が高値を呼ぶコレクター・アイテムとなっている。
(写真03-1abc) 1958 BMW 503 Coupe (1981-12 筑波サーキット)
世界でも希少な車がまさか日本に有るとは信じられなかったと言うのがこの車に最初に出会った時の感想だ。今から30年以上も前で、まだ海外に出かけた事もなかったからまさに幻の車だった。この車は「カメラのドイ」の創立者土居君雄氏のコレクションの1台で1990年ご本人が亡くなられた後、この車を含め50台が堺市に寄贈され最近は見学が出来るらしい。
(写真03-2abc) 1955 BMW 503 Cabriolet (2001-05 ブレシア/ミッレミリア)
場所はミッレミリア車検場の近く古い教会のあるドーモ広場で、夜のスタートを待つ車が三々五々集まって来る。この車のように、参加車ではないが皆んなに見せたい車にも絶好の展示場となっている。
(写真04-1abc)1958 BMW 507 Roadster (81-12 筑波サーキット/1981-01 神宮外苑絵画館前)
この車も前の「503」と同じ「ドイ・カメラのコレクション」で、何年か前に雑誌のグラビアで真横の写真を見て憧れていた車だっただけに大興奮だった。実物は思っていたよりも大きい印象を受けたが、寸法は「503」より全長で370ミリ、ホイールベースで355ミリ短かく小さいのだ。多分直径16インチの大きなタイアと短いホイールベースのバランスが錯覚させたのだろう。本来はロードスターだが1500マルクでハードトップが用意されており完全なクーペスタイルとなる。
(写真04-2abc) 1957 BMW 507 Roadster (1997-05 ブレシア/ミッレミリア)
この車は完全なロードスターで幌は収納すれば全く隠れてしまう。背景で見られるようにイタリアの商店街はショウウインドウの前がアーケードとなり、上は建物の一部という建築様式だから、日本のように軒先に覆いをつけたのではなく、家の中に道路が通っていると言う事なのか。
(写真04-3a) 1957 BMW 507 Roadstar (1994-05 ブレシア/ミッレミリア)
オープンとハードトップの姿に続いて自前の幌を上げた姿をご覧下さい。ロードスターの幌は収まりが良いように簡素なものが多いのだが見た限りでは中々立派で形も良く似合っている。
(写真04-4a)1957 BMW 507 Roadster (1994-05 ブレシア/ミッレミリア)
続々と車検場に集まってくる車たちで大渋滞。この建物の向こう側が車検場「ビットリア広場」となる。
(写真04-5a-d)1959 BMW 507 Gran Turismo (2008-01 ドイツ博物館/ミュンヘン)
ミュンヘンにある「ドイツ博物館」は科学・技術の全てを集めた殿堂だが、入ろうとしたら自動車館は独立して別の場所に移動している事が解りチケット代を払い戻してもらったと言う苦い経験がある。ハードトップをつけた姿は博物館の表示に従って「グラン・ツリスモ」とした。
(写真05-1ab)1965 BMW 3200 SC Coupe (1981-12 筑波サーキット
V8 3.2リッター・エンジンによる豪華版トリオの最後は写真の「3200SC」で、「503」「507」に較べるとやや知名度が低いように思われるが、3台の中では最強のエンジンを持ち、値段も一番高い。ボディはイタリアのベルトーネ製でジウジアーロのデザインは直線を主体としたモダンなイメージを与えた。
(写真05-1c-f)1965 BMW 3200 SC Coupe (1981-01 神宮外苑絵画館前)
車は前と同じで、これも「ドイカメラ・コレクション」の1台だ。殆ど同じスペックの「3200 S」は「501」から続く旧型のボディのままで価格は21,240マルクだったのに対し、「3200 SC」は29,850マルクと1.4倍も高かった。
(写真05-2abc)1961-65 BMW 3200 SC (2004-08コンコルソ・イタリアーノ/カリフォルニア)
ベルトーネのデザインということでイタリア車の集まる会場に参加していた「BMW」だが、一見極おとなしい外見から想像出来ない強力なパフォーマンスは「507」を上回っていたから、いわゆる「羊の皮を被った狼」といえる。
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< 経済車 イセッタ・シリーズ >
戦後BMWが造った車は「501」から始まって「3200 SC」まで、全部が大型高級車で、それほど余裕が無い敗戦国ドイツの社会情勢から大量に売れる筈がなく、実際売れなかった。(最低の1957年は1700台)だから常に資金不足で、これを打開するために少ない投資で大量生産ができる「何か」を求めていた所、1954年ジュネーブ・ショーに出展されていた「イセッタ」に出会った。これを作ったのはイタリアの「イソ社」で後年「グリフォ」や「リボルタ」などのスーパーカーを生み出したメーカーだ。終戦直後はご多分に漏れず小型スクーター作りからスタートしたが、他社とは違った何かを模索した結果思いついたのが雨でも濡れない屋根付きのスクーターで、横並びの2人乗りのレイアウトには独創的な前開きのドアが付けられた。実はこの会社は1938年から「冷蔵庫」を作っていた実績があり、発想の原点は意外とこんなところにあったのかもしれない。BMWは早速交渉を始め、ライセンス生産権だけでなく、生産設備をそっくり買い取ることに成功した。本当のところイセッタ側の内情は、強敵フィアット500を相手に今後の見透しは厳しいと踏んで、売り込み先を探していたと言うお互いにラッキーなタイミングだったのだ。本家イタリアでは1953-55年の3年間で約1000台しか作られなかったが、ドイツのBMWでは1955年から1962年まで8年で161,728台も作られたから、イセッタはBMWの創作と勘違いされるのも無理はない。
(写真06-1abc)1956 BMW-Isetta 250 (1977-08 千葉市中央区県庁前通り)
BMW製のイセッタにはイタリア製と違って自社のモーターサイクル「R25」から転用した247ccエンジンが使われた。写真の車はイタリアで作っていたものと同じオリジナル・デザインのボディを持つ初期型で3角窓と上に広がるサイド・ウインドウが特徴だ。このタイプは1年6ヶ月しか作られなかったから、中々見ることが出来ない珍しい車だ。
(写真06-2)BMW Isetta Mock-up (2008-01 BMWモービル・トラディション/ミュンヘン)
BMWの建物の入口を入ると受付カウンターの手前左側に写真の「物体」が置かれてあった。1956年10月から登場したイセッタ(後期型)のモックアップだ。木製とは思えない素晴らしい仕上がりを見て、少年時代、プラモデルが出現する以前は朴の木を削ってソリッドモデルの飛行機を作っていたなあ、と昔を思い出した。
(写真06-2ab) 1960 BMW Isetta 250 (1985-01 明治公園/神宮外苑)
前の木型によって生産された製品が写真の車となる訳で、うまく出来るものですね。この車は250ccなのに小型自動車並の「5ナンバー」で高い税金を負担している。
(写真07-1a-d) 1960 BMW Isetta 300 (1962年 東京駅八重洲口付近)
1955年12月からは排気量298ccに上げた「300」が追加された。1956年10月からは「300」も後期型の新ボディに変わったが、写真の車には正面に空気取り入れ口が2つある。リアエンジンのこの車にどんな目的で付いているのか僕には判らないが、まさか「BMW」の象徴グリルでは無いとは思いますが......。昔の交通標識で「一方通行出口」はこんなだった。
(写真07-2ab)1962 BMW 300 (2000-05 ブレシア/ミッレミリア)
最後の頃に作られた1台で、綺麗に塗り分けられている。外見には年度別の変化はあまりなく、僅かにテールランプまわりの違いが有るだけだ。
(写真07-3a) 1957 BMW 300 (2008-11 明治神宮外苑絵画館前)
イセッタ・シリーズの最大の特徴は「冷蔵庫」のように前の扉を開けて車に乗り込む事で、こんな具合に開閉する。
(写真07-4ab) 1961 BMW 300 (1981-01 神宮外苑絵画館前)
イタリア生まれの「イセッタ」はドイツ以外に「イギリス」「スペイン」「フランス」「ブラジル」などでライセンス生産されたが、左側通行のイギリスでは写真の車のようにドアの取っ手が右側に付いた右ハンドル仕様だった。
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< 経済車 600 >
1957年8月になるとイセッタのストレッチ版とも言える4人乗りの「600」が登場した。BMWの設計になるもので車名からイセッタの名は消えたが、前の扉から乗り降りするスタイルはそのままで、延長した部分の座席の為に右側だけにドアが付けられた。乗員が増え、車体も重くなったのでエンジンはモーターサイクル「R-67」の2気筒、582cc が転用された。イセッタに比べれば少し自動車に近づいたとはいえ、あくまでもキャビンスクーターの延長線上でしか無かった。競合他社の1リッタークラスと対等に戦う力はなく約35万台造られたが1959年で生産は終了した。
(写真08-1abc)1957-59 BMW 600 (1960年 立川市内)
真正面から見たスタイルは下のバンパーの所がパチンと開きそうで、どう見ても「がま口」だ。この車のナンバーは「Eナンバー」で米軍関係者の車であることを表しており、場所はその関係者が多い立川市内だ。。
(写真08-2a) 1957-59 BMW 600 (1985-01 神宮外苑明治公園)
サイド・ドアが右側だけで左側には付いていないという証拠写真。
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< 大ヒット 700・シリーズ >
あまりにも印象が違うので信じられないが、「700」のベースとなったのは「600」のシャシーを伸ばしたもので、697cc水平対向エンジンも「600」の進化型だ。当時世界的に高い評価を受けていたイタリアのジョバンニ・ミケロッティは、「がま口」のような「600」をすっきりしたモダンな2ドア・クーペに生まれ変わらせた。1958年8月からまずクーペが発売され、12月からはセダンも出現したが、これらは大人気で1965年11 月生産終了までに約188,000台が生産された。1959年には経営危機でダイムラー・ベンツに吸収される寸前だった「BMW」は、このヒットのお陰で何とか危機を乗り越え次の時代を迎えることが出来た。それまではモーターサイクルから転用していたエンジンは、ようやく自動車用の4気筒エンジンを開発出来るまでの資金的なやりくりが出来る体制となり、1962年から始まる「ノイエ・クラッセ」(ニュー・クラス)と呼ばれる「1500」「1800」「2000」シリーズへと続いて行く。
< 700シリーズのバリエーション >
・エンジン仕様は全て同じ 空冷水平対向2気筒 78×73mm 697cc
BMW 700 Coupe.......1959-64 3ohp ホイールベース2120nn
BMW 700 Limousine.1960-61 30hp 〃
BMW 700 Sport....... 1960-64 40hp 〃
BMW 700 LS Luxus...1962-65 30hp ホイールベース2280mm
BMW 700 LS Coupe...1964-65 40hp 〃
(写真09-1ab)1959 BMW 700 Coupe (1961-03 港区内)
街中で走って来るこの車を初めて見つけた時は、一瞬、出たばかりの「日野コンテッサ」かと思った。遠目で見た全体の印象がかなり似ているのは、共にミケロッティの作品だったからだ。後ろ姿の方はガソリンスタンドで給油中のものだがフィルムのコマ数は前の写真と連続しており、自転車の僕は後を追いかけて捕まえたという事だ。ナンバープレートからドイツ大使館の車だろう。
(写真09-2ab) 1962 BMW 700 Coupe (1962- 05 二子玉川園・世田谷区)
ばらの美しい庭園で輸入ディーラーの主催で最新外車の展示会が開かれた。初代クーペは1964年まで変わらなかったので写真の車も初期型である。
(写真09-3ab) 1962 BMW LS Limousine (1962-05 二子玉川園・世田谷区)
初代の「700 Limousine」は1961年までで、この年からはホイールベースを160ミリ延ばし2280ミリとなった第2世代が「BMW LS」と名を変えて登場した。1つ前の屋根が低い「Coupe」と較べると、背の高い「Limousine」の方が居住性がずっと良いのがはっきり判る。
(写真09-3ab) 1960-61 BMW 700 Limousine (01-05 ミッレミリア/フータ峠)
順序は前後したが、こちらは発売当初からの初代「700 Limousine」で外見上では第2世代の「LS」との違いは見つからない。場所はミッレミリア2日目最大の難所「フータ峠」の頂上で人垣の向うを車が通過する。
(写真09-5ab) 1963 BMW 700 CS Coupe (1980-01 明治神宮外苑絵画館前)
好評の「700」シリーズに最初に造られたバリエーションは、標準型クーペのエンジンを30hpから40hpに強化した「700 スポルト」で1960年から発売された。写真の車は1963年「700スポルト」から「700 CS」に名前が変わった「後期型」で外見上ではタイヤが5.20-12 から5.50-12に変わったことと、リアのバッジが左側に移り「CS」となっただけ。
(写真09-6ab)1961 BMW 700 RS (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
エンジンは「700」シリーズと同じ物をベースに90hpまで強化されたものをミッドシップに積んでいるが、シャシーは市販車とは全く別物で、完全な鋼管フレームで組まれて軽量化を図っている。全部で19台作られたが現存するのは2台だけ。
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「BMW」はこの回で完了させるつもりで書き始めたのですが、戦後の苦難の時代だけで一杯になってしまいました。次回は「1500」シリーズから始まる快進撃をお伝えする予定です。