(1)<Bluebird・地上速度記録車>(英)
「ブルーバード」とは1927年「ブルーバードⅠ」の174.88mil/hから始まり、28年Ⅱ、31,32年Ⅲ、33年Ⅳ、と粘り強く挑戦を続け、1935年「ブルーバードⅤ」で遂に初の300マイル超えを達成した有名なレコード・ブレーカーで、ドライバーの「サー・マルコム・キャンベル」はイギリスのスピード王として良く知られる存在だが、こちらはその息子「ドナルド・キャンベル」が、ジェットエンジンを動力としたマシンで記録に挑戦した「ブルーバードCN7」だ。 地上速度記録の歴史は1898年フランスの「Jeantaud」という電気自動車が出した39.24mph(63.15km/h)から始まり、初期の記録保持車は6代に亘って電気自動車が続く。1902年には「Gardner」という蒸気エンジンの車が75.06mph(120.8km/h)の記録を出すが、同じ年、ガソリン・エンジンの「Mors」が76.08mph(122.44km/h)と僅かながらこれを破り、以後1963年「ターボ・ジェット・エンジン」が出現するまでの60年間はガソリン・エンジンの独壇場であった。1970年には「ロケット・エンジン」が登場し時速1000キロの壁を破る事になる。動力についての制限とかクラス分けは特に無いようで、何が付いていようが「地上絶対速度」という枠で一括りにされている。1947年以降はFIAが公認しており、その条件は「4輪以上」「勾配1%未満」「走行の中間で1マイルを測定」「1時間以内に往復しその平均値で算定」となっている。
(写真01-1a~d)1964 Proteus Bluebird (2000-06 グッドウッド/2003-01 パリ・レトロモビル)
車の横に表示されている「403.135」という数字はマイル表示で、キロに直すと約648.6km/hとなる。飛行機は速い乗り物の代表だが、太平洋戦争中の日本の戦闘機「零戦」は52型で565km/h、海軍で一番速かった「彩雲偵察機」が609.5km/h、陸軍の双発偵察機キ46「新司偵」Ⅲ型で630km/h、「グラマンF4F」は515km/hと、この車は大戦当時の飛行機より速い。1秒間に180メートル突っ走り、東京・横浜間約30キロをJR東海道線が25分かかるところを、計算上では僅か2分47秒で到達する。
自動車が走るのは、動力で車輪を廻し地面との摩擦で前進するのが長い間の決まり事で、その為にゴムの品質とかタイヤのパターンとか色々な工夫がされて来たが、新しい「噴射の推力」で走る場合、車輪は摩擦と関係なく、ただ丈夫で軽く転がるだけで良いので、この車もパンクの心配がないソリッド・タイヤが付いている。
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(2)< Borgward/Hnsa/Goliath/Lloyd >(独)
「ボルグヴァルト」について語る場合には、他に「ハンザ」「ゴリアト」「ロイト」を含む4つの名前が「メーカー」だったり、「車名」だったり、「モデル名」だったりして複雑に登場する。母体は「カールF.W.ボルクヴァルト」が1920年ブレーメンに設立した「Bremer Kuhlerfabric Borgward & Co」で、社名から推定すると冷却装置(ラジエター?)を造るところからスタートしたらしい。1924年「Blitzkarren」(稲妻カート)と名付けた小型3輪の配送車を発売、翌1925年にはこれを進化、発展させ「ゴリアト」と名付けた三輪トラックが誕生する。1929年には「hansa-Loyd Werke」社を吸収合併しボルグヴァルト・グループが形成され、「ハンザ」「ゴリアト」の車名で生産が始まる。ここで吸収された「ハンザ・ロイト社」の歴史を振り返ると、「ハンザ」は1906年設立の「Hansa Automobile Gesellschaft mbH」(ハンザ自動車会社)が源流で、1913年には「ウエストファリア」という小メーカーを吸収、翌1914年には「ロイト社」と合併している。一方、ロイト」の方は元々は汽船会社だったが1906年ブレーメンに「北ドイツ自動車工場」を設立、電気自動車のライセンス製造から業界に参入、1908年からは独自のガソリンエンジン車を製造する。その後、電気自動車時代のノウハウを活かした「ガソリンエンジンに発電機とモーターを組み合わせた」現代の「ハイブリット・カー」の元祖が造られたという記録がある。1914年「ハンザ」と合併後は大型高級車を「ハンザ-ロイト」の名で造っていたが1929年「ボルグヴァルト」に吸収された時点で製造は中止され、「ロイト」の名は消えた。10年後の1938年発表された「ハンザ2000」の名が翌年「ボルグヴァルト2000」と変わり、戦前最後のモデルで初めて「ボルグヴァルト」という名の車が登場した。
(写真02-1ab) 1931 Goliath Pionier (2008-01 ドイツ博物館(自動車館)/ミュンヘン)
2サイクル単気筒200ccで2人乗りの三輪車という仕様は、戦後大流行したキャビン・スクーターのご先祖だ。前一輪操舵のこのタイプは戦後イギリスの「ボンド・ミニカー」や「リライアント・リーガル」にそっくり受け継がれたが、ドイツでは「メッサーシュミット」「ハインケル」「BMW」など、逆に前二輪が主流だった。
(写真02-1c) 1952 Goliath GD750 (2008-01 ドイツ博物館/ミュンヘン)
戦前のゴリアトに範を採った三輪の戦後版で1950年から製造が始まった。キャビン・スクーターより大型の実用車でGD750はバン、トラックが造られた。日本にも多くのオート3輪は存在したが、日本ではステーションワゴン風には一度もお目にかかった事は無い。
(写真02-1d)1953 Goliath GD750 (2008-01 ドイツ博物館/ミュンヘン)
日本でもキャビン付きオート3輪は良く見られたから特別の違和感はないが、一箇所だけ大きな違いがある。それは前輪の扱いで、ゴリアトではそっくりボンネットの中に収まっているが、日本の場合は個別のサイクルフンダー付きで外から見える。これは発展経過の違いで、「バーハンドル・むき出し」「風防ガラス付き」「屋根付き・窓なし」「密閉キャビン・丸ハンドル」ともっぱら運転者を風から防ぐ方法として色々貼り付けた結果完成したものなので、前輪は改造の対象外だった?
<ボルグヴァルト・グループのクラス分け>
(1a)1950-54 ボルグヴァルト-ハンザ 1500/1800
(1b)1954-61 ボルグヴァルト-イザベラ
(2) 1952-58 ボルグヴァルト ハンザ 2400/2.3 ℓ(P100)
(3a)1950-58 ゴリアト700/900/1100
(3b)1958-61 ハンザ1100
(4a)1950-61 ロイト250/300/400/600/Alexander
(4b)1959-63 ロイトAravella
(写真03-1abc) 1950 Borgward Hansa 1500 4dr Limousine (2008-01 VW ミュージアム)
第2次大戦の敗戦国だったドイツは日本と同じく自動車製造が制限されていたらしく、VWを除いては1947年以前に製造された形跡はない。ボルグヴァルトは終戦5年後の1950年になって戦後型を発表したが、その名前は「ボルグヴァルト・ハンザ1500」だった。戦前姿を消した「ハンザ」の名前はここで再び復活したが、北ドイツ地方では「ハンザ同盟」以来の特別な響きをもつ言葉なのかもしれない。
(写真03-2ab) 1952-54 Borgward Hansa 1800 4dr Limousine (1956年 静岡市内)
「ボルグヴァルド1500」はエンジンのボアを72mmから78mmに広げ1758ccの「1800」となったが,外観はリアトランクのバッジ以外変わらない。この車は1758ccなのに「3ナンバー」なのは、当時「5ナンバー」は1500ccまでだったからだ。場所は静岡県庁の正面で、石垣は駿府城の外堀の一部。
(写真04-1ab)1954-61 Borgward Isabella 2dr Limousine (1959-04 銀座・交詢社通り)
やや旧型になった「ハンザ1800」の後継車として1954年新しく登場したのが「イザベラ」で、当時の年鑑で確認したところ、発表当初は「ボルグヴァルト ハンザ1500"イサベラ"」となっており車名ではなく愛称だった。「TS」と「クーペ」が登場した1956年から「ボルグヴァルト イザベラ」となって正式に車名となった。場所は銀座7丁目で、この日は当時の皇太子殿下と美智子さまのご成婚当日だったので背景に日の丸と慶祝の提灯が見える。
(写真04-2ab) 1956-61 Borgward Isabella TS 2dr Limousine (1966-05 富士スピードウエイ)
好評だった「イザベラ」の強化版が「TS」シリーズで、出力は60psから75psとなり最高速度は135km/hから150km/hまで引き上げられた。1959-61年には2トーンのデラックスも造られたが、イザベラ・シリーズは2ドアのみで4ドアは無かった。
(写真04-3ab) 1956-61 Borgward Isabella Coupe (1960年 港区内で)
戦後のボルグヴァルトの中では一番早そうに見えるのが「イザベラ クーペ」だが、最高速度は「TS」と同じ150km/h止まりだから現代の目で見れば大したことはない。しかし同世代で同じ1.5 ℓの初代トヨペット・クラウンと比べればやっぱリ速い。当時流行りの2トーン・カラーで流れるフェンダーが特徴だ。全体の印象は50年代初めのGM系で、流れるフェンダーは「ビュイック」、リアフェンダーは「シボレー」に近い。
(写真05-1ab) 1960-61 Borgward 2.3 Litre 4dr Limousine(2008-01 ドイツ博物館/ミュンヘン)
戦後のボルグヴァルト・グループのフラッグ・シップは1952年登場した6気筒「2400」で、プレーンバックタイプが1台だけ日本にも入ってきたらしいが、僕は出逢っていない。写真の車はその後継車「2.3リッター」で、「P100」とも呼ばれる。エア・サスペンションを導入した高級車だったが、生産台数も少なく日本には入らなかったと思う。撮影した博物館は展示物が多く、大型車の全体を捉える為に17ミリのワイド・レンズでもいっぱいいっぱいで、出来るだけ歪の補正を試みたがこれで限界だった。1961年ボルグヴァルトは倒産してしまったが「イザベラ」と、この「P100」の生産設備はメキシコに買い取られ1970年まで生産が続けられた。とあったので何種類かの年鑑で調べたが「南ア」や「イスラエル」の珍車はあったがメキシコ製の車は出てこなかった。出版社もまさかメキシコで車を造っているとは知らず、資料を請求しなかったのかも。
(写真06-1) 1950-55 Goriath GP700 Limousine (1957年 東京駅付近)
戦前の「ゴリアト」は200ccのキャビンスクーターだったが、戦後はグループ内の下から2番目「1リッター」クラスを担当し1950年「GP700」(688cc)からスタートした。この後「GP900」を経て、「ハンザ1100」へと続くのだが、ゴリアト」時代は上開きの盃型グリルが特徴だ。1950年という時点で見ると、ボディ・サイドがフラットになったのは1949年フォードが良く知られるが、そのフォードでもフロントガラスが1枚になったのは1951年からで、この車はその点進歩的なスタイルだった言える。
(写真07-1abc)1959-61 Hansa 1100 Coupe (1962年 渋谷駅付近)
「ゴリアト900」は排気量を増やし1957年「ゴリアト1100」となった 。写真の車はその車が1959年から名前を変えて「ハンザ1100」となってからのもので、グリルの中央に縦に棒がないこと、サイドモールが直線であることから後期型(1959-61)でこのモデルを最後にボルグヴァルトは倒産した。背景は後方に見える坂の下がJR渋谷駅で、この場所は現在首都高速3号線の高架となっている。
(写真08-1) 1962 Goliath Hansa Expeess 1100 Microbus (1962-05 世田谷区・二子玉川園)
詳細は不明だが排気量から推定すると前のクーペと同じシリーズの仲間ではないかとおもわれる。しかし「ゴリアト」の名が付いているだけあってグリルは伝統の「杯型」だ。この会社は1961年に倒産した筈だが「62年型」が有るのは何故か。倒産後も在庫車や部品から組み立てた新車の販売が63年まで続けられたからだ。
(写真10-1abc) 1953-57 Lloyd LP400 Limousine (1961-03 中野区昭和通り3丁目付近)
戦後の「ロイト」は1950年にボルグヴァルト・グループの一員として「Lloyd Motoren Werke GmbH」という独立した会社を立ち上げ、グループ内の軽自動車部門を担当した。1950-52 「Lloyd LP300」、1953-57「Lloyd LP400」、1956-57「Lloyd LP250」、1955-61「Lloyd LP600」、1957-61「Lloyd Alexander」、の順に発表された。最初の「LP300」は 木骨・羽布張りのボディと記録にあるが、勿論材料難からの事だろうが、見方によればすごく贅沢な話で、1930年代までの高級車には良く使われた手法だ。次の「LP400」は写真の車で2気筒386ccのエンジンを持つこの車は日本の軽自動車の開発には少なからぬ影響を与えた。ボンネットと屋根は木製でドアの内側もベニヤ張りだった。撮影したのが1961年だから車齢10年にも満たないのにかなり草臥れているが、日本では珍車といえよう。この後「LP250」という超小型が発売されたが、これは日本にもあった「軽限定免許」(ドイツの場合は250ccまで)のため造られたもの。
(写真10-2ab)1954 Lloyd LP400 Limousine (2008-01 ドイツ博物館/ミュンヘン)
上の車と同じだがカラーなので、「屋根が木製」と言われて見れば艶がなくそのように見える。
(写真10-3ab)1958-61 Lloyd Alexander Kombi(2000-05 ミッレミリア/ブレシア・ドーモ広場)
3速だった「LP600」のギアを4速にしたのが「アレキサンダー」でギア以外の仕様は全く変更ない。
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(3)< Bond >(英)
「ボンド」という名前は僕の中では前1輪操舵の3輪車「ボンド・ミニカー」しか頭になかった。
(写真11-0) 参考 1953 Reliant Regal Mk1 (2007-06 英国国立自動車博物館/ビューリー)
(残念ながら「ボンド・ミニカー」の写真は撮っていないので同じイメージの「リライアント・リーガル」をご参照ください)
(写真11-1abc)1963-70 Bond Equipe GT4S Coupe (1966-05 北区 王子付近/北本通り)
そこへ突然登場した「未確認物体」が写真の車だった。この当時雑誌「CARグラフィック」に「今月入荷」という欄があって日本に入ってきた外車の情報はもれなくここで把握して居るつもりだったのに、僕の知らない車が走っているではないか。実は翌月のこの欄にこの謎の物体が紹介され疑問は解決した。僕は入荷したての車に偶然街中で遭遇したのだった。ボンド社はキャビンスクーター「ミニカー」のメーカーではあったが、自動車を自製するほどの規模ではなく、トライアンフ・ヘラルドのシャシーにスピットファイヤーの1147ccエンジンを積み、自社製のグラスファイバー・ボディを被せたものだが、何とスカットルとドアはヘラルドのままだった。
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(4)< Brabam BT (MRD) > (英・豪)
MRD (Motor Racing Deveropment)が造るレーシングカーが「ブラバムBT」シリーズである。
(前史・トーラナック、オーストラリアでラルトを造る)
シドニー郊外で開かれてたローカル・レースを見て興味を持ったのが21歳の製図技師「ロン・トーラナック」だった。彼は図書館で自動車の基礎から学習し3年後第1号車「ラルト」を完成したが実戦経験がなく、理論優先だったこの車はデビュー戦ではコントロールが効かずコースを飛び出して壊れた。その後何回もレースを続けているうちに実戦からノウハウを積み重ね、理論と経験がうまくかみ合った結果、後年メルセデスのサスペンションの特徴となる「ローピポット・シングルジョイント」構造をそれより前に完成させるなど、彼はサスペンション・チューニングの分野で徐々に注目を浴びる存在となってくる。当時はまだローカルのスターだった「ジャック・ブラバム」が、自分の車のサスペンションについて相談したことをきっかけに、次回からはブラバムの乗る「クーパー」も面倒見ることになった。その間「ラルト」はMkⅠからMkVまで10台造られた。
(ブラバムBTの誕生)
ローカル・エースだった「ジャック・ブラバム」はその後めきめき頭角を表し、1959年にはクーパーでF1ワールド・チャンピオンとなり頂点を極めた。そうなると自分のチームを持ち、自分の名前のついた車を自分で運転しレースで優勝したいという夢が生まれる。その夢を実現させるために選んだパートナーが旧友「ロン・トーラナック」だった。1960年ブラバムの待つイギリスに渡り、共同作業を始めたが、当時ブラバムにはクーパーとの契約が残っておりまだ自分の名前のF1では走れなかったが、その間にトーラナックは市販可能なFJマシンの設計を手がけ、それが「BT1」となって、そのあと続く「ブラバムBT」シリーズの原型となった。「BT2」はBT1のレプリカ市販モデルなので、待望のF1モデルは「BT3」からスタートする。デビューは1962年8月のドイツGPだったが、プラクティス24位、レースはリタイアに終わり、この年最高位はUS-GPの3位だった。ブラバム・チームが優勝したのは2年後の「BT7」で1964年6月フランスGPまで待たなければならなかったし、しかも優勝したのは「ダン・ガーニー」で、御大ブラバムの初優勝は更に2年後の1966年7月フランスGPでマシンは「BT19」となっていた。この時は絶好調でこの後続けて4連勝する。ブラバムはエンジンを外部に頼る純シャシー・メーカーだったから非力なエンジンながら軽量と独自のサスペンションを武器にそこそこの戦いを続けていたが、その優秀なシャシーが一度強力なエンジンとドッキングすれば手の付けられないモンスターとなってしまう。その例が1966年のF2(ブラバム・ホンダBT18)で、全12戦中11連勝という空前絶後の記録を残している。ジャック・ブラバム自身は1970年引退して故郷オーストラリアに帰り、あとはトーラナックがマネージメントから車の開発まで一人で切り回すことになったが、本来の設計者に戻りたいと考えたトーラナックは1972年実業家「バーニー・エクレストン」に「MRD」のマネージメントを譲渡した。そのあとエクレストンは「ブラバムBT」のブランド名は引き継いだものの、全く新しい体制に組織替えが行われ「MRD」でのトーラナックの出番はなくなり、デザイナーとしての腕を振るうためにウイリアム・チームのマーチ721のサスペンション改良に手を貸すなどの活動をしたが「MRD]とは縁を切って故郷オーストラリアに帰り、本当の意味での「ブラバムBT」は幕を閉じた。2年後1974年にトーラナックは再び業界に復帰し昔の名前「ラルト」を復活させF2,F3で1990年頃まで活躍したが、その間には将来の大物「ネルソン・ピケ」「アイルトン・セナ」「ミカ・ハッキネン」などの新人たちが「ラルト」のシートから世界へ巣立っていった。
(ブラバムBT の総リスト)
BT1 (FJ) 1961 (全てのブラバムはここから始まった)
BT2 (FJ) 1962- (BT1のレプリカ・市販11台)
BT3 (F1) 1962-63 (62年8月ドイツGPでF1デビューするもリタイア、US-GPの3位が最高だった)
BT4 (Int) 1962- (インターナショナル/タスマン・フォミュラー用)
BT5 (SP) 1963- (2シーター・レーシング・スポーツ・2台)
BT6 (FJ) 1963- (BT2の改良型・市販20台)
(写真12-1a)1963 Repco-Brabam FJ(BT6) (1963-05 第2回日本GP/鈴鹿サーキット)
(写真12-1b)1963 Beabam BT6 FJ (2001-05 モンツア・サーキット/イタリア)
(写真12-1c)1968 Brabam BT6 FJ (2001-05 モンツア・サーキット/イタリア)
BT7 (F1) 1963-64 (64年F1初優勝)
(写真12-2)1966 Braban-BMW BT7 F1 (2008-01 BMWモービル・トラディション/ミュンヘン)
1964年フランスGPでダン・ガーニーが「ブラバム」として初優勝したのが「BT7」だったが1.5リッターのレプコ・エンジン付きであった。写真の車は1966年にBMWの2000ccエンジンを載せたもので、優勝車そのものではない。
BT8 (SP) 1964- (2シーター・レーシング企画のみ)
BT8A (SP) 1964- (2シーター・レーシング12台・
BT9 (F3) 1964-
BT10 (F2) 1964-
BT11 (F1) 1964-65 (BT7の改良型・市販もした)
BT12(Indy) 1964- (インディ500用)
BT13 欠番
BT14 (FL) 1964-
(写真12-3)1965 Brabam-Ford BT14 F2/Ribre (1998-08 ブルックス・オークション)
BT10をフォミュラー・リブレ用に改良
BT15 (F3) 1965- (市販58台)
BT16 (F2) 1965- (ホンダ・エンジン)
BT16A(F3) 1965-
BT17 (SP) 1966- (2シーター・レーシングBT8Aの強化版)
BT18 (F2) 1966-
(写真12-4abc)1966 Brabamu-Honda F2 BT18 (2009-11 ホンダ・コレクション・ホール)
この車こそ12戦11連勝(最終戦も僅差の2位)とシーズンを総ナメした伝説の「ブラバム-ホンダ BT18」だ。エンジンはRA302E 直4 DOHC 4valve 996cc 150ps/11000rpmで高性能であると同時にシーズンを通して極めて高い信頼性を示した。
BT18A (F3) 1966- (市販32台)
BT18B(FL) 1966-
BT19 (F1) 1966-67(3リッター・シーズン用・非力だが速くブラバムはチャンピオンとなる)
BT20 (F1) 1966-67
(写真12-5)1966 Brabam-Repco F1 BT20 (2010-06 フェスティバル・オブスピード)
御大ジャック・ブラバムが乗って4連勝した「BT19」の改良型。
BT21 (F3) 1966- (市販49台)
BT21a(FL) 1967-
BT21B(F3) 1968-
BT21C(FL) 1868-
BT22 (F1) 1966-
BT23 (F2) 1967- (9台市販)
BT23C(F2) 1967- (19台市販)
BT24 (F1) 1967-68
(写真12-6)1967 Brabam-Reoco F1 BT24 (2010-06 フェスティバル・オブ・スピード)
F2並の小型シャシーだが軽量を武器にハルムがチャンピオンとなる
BT25(Indy) 1968- (インディ500用 ブラバム初のモノコック)
BT26 (F1) 1968-69
(写真12-7)1968 Brabam F1 BT26 (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード)
一部モノコックを採用・2枚のウイングを持つ/69年からはフォードエンジン
BT26A(F1) 1969- (ショベル・ノーズとなる)
BT27 (F1) 1968- (4WDのF1だが企画のみ)
BT28 (F3) 1969- (市販42台)
BT29 (FB) 1969- (フォーミュラB用・市販31台)
BT30 (F2) 1969-
BT31 (Tas) 1966- (タスマン用)
BT32(Indy) 1970- (インディ500用)
BT33 (F1) 1970-72 (BT25の進化型/ブラバムF1としては初のフル・モノコック・初戦で優勝)
BT34 (F1) 1971-
(写真12-8)1970 Brabam F1 BT34(奥) (2001-06 モンツア・サーキット/イタリア)
ブラバムが引退しトーラナックが一人で全てを賄う。ボディに流体力学が採用された。制作台数1台のみ(手前は1974 MAKI F101)
BT35A(FA) 1971- (フォーミュラ・アトランティック用・BT26の改良型)
BT35B(FB) 1971- (フォーミュラB用)
BT35C(F3) 1971- (フォーミュラ3用)
BT35X(FL) 1971- (フォーミュラ・リブレ/ヒルクライム用・3台)
BT36 (F2) 1971-
(以下はブラバム-トーラナックが関わっていないブラバムBT)
BT37 (F1) 1972-73(「MRD」のマネージメントをバーナド・エクレストンに譲る。新体制によるF1)
BT38 (F2) 1972- (F2もモノコックとなる。)
BT39 (F1) 1937- (エンジンがウェスレイク・フォードV12に変わる)
BT40 (F2) 1972-
BT42 (F1) 1973-74
BT44 (F1) 1974-
BT44B(F1) 1975-
BT45 (F1) 1976-77
(写真12-9)1976 Brabam-AlfaRomeo F1 BT45 (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード)
1975-77年のブラバムは「アルファ・ロメオ」のエンジンでスポンサーはイタリアの「マルティニ」だからボディは真っ赤なイタリアン・カラーにマルティニ・ストライプ入りだ。
BT45B(F1) 1977-
BT45C(F1) 1978-
BT46 (F1) 1978-79
BT46B(F1) 1978-
BT48 (F1) 1979-
BT49 (F1) 1979-80
BT49C(F1) 1981-
BT49D(F1) 1982-
(写真12-10)1982 Brabam-Ford F1 BT49(2000-05 モンツア・サーキット/イタリア)
ネルソン・ピケが活躍したこの時期はイタリアの食品メーカー「パルマラート」カラーで塗装されていた。
BT50 (F1) 1982-
BT52 (F1) 1983-
BT52B(F1) 1983-
BT53 (F1) 1984-
BT54 (F1) 1985-86
BT55 (F1) 1986-
BT56 (F1) 1987-
BT58 (F1) 1989-90
BT59 (F1) 1990-
BT59Y(F1) 1991-
BT60Y(F1) 1991-
BT60B(F1) 1992-
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(5)< Bristol >(英)
「ブリストル」と聞くと第2次大戦に詳しい人とか、飛行機ファンはバトル・オブ・ブリテンで大活躍した「ブリストル・ボーファイター」を思い浮かべるかもしれない。イギリス空軍の双発複座戦闘機だが夜間迎擊機、地上攻撃機、雷撃機など万能機としてイギリス以外の同盟国にも提供された第2次大戦中の傑作機の一つである。僕も「タミヤ」の1/48スケールを組み立てた記憶がある。実は、この飛行機を造った「ブリストル・エアロプレーンCo.」は、戦争終結で特需が無くなると本業の航空事業に必要な人員以外の余った従業員の為に、自動車製造部門を作ろうと考えた。そこで戦前ドイツの「BMW327/328」のライセンス生産をしていた「フレーザー・ナッシュ社」の生産設備を生かし、同じく戦前からBMWの輸入を手がけていた「AFN Ltd.社」を吸収して1945年7月自動車部門を立ち上げる。(注・ヨーロッパ戦線は1945年5月に終結 )ブリストル社は当時敗戦国側だったドイツが自動車製造を禁止されている状態の中で、元BMWのチーフエンジニアだった「フリッツ・フィードラー」をスカウトし自動車製造のスタートを切る。最初の車は1946年「フレーザー・ナッシュ・ブリストル2ℓ」として発表され、翌年のジュネーブ・ショウでは「ブリストル400」と名前を変えて登場した。殆ど戦前に造っていた「フレーザーナッシュ・BMW 327」に近い。
(写真13-0a)(参考)1938 BMW 327 Cabriolet (1988-11 モンテミリア/神戸)
ベースとなったモデルのドイツ版(左ハンドル)
(写真13-0b)(参考)1938 Frazer Nash BMW 327 Cabriolet (1988-11 モンテミリア/神戸)
同じモデルは戦前イギリスでも造られていた(右ハンドル)
(写真13-0c)(参考)1937 Frazer Nash BMW 328 Roadster (2009-03 六本木ヒルズ)
この歴史的な名車もイギリスでライセンス生産されていた。(右ハンドル)
(写真13-1ab) 1950 Bristol 400 2dr Saloon (2000-05 ミッレミリア/ブレシア)
名前こそ「ブリストル」だが、見た目そっくり「BMW」だ。ライセンス生産では無いのだからせめてグリル位は独自カラーを出せなかったのか。それともいくら戦勝国と言ってもどこかにBMWとの約束事があったのか。
(写真13-2abc)1953 Bristol 404 Drophead Coupe (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード)
ブリストルは「400」に続いて1948年「401」、49年「402」(401のカブリオレ版)、53年「403」とモデル・チェンジを繰り返したが、それは原型BMWの枠から抜けられず、当時としても時代遅れになりつつあった。そんな中で「403」と併売の形で53年10月登場したのが独自のデザインで脱皮したニューモデル「404」シリーズだ。6気筒1971ccの排気量は変わらないが、圧縮比を上げて強化したエンジンとホイールベースを2440mmに縮めたスポーティなボディは「カロッセリア・アボット」が担当し一部にアルミが使用されている。写真のオープン・タイプには見られないが、サルーンとクーペ・タイプには特徴的なテールフィンがあった。
(写真13-2de)1954 Arnolt Bristol Roadster by Bertone(1998-08 コンコルソ・イタリアーナ)
「アーノルト」については第14回「A」項で既に紹介したように、イタリアのボディー・メーカー「ベルトーネ」が、イギリスの「MG-TD」をベースに造ったショーモデルを見て、アメリカ人で「MG」「ブリストル」「アストンマーチン」などの輸入代理店をして居た「S.Hアーノルト」が200台購入し、自分の名前をつけてアメリカで販売したのが事の始まりで、これに力を得たベルトーネは、「MG」と同じくシャシーを持つ「ブリストル404」に目を付け少数のクーペを含め合計で180台が造られた。
(写真13-3ab) 1962 Bristol 407 Conbertible by Viotti (2010-06 /グッドウッド)
エンジンについて言えば「406」までは「400」から伝統のBMW 6気筒を進化させた2216ccだったのが「407」になってクライスラー製のV8 5130cc 250hpと一気に2倍以上になり、最高スピードは196nk/hとなった。一方、ボディの方は「404」から続く正面中央が大きく口を開いたスポーティなスタイルが伝承されていた。写真の車はそれとは別で、ブリストル社の重役トニー・クルックが娘のキャロルのためにトリノの「カロセリア・ヴィオッティ」に特注したワン・オフモデルで、「408」以降のモデルにも影響を与えたようだ。
(写真13-4abc)1977 Bristol 411 Ser.6 2dr Saloon (2010-06 グッドウッド/イギリス)
「408」以降の外観はスポーティさから重厚さに変化した。写真の車はV8 6286cc のエンジンを持つ高性能車だが、外観は極おとなしい2ドア・サルーンだ。ブリストルという会社は積極的な宣伝もしない変わった会社だが顧客も派手を好まない「紳士」が対象だったらしく、我が国などは対象外で国内では一度も見ていない。
(写真13-5abc)2010 Bristol Fighter (2010-06 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
2002年になると目が覚めるようなスポーツカーが登場した。それが「ファイター」で「ダッジ・バイパー」のV10 8ℓエンジンを積載したモンスターは、525hp で、最高速度は340km/ hが可能だった。更に2004年には628hpまでアップした「ファイターS」が登場したが、これでも満足しない一部熱狂的なマニアのために造られたのが究極のモデル「ファイターT」で、名前の通り「ターボ」付きで強化を図ったエンジンは1012hpで最高速度は362km/hに制限されているが430km/hが可能という。ブガッティ・ベイロンは市販車初の1000馬力超えを果たし1001馬力と言われるが、「ファイターT」はそれをも超える最強力エンジンを持ち、20台のみ限定生産された。
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(6)< BRM > (英)
「BRM」は1947年から1974年まで主にF1で活躍したイギリスのコンストラクターで、レーシングカー以外のスポーツカーや乗用車は造っていない。「BRM」はBritish Racing Motorsの略で、文字通りレーシングカーだけに取り組んだ会社で、発端はイタリア勢の圧倒的な強さに対抗するために発生した「イギリスの意地を見せよう」と有志が集まって出来た組織である。圧倒的な戦闘力を持つグランプリカーを造って世界のトップに立ちたいと業界の多くの企業が拠出した基金で「BRM」は立ち上がったが、戦後のインフレで資金の価値は下落して資金難に陥るとともに、部品工場も国策の輸出が優先で余力がなく納品が遅れてレースに間に合わないなど1949年12月になってようやく1号車が完成した。しかしこの第1次のプロジェクトは業界の大物の寄り集まりで意見が纏まらず、1951年で終止符を打った。それを救ったのが「アルフレッド・オーエン」で彼の力で「BRM」は戦える車となって後世に名を残すことが出来た。
(グランプリとF1)
グランプリレースは戦後まもない1946年に国際自動車連盟が規格を制定し4.5リッターの最大クラスを「フォーミュラA」と決め、翌1947年からレースが始まった。1950年からは一部のレースに限り得点が与えられ、総合得点で世界選手権のタイトルが与えられることになったが、最初はドライバーのみが対象で、1958年からコンストラクターも対象に加えられた。「フォーミュラA」は次第に「フォーミュラ1(F1)」という呼び名の方が一般的となり今日に到ったが、必ずしも「F1」のみが世界選手権を争ったのではなく1952・53年のように「F2」が対象となった年もある。
(写真15-1ab)1950 BRM Type15 V16 GP-Car (2007-06 英国国立自動車博物館/ビューリー)
この車は世界最高の車を目指して計画されただけあって当時としては他に類を見ない抜群のスペックを持っていた。排気量1480cc 135°V16気筒32バルブ遠心式スーパーチャージャー付きのエンジンは、585hp /12000rpmで最高速度は273km/hだった。当時圧倒的に強かった「アルファロメオ158/1947」でさえも275hp/7500rpmだった時代の事である。しかしこの車にも弱点があった。それは馬力が出過ぎる事だった。写真でもわかる様に、当時のタイヤの太さではこの馬力には耐え切れず、簡単にホイルスピンを起こしてしまうので、有効にその力を路面に伝えることが出来なかった。それに加えて遠心式スーパーチャージャの機能が災いした。普通の場合はエンジンの回転が上昇すると効率は低下するのでトルクが下がりスピンが収まるのだが、「BRM」の場合は、回転が上がるほどに過給圧も上昇しトルクも増える為収拾がつかず、ドライバーは最高馬力を出さないように常に回転数とギアシフトに気を使わなければならず、折角の馬力も宝の持ち腐れであった。写真の車が1950年デビューしたときはノーズが長く先は絞り込まれていたが、52年にはやや短かくなり、現在は53年改造されノーズが殆ど無くなった最終モデルが展示されている。
(写真15-2abc)1957 BRM P25(Type25) F1-Car (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード)
「BRM」が造った2作目がこの車で、当時のレギュレーションは「自然吸気2500cc」又は「過給器付き750cc」と変わっていたので、当初の計画では既存のV16 1500ccの半分でV8 750ccエンジンを造ることを考えていた。しかし信頼性の高い自然吸気の2500ccの方が優利と判断し、コンサルタントの「スチュワート・トレシリアン」が温めていた4気筒エンジンが採用され、チーフ・エンジニアの「ピーター・バートン」と共同で開発が進められた。1955年に入って最初の「P25」が完成したがまだ戦闘力が無く、なお開発を必要としていたがトレシリアンはブリストルに移籍し、バートンも交通事故で重傷を負うなどで、その後の開発は「トニー・ラッド」が行なった。1955年9月レース・デビューするもこの時は漏れたオイルにタイヤが乗ってクラッシュ、次のレースでは3位を走っていた時油圧がゼロになりリタイアしたが、油圧計の針の作動不良だった、又マイク・ホーソンは高速で走行中にエンジンカバーが外れ危うく首を飛ばされそうになったなど、「BRM」はスピードこそ早かったが、信頼性は全く無かったようだ。しかしこの車にも1959年のオランダGPで遂に初勝利が巡ってきた。レースをはじめてから10年目の事だった。因みに「P25」の「P」はプロジェクト、「25」は2500ccを表し、フロント・エンジンのF1カーとしては最後のモデルである。
(写真15-3abc) 1962 BRM P578 F1-Car (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード)
1961年からはフォーミュラ1の排気量が1.5リッターに引き下げられることになった。BRMでは新たに1.5リッターV8エンジンを完成させるため技術部長のピーター・バートンをレーシンチームの担当から外し、「プロジェクト56」と名付けた新エンジンの開発に専念させ、後任はトニー・ラッドが就任した。1961年シーズンはエンジンが間に合わず、コベントリー・クライマックスの4気筒エンジンを購入、シャシーも2.5リッター時代の「P48」を改造した間に合わせで、「BRM-Climax」の名で参戦するも結果は惨憺たるものであった。1961年シーズンも終わりに近くなって待望の「P56エンジン」が完成した。 90°V8 DOHC 1497.7cc 184hpで、その間シャシーも十分に熟成され、このエンジンと合体して誕生したのが傑作「P578・V8」である。翌1962年シーズンはチームのナンバー1ドライバー「グレアム・ヒル」が7回優勝してワールド・チャンピオンとなり、チームとしてはセカンド・ドライバーのリッチー・ギンサーの1回を加えると合計で8回優勝し「BRM」はコンストラクタース・チャンピオンシップも獲得した。写真の車は「Old Faithful」(忠実な老骨)のニックネームを持つヒルが愛用した1号車で、濃緑にオレンジ口紅の塗装はワークスとしては最後となった1964年グッドウッドの時のものだ。
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(7)<Brough Superior + Swallou SideCar> (英)
本来は自動車が対象のこの連載に2輪車が登場するがことをお許し頂きたい。この「ブラフ・シューペリア」という会社は「オートバイのロールスロイス」或は「アラビアのロレンスの愛車」と言うサブタイトルが有名な高級2輪メーカーだ。創立者はジョージ・ブラフで父親がオートバイ製造をしていたので16歳からレースに参加していたが、父親の造る対向ツイン500ccの「ブラフ」では物足りなくなり、より高品質で強力なVツインエンジンを持ったバイクを作るため1919年独立して「ブラフ・シューペリア社」を立ち上げた。1940年製造が終わるまでに13モデル(エンジンの違いを数えれば19タイプ)約3000台が造られたが「SS80」(1922-40)1086台、「SS100」(1924-40)383台、「680」(1926-36)767台、の主要3モデル」だけで2236台73.4%を占める。「バイクのロールスロイス」の様だ、と最初に言ったのは試乗したジャーナリストの感想だったが、それをキャッチコピーに使われるのは本家にとって見逃すことの出来ない事で、商標権侵害で訴えると再三抗議を受けたが、そのロールス・ロイスの代表者が製造工程を見学し、文句の付け様がない作業精度を見て「バイクのロールス・ロイス」を認めざるを得なかった、と言うエピソードが残っている。僕が写真を撮って居ないので証拠をお見せ出来ないが、資料によると1936-39年にかけて「Brough Superior Automobiles」のブランド名で85台の自動車を生産した実績がある。
(写真16-1a)1927 Brough Superior SS100 (2007-06 フェスティバル・オブ・スピード)
「SS100」でもドロップハンドルでレース仕様のこの車と同じスタイルの車が日本にもあった。僕がお世話になっていたバイク好きのドクターのコレクションの1台で、一寸跨らせて貰ったが、シートに座ってハンドルを握るためには腹這いの状態だった。
(写真16-1b)1930 Brough Superior SS100 (2004-06 英国国立自動車博物館/ビューリー)
「SS100」は高性能が売りのブラフ・シューペリアの中でも頂点に立つ車で1924年から40年まで長期に亘って製造された人気モデルである。写真の車は有名なアラビアのロレンスの愛車7台の内の1台で、1930年型は6代目の通称「ジョージ6号」だ。この車はハンドルの位置が高いので普通の姿勢で跨がれそうだ。ロレンスは1935年5月13日「ジョージ7号」にのり80キロで走行中、小高い丘の頂点にある左ブラインドコーナーに差しかかったところ突然その先に2台の自転車に乗った少年を発見する。そのあとの行動には諸説があるが、ハンドル操作ミスなら蛇行するか、乗ったままスリップして横倒しになる筈だが、証言によるとハンドルを飛び越えて前方に投げ出された、とあるので急ブレーキと接触によって急減速したのが原因ではないだろうか。立木に打ち付けられて重傷をおい6日後死亡した。英雄の死には憶測が付き物で、ハンドルにこすり付いていた黒い塗料は自動車が勢いよく接触した際付けられた、という謎の車説もある。
(写真16-2a)1937 Brough Superior SS80 (1983-08 インペリアルパレス・コレクション)
「SS80」は1922年から最後の1940年まで作り続けられ、全生産数の1/3に当たる1086台が造られた。エンジンは2種あり「JAP」626台、「マチレス」460台だった。JAPはシリンダーに表示があるので、それが無い写真の車は「マチレス」エンジンの車だ。モデル名の「SS80」とは80マイル(128キロ)を保証するという事でジャガーSS100なども同じものだ。これらのエンジンは「モーガン」の3ホイーラーをご存知の方なら見覚えが有る筈だ。写真を撮影したのはオートバックスが催した展示会で、コレクションはラスベガスのカジノ付きホテル「インペリアルパレス」のものでマニアが集めたのではなく観光客相手に話題性のあるものを集めた感じだった。
(写真16-3bc) Brough Superior SS80(推定) +Swallow Saidecar(2002-02 レトロモビル/パリ)
この写真はレトロモビルで「ジャガー」の展示ブースにあったもので、目的がサイドカーでバイクは添え物だったため説明が無くバイクの詳細は不明。側車の正体は後にジャガーを生み出した「ウイリアム・ライオンズ」が20歳で起した「スワロー・サイドカーCo.」の製品で、1923年のデビュー当時からブラフ・シューペリアの標準装備として採用されている。写真は1924年モデルチェンジした五角形のボディを持つ「リヨン・スタイル」である。
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(8)< BSA > (英)
「BSA」といえば「トライアンフ」「ノートン」「アリエル」などと並ぶイギリスを代表するオートバイ・メーカーとして知られるが、この会社の歴史は古く1861年に作られた組合がら始まった。「BSA」は「Birmingham Small Arms Trade Association」の略で「バーミンガム小型武器販売組合」の名の通り、地元の主要産業である「小銃」の流通販売を図る組合だった。その後自転車の製造を経て1903年オートバイの部品製造、1910年最初のオートバイが完成する。一方自動車の方は1907年には2.6リッターの14/18hpが完成しており、翌1908年には3.6リッター、5.4リッターなど大型車が作られた。第1次大戦終了後は主に1リッタークラスが重点となり1930年前後には前2輪の3輪車も造られた。第2次大戦後は2輪車のみで4輪車は造っていない。
(写真17-1ab)1937 BSA Scout 10hp 2seater Sports (1985-01 神宮外苑/明治公園)
写真の車は1935年から40年まで造られた「スカウト・シリーズ」で1937年のシリーズ4は直4 SV 1203ccで前輪駆動である。1930年代のイギリスの小型スポーツカーのうしろ姿はどの車もみな同じで、前に回ってラジエター・グリルで判断するしかない。
次回は「BMW」の予定です。