創立者W.O.ベントレー(Walter Owen Bentley/1988-1971)は、裕福な家庭で9人兄弟の末っ子としてロンドンで生れた。カレッジで「物理」「科学」「工学理論」を学んだ後、1905年16歳で、子供の頃から憧れていた機関車に関わりたいとグレートノーザン鉄道に入社し、見習工員として徒弟制度の下で修行するも、理論より経験を優先する組織には馴染めなかったらしく、1910年には「ナショナル・モーター・キャブ」というタクシー整備会社に転職し、ここで自動車エンジンとモータースポーツに出会う。2年後の1912年兄と共にロンドンにあったフランス車「DFP」(Detroit Flandrin et Parant)を輸入する「ラコック&フェルニー」という小さな会社を買収し、「DFP」をチューンアップした車で自らハンドルを握り本格的にレース活動を始める。そして遂には「DFP」のワークス・チームを打ち負かすまで進化してしまった。エンジン・チューニングで最も効果的だったのはアルミと銅を含む「軽合金」で造られたピストンで、このノウハウは翌年始まった第1次世界大戦で初めて登場した飛行機エンジンに生かされ、ソッピース戦闘機やアブロ爆撃機の為4000台が造られた。
「ベントレー」という車は「デイムラー」「ロールス・ロイス」と並ぶイギリスの大型豪華車だが、「デイムラー」は王室御用達をブランドイメージに、「ロールス・ロイス」は世界の王侯貴族ご愛用と、大型豪華車として知られる一方、「ベントレー」は最初からレース活動を主目的として造られ、特に1920年代は目覚しい活動で血気盛んなヤング・ジェントルマンたちを虜にした。このベントレーの歴史を語るには次のように区分したい。
第1期(1919-31)W.O.ベントレーの時代 (創立者ベントレー自身の設計による"本物"のベントレー)
第2期(1931-41)<戦前後期>ダービー・ベントレー(ロールス・ロイス社に併合されロールス・ロイスをベースに小改造)
第3期 (1946-71) <戦後前期>ロールス・ロイスと双子の時代(グリルとバッジ以外同じ)
第4期 (1971-98) ヴィッカースの時代(RR倒産後、国営化を経て苦難の時代)
第5期 (1998- ) フォルクスワーゲンの時代(BMWが買収したRRとは袂を分かつ)
以上のように経営母体が代わり車の性格にも変化が見られる。
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<第1期 ヴィンテージ期/W.O.ベントレーの時代>
世界大戦が終り軍需景気が去ると、1919年1月、W.O.ベントレーは自動車の設計と製造を目的とする「ベントレー・モータース」をロンドン市内に設立し、自分の名前がついた自動車造りがスタートした。この年10月、「3リッター・モデル」のプロトタイプ「Exp1」が完成しロンドン・モーターショーでデビューした。設計する際に想定したこの車の性格は「ヨーロッパ大陸を時速60マイルで一日中走れる高速ツアラー」を目指す事であった。当時のイギリス車はフルスロットルが続くとバルブやピストンが焼ける傾向が強く、ベントレーではこれを避けるため気筒毎に4つのバルブを持ち、冷却水の効率にも十分配慮されていた。ベントレーの自伝によると、当時の基本姿勢は「先人が実行した最上の策を採るべきだが、盲目的に模倣してはならない」ということで、研究・開発部門を持てなかった若い彼らには新しい事にチャレンジするだけの資金も時間も無かったのだろう。だからこの車は極めてオーソドックスな方法で造られている。この車を作るにあたって参考にしたのが1912年の「プジョーGP」と1914年「メルセデスGP」で、ベベル・ギアによるシングル・オーバーヘッド・カムの駆動方式は「メルセデス」をそっくり踏襲したものである。
(写真00-1)(参考)1914 Mercedes GP
ベントレーが参考にしたと言われる1914年メルセデスのGPカー
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(01)<1921-29 Bentley 3Litre >
プロトタイプの試運転ではものすごい騒音に悩まされたが、それがオイルポンプだったり、当時の工作技術の精度の低さからくるギア・ノイズだったりしてこれらを克服するまでに2年を要し、1921年になって初めて市販に漕ぎ着けた。エンジンは直4 SOHC 2996cc SUキャブレター×2 65hpで、シャシーは9フィート9.5インチ(2.98m)だったが、基本的には2+2のオープン・ツアラーとして計画されて居たにもかかわらず、市販されるとこれにサルーン・ボディを架装したいという要望と、後席が狭いという声がありこれに応えるため「渋々」10フィート10インチ(3.3m)のロング・シャシー版が造られた。
(写真01-2ab)1921 Bentley 3Litre Tourer (2002- 涌井ミュージアム)
<1923-29 Bentley 3Litre Speedmodel>
1923年排気量はそのままで圧縮比を上げ、キャブレターを大経化して80hpとなった強化版を「スピード・モデル」として登場させた。大分類「3リッター」の中のバリエーションだが、区分の為、ラジエターのバッジは一般モデルの「ブルー」に対して「赤」で区別された。
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(写真01-3a)1922 Bentley 3Litre (2000-06 グッドウッド)
ベントレーは1923年からルマンへのチャレンジを始めておりNo8のレースナンバーをもつ車は1923年4位、1924年優勝している。優勝車は「XM6761」の登録番号だが、写真の車は生憎番号が隠れて確認出来ないので本物かレプリカかは不明。
(写真01-4ab) 1924 Bentley 3Litre Speedmodel(2008-01 フォルクスワーゲン・ミュージアム)
ドイツのウオルフスブルグにあるフォルクスワーゲン工場に併設されているミュージアムで撮影したものだが、ベントレーが何故ドイツに?と違和感を感じつつも現実はVWに買収され、歴史的資料も引き取られたのだ。
(写真01-5ab)1924 Bentley 3Litre Speedmodel (2010-07 /お台場潮風公園)
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(写真01-6abc) 1925 Bentley 3Litre Speedmodel (1975-05/筑波サーキット)
筑波サーキットのタイト・コーナーを駆け抜ける3リッター・スピードモデル
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(写真01-7ab)1929 Bentley 3Litre Speedmodel VandenPlus Tourer(1999-08/カリフォルニア)
一寸お洒落なオープン・ツアラーで、同じツアラーでもレース仕様のワイルドさは微塵もない。
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< 白洲次郎とベントレー >
白洲次郎と言えば敗戦直後の占領下でマッカーサー元帥をして「唯一人云う事を聞かない日本人」(本当は吉田茂と2人だが)と言わしめた程の硬骨漢だが、その下地には親分吉田茂首相(もと駐英大使)と共に、英国留学時代に身につけた「アメリカに対する優越感」が有り、当時泣く子も黙る「マッカーサー」に対しても対等に物が言えたのだろう。1902年兵庫県武庫郡(現芦屋市)生れで神戸一中卒業後1919年ケンブリッジ大学クレアカレッジに聴講生として入学した。そこでは「イギリス英語」の中でも「オックスフォード」と「ケンブリッジ」の学生、卒業生、職員のみが使う独特の訛があり、それは「オックスブリッジ・アクセント」と呼ばれ上流階級の者としてあらゆる場所で特別扱いを受ける言葉だった。戦後のある日、占領軍のお偉方である民生局長ホイットニー准将に「英語」が上手いと褒められ、「あなたももう少し勉強すれば上手くなりますよ」と「米語」を使うアメリカ人にイギリス風のジョークで皮肉を言った、というエピソードも有る。在学中に買ったベントレーで伯爵の御曹司で車好きのロバート・セシル・ビングと意気投合してジブラルタルまで大陸旅行をしている。1928年父の会社が倒産し帰国、翌年海軍元帥伯爵樺山資紀の孫娘正子と結婚する。
(写真01-8a~g) 1924 Bentley 3Litre Speedmodel (2009-03/六本木ヒルズ)
(写真01-8h~l) 1924 Bentley 3Litre Speedmodel (2011-10/日本銀行本店・旧館前)
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(02-A)<1926-30 Bentley 6.5 Litre Standard>
3リッター・モデルの評判が良く、軽いツアラー・ボディを前提としたシャシーに、重いサルーンやリムジンまで載せようとする顧客が現れるに至って、このままでは本来の性能が損なわれ「3リッター・モデル」の評価にまで悪影響を及ぼしかねないと危惧したW.O.ベントレーは、より馬力のある次期モデルとして「6気筒」を選んだ。初期段階では4気筒のまま排気量を増やす案もあったが、この車に期待される静粛性、フレキシビリティなどは6気筒が優利な事、将来排気量を上げる場合にも余裕がある事などから「6気筒」となったがこれは正解だった。この後これを「4気筒」にした「4.5リッター」、「6気筒」のまま排気量を上げた「8リッター」が出現しベントレー・エンジンの基礎となった。1924年には次期大型車の計画が始まり、プロトタイプは6気筒4.25リッターだった。この当時、イギリス車のロードテストは海を越えてヨーロッパ大陸で行っていたが1924年のこと、このプロトタイプが、フランス国内を走行中、Y字路で合流した時偶然横を走っていたのが同じくロードテスト中のライバル「ロールスロイス・ファンタムⅠ」のプロトタイプだった、という嘘のような話が伝わっている。お互いにすぐ相手を見破り、フルスロットルの80マイルで競り合ったそうだが、その時感じた力不足から次期モデルは「4.25リッター」ではなく「6.5リッター」と決められた。1926年から市販され、エンジンは直6 SOHC 6597cc シングル・スミス・キャブレター圧縮比4.4:1 140hp 、ホイールベースは3.35m、3.66m、3.81mの3種があり、H.J.Mulliner、GurneyNutting、Barker、Freestone&Webb、Hooper、ParkWaed、JamesYoungなどイギリスの殆どのコーチビルダーが競って豪華な屋根付きのボディを架装している。
(写真2-1abc)1927 Bentley 6.5Litre Tourer (1981年1月/明治神宮絵画館前)
この車を初めて見た時の印象はボンネットが恐ろしく高く、トラックのように大きいと感じた。資料によると「YE9409」のナンバーを持つこの車は工場を出たときはHooper製のクーペ・ボディが載っており、後年現在のツアラー・ボディの換装されている。
(写真02-2ab) 1928 Bentley 6.5Litre 2seater Tourer (2010年10月/ラフェスタ・ミッレミリア)
スタンダード・モデルのシャシーは3.35mから3.87mまで用意されていたが、この車は多分一番短い物だろう。
(写真02-3ab)1929 Bentley 6.5Litre Tourer by Barker (1995年8月/カリフィルニア)
2トーンでお洒落なこの車はオリンピア・モター・ショーに展示されたショーモデルで「トルペード」と呼ばれる形式のボディはイギリスの老舗Barker社製である。
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(02-B) < 1929-30 Bentley Speed Six >
「スピード・シックス」は1926年登場した6気筒「6.5リッター」モデルの強化バージョンとして1928年から30年までに182台が造られた。排気量は変わらず、ツインSUキャブレターで,圧縮比を5.1まで上げ、出力は160hpとなった。1930年から登場する後期型では圧縮比を更に5.3まで上げ180hpを得ている。勿論、レースで数々の優勝記録を残しているがルマンでは1929年1台参加で優勝、1930年3台参加で優勝、2位、17位と全て完走している。大分類「6.5リッター」シリーズのバリエーションで、ラジエターのバッジはスタンダードの「ブルー」に対してスピード・シックスは「グリーン」である。
(写真03-1a)1930 Bentley Speed Six tourer by Vanden Plus (2001年5月/ミッレミリア)
ミッレミリアのコースにはこんな細い道もあり、突然飛び出してくる感じだ。ここは「サンセポルクル」というガイドにも載っていないようなちっぽけな村で、広場には昔ながらの藁のシケインが置かれ、老若男女総出で大声援だった。
(写真03-2a)1930 Bentley Speed Six Tourer by Gurney Natting (1997年5月/ミッレミリア)
ミッレミリアのスタートはブレシアのベネチア通りで夜8時から始まる。昼間車検を終えた後、街中の広場で思い思いに時間を過ごした車達が出発順にベネチア通りに整列しスタートの時を待つ。年代順なので1920年代のベントレーやメルセデスなどは早い時間に出発する。
(写真03-3ab) 1929 Bentley Speed Six Tourer (2009年10月/ラフェスタ・ミッレミリア)
日本にもナンバー付きのスピード・シックスが存在する。オリジナルのナンバーが隠れているので僕にはこの車の詳細がわからないが、形は典型的な VandenPlas製のツアラーのようだ。
(写真03-4abc)1929 Bentley Speed Six(Old Number One)(2007年5月/グッドウッド)
この車はルマン24時間レースでバーキン/バーナートの操縦で1929-30と2年連続して優勝した車で車番は1929年①番、1930年④番だった。レース時はVandenPlas製の4シーター・ツアラーだったから、現在のボディは後年換装されたものだが、登録番号「MT3464」はオリジナルのものだ。ルマンの優勝をたたえ「オールド・ナンバー・ワン」の愛称で呼ばれる。
(写真03-5ab)1930 Bentley Speed Six(Old Number Two)(2007年5月/グッドウッド)
この車は1年遅れて1930年のルマンに登場したスピード・シックスで、レースでの車番は②番で、結果は2着だった。そんな訳でこの車は「オールド・ナンバー・ツー」と呼ばれている。
(写真03-6ab)1930 Bentley Speed Six(Old Number Three)(2007年5月/グッドウッド)
この車も1930年のルマンを走った車で、車番は③番だったが結果は3着と云う訳にはゆかず、少々遅れて17位だった。それでもこの車も「オールド・ナンバー・スリー」という名前を貰っている。
(写真03-7abc)1930 Bentley Speed Six Coupe by Gurney Nutting(レプリカ) (2007年6月/グッドウッド)
この車のオリジナルは「GJ3811」のナンバーを持ち、ルマンで1928-30年と3年連続優勝したウオルフ・バーナート大佐のプライベートカーとして有名。コーチビルダーはGurney Nattingだった。
(写真03-8ab)1930 Bentley Speed Six Coach by Corsica (1995年8月/モンタレー)
プロポーションから見ると、フロントグラスの高さはこの2倍あってもおかしくない。ボンネットの高さと共にフロントグラスが小さく見えるので視覚的には実物以上に大きく見える。といっても実物も本当に大きい。
(写真03-8cd)1930 Bentley Speed Six Coach by Corsica (1998年8月/ペブルビーチ)
同じ車をペブルビーチのコクール・デレガンスで捉えたもの。屋外で見ても大きくて豪華で、一見ブガッティの豪華版「タイプ46」の様にも見える。
(写真03-8ef)1930 Bentley Speed Six Coach by Corsica (1999年3月/ブラックホーク・テント)
これも同じ車を別の機会に撮影したものだ。8月のカリフォルニアでは、あちこちにテント張りの特設展示会場が設けられ「クリスティーズ」や「ブルックス」のオークションの事前展示や「ブラックホーク・コレクション」の展示即売などを見ることが出来る。
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(03A) < 1927-31 Bentley 4.5 Litre >
1926年6気筒6.5リッターの大型車を発表した翌年の1927年には,そのエンジンをそのまま4気筒にした4.5リッター版を登場させた。ここでベントレーのエンジンと車種を整理すると、エンジンは「4気筒」と「6気筒」の2種だけ,ストロークは全て140mmで統一されているからコンロッドが共有可能、ボアを80mm(3ℓ)、100mm(6.5ℓ)(4.5ℓ)110mm(8ℓ)、と広げるだけで全てを賄え、工作上極めて合理的である。予期せぬ顧客の高級嗜好に応えるべく6気筒の大型車を造ったが、本来のスポーツマインドを満足すべく「3リッター」の後継車として考えられたのが4気筒4398,24cc 105hp/110hpのエンジンを持つ「4.5リッター」シリーズである。
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(写真04-1ab) 1927 Bentley 4.5Litre Tourer by Vanden Plus (1978-01/東京プリンスホテル)
戦後の我が国に極く初期の段階で輸入された1台。この車は1927年製でシャシーNo.ST3002と言う事は、なんと4.5シリーズとして2台目にライン・オフした車だ。
(写真04-2ab) 1927 Bentley 4.5Litre Roadster (1997年5月/ミッレミリア・ドーモ広場)
この車も1927年製だがオリジナル・ナンバーではないので細かい素性は解らない。と言うのは戦前のベントレー全てについて新車時の登録ナンバーからシャシー・ナンバーやコーチビルダー、初代オーナーなどが解る「虎の巻」があるからだ。4シーターが多いベントレーの中では珍しい2シーターのロードスターだ。
(写真04-3ab)1928 Bentley 4.5Litre Tourer (1999年8月/ペブルビーチ)
工場を出た時はMaddox&Kir社製のサルーンだったという記録があるので、後年典型的なオープン・4シーターのルマンタイプ・ツアラーに換装されたもの。
(写真04-4ab)1929 Bentley 4.5Litre Tourer (1980年1月/明治神宮絵画館前)
日本国内で撮影したこの車は、サイクルフェンダーの4シーター・ツアラーで後ろのトランクが木目でお洒落だ。この当時ルマン24時間レースの出走資格に4シーターが義務付けられていたせいか、ルマンで名を挙げたベントレーには4シータが多い。
(写真04-5ab) 1930 Bentley 4.5Litre Tourer (1999年1月/トヨタ自動車博物館)
トヨタ自動車博物館に展示されているこの車は4.5リッター・シリーズとしては最後に近い1930年製だが、この当時の高級車は購入者が好みのボディをコーチビルダーに発注するので、戦後のアメリカ車のように、外形から年式を推定することは出来ない。ルマンの優勝でよく知られるこのタイプはプラモデルにもなった人気モデルだ。
(写真04-6ab)1930 Bentley 4.5 Litre Tourer (1994年5月・ミッレ・ミリア/ブレシア)
クラシカルなヘッドライトを持ったこの車は車検を待つミッレ・ミリアの参加車だが、横から見た所は4.5リッター・シリーズの中ではホイルベースが一番短い部類だ。
(写真04-7a)1930 Bentley 4.5 Litre Tourer (2001年5月/ミッレミリア)
VandenPlas製の典型的なルマンタイプ・オープン4シーターで、車はミッレ・ミリアの2日目、海抜750メートルのサンマリノ・チェックポイントを目指し中腹のストレートを疾走中。
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(03B) < 1930-31 Bentley 4.5Litre Supercharged >
ベントレーの中で一番格好いいのは?と聞かれれば、勿論個人の好みもあるだろうが「ブロワー・ベントレー」と答える人が圧倒的に多いのではないだろうか。厳(いかめ)しく、男っぽいベントレーというイメージの中でも、ひときわ猛々しい顔つきを持つスーパーチャージャー付き(通称「ブロワー・ベントレー」)こそ、男の中の男と見えてしまう。このスーパーチャージャーを付けるというアイデアは、ベントレー・ボーイズに一人で数々の成績を残しているティム・バーキンの発想だが、W.O.ベントレーは付ける事に賛成ではなかった。しかし同じベントレー・ボーイズの一員で当時ベントレー社の会長であり大株主で資金援助もしていたウオルフ・バーナートの推薦で実現したと言われる。ラジエターのバッジは「スタンダード」も「ブロワー・モデル」も共に「黒」である。「ブロワー」は数が少なかったからか、それともW.O.ベントレーが独立したモデルとして認めたくなかったのかは不明だが。
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(写真05-1abc) 1929 Bentley 4.5 Litre Supercharged (2000年5月/グッドウッド)
登録番号UU5871、シャシーNo.HB3402,エンジンNo.SM 3901を持つこの車こそ、ティム・バーキンの手で各地を転戦した1号車そのものである。メーカーに先立って造られた車は、1929年6月のブルックランズ6時間耐久に続き、ダブリンのアイリッシュGPの時まではVandenPlas製のルマン・タイプのオープン・ツアラーボディだったが、10月のブルックランズ500マイルレースではノーズに整流カバーを付けシングルシーターに改造されたボディをブルーに塗って登場する。1932年3月今度は赤く塗られたこの車は、ブルックランズでバーキンのドライブにより221.976km/hというサーキット・トラックでの世界最高記録を樹立している。
(写真05-2abc)1929 Bentley 4/5Litre Superchrged Tourer (2007年5月/グッドウッド)
この車は登録番号UU5872、シャシーNo.HB3403、エンジンNo.SM3902,と言う事は、プロトタイプの第2号車で、前の車と同時に登録され、1930年のルマンにはプライベートで⑧⑨の2台がエントリーし、⑨は平均144.352km/hのコースレコードを樹立したがこの時は2台共リタイアしてしまった。この車は⑨番で走った車そのものだ。現在は赤く塗られている前の車も、ルマンを走った時はこれと同じボディで、「ブロワー・ベントレー」を代表するスタイルである。
(写真05-3a) 1929 Bentley 4.5Litre Supercharged Tourer (1992-10/ラフェスタ・ミッレミリア)
今では年1回のイベントとして定着した「ラフェスタ・ミッレミリア」の第1回目で、この時はほとんどの車が海外から参加した。一見一分の隙もない写真の車は、実は生まれた時はスタンダードの4.5リッター・モデルで,エンジン本体の仕様は両者に変わりが無いので、スーパーチャージャーを追加すれば変身出来るらしい。前項で紹介した2台はいずれも「バーキン」製のいわばプロトタイプなので1929年製だが、一般のカタログモデルとして登場するのは29年10月登録された1台を除き残り49台は全て30-31年に造られている。だから1928-29年の年式で登録されたものは調べるとすべてが改造車であることが解る。ボディは最初からVandenPlas製のオリジナルである。
(写真05-4ab)1928 Bentley 4.5Litre Supercharged Tourer (1997-05/ミッレミリア)
ブレシアの街で車検を待つ車の列で見つけたこのベントレーも典型的なスタイルをもつ「ブロワー・ベントレー」だが1928年製のこの車も、後年改造されたものだ。だが、改造といってもオリジナルが「スタンダード・モデル」を「スーパーチャージャー付き」に改造したのだから、これらは一概に「まがい物」とも言い切れない。この車はMulliners製のサルーン・ボディから一番人気のVandenPlas製のルマンタイプ・ツアラーに架装された。
(写真05-5ab)1929 Bentley 4.5Litre Supercharged (2000-05/ミッレミリア)
「UU44」という登録番号を持つ1929年製のこの車は元々はVandenPlas製のサルーン・ボディを持つ車として誕生した。ベントレーのシャシー・ナンバーは25台ごとに頭につく記号が変わるが、この車の持つ「HB3416」は、バーキンのプロトタイプ「HB3402~4」とおなじロットで極めて近い関係にある。逆にバーキンはこの車が造られる一寸前に3台分のシャシーを持って行って「ブロアー付き」に改造したとも言える。現在の形に改造する際はブロアーの1号車、「赤塗りのシングルシーター」を想定したがこちらは「2シーター」である。
(写真05-6a~e)1928 Bentley 4.5 Litre Supercharged Tourer (2007-06/グッドウッド)
この教科書通りで見るからに本物に見えるこの車も、1928年生まれ、ということは後から改造されたものだ。しかしボディ全体は最初からのオリジナルで、一番魅力的なVandenPlas製のルマンタイプ・4シーター・ツアラーだ。
(写真05-7ab)1930 Bentley 4.5Litre Supercharged Tourer (2000-05 /ミッレミリア)
お待たせしました、ここでやっと本物、生まれながらの「スーパーチャージャー付き」が登場します。全部で50台しか造られなかったから絶対数が少ないうえにベースとなった4.5リッターは665台もあるので、かなりの数が改造されているようで、僕はブロワーを13台撮っているが、オリジナルと確認できたのはプロトタイプ2台を含む4台だけで残りは後から変身したものと思もわれる。雨の中ウインドスクリーンを倒したまま走るのもジョンブル魂?か。
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(写真05-8abc)1930 Bentley 4.5Litre Supercharged (2006-06/イギリス国立自動車博物館)
最後にこれぞ本命と登場させたのが英国車については最も信頼を置いている「英国国立自動車博物館」(旧モンターギュ・コレクション)所蔵のこの車で、見る限りでは一点の非のうちどころもない完璧な姿だ。
(写真05-8d)(参考)1930 Bentley 4.5Litre Supercharged Drophead Coupe by VandenPlas
ここで終われば全く問題なかったのだが、ある資料に<50台造られた「ブロワー」の内26台はVandenPlas製のオープン・ボディが載せられた。>という記録があり、その中に「GY3905」はD/H Coupeと表示されていた。現在の姿はどう見てもドロップヘッド・クーペではないので色々探した結果、遂に「GY3905」を付けた最初のオリジナル・ボディの姿を見つけた。勿論スーパーチャージャーは最初から付いたれっきとした「ブロワー」だが、さりげなくカバーされている。権威有る国立博物館でも生まれながらのオリジナルを手に入れるのは至難の技という事だろうか。
(04) < 1930-31 Bentley 8Litre >
ヴィンテージ・ベントレーと言われる時期に、最後にして最大の作品が「8リッター」だ。最強のライバル「ロールス・ロイス」は1929年から既に「ファンタムⅡ」の時代に入っており6気筒OHV 7668cc(馬力は必要にして充分としか公表されない)のエンジンを持ち、ロールス史上最高の傑作とも言われる手ごわい相手だ。後手に廻ったベントレーとしては、これを上回るため、6気筒OHC4バルブ7983cc 200~230hpと言う、当時イギリス最大のエンジンで対抗した。このエンジンのベースとなったのは既に定評のある6.5リッターエンジンでボアを100ミリから110ミリに広げたものだ。ワイルドだったベントレー・エンジンも6気筒では高級車に相応しい洗練されたエンジンとなっていた。合計で丁度100台造られたが、世界的大不況の真っ只中でこれを売りさばくのは大変だったらしく、製造年次は1930-31年とされているが、登録されたのは30年5台、31年62台で、残りの33台は32年になってやっと登録されている。前々から財政危機が続いていたベントレー社は遂に倒産する事態に至ったが、この時このベントレーを引き取ったのがライバル「ロールス・ロイス」だった。皮肉な事にこの8リッターに脅威を感じ、他社に買い取られる事を恐れた結果だとも言われている。
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(写真06-1a~d)1931 Bentley 8 Litre Saloon (2002-12 /涌井ミュージアム)
埼玉県加須市にある涌井ミュージアムのコレクションの1台で、ボディはThrupp & Maberly製の堂々たるサルーンである。横から見ると後端がアルファベットのDに似ているところから「Dバック」と呼ばれる伝統的なスタイルで運転席との間に仕切を付ければ立派なリムジンだ。
(写真06-2a~d)1931 Bentley 8 Litre Harrison 4seater Tourer (2000-06 /グッドウド)
8リッター100台の半分近い45台の写真を確認した結果、殆どに重厚なボディが載せられており、メッキされたシャッター付きのグリルを持っている。登録時期から推定すると「ダービー期」以前なので、ボディとの釣り合いで高級感を出すため考えられ、それが引き続き「ダービー・ベントレー」の顔となった、と言う推理は的外れだろうか。ずっと下までグリルがありすごく面長にみえるが、全体はプロポーションがよく引き締まったスタイルは大きさを感じない。
(写真06-3a~d)1931 Bentley 8 Litre VandenPlas Tourer (1995-08/ペブルビーチ)
この車は1932年に登録されたにも拘わらずVandenPlas製のツアラー・ボディに合わせ本来のグリルのままである。何と言ってもこの車の売りは太く逞しいエクゾースト・パイプである事に異論はあるまい。
(写真06-4a~c) 1932 Bentley 8 Litre Corsica 4seater (2004-06/グッドウッド)
この車も1932年登録の組だがスポーティなボディに合わせメッキのグリルは付いていない。Corsicaというコーチビルダーはブガッティにも傑作を残しているが、同じスタイルでも何処か小洒落たセンスを感じる。この車も一見2シーターに見えるがカバーを外せば4シーターとなる。
今回は欲張りすぎてしまったので次回は軽く行きたいと思います。