B項で最初に登場するのはアメリカ製の電気自動車「ベイカー・エレクトリック」だ。ここ数年電気自動車が注目され、近い将来の自動車エネルギーの有力候補かと期待されているが、今から110年以上前1900年ころの自動車創成期には、エンジンも未だ試行錯誤の段階で「ガソリン・エンジン」の他に、当時動力の主流だった「スチーム・エンジン」もあったが、蒸気機関車と同じでボイラーの圧力が上がるまでに時間が掛かりすぐに動き出す事ができなかった。これに較べると、「電気自動車」は、ギアシフトも不要で運転操作も単純だったので、それなりの人気があったようで、幾つかのメーカーが存在した。
(写真01-1ab) 1902 Baker Electric (2007年4月 トヨタ自動車博物館)
(写真01-2ab) 1908 Baker Electric (2008年1月 ドイツ博物館/ミュンヘン)
<Ballot>(仏)
日本では殆ど知られていないが、「バロー」は1920年代に活躍したフランスの高性能スポーツカーである。エドワードとモーリスのバロー兄弟は、1905年からパリのブルーニュ大通り近くに工場を持ち船舶や産業機械のエンジンを造っていたが、1910年「Etablissements Ballot SA」という新しい会社を設立し、自動車のエンジンも造るようになった。(高級車「ドラージュ」のエンジンも手がけた)以来自動車に対する興味が徐々に膨らみ1918年、遂に自分の名前がついた自動車を造り1919年5月アメリカで開かれる「インディアナポリス500」レースへ参加することを決め、自動車メーカーとしてスタートした。その後6種の市販車を造ったが1931年「イスパノ・スイザ」に買収され、最後のモデル「HS26」は「Hispano Junior」として1932年まで販売された。
(市販車)
1921-「2LS」 4気筒 DOHC 1944cc (スポーツカー)
1923-「2LT」 4気筒 SOHC 1944cc (ツーリングカー)
1923-「2LTS」 4気筒 SOHC 1944cc (高性能版スポーツカー)
1927-「RH」 8気筒 SOHC 2874cc (大型サルーン)
1929-「RH3」 8気筒 SOHC 3049cc (大型サルーン)
1931-「HS26」 6気筒 SOHC 4580cc (大型サルーン イスパノ・ジュニアー)
(写真02-1abc) 1919 Ballot Indy Car 直8 4894cc (1999-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
レーシングカー造りに一念発起した「エドワード・バロー」が目をつけた設計者は1912年プジョーのGPカーで名を挙げたスイス生まれの「エルネスト・アンリ」だった。一方、アンリの方も数年前から直列8気筒エンジンのレーシングカー構想を温めており、この両者が合体して僅か半年で3台のインディ500用レーシングカーが完成した。レース本番では初出場にもかかわらず、予選1位、決勝は33台中4、11、21位と大健闘した。後ろに背負ったタンクに描かれているのは「バロー」のシンボルマークで、「錨」はエドワード・バローが元は海軍士官だった事から付けたと言われるが、この会社の原点が「船舶用エンジン」からだった事も関係あるかも知れない。
(写真02-2a) 1921 Ballot 3/8LC GP 直8 2973cc (2002-01 フランス国立自動車博物館)
「インディ500」レースは1920年からは排気量が3000cc以下と大幅に下げられたが、「バロー」は2973cc のエンジンで参戦、1920年2,5,7位, 1921年12位(2台リタイア),1922年3,25位(1台リタイア)という結果を残している。一方、ヨーロッパのグランプリは1921年から「3ℓフォーミュラ」となり、マシーンは兼用が可能となった。この年の「イタリアGP」では「バロー」のレース史上最初で最後となる唯一の優勝を飾っている。
(写真02-3abcd)1922 Ballot 2LS (2007年6月 グッドウッド/イギリス)
「バロー」がレース経験を基に造った最初の市販車が1921年の「2LS」で、1944cc DOHCの高性能エンジンを持つスポーツカーだ。写真の車はサイドブレーキがボディの外にある為、運転席側のドアは無いが、その代わり右腕の肘掛として使える。
(写真02-4a) 1927 Ballot 2 LTS (2001-05 ミッレミリア/ブレシア)
「2LTS」は、ツーリングカー「2LT」の高性能版で、現代の「GT」カーの様な存在といえる。写真の車も2ドアの洒落たカブリオレだ。
(写真02-5ab) 1930 Ballot RH3 Berline (2002年1月 フランス国立自動車博物館)
正面から見ると少し下すぼまりのラジエターグリルは「バロー」の特徴で、広角レンズの歪みではない。かなり大型のサルーンで、「バロー」の名が付いた最後のモデルとなった。
.
<Bandini>(伊)
「バンディーニ」はフィアットからエンジンの提供を受け、足回りも極力部品を利用しつつも独自のシャシーを造り、それにちっぽけで可愛いボディを被せる、という「スタンゲリーニ」や「ジャンニーニ」や「シアタ」などと同じイタリアに多数存在する小規模生産のワーク・ショップだ。ベースとなる車に改良を加えて性能アップを図る「チューニング・ショップ」と較べれば、ずっと自由度が高い設計が可能だから、たとえ造る車の数は少なくともメーカーと言える。製作者の「イラリオ・バンディーニ」は1911年イタリアのフォルリ生まれで、アルファロメオのデーラーと修理工場を経営する傍ら、自分でもレース活動を行っていた。1947年再会された「ミッレミリア」では「アルファロメオ」のエンジンを自ら改造した車で参加した、とあったので手元の「全出走車リスト」を調べたが「イラリオ・バンディーニ」の名前は見つからなかった。リストの車番に飛びがあるので、エントリーしたが出走しなかったのかもしれない。その後1953年になってはじめて「バンディーニ」の名前がついた車が2台750ccクラスに登場する。その内の1台のドライバーは「バンディーニ/シントーニ」であった。
(写真03-1a) 1951 Bandini 750 Sport (2009年10月 ラフェスタ・ミッレミリア/明治神宮)
750ccクラスの葉巻型シリーズだが、製造年からすると極めて初期の製品と思われる。
(写真03-1bc) 1953 Bandini 750 Sport (2004年5月 ミッレミリア/ブレシア)
同じ750ccクラスの葉巻型だがこちらは1953年製で、「バンディーニ」本人がミッレミリアに参加したのもこのタイプだったのか。ヘッドライトが見えないが夜8時すぎにスタートする初日はどうしたのだろう。
(写真03-2a) 1953 Bandini 750 Sport (2001年5月 ミッレミリア/サンマリノ)
同じ750cc でもフルウイズのスポーツカー・タイプが1953年には造られていた。
(写真03-2bc)1956 Bandini 750 Sport (2000年5月 ミッレミリア/ブレシア)
「バンディニ」は日本にも数台存在するが、この年は遥々生れ故郷に里帰りして、ミッレミリアに参加していた。
(写真03-2d)1957 Bandini 750 Sport (2000年5月ミッレミリア/ブレシア)
この車は、前の車と殆ど変わらないが、こちらは地元イタリアからの参加だ。
(写真03-2ef)1957 Bandini 750 Sport (1997年5月 ミッレミリア/ブレシア)
スポーツカー・タイプの4台目は白いラインが入っているので印象が変わるが、ボディの基本は殆ど変わっていない。それぞれ窓まわりなど細かい部分が異なるだけだ。
(写真03-3abc) 1953 Bandini 759 Spider (1999年8月 コンコルソ・イタリアーノ)
便宜上「ウイングタイプ」と名付けたこのタイプも1953年から存在していたようで、結局最初から3種類のモデルを造っていた。
(写真03-3de)1953 Bandini 750 Spider (2009年10月 ラフェスタ・ミッレミリア/明治神宮)
この車のヘッドライトは、大きく開いたフロント・ウイングにあらぬ方向を向いて埋め込まれているが、リトラクタブルで立ち上がると正面を向くように出来ている。
見よ!この大きさ、(じゃない小ささ!) イタリアならではの可愛さだ。
(写真03-4ab)1953 Bandini 1100 Siluro (2009年10月 ラフェスタ・ミッレミリア/明治神宮)
今までの750シリーズはいずれも「フィアット500」ベースだったが、最後に登場するこの車は「フィアット1100」から造られた強力版だ。
.
< BAR-Honda > (英・日)
「BAR」はBritish American Racingの頭文字で1999年から2005年まで存在したイギリスに本拠を置いたF1レーシング・チームである。1997年まで存在した「ティレル」を1998年買収し、1999年からは「ブリティッシュ・アメリカン・レーシング」として「ルノーV10エンジン」でスターとした。2000年からは「ホンダ」と提携しエンジンは「ホンダV10」(RA000E)に変わり、チーム名も「ブリティッシュ・アメリカン・レーシング・ホンダ」となった。2003年からは「BAR・ホンダ」となり、2005年いっぱいはこの体制が続く。しかし2005年中頃から世界的に「タバコ広告」の禁止運動が広がり、タバコ広告の入ったF1カーの映像はテレビ放映も出来なくなるのでは、と危惧される情況のなかで、「BAR」のメイン・スポンサーで、タバコメーカーの「BAT」(British American Tabacco)が手を引くこととなる。その持株55%すべてをホンダが引き取り、完全に「ホンダ」の支配下に収めると同時に、「BAR」は消滅した。因みに「ラッキーストライク」と「555」と言うタバコはこの会社が世界中で販売していた商品名だ。
(写真04-1abc)2003 BAR-Honda 005 F1 (2003-10 東京モーターショー/2004-06 イギリス)
「BAR」はCARTでチャンピオンとなった若くて有望な新人ジャック・ヴィルヌーブのために、周りの関係者が寄り集まって作り上げたF1チームで、当然メイン・ドライバーはジャック・ヴィルヌーブで2003年からはジェンソン・バトンが加わった。2003年終盤になっても来年度の契約について上層部と折り合いのつかないヴィルヌーブに変えて、来年から予定されていた佐藤琢磨を急遽繰り上げて最終戦「日本GP」に出走させた。⑨番はヴィルヌーブと変わった佐藤琢磨のナンバーである。この年の「ホンダ」の成績は振るわず、ヴィビルヌーブ出走15回中完走7回(最高6位2回6ポイント)、バトン出走16回中完走10回(最高4位2回17ポイント)、佐藤琢磨出走1回(6位3ポイント)合計26ポイントでメイクスの順位は5位だった。
(写真04-1d)BAR-Honda Service Truck (2004年6月 グッドウッド/イギリス)
僕はタバコを吸わないのでこの丸いマークが「洋モク」の「ラッキーストライク」とは気がつかなかった。トラックのメーカーははっきり判らないが「ルノー」だろうか。
< Batmobile >(BatmanCar) (米)
(写真05-1ab)1989 Batmobile (2004-08 カーメル市内/カリフォルニア)
ティム・バートン監督の映画「バットマン(1989)」「バットマン/・リターンズ(1992)」に登場する車で、一時マイケル・ジャクソンも持っていたと言われる。8月開かれるイベント見物のためカリフォルニアに行った際立ち寄った「カーメル」市内で、何の予告もなく突然目の前を走り去った車が「バットマン・カー」だった。イベントの参加車ではなく、音も静かで普通(?)に街乗りしている感じを受けた。外観の見た目は凄いが、レース用ではなく映画撮影用なので中身は意外とノーマルに近いのだろうか。
(写真05-2cdefg) 1989 Batmobile (2010-07 お台場・潮風公園)
2010年お台場の潮風公園で開かれた「東京コンクール・デレガンス」で、6年前、カリフォルニアで撮影した「バットマン・カー」に再会した。今回は近くでじっくり観察出来たが、正面に大きな空気取り入れ口があり、一見ジェット推進のようだがダミーだ。「バットマン・カー」は何種類ものモデルがあり、初代は1966年テレビ・シリーズ用に造られもので、ベースは1955年リンカーンの「フューチュラ」と呼ばれるコンセプト・モデルが使われた。バブル・キャノピーや大きなテイルフィンなどがテレビ・シリーズ制作スタッフのイメージにマッチしたのだろう。その意味では写真の車はティム・バートン監督のイメージによって造り上げられたものだ。
.
< Beardmor >(英)
「Beardmor」という車は日本では「ビードモア」と紹介されているが、イギリスでは「ビアード」と呼ばれるようだ。(これが愛称なのか、発音上morが消えてしまうのか僕には良く解らないが)ロンドン・タクシーと言えば、殆どの人は、「オースチンFX4」しか考えつかないが、この車は1919年からタクシー専用キャブをロンドンで走らせて居り、オースチンFX4によってシェアーを独占され1959年終焉を迎えるまでの40年間存在した自動車メーカーである。
(写真06-1ab) 1954~ Beadmor MkⅦ (1981-01 明治神宮外苑・絵画館前)
英国では1950年中頃までタクシーの助手席にオープンの荷物置き場を設置することを法律で義務付けられていた。この車にもそのオープン・スペースが見られるが、雨の多いロンドンでも荷物は大丈夫なんでしょうね。
.
< Bedelia >(英)
自動車の創世記が過ぎ、ほぼ約束事が固まって来た1910年頃から、オースチン・セブンが登場して小型自動車の革命を起こした1923年頃までは1000cc以下の小型車は「サイクルカー」と呼ばれ、自動車とは一段低い「別の乗り物」として扱われていた。「ベデリア」はフランス・パリの「Bourbeau et Devaux Co.」というメーカーで1910年から1925年まで長期間造られたから、現代の目で見れば変な乗り物だが当時としては人気が有ったのだろう。だから色々なモデルが多数現存している。
(写真07-1abcd) 1912 Bedelia BD2 (2000-06 グッドウッド/イギリス)
基本的なレイアウトは前後に座るタンデム方式で、客が前席で運転手が後席というのは辻馬車時代の名残だろうか。駆動方式は左右の長いベルト・ドライブで、初期のモデルでは前輪のすぐ後ろ辺りから取り出しており、もっと長かった。警笛用ラッパの管の長いこと。
操舵方式は構造上簡単な中央1点を軸に回転する馬車時代からの方法で、サイクルカーでは色々な仕掛けはそれぞれが思いついた方法を取り入れていたから面白い物が多い。
.
< Berkeley >(英)
「バークレー」という小型スポーツカーの名前を知っている人は少ないし、見た事のある人は殆どいないだろう。
英国のベッドフォードシャー州で当時ヨーロッパ最大手の「キャラバン(キャンピングカー)・メーカー」だった「Berkeley Coachwork Ltd.」社が、季節商品のキャラバンの隙間を埋めるべく思い付いたのが「安価」で「安全」で「簡単」な「小型スポーツカー」だった。1956年から1961年までに3輪の「T60シリーズ」の他、下記の5種の4輪シリーズを発売した。
(1)1956-57 Sports SE322「B60」空冷2気筒 2サイクル Anzani 322cc
(2)1956-57 Sports SE328「B65」空冷2気筒 2サイクルExcelsior 328cc
(3)1958-59 Sports SE492「B90」空冷3気筒 2サオクル Exselsior 492cc
(4)1959-61 「B95」空冷2気筒 4サイクル Royal Enfield 692cc(40hp)
(5)1959-61 「B105」空冷2気筒 4サイクル Royal Enfield 692cc(50hp)
*「B65」には色々のエンジン・バリエーションがあり、その中には「ホンダCB400スーパー・スポーツ」も選ぶことが出来た。
(写真08-1ab) 1957-58 Berkley Sports (1960-10 山王ホテル・赤坂)
写真の車は資料が少なく型式の特定が難しいが、初期型はドアヒンジが外付けなので、それがないこの車は「B90」と判定した。場所は山王下にあった「赤坂山王ホテル」の駐車場だが、撮影した昭和35年当時はまだ米軍に接収されて居り、「オフ・リミット」(日本人立ち入り禁止)の表示があったから、日本人の僕は垣根の外から望見するしかなかった。だから残念ながら後ろ姿は撮れなかった。車の大きさは周りの車と較べればいかに小さいかはおわかり頂けると思うが、なんとこの車のトランクには、子供用のランブルシートを取り付けることも可能だった。
.
< Berliet >(仏)
ベリエ(ベルリエ)というメーカーは非常に古い歴史を持つ会社で、創立は1895年だから殆ど自動車の創世期から自動車を造っていた。僕がこの車の名前を最初に知ったのは昭和30年代初期の「モーターマガジン」誌に紹介されていた1925年ベリエ・トウアラー(浜 徳太郎氏)とあった写真で、鳥のひなが最初に見たものを親だと思ってしまう刷り込み現象のように、僕の脳裏には「ベリエ」は「大型高級車」と刷り込まれていた。しかしこのメーカーは、「大型トラック」や「大型バス」分野で広く活躍していた。
(写真09-1ab) 1920 Berliet VL Torpedo (フランス国立自動車博物館)
直4 3306cc の中型車でディスク・ホイールやシンプルな装備からこの車に高級車のイメージは無い。
(写真09-2abc) 1922 Berliet 22CV (2010-04 日本銀行本店旧館前)
この車こそ僕が50年以上前に雑誌で見た「ベリエ」そのもので、その時一緒に掲載されていた「ロールスロイス」「ベンツ」「ベントレー」「イスパノスイザ」「ランチャ」「アルビス」などはその後機会があって写真に収めたが、この「ベリエ」については50年間姿を現わさなかった。今回現役時代の完全な姿に戻ってお披露目された。現役時代の完全な姿というのは、タイヤの横にぶら下がっている異様な物体で、1920年代の我が国独自の取り決めで、雨が降った時は泥はね防止の為着用が義務付けられていた。
(写真09-3ab)1939 Berliet Dauphine Saloon (レトロモビル/パリ)
「ベリエ」としては最後のモデルとなるこの年は、すっかりアメリカナイズされ、一見1938年型の「ビュイック」かと間違えてしまうほどそっくりだ。しかし、よく見るとホイールだけは戦前のシトロエンなどと共通の羽根車でやっぱリフランスの車だ、と納得する。
.
< Berna >(スイス)
モンツァ・サーキットで見つけた一寸面白いこの車の名前を見た時、僕は寡聞にして「Berna」という名前を知らなかった。雰囲気からしてフランスの車かなと思ったが調べてみたらスイス製であることが判った。1902年創業の大型トラックやバスの業界では相当な実績を持つ会社だった。資料の中に第2次大戦中ドイツ軍の「鉄十字」のマークをつけた軍用トラックがあった。
(写真10-1ab) Berna Truck (2001-05 モンツァ・サーキット/イタリア)
.
.
< Bizzarrini >(伊)
ジョット・ビッザリーニは1926年イタリアのリボルノで生まれた。父はトスカーナ地方の大地主だった。ピサ大学の工学部を卒業後1954年からアルファロメオ、1957年からはフェラーリでチーフ・エンジニアとして5年間働く。この間「250TR」「250GT SWB」「250GTO」などこのシリーズの傑作と言われるモデルを手がけるも、1961年12月社内の内紛がこじれ設計部門8名がフェラーリを辞めた。この仲間カルロ・キティ等とATS(Automobili Trismo Sport)を立ち上げるも、1962年自らの設計事務所を開設し、「ISO」社の「リボルタ」「グリフォ」の開発に関わる。その後、フェラーリに対抗心を燃やすフェルッチオ・ランボルギーニから指名を受け、フェラーリを上回るV12 DOHCエンジンを持つ「ランボルギーニ350 GTV」が1963年10月完成する。設計事務所として他社に技術を提供すると同時に自分の名前を付けた車「ビッザリーニ」も少数造られた。
(写真11-1abcd)1966 Bizzarrini 5300 Spyder SⅠPrototype (2004-08 カリフォルニア)
(写真 11-2abc)1967 Bizzarrini 5300 Spyder SⅠ(2004-08 カリフォルニア)
(写真11-2def)1968 Bizzarrini 5300 Spyder SⅠ(2004-08 カリフォルニア)
(写真11-3abc)1965 Bizzarrini GT(Grifo)5300 Berlinetta (1999-08 カリフォルニア)
「Strada 5300」は「Iso Grifo」の発展型なので「ストラーダ」にも初期にはこんな表示があったのだろうか。
(写真11-4abcd)1968 Bizzarrini GT Strada 5300 Berlinetta (1999-08 カリフォルニア)
ビッザリーニ社は1963年から「イソ・グリフォA3C/L」シリーズの製造に関わって来たが、1965年からはA3C のロードバージョンを「ビッザリーニGTストラーダ 5300」として少数を市販した。
(写真11-4e)(参考)1965 ISO Grifo A3C (2010-07 グッドウッド/イギリス)
「ビッザリーニGTストラーダ5300」の原型がこの車だ。
(写真11-4fgh)1968 Bizzarini GT Strada 5300 Berlinetta (2004-06 グッドウッド)
(写真11-4hij)1968 Bizzarrini GT Strada 5300 Berlinetta(2004-08 カリフォルニア)
・
(写真11-5abcd)1967 Bizzarrini P538/V12 Lambo (2004-08 カリフォルニア)
この車は1968年の「ルマン24時間レース」を目指して造られたがルール変更で出場はできなかった。ボディはファイバーグラスで出来ており、デザイナーはジョルジェット・ジウジアーロだった。エンジンは「シボレー」バージョンもあるが、この時はビッザリーニ自らが設計した「ランボルギーニV12」エンジンが積まれているようだ。
車の前に展示していた本が偶然我が家にもあった。自動車100年を代表する1台として1968年にこの車が選ばれていた。
(写真11-6ab)1968 Bizzarini MANTA (1969-02 東京レーシングカー・ショー)
この車の名前は「ビッザリーニ・マンタ」だが、出生の経緯は、ギアから独立したジョルジェット・ジウジアーロが「イタル・デザイン社」を作り、作品1号としてその斬新なデザインを発表するために、ビッザリーニから「P538」(シボレー・エンジン付)シャシーの提供を受けた、という訳で、性能よりもデザインが主役なので本当は「ジウジアーロ・マンタ」なのだ。写真はモノクロだが展示された車は真紅に白・黒2本のストライプが入っていた。
・
(写真11-7abcde)1970 AMC AMX-3 by Bizzarrini (2004-08 カリフォルニア)
このシリーズはアメリカのAMC社が高性能車へのイメージチェンジを図るため計画したプロジェクトで、1966年からスタートし「巡回自動車ショー」として全米を回った。「AMX/3」はAmerican Motors Xperimentalの第3世代で、1970年シカゴ・ショーでデビューした時はエンジンレスだったが、その後ビッザリーニの手でAMC製のV8 6.4 ℓエンジンが積まれ5台の完成車が造られた。
・
次回は大物「ベントレー」です。「ヴィンテージ期」「ダービー期」「戦後」となる予定です。