ドナルド・ミッチェル・ヒーレー(1893-1988)は 1930年代ラリーで活躍したドライバーで、「トライアンフ」ではジェネラルマネージャーとしてスポーツカーの開発にも携わり、その経験を基に、1945年イギリスのワーウィックに「Donald Healey Motor Co.」を設立した。最初の製品は1949年自製のシャシーにライレーの4気筒2443ccエンジンを載せた「ヒーレー・シルバーストーン」で、前輪は「サイクル・フェンダー」(非連動)のセミクラシカルなボディは主要輸出先のアメリカ受けを狙ったものだろうか。
(写真00a)(参考)1949 Healey Silverstone (2000-06 ミッレミリア/イタリア)
(写真00b)(参考) 1950 Healey Silverstone (2004-06 プレスコット/イギリス)
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<ナッシュとの提携>
ドナルド・ヒーレーは「オースチン・ヒーレー」の前に、1951-54年にかけて短期間ながらアメリカのナッシュ社と提携して「ナッシュ-ヒーレー」を造っている。シャシーを「ヒーレー」が、エンジンと駆動系を「ナッシュが提供し、ボディは51年(イギリスのパネルクラフトシートメタル社)52-54年(イタリアのピニン・ファリナ)が担当した。扱いとしては「ナッシュ」のカタログモデルとして、スポーティーで「粋」な車と位置づけされている。
(写真00c,d)(参考) 1953 Nash-Healey 2dr Hardtop "LeMans" (2004-08 ラグナ・セカ/カリフォルニア)
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「オースチン・ヒーレー」は1953年から68年まで16年の長期に亘って「アストンマーチン」「ジャガー」「トライアンフ」などと共に、2ℓ超の英国の大型スポーツカーの代表として、日本国内でも比較的多く見ることが出来た。モデルは大別して次の6種に分類される。
(1)1953-56「100」「100M」直4OHV 2660cc 90hp/110hp (14,634台)
(2)1954-56「100 S」 直4OHV 2660cc 132hp (50台)
(3)1956-59「100 Six」 直6OHV 2639cc 102hp/117hp (15,444台)
(4)1959-61「3000MkⅠ」 直6OHV 2912cc 124hp (13,650台)
(5)1961-63「3000MkⅡ」 直6OHV 2912cc 132hp (11,564台)
(6)1964-68「3000MkⅢ」 直6OHV 2912cc 150hp (17,712台)
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< 1953-56 100/4 >(BN1/BN2)
最初に登場した「オースチン・ヒーレー」で,エンジンはオースチンA90「アトランティック」から転用した4気筒2660ccだった。当初は単純に「100」だったが、次からのモデルが6気筒となったことから「100/4」と表記されることが多い。因みに車名の「100」はスポーツカーの証「100マイル/時」を表す。
(写真01-1abc) 1953-56 Austin Healey 100 (1958年 銀座8丁目 交詢社通りにて)
僕が初めて見た「オースチン・ヒーレー」だ。静岡に住んでいた僕は、時々自動車の写真を撮りに東京に遠征していたが、銀座はいつでも珍しい獲物を見つけることができる素晴らしい場所だった。当時はこの辺りでも自由に駐車が可能だった。
(写真01-2ab)1953-56 Austin Healey 100 (1960年4月 静岡市内にて)
当時僕が住んでいた静岡には10指に余る小型ヨーロッパ車が走っていたがいずれも実用車で、地方都市でスポーツカーを見る機会は全くなかった。この日、自転車で国道1号線を走っていてこの車に追い越されたあと、何故か1キロ程必死に追いかけた。不思議なことにその先にこの車が停まっていたのだ。執念とは恐ろしい。
(写真01-3abcde)1953-56 Austin Healey 100 (1961年3 月 港区内中の橋付近)
1959年10月、僕は東京へ転勤となった。勤務先は港区芝三田四国町で都電「慶應義塾前」停留所の斜め前にあった。東京タワーが近く周辺には各種専門技術を持った自動車修理工場が密集していたから、昼休みには自転車でひと回りするのが日課になっていた。当時は路上駐車が自由にできる時代だったから、修理待ちで珍しい車がゴロゴロ道端に停めてあった。
.(写真01-4ab)1953-56 Austin Healey 100 (1960年9月 港区虎ノ門にて)
僕が現役だった頃は週休2日ではなかったから、土曜日は半日働いて、午後から少し離れた虎ノ門、赤坂溜池方面を重点的に回った。アメリカ大使館から始まるこのコースは「ニューエンパイア・モータース」「日本自動車」「日英自動車」「東邦モータース」「安全自動車」「伊藤忠自動車」「三和自動車」「日仏自動車」「新東洋企業」など輸入車デーラーやその整備工場が軒を連ねていたから重要な情報源だった。写真の場所は虎ノ門病院近くにあった塗装工場の前で、車はハードトップを付けている。
(写真01-5ab) 1953-56 Austin Healey 100 (2001年5月 ミッレミリア/ブレシア)
オースチン・ヒーレーはミッレミリアでも沢山見られる。写真の車は今まで紹介した車たちが現役時代に撮影されたのと違って、50年近く経過したクラシックカーとして大切に保存されて来たもので、非常に良いコンディションで「オリジナリティ」が保たれている代表として採りあげた。フロント・ウインドシールドは必要に応じてレース仕様に倒す事も出来る。車検場からスタート地点へ移動する途中で見つけたものなので参加車ではないかも知れない。
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< 1953-56 Austin Healey 100M >
1953年のルマンでは2台のオースチン・ヒーレーが出走し距離部門で12,14位、3リッタークラスで2,3位を獲得した。見た目は大きなドライビング・ランプ以外は市販車と変わらず、100%オリジナルのプロダクション・モデルといわれたが、多少のチューニングが施されており、このキットを組み込んだのが「100M」シリーズである。
(写真02-1a)1956 Austin Healey 100M (2007年6月 英国国立自動車博物館/ビューリー)
この車は先代のモンターギュ伯爵が購入し、ヒルクライム・レースなどに参加したが、最近レストアされ博物館に展示された。ここに展示されているイギリス車はオリジナルに忠実に再現されており最も信頼出来る。
(写真02-2ab)1955 Austin Healey 100M (1989年10月 モンテミリア/神戸・ポートアイランド広場)
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日本にもこの車は輸入されているが、現役時代の1950~60年代には一度も見かけなかったから多分ずっと後になってから入ったものだろう。「100M」はボンネットに2列のルーバーが切られているのが外見上の特徴である
(写真02-3a) 1955 Austin Healey 100M (2000年5月 ミッレミリア/ブレシア)
車検場のある「ビットリア広場」付近で順番を待つこの車もボンネットに2列のルーバーを持ち、しかも2つの大きなドライビング・ランプまで付けている。バンパーのオーバーライダーを外せばルマンを走った車とそっくりになる。後ろに見えるグリーンの車は1955年「フィアット8V(オット・ヴ)」で、フィアットが本気で造ったスポーツカーだ。
(写真02-4ab)1954 Austin Healey 100M Hardtop (1997年5月 ミッレミリア/ブレシア)
こちらもミッレミリアで見付けたハードトップ付きのオースチン・ヒーレーだが、かなり本気のようで、リア・トランクにはレース用の大型フィラーキャップを持っている。ハードトップは後窓が楕円形だった初期の市販型と違って横まで拡がったラップアラウンドとなっている。
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< 1955 Austin Healey 100 S >
1955年オースチン・ヒーレーは「100S」で再び「ルマン24時間レース」にチャレンジした。6時間後、50位で走行中、トップを走っていた「ジャガー」が追い越しざま目の前を横切って急にピットインしたため、避けようとしてハンドルを切った「オースチン・ヒーレー」に、後続の「メルセデス」が乗り上げて宙を飛び観客席に突っ込んだ。ドライバーと観客80人が死亡するという史上最悪の事故となってしまった。「オースチン・ヒーレー」の後半分は跡形なく破壊されリタイアとなったが、皮肉な事に引き金となった「ジャガー」は無傷で堂々優勝した。この時の「オースチン・ヒーレー」はワークス・チームではなく50台限定で市販された「レース仕様」の「100S」で、車はアルミ・ボディ、アルミのシリンダーヘッドで軽量化を図り、バンパーや幌も省かれた上、ウインド・スクリーンもプラスチック製で90キロ以上も軽く仕上がっており、エンジンは132hpと大幅に強化されている。
(写真03-1ab)1955 Austin Healey 100S Roadster (2000年5月 ミッレミリア/ブレシア)
ビットリア広場で車検を待つ「100S」。初めからバンパーが付いていないから取り外した痕跡は全くない。ラジエター・グリルの上縁はこれまでと変わらないが、下半分はぐっと狭められてほぼ楕円形となり、この後出現する「100/6」や「3000」シリーズ.に大きな影響を与えた。
(写真03-2a)1955 Austin Healey 100S Roadster (2001年5月 ミッレミリア/サンマリノ)
サンマリノの坂道を駆け登る「100S」。ウインドシールドは縁もないプラスチックの一枚板でいかにも軽そうだ。こちらはサイドマーカーが追加され、ほんのちょっとロードバージヨンだが、シートの後ろに幌はなく雨対策は全くない。
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< 1956-59 Austin Healey 100/6 >(BN4/BN6)
1956年、ほぼ同じ排気量の2.6 ℓ級だが6気筒の新しいエンジンを持つ「100/6」が登場した。このエンジンは昨年デビューした「オースチンA90 ウエストミンスター」の2639cc 85hpを102hpに強化したもので、1957年には更に117hpまでパワーアップされている。1956年登場した「BN4」は2+2のシートを持ちホイールベースも2インチ長く、可倒式だったウインドスクリーンは固定式となった。ラジエター・グリルの開口部は「100S」に範を採った少し大きい楕円形で、中の波型は当時の「A50」や少し後に登場する「オースチン・ミニ」に共通するオースチンのシンボルだ。1958年には補助シートのない純2シーター「BN6」も登場した。
(写真04-1abc) 1956-59 Austin Healey 100/6 (1962年3月 銀座・松屋通り)
この写真は街の情景が良く写っている1枚で、銀座4丁目と3丁目を隔てる「松屋通り」、突き当りが外堀通りだ。昭和37年と言えばまだ東京オリンピックの2年前だがダットサン・ブルーバード、トヨペットコロナは既に走っており、後ろには1946-48年のプリムスも現役で写っている。街を歩く人達のファッションは黒っぽく地味だ。交差点の両側には靴磨きのおばさんも見える懐かしい昭和の光景だ。
(写真04-2abc)1956-59 Austin Healey 100/6 (1960年2月 新橋・第一ホテル横)
これらの「100/6」が「2+2」なのか「2シーター」なのか4気筒の「2シーター」と並べてみたが違いが判らない。2枚目の写真の背景に売店の文字が写っているいが、よく見ると「アクセサリー・舶来化粧品・紳士用小物」と書かれている。外国製品を表す「舶来」と言う言葉は今は殆ど死語に近いが、当時はまだまだ皆んなに憧れを抱かせる高級イメージを持った言葉だった。
(写真04-3ab)1956-59 Austin Healey 100/6 (2000年5月 ミッレミリア/ブレシア)
2トーン塗り分けのサンプルとしてカラーで撮った2台を採り上げた。場所はブレシアの車検場の1ブロック隣にある「ドゥオーモ広場」で名前の通り12世紀に造られた「旧ドゥオーモ」と、17世紀に造られた「新ドゥオーモ」と呼ばれる教会が2つ並んでいる。車検を終えたミッレミリアの出場車や伴奏する関係者の車達は夜8時のスタートまで街のあちこちにある広場で時間を過ごしているから、何処に行っても素晴らしい車で溢れている。
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< 1959-61 Austin Healey 3000 MkⅠ >(BN7・2シーター)(BT7・2+2)
1959年、ベースとなるオースチン「ウエストミンスター」のエンジンが2639ccから2912ccにスケール・アップしたため、このエンジンを使うオースチン・ヒーレーも2.6 ℓ から3 ℓに変り、車名は排気量を表す「3000」となった。このシリーズは生産が終了する1967年までにMkⅡ、MkⅢと進化する。
(写真05-1ab)1959-61 Austin Healey 3000 MkⅠ (1961年3月 横浜・山下公園付近)
エンジンが大きくなって「3000」と名前が変わったが、外見はグリルも含めて全く変わりなく、唯一のポイントはグリル内の「3000」のバッジだけだがこの角度では全く確認手段はない。場所は道を隔てた向こう側が山下公園で、この駐車場の隣はユニオンジャックが掲げられたイギリス領事館だから車も外国人所有の「Eナンバー」だ。
(写真05-2a)1959-61 Austin Healey 3000 MkⅠ (1997年5月 ミッレミリア/ブレシア)この写真は唯一の手がかりとなる「3000」のバッジが確認できるアングルで撮られたもので、場所はこれもドゥオーモ広場である。
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< 1961-64 Austin Healey MkⅡ >(BN7・シーター)(BT7・2+2)(BJ7・2シーター)
排気量は変わらずにSUのトリプル・キャブレターで124hpから132hpまで馬力を上げたモデルが「3000MkⅡ」で、ラジエター・グリルの中が波型から縦線に変わり、ボンネットのオースチン・ヒーレーのエンブレムの下に「3000 MarkⅡ」が加えられ識別しやすくなった。
(写真06-1ab)1961-62 Austin Healey 3000 MkⅡ (1962年5 世田谷区・二子玉川園にて)
初期型1961-62年の「BN7」には三角窓がなく幌を上げた時はプラスチックの窓を付ける。
(写真06-2ab)1962-64 Austin Healey 3000 MkⅡ (1984年7月 富士スピードウエイ)
後期型1962-64年の「BJ7」には三角窓が付き、サイドウインドーはガラスの巻き上げ式となった。
. < 1964-67 Austin Healey 3000 MkⅢ >(BJ8)
オースチン・ヒーレー・シリーズの最後に登場するのは、同じ排気量ながら150hpまでパワーアップした「3000 MKⅢ」で木目のダッシュボードやサーボ付きブレーキなど歴代のベストカーと言われるが、外見上はボンネット先端の「3000 MkⅢ」のバッジしか変わっていない。
(写真07-1a)1966 Austin Healey 3000 MkⅢ (1989年10月 モンテミリア/神戸・ポートアイランド広場)
ボンネット先端に有るバッジに「3000 MkⅢ」が追加され2段になっているのが判る。
(写真07-2ab) 1966 Austin Healey 3000 MkⅢ (2004年6月 プレスコット/イギリス)
ヒルクライムで有名な「プレスコット・サーキット」で、出番を待つこの車は、レース仕様にかなり改造されている。
(写真08-1a)(参考) 2010 Sebring SX 2.8Litre (2010年6月 グッドウッド/イギリス)
最後は日産エンジンを使った「そっくりさん」で、「オースチン・ヒーレー 3000 MkⅡ、MkⅢ」と殆ど見分けが付かない。
<オースチン・ヒーレー・スプライト>
オースチン社は1952年の合併により「MG」などを含む「BMCグループ」となっていたが、そのスポーツカー部門の主力商品である「MG」が、「TD」「TF」「MGA」と進化するに連れて排気量も1500ccクラスまで上がってしまったので、その穴を埋め手軽に楽しめる小型スポーツカーを目指して企画されたのがこの車だ。だから元々は「MG」のために作られたのだが、コストダウンのため使われたのが、当時の市販車の中で一番小型だった「オースチンA35」の足回りとエンジンで、そのためか、車名は「オースチン・ヒーレー・スプライト」となってしまった。4気筒OHV 948cc のエンジンはA35サルーンが34hpだったのに対して、圧縮比を上げ2基のSUキャブレターで43hpまで強化された。
1958-60 Austin Healey Sprite MkⅠ(AN5) 948cc 48,987台 (かに目のヘッドライト)
1961-62 〃 MkⅡ(AN6) 948cc 20,450台(MG ミゼット MkⅠが誕生)
1962-64 〃 MkⅡ(AN7)1098cc 11,215台
1964-66 〃 MkⅢ(AN8)1098cc 25,905台
1966-70 〃 MkⅣ(AN9)1275cc 21,768台
1971 Austin Sprite (AN10)1275cc 1,022台 (オースチンは終了、以後MGのみ79年まで)
(写真09-1ab) 1958-60 Austin Healey Sprite MkⅠ (1959年 銀座・みゆき通りにて)
この写真は僕が初めて見付けた「かに目」で、板金修理の途中らしく大き目立つ下地塗装は気になるが、そんなことは言っていられない、と飛び付いて撮ったのがこの写真だ。その後人気者のこの車は色々な所でよく見かけるようになり、数えたら37種もの「かに目」を撮っていた。しかし最初に出会った時の感動は忘れない。後ろの看板には「十円、錦ずし」とあり、回転寿司のない頃だから銀座で、カウンターで、10円で寿司が食えたなんて本当!?
(写真09-2abc)1958-60 Austin Healey Sprite MkⅠ (1961年3月 横浜・シルクセンター付近にて)
この車も 全くの新車当時撮影したもので当時の街の情景が多く写り込んでいるので採り上げた。場所は山下公園近くのシルクセンター付近で、何処で撮っても絵になる車だ。
(写真09-3a)1958-60 Austin Healey Sprite MkⅠ(1963年5月 第1回日本グランプリ・鈴鹿サーキット)
1963年5月、出来たばかりの鈴鹿サーキットで日本初の本格的なレースが開催された。GTレース(1300cc以下)に出場したこの車は、トップでゴールインしたが小型に改造した風防が規則違反とされ、残念ながら失格となってしまった。
(写真09-4a)1958 Austin Healey Sprite MkⅠ (1985年11月 筑波サーキット)
レースに向けて整備中のスプライト。アリゲーター状にパックリ口を開けているのはよく見かけるが、完全に取り外した姿は珍しい。
(写真10-1ab)1960 Austin Healey Sprite MkⅠHardtop (1984年7月 筑波サーキット)
以下レースのためにいろいろ工夫・改造したスプライトが登場する。最初は空気の流れをよくするために「ファストバック」のトップを付けたもの。なんとなくふっくらして馴染まないと言う印象を持っていたが、我が家のご近所で撮った写真にヒントを発見した。その車は「MGミジェット」で幌とハードトップを使い分けていたが、スプライトではMkⅢに該当する年式なので、もしスプライトの純正部品だとしても「MkⅡ」か「MkⅢ」から借用したものだろう。
(写真10-1cd)(参考)1964-66 MG Midget MkⅡ (1989年 千葉市稲毛区にて)
(写真11-1ab) 1964-67 Austin Healey Sprite Special Coupe (1981年12月 筑波サーキット)
ナンバーから見るとイギリスで仕立てたと見られるこの車のやる気はかなり本気だ。実はスプライトは1965-67年の3年間ルマンに挑戦しており色はグリーンでホイールもこれと同じものを使っている。コーダトロンカのクーペボディまで同じだが残念ながら全体の印象はこの車ではない。とはいえ、この車は本格的なレーサーの凄みを持っている。
(写真12-1ab)1958-60 Austin Healey Sprite Longnose (1999年ラフェスタ・ミッレミリア・明治神宮)
ホイールから後ろは全くオリジナルのままで、ヘッドライトとノーズが整形されているこのタイプについてはは、僕は何もデータを持たないので何も判らないが、とてもスムーズに仕上がっており素人ワザとは思えない。
(写真13-1ab) 1961 Austin Healey Sprite MkⅡ (1962年8月 港区・一の橋付近にて)
1961年5月、エンジンは948ccのまま、「かに目」から「普通」のボンネットに変わった「スプライトMkⅡ」が誕生した。同時に兄貴分として「MGミジェットMkⅠ」もスタートした。「スプライトがMkⅡ」なのに出足の遅れたMGは「MkⅠ」と、一つづれる事になる。このモデルは1962年10月にはそのまま排気量が1098ccにアップする。暫くは「スプライト」と「ミジェット」は併売され、両者をまとめて「スプリジェット」と呼んだ。
(写真13-1c)(参考) 1962 MG Midget MkⅠ (1962年1月 東京オートショー・千駄ヶ谷体育館)
「オースチン・ヒーレー・スプライト」と同時に発売された「MGミジェット」はバッジとグリルパターンが異なる、いわゆる「バッジ・エンジニアリング」の兄弟で、格上の「ミジュット」にはサイドにクロームのモールディングがあり、値段は689ポンドだったのに対して、「スプライト」は660ポンド (Dx674ポンド)と、僅かに安かった。当時ポンドは固定相場で1008円だったから換算すれば70万円程度だが、当時の物価指数は今の4~5分の1と言われるので実感としては300万円くらいの感じだろうか。
(写真14-1ab) 1964-66 Austin Healey Sprite MkⅢ (1977年4月 筑波サーキット)
1964年登場した「スプライトMkⅢ」は、エンジンはMKⅡ・後期型で既に1098ccとなっており変更はないが、窓ガラスが巻き上げ式となり三角窓が付いた。それとドアの開閉が外から出来る様に取っ手が外側に付いたのが外見上大きな識別点となる。
この後「スプライト」は1966-70年1275ccのエンジンで「MkⅣ」となり、1971年には車名が単純に「オースチン・スプライト」だけとなってこの年で生産は終了した。
さあ、次回は「B項」に突入! 気分も新たに頑張ろう。しかし「ベントレー」「BMW」の大物や、僕が最も力を入れて撮り溜めている「ブガッティ」、それと、初めて登場するアメリカ車「ビュイック」も有り、どうなる事やら。