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第30回 戦後のアメリカ車 - 11 :1940年代の新型車(フォード)
2014.6.30

 第2次世界大戦後のフォードはそれまでのずさんな経営によって毎月1000万ドル近い赤字を出し、生産台数もビッグ3の3番目に甘んじ、フォードはシボレーに大きく水をあけられ、3位のプリムスにも肉薄されるほど危機的状態にあった。エドセル・フォードの死後、1945年9月に社長に就任したヘンリー・フォードⅡ世は「Whiz kids':ウィズキッズ(若い達人たち)」のニックネームで活躍した米国陸軍航空隊の士官で形成されたグループを役員に、そしてGM傘下のベンディックス社社長アーネスト・ブリーチ(Ernest R. Breech)を副社長に迎えてフォードの立て直しに取り組んだ。
 ブリーチが1946年7月、フォード社に入社した時、1949年型フォードのデザインは完成してツーリングの準備も始まっていた。ホイールベース98インチの小型車と118インチのフルサイズの2本立てであったが、1946年5月に発表された1947年型スチュードベーカー・チャンピオンを見て、その斬新さに衝撃を受け、白紙に戻してゼロからデザインのやり直しを決断する。既に完成していたツーリングはフルサイズ用をマーキュリーと普及版のリンカーンにまわし、小型車用はフランスに送ってフォード・ヴィデットに転用して、作ってしまっていたツーリングの無駄を解決した。
 新しいデザインはフォード社のデザインチーフ、ボブ・グレゴリー(Eugene T. "Bob" Gregorie)のチームと、新たにブリーチのゴルフ仲間で工業デザイナーのジョージ・ウォーカー(George W. Walker)とコンサルタント契約を結び、彼のチームとの競作となった。フルサイズクレイモデルでのコンペティションの段階まで進んだが、満足できる作品はできなかった。
 そんな時、インディアナ州サウスベンドにあったレイモンド・ローウィ事務所のスチュードベーカー・スタジオでは数人のデザイナーがリストラされ、その中の一人ディック・カリアル?(Richard Caleal)がデトロイトのジョージ・ウォーカー事務所を就活のため訪れた。ウォーカーはカリアルに2~3週間のうちに1/4クレイモデルを添えてデザインの提案をしなさい。結果が良ければ採用しようと伝えた。カリアルはスチュードベーカー・スタジオの上司であったボブ・バーク(Robert E. Bourke)に協力を依頼し、バークをはじめ多くの仲間が仕事を終えたあと毎晩手伝うことになった。場所はサウスベンドの近くの町ミシャワカ(Mishawaka)にあったカリアルの自宅のキッチンテーブルであった。ある程度形ができたころ、更に何人かのデザイナーが加わり、その中のボブ・コト(Holden "Bob" Koto)が全体の形、バークがフロント部分とグリルを完成させている。
 フォード社において、グレゴリー、ウォーカー、カリアルの3種類の1/4クラスターモデルが審査を受けた結果、カリアル案が採用され、更にフルスケールモデルでグレゴリーとウォーカー(カリアル案)が競い、最終的にウォーカーが提案したカリアル案が採用され、更にリファインされたのが1949年型フォードであった。この時カリアルはウォーカーから1セントも貰えなかったが就活には成功した。しかし、彼は1949年にはクライスラーに転籍している。一方、ジョージ・ウォーカーは1955年5月にフォード社初のスタイリング担当副社長に就任、1961年に退社している。
 1949年型フォードのデザインに関わるストーリーは1984年発行のJohn Bridges著「Bob Bourke designs for Studebaker」、1996年発行のMichael Lamm & Dave Holls著「A Century of Automotive Style : 100 years of American car design」、および「Hemmings Classic Car」誌2005年5月号に詳述されている。

◆フォード(Ford)
 前述したブリーチ副社長の決断はみごとに的中し、1949年型フォードは前年の2.6倍、約112万台(シェア21%)を売り、シボレーの約101万台を抜いて1位に返り咲いた。しかし、1950年型では約121万台(シェア18%)売ったが、シボレーの約150万台に及ばず2位に後退してしまった。シボレーは流行のハードトップをラインアップに加え、普及し始めたAT(オートマチックトランスミッション)も設定したが、フォードには設定がなかったのも影響したのであろう。

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上の3点は1949年型フォードのカタログ。1949年型フォードは1948年6月10日、ニューヨークのウォルドルフ・アストリアホテルで発表され。その後のデザインの標準ともなったモダンなスラブサイドボディー、1906年型モデルNからずーっと使い続けてきた横置きリーフスプリングとソリッドフロントアクスルを捨て、フロントにはダブルウイッシュボーン+コイルの独立懸架が採用された。エンジンは3.7L直列6気筒95馬力と3.9L V型8気筒100馬力があり、3速MTが標準で、オプションでオートマチック・オーバードライブ(OD)が設定されていた。加速時は44km/hで自動的にODとなり、減速時は34km/hでODが解除された。サイズはホイールベース114in(2896mm)、全長5000mm(ステーションワゴンは5283mm)、全幅1849mm。直6とV8それぞれにデラックスとカスタムデラックスが用意されており、価格はデラックスの直6が1333~1472ドル、V8は1420~1546ドル、カスタムデラックスは直6が1511~1559ドル、V8は1590~1636ドル。コンバーティブルはカスタムデラックスのみで直6が1886ドル、V8は1949ドル、ステーションワゴンもカスタムデラックスのみで直6が2119ドル、V8は2264ドルであった。

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「LIFE」誌1948年10月25日号に掲載された1949年型フォードの広告で、パレードしているコンバーティブルのフロントシートに3人掛けして幅広のシートをアピールしているほか、周りにはセールスポイントを書いたバナーやプラカードを掲げたセールスパーソン?が徒歩で加わっている。

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「Colliers」誌1949年2月19日号に掲載された1949年型フォード カスタムフォードーセダンの広告。フォードでは伝統的に4ドアを「フォードー(Fordor)」、2ドアを「ツードー(Tudor)」と称する。この広告では動物たちにフォードの印象を語らせている。フォード社は1949年型フォードのためのツーリング設備に7200万ドル投入し、1000万ドルを超える広告宣伝費を投じたと言われ、実に多種の広告を制作している。

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1950年型フォードV8シリーズのカタログ。50年型はマイナーチェンジが施され、エンジンフードのマスコットのデザインが変わり、フード前面にあった「FORD」の文字はエンブレムに置き換えられ、パーキングランプの位置と形状が変更を受けた。また、ドアハンドルはプッシュボタン化され、この絵では見えないが、左側リアフェンダーにむき出しで付いていた燃料給油口はフェンダー内に隠されている。

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上の2点は1950年型フォード ステーションワゴンのカタログだが、上側のカタログではまだ「カスタムデラックスステーションワゴン」となっており、下側のワゴン専用カタログで初めて「カントリースクワイアー(Country Squire:田舎紳士)」の名前が登場した。この後、フォードのフルサイズウッディワゴンには必ずこの名前が付けられることになる。

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1950年型フォードのシンプルなインストゥルメントパネルと新しくなったメダリオン(エンブレム)、フードオーナメント(マスコット)およびパーキングランプ周り。

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GM、クライスラーがハードトップで人気を博すのを、指をくわえて見ていたフォードが、苦肉の策として出したのがこの「クレストライナー」であった。ベースはカスタムデラックスツードー(1590ドル)で、これに121ドル高の1711ドルで販売された。エンジンはV8のみで、専用サイドトリムを持つツートーン塗装で、ビニールトップ、フェンダースカート、専用ホイールキャップ、専用の内装などで豪華さ、特別さを演出している。モデルイヤー末期の7月に発売されたため生産台数はわずか1万7601台であった。

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上の2点は1951年型フォードのカタログだが、外観上の大きな変化はグリルのスピナーが2つになり、インストゥルメントパネルが大幅な変更を受け、シリーズ呼称がカスタムデラックスは単純にカスタムとなり、それに廉価版のデラックスとの2シリーズとなった。1951年型の最大のトピックは初めてATが設定されたことで、フォードとボルグワーナーの共同開発による3速ATで「フォードマチック(Fordomatic)(Ford-O-Maticと表記されることもある)」と称し、+159ドルでオプション設定された。もう一つのトピックは3カ月ほど遅れて登場したフォード初のハードトップモデルであった。

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他の1951年型モデルより3カ月ほど遅れて登場した、フォード初のハードトップモデル「ビクトリア」。フォードのデザインスタッフは多くの新車開発の真っ最中でハードトップまで手が回らなかったため、オーバーン・コード・デューセンバーグで有名なゴードン・ビューリグ(Gordon Buehrig)をチーフとして、フォードとウエットローファー・エンジニアリング社(Wettlaufer Engineering Corp.)のデザイナー、エンジニアによるタスクフォースを編成して開発された。価格は1925ドルでコンバーティブルより24ドル安かった。生産台数は9カ月で11万0286台であった。宿敵シボレーベルエアは1914ドルで10万3356台であった。この年のフォードの全生産台数は約101万台で、シボレーの約123万台を超えることはできなかった。なお、ビクトリアの登場により1951年型クレストライナーは8703台生産され、途中で中止された。

◆マーキュリー(Mercury)
 初めての戦後型マーキュリーは1948年4月29日に1949年型として発表された。従来はフォードのボディーを使っていたが、1949年型ではリンカーンの普及版と同じボディーをベースに開発された。もともとフォード用に開発されたが副社長のブリーチにでかすぎると言われ、マーキュリーに回ってきた代物である。市場には受け入れられ、前年モデルは販売期間が短かったこともあるが、生産台数はわずか5万台(シェア1.5%、16位)であったのが、1949年型は30万台(シェア5.8%)を超えて堂々6位に躍進している。

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上の3点は1949年型マーキュリーのカタログ。モデルバリエーションは上の絵にある4車種のみであった。4ドアセダンのリアドアは後ろヒンジの観音開きである。ドアハンドルは途中でプッシュボタン式にランニングチェンジされた。エンジンは1948年型の3.9Lのストロークを0.25in伸ばして4.0inとした4.2L V型8気筒Lヘッド110馬力に3速MTを積み、オプションで「タッチオマチック(Touch-O-Matic)」と称するオーバードライブが設定されており、これによってエンジン回転を23%低く抑えることが出来るとある。サイズはホイールベース118in(2997mm)、全長5258mm(ステーションワゴンは5436mm)、価格は1979~2716ドルで競合車はGMのポンティアック、オールズモビル76、ダッジなどであった。なお、初期のモデルはフレームの強度不足があり、途中で強化対策が実施された。

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上の2点は1950年型マーキュリーで49年型と外観上の違いはわずかであった。ただし、インストゥルメントパネルは大幅に変更を受けている。1950年6月20日にフォードのクレストライナーと同じ目的で「モンテレイ(Monterey)」が発売されている。

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上の2点は1951年型マーキュリーのカタログ。前年同様マイナーチェンジで登場したが、テールランプをはじめリアエンドのデザインは変更された。この年待望のATが「マーコマティック(Merc-O-Matic)」の名前で設定された。一番下のクルマがモンテレイで、ビニールあるいはキャンバストップ、フロントドアのオーナメント、サイドシルモールディング、専用の内装などでGM、クライスラーのハードトップに対抗しようと頑張っていた。価格はビニールトップが2127ドル、キャンバストップは2116ドルで、ベースとなったクーペよりそれぞれ180ドル、169ドル高であった。


◆リンカーン(Lincoln)
 1948年4月22日、初めての戦後型リンカーンは発表された。車種構成は従来利益の出ていなかった高価格車のコンチネンタルは落とされ、ホイールベース121in(3073mm)でマーキュリーとボディーパーツの大部分を共用するリンカーンと、ホイールベース125in(3175mm)のリンカーン コスモポリタンの2つの価格帯が設定された。エンジンは1932年型モデルKAを最後に途絶えていたV型8気筒が16年ぶりに復活した。5.5L 152馬力エンジンは1948年型フォードF-7とF-8トラックに積まれたもので、もちろん高級乗用車に積むためのリファインは加えられていた。生産台数は戦後最も好調だった1947年型でも2万1460台であったのが、1949年型では7万3507台に伸びたが、その後は3~4万台程度で推移し、キャディラックの10万台前後には大きく水をあけられていた。

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上の2点は1949年型リンカーンのカタログ。車種構成は左側のリンカーンシリーズ(2527~3116ドル)と右側のリンカーン コスモポリタンシリーズ(3186~3948ドル)の7モデルが設定されていた。コスモポリタンには1枚ガラスのフロントウインドシールドが採用された。サイズは全長5372mm(コスモポリタンは5588mm)、全幅1941mm(1976mm)、全高1615mm(1593mm)。生産台数はリンカーンが3万8384台、コスモポリタンは3万5123台であった。ヘッドランプが異様なほど奥まったところにあるが、本来は使わないときに隠れる仕掛けを作るはずだったが間に合わなかったとの説もある。

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リンカーンの頭痛の種の一つはATを持たなかったことであり、1945年から社内で開発を進めていたが、まだ完成していなかった。そこで、最初にパッカード社に彼らの「ウルトラマチック」ATを供給してもらえないか交渉したが断られ、GMと交渉した結果、契約に成功し、1949年6月26日からGM製ハイドラマチック4速ATがオプション設定された。これはそれを伝える広告。

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1950年型リンカーンはフロントグリル周りの変更を受けて登場した。下側の絵は1950年7月5日に発売されたコスモポリタン カプリで、マーキュリー モンテレイおよびフォード クレストライナー同様、ハードトップを持たないフォードグループの苦肉の策として生まれたモデルであった。ビニールトップ、クロームのドリップレール、リアフェンダーのクロームモールディング、両サイドのドアミラー、ドアの「Cosmopolitan」の文字などでハードトップに打ち勝つ演出をし、内装もアップグレードされていた。価格は3406ドルで、ベースのクーペより219ドル高であった。カプリの生産台数は不明だが、ベースのクーペと合わせてもわずか1824台であった。なお、普及版のリンカーンにも「リド(Lido)」の名前で同じ性格のモデルが発売されている。

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1951年型リンカーンのカタログ表紙。クルマはホイールベース121インチの普及版のリンカーン スポーツセダン。ホイールベース125インチのコスモポリタンの個性的なサイドモールディングもこれと同じものに変更されたが、コスモポリタンのスポーツセダンは6ライトなので簡単に識別できた。1951年型ではフロントグリル周りの他、テールランプを含めリア周りも変更されている。

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1951年型リンカーン コスモポリタン カプリ。この年は若干値下げして3350ドルのプライスタグを付けて売り出されたが生産台数はわずか1251台であった。ちなみに3129ドルのベースモデルのクーペは1476台であった。フォードとマーキュリーには内製ATが採用されたがリンカーンにはGMのハイドラマチックが継続採用されていた。

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1951年型リンカーン リド。フォードのクレストライナーはハードトップモデルのビクトリア登場で生産中止されたが、マーキュリーとリンカーンには1951年型ハードトップが登場しなかったためモデルイヤー最後まで生産が継続された。価格は2702ドルで、このモデルだけの生産台数の記録はないが、ベースモデルである2505ドルのクラブクーペと合わせて4482台であった。
このあと、1952年型でフォードグループは一斉に戦後2度目のフルモデルチェンジを実行する。

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執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

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