<お知らせ> 前回の「オースチン・セブン」をご覧いただいた方から、来る11月9日(日)名古屋の「トヨタ自動車博物館」で日本に現存するオースチン・セブンが大集合する「ワンメーク・イベント」が開かれる、とのご案内をいただきました。僕も都合がつけば行きたいと思っています。
さて、ここから本格的に戦後に入るので、ここでオースチンの「グレード別 系図」でその流れを確認して置きたい。
①「小型車」(セブン)→(エイト)→(A30)→(A35)→(ミニの一族、オースチン・セブン、オースチン850、オースチン・ミニMk1、オースチン・ミニMkⅡ、BLMC ミニ850/1000、BLMCミニ1275GT)と続く。
②「中型ファミリーカー」(テン)→(A40デヴォン/ドーセット)→(A40サマセット)→(A40ケンブリッジ)→( A50 ケンブリッジ)→(A55 ケンブリッジMkⅠ)→(A55 ケンブリッジMkⅡ)→(A60 ケンブリッジ)
③「中型上級車」(トゥエルブ)→(シクスティーン)→(A70 ハンプシャー)→(A70 ヘレフォード/A90 アトランティック)→(A90six ウエストミンスター)→(A95)→(A105)→(A99 ウエストミンスター)→(A110 ウエストミンスター)→(3リッター)
④大型車・リムジン」(トゥエンティー)→(A110,120シ-アライン/A125,A135 プリンセス)→(プリンセスⅣ)と、おもに4つの流れがある。
<中型ファミリーカー・シリーズ>
(写真01-a)1950 Austin A40 Devon(GS2A) 4dr Saloon (1960年10月 港区内にて)
戦後初のニューモデルとして1947年10月登場したのが「A40」で、4ドアは「デヴォン」(GS2)、2ドアは「ドーセット」(G2S2)と別々の名前を持っていた。写真の車はヘッドライトの下にパーキングランプが付いているので1950年から登場した「MkⅡ」(GS2A)で、同じ「A40」でも1952年登場する「サマーセット」は日産でも製造され国内で多く見られたが、「デヴォン」は純輸入車で貴重な存在だった。
(写真01-1b)1950 Austin A40 Devon(GS2A) 4dr Saloon (1958年 羽田空港駐車場)
前の車と同じモデルだがアクセサリー類の付かない標準タイプで、ナンバープレートから大使館の車であることが判る。不思議なことに「左ハンドル」だからイギリスでは無さそうだし、英国圏で右側通行だとすれば「カナダ」辺りだろうか。バンパーの中央に小さい穴が有るのはクランクシャフトでエンジン始動が出来た時代を示している。残念ながら僕はこのシリーズの2ドア版「ドーセット」には1度も出逢っていない。
(写真01-1c)1950 Austin A40 Pick-up (GQU2A) (1958年 静岡市青葉通りにて)
僕はずっとこの車を乗用車からの改造車だと思い込んでいた。それは当時静岡市内には「ヒルマン」「デソート」「シボレー」の改造ピックアップがあって、僕の中ではオーナーの都合で改造するのもアリと理解していた。それと、このシリーズのトラック・バージョンは全くパターンの異なるグリル(中央に縦3本、太い横バー)を持っていることを知っていたから、乗用車と同じグリルが付いたこの車はてっきり乗用車からの改造車と思った訳だ。最近になって乗用車バージョンにも「ピックアップ」(GQU2)、「10-cwt Van」(GV2)、「カントリーマン」(GP2)があることを確認したのでここで訂正したい。
(写真01-2ab)1950-53 Austin A40 Sports(GD2) (1959年11月 港区内にて)
この車は「A40」シリーズのスポーツ・バージョンとして誕生したが、約4000台しか造られなかったから国内では極めて珍しい車だ。サルーンの40hpのエンジンはツインキャブレターで50hpまで強化され最高速度は80マイル(128km/h)が可能とされている。分類上は「4シーター・コンバーチブル」で、スポーツカーとは距離を置いている。この車の開口部は「トヨペット・マスター」を連想させる所が有り、そのせいか僕にはあまりスポーティに感じないのだが、イギリス人の目にはすごく格好良く映るらしくそんな褒め言葉をどこかで読んだ記憶がある。実はこのボディはスポーツカー・メーカー「ジェンセン」によって造られ、当時の4リッター「インターセプター」を切り詰めた弟分的存在で、そのイメージも大きく影響しているものと思われる。
(写真01-1cd) 1950-53 Austin A40 Sports(CD2) (1962年4月 小田急沿線/向ヶ丘遊園にて)
この珍しい車に僕は2回出会っている。小田急沿線で、今は無くなってしまった「向ヶ丘遊園地」は桜の名所でもあったが、そこで「自衛隊フェアー」が開催された際、途中で見つけたのがこの写真だ。前の車も、この車もイギリス車でありながら「左ハンドル」ということは、アメリカ輸出用に造られたものだろう。
(写真02-1a) 1953 Austi A40 Somerset(GS4) 4dr Saloon 2007年6月 英国国立自動車博物館)
1952年2月、「A40」の第2世代「サマーセット・シリーズが誕生した。これは前年発表された「A70・ヘレフォード」の縮小版で、ニューモデルは後席の居住性と静粛性が改善された。このモデルは「日産自動車」でも組み立てられ、日本の街で良く見られたが、写真の車は本国製の純粋モデルなので、国産モデルとの相違点を探して頂きたい。
(写真02-1b) 1953 Austin A40 Somerset 4dr Saloon (1957年 静岡市内にて)
日産自動車では、1952年12月、「A40・サマーセット」を年間2000台、輸入部品の組み立て(ノックダウン・方式)から始まり3年後には完全国産化するという契約をオースチン社と締結した。その結果、半年後の1953年5月には完成車の販売を始めた。しかし、1954年には本国で「A40・サマーセット」が「A50・ケンブリッジ」にモデルチェンジしてしまったので、12月からは日産でも「A50」の組立に切り替え、完全国産を目前に「A40」の国内生産は終了した。前の写真で英国産と国産モデルとの相違点を探して欲しいと書いたが、実は僕には全く相違点が見つからない。外見で見る限り「日産」の文字はどこにも見当たらない。モデルナンバーは本国製が(GS4)なので、もしかすると(GS4-J)だろうか?
<ケンブリッジ・シリーズについて>
英本国では1954年 A40サマーセットの後継車として、新しいフラッシュサイドのボディを持つ「ケンブリッジ」シリーズを発表した。当初は従来の1.2ℓエンジンを載せた「A40ケンブリッジ」(GS5)だったが、すぐに1.5ℓエンジンの「A50 ケンブリッジ」(HS5)が追加された。日本では「A40ケンブリッジ」は造られなかったからその存在はあまり知られていない。英国では1956年 12月「A40」と「A50」の製造は終了し、同じ1.5ℓながら圧縮比と馬力を上げた「A55ケンンブリッジ」(HS6)が誕生している。 一方、日本では1.5ℓの「A50ケンブリッジ」の部品を輸入し、1954年12月には1号車の組み立てが完了、1955年1月から市販が始まる。1956年5月には部品のすべてを国産化した「純国産車」が誕生した。この後、日本製のオースチンは「日産オースチン」として、英国製とは距離を置いた独自の変化をして行く。因みに、英国製には「デラックス・モデル」は存在しないし、そのサイドモールディングは上級モデル「ウエストミンスター」からのアイデア流用と思われる。「A50」シリーズは国内生産されたので、僕が撮った写真はすべて日本製で英国製は1枚もない。又、1956年以降は「日産オースチン」ではあるが、日産ではなく、あえて「オースチン」の項に登場させた。
(写真03-1a) 1955-56 Austin A50 Cambridge 4dr Saloon (1958年 静岡市内にて)
写真の車はまだ100%国産化される以前の車で英国内と同じスタイルを持っている。「デラックス」のある日本では「スタンダード」となる。サイドにクロームのモールは無く、光って見えるのはボディについた段で、ヘッドライトは一寸引っ込んで居る。1956年からは「フラッシャーランプ」がオレンジ色となり、リアトランクに「A50」のオーナーメントが付いた。
(写真03-2a)1956-57 Austin A50 Cambridge DeLuxe 4dr Saloon (1959年 静岡市内中島屋前)
1956年完全国産化が終わると、英国に無い日本独自のモデルが出現した。それは日本人の好きな「デラックス・モデル」で、写真の車は後年のものに較べるとモールが細い最初のモデルだ。 このモチーフは前年英国で登場した2.6ℓの上級モデル「A90ウエストミンスター」から頂いたものだ。
(写真03-3a) 1958 Austin A50 Cambridge DeLuxe 4dr Saloon (1959年 静岡市内にて)
デラックス・モデルの第2世代はサイドモールの幅が広くなったこのタイプで58年の前期と、59年の後期に分かれる。58年のサイドビューではリアウンドウが見えない、ヘッドライトの先端がメッキされていない、が決め手となる。
(写真03-3bcd)1958 Austin A50 Cambridge DeLuxe 4d Saloon (1985-11 筑波サーキット)
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この年のモデルチェンジでハンドルを右に寄せ「6人乗り!」となった。ボンネットのエアスクープには5本の仕切りが有り、ヘッドライトは一寸引っ込んでいる。リアウインドウはまだ小さい。サイドモールディングはやはり「A95ウエストミンスター」からの転用だ。
(写真03-4a) 1959 Austin A50 Canbridge DeLuxe 4dr Saloon (1959年/羽田空港)
後方から見た59年型の特徴は、リアウインドウの大きさで、サイドまで回り込む曲面ガラスは、真横から見ても存在が確認できる大きさになった。
(写真03-4b) 1959 Austin A50 Cambridge Standard 4dr Saloon (1959年/静岡市内にて)
街の中で見かけるオースチンは殆どが「デラックス・モデル」だったが、写真の車は珍しい「スタンダード・モデル」で、サイドにモールディング無い。59年型の前方からの特徴は、今まで一寸引っ込んでいたヘッドライトは、クローム・メッキの部分が外から見えるようになり、ボンネット上のエアスクープの仕切りが5本から3本となり、グリルの縁がクロームメッキとなった。1960年には日産から「ブルーバード」が誕生するので、このモデルを最後に「A50ケンブリッジ」の生産は終了した。
(写真03-4cd) 1959 Austin AV50 DeLuxe Van (1959年/静岡市内にて)
1959年になって初めて4ドア・サルーンをベースにした5ドアの商業車が誕生した。現代では5ドアのワンボックスカーが4ドアのセダンを上回る勢いだが、この当時5ドアはまだ荷物運搬車として見られて居り、日本独自のスタイルはいかにも商業車で、ナンバープレートもトラック並の「4ナンバー」だ。だから名前も伝統の「カントリーマン」ではなく「バン」である。
(写真04-1ab) 1957 Austinn A55 Cambridge(HS6) 4dr Saloon (1961nenn /港区内にて)
写真の車は日本では造られていない正真正銘、英国製のオースチンで日本国内では極めて珍しい車だ。日本ではA50シリーズは1959年まで造られたが、本国では1957年早々と「A55」にグレードアップした。一見「A50」と同じように見えるが、細かい相違点をあげると、グリル内の横バーは6本から7本に増えた、サイドにクロームのモールディングが入った、そのほかテールは大きく変わった。ナンバープレートの平仮名が「さ行」の場合は個人所有で、大使館の車や在日外国人の車ではないので、国産のA50 が買えるこの時期わざわざこの車を選んだオーナーはどんな人だったのだろう。
(写真04-2ab) 1959-61 Austin A55 Cambridge MkⅡ Farina Saloon (1961-11 /JR 田町駅前)
1959年になって「ケンブリッジ」はエンジンを 1489ccのまま全く新しいボディをまとって「マークⅡ」となった。そのボディは当時世界的に流行していたイタリアのデザイナーの中でも大御所の「ピニン・ファリナ」の作品だが、BMC社はお家の事情からこのデザインを有効に活用し、「ライレー」「MG」[ウーズレー」「モーリス」「オースチン」と、顔だけ違う5兄弟を誕生させた。合理化とも言えるが、別々のデザインを与える余裕も無かったのだろう。しかしそれぞれが伝統のグリルを付けるだけで、ブランドが確立する伝統の力は凄い。このモデルから「デラックス」が設定された。
(写真05-1ab) 1961 Austin A60 Canbridge DeLuxe 4dr Saloon (1964-10 / 港区内にて)
「ケンブリッジ」は排気量を1622ccに増やして「A60」シリーズとなった。ボディは「A55マークⅡ」に少し手を加えたもので、そろそろ下火になってきたテールフィンをやや控えめにし、丸みを持ったグリルで大きくイメージを変えた。細かい格子のパターンは、一見「アストンマーチンDB4」のグリルを連想させる。
(写真05-1cd)1964 Austin A60 Cambridge DeLuxe Saloon (1979-01 /東京プリンスホテル)
写真の車は1964年型だが誕生して以来見た目には全く変わりなく、「A60」はそのまま1969年までに276,534台造られ「ケンブリッジ」シリーズは終了した。因みに「A40」から「A60」までに使われた「デヴォン」「サマーセット」「ドーセット」「ケンブリッジ」はすべてイングランドの地名に由来するが、この後登場するニューモデルは排気量を表す「数字」だけの味気ないものになってしまった。
<アメリカ向けのスポーツタイプ・モデル>
(写真06-1ab)1949-52 Austin A90 Atlantic(BE2) 2dr Sports Saloon (1965年/港区虎ノ門)
第2次大戦の戦勝国ではあったが、戦後のイギリス経済は厳しい状況下に有り、対米輸出は国策でもあった。だからこの車の名前は遠く大西洋を超えたアメリカをめざし「アトランティック」と名付けられた。ふっくらとした当時の標準ボディに、ボンネットには英国車としては珍しい派手なクロームラインを持ち、グリルの中央には「シプロス・タイプ」(ギリシャ神話の一つ目の巨人)のスポットライトがある個性の強いスタイルはアメリカを意識した物で、オースチンの中では唯一オーバーデコレーションの例だ。エンジンは4気筒2660cc で、1953年誕生する初代の「オースチン・ヒーレー100」はこのエンジンを強化したものだ。コンバーチブルとスポーツサルーンがあり全部で7981台しか造られなかった超レア・モデルなので日本国内で撮影できたのはラッキーだった。
(写真06-2) 1952 Austin A90 Atlantic(EB2)2dr Sports Saloon(2007-06 /英国国立自動車博物館)
この珍しい車に再会したには英国の国立自動車博物館で、英国内でも珍しい車だから博物館とすればリストに挙げて当然 の一台だ。勿論完璧な状態で保存されており、一箇所だけ僕が東京で撮影した車との違いが有った。それは左右のフェンダーの上についた「A」に羽のついたオースチンのマスコットで、普通は中央に一つだけなのにご丁寧に左右に2つも付いていたのだ。この当時はまだ曲面ガラスが普及していなかったので、フロントグラスの左右に桟を入れて曲げている。リアでは良く使われた手法だが、フロントで使われている例は極めて珍しい。
. <中型上級車・シリーズ>
(写真07-1ab)1950-54 Austin A70 Hereford(BS3) 4dr Saloon (1957年/銀座にて)
このシリーズは前に登場した「中型ファミリー・シリーズ」と対をなしており、「A40・ドーセット」の兄貴分に当たる「A70」シリーズ初代の「ハンプシャー」から始まるのだが、日本には輸入されて居なかったのか残念ながら僕は撮っていない。写真の車は第2世代の「ヘレフォード」で、これも5万台少々しか造られなかったから、外見の良く似た日本で造られた「A40・サマーセット」と違って、めったに見られない珍しい車だった。6気筒2199ccのエンジンを持ち、見た目はそっくりだがボンネットが長く一回り大きい。
(写真08-1)1961 Austin A99 Westminster 4dr Saloon (1961 -06 /第2回外車ショー・晴海)
同じ時期に造られていた「A60ケンブリッジ」と同時進行で造られた4気筒2912ccの上級モデルだ。1954年まで造られていた「A70」は4気筒2199ccだったので、1954年から59年まで造られた6気筒2639ccの「A90」「A95」「A105」を挟んで、再び4気筒が登場した事になる。
(写真09-1)1962 Austin A110 Westminster MkⅠ4dr Saloon (1962-05/二子玉川園)
チューリップの花が満開の二子玉川園で「輸入車ショー」が開催され、「NSUシュポート・プリンツ」「モレッティ」「ハンザ・ゴリアト」など、小規模業者の扱う珍しい車を含めて30台ほどが展示された。「ウエストミンスター」シリーズは「A99」から「A110」に変わっても、全体のスタイルには変化はなく、僅かにヘッドライトとグリルに手を加えただけなので変わり映えがしない。1965年からはMkⅡとなって68年まで造られた。
(写真10-1ab)1970 Austin 3-Litre 4dr Saloon (1969-11/第11回 東京オートショー・晴海)
1967年には同じ2912ccながら6気筒の「3リッター」モデルが後継車として登場した。全体の印象は「ウエストミンスター」シリーズとはガラリと変わった。60年代初めから続いている「上開きの台形グリル」は、「1100」「1300」「1800」「2200」とあり、その頂点が写真の「3リッター」だが小型モデルからスタートしたこのモチーフは大型上級モデルには重みが感じられない。
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<大型車・リムジン>
(写真11-1ab) 1947-54 Austin A125 Sheerine(DS1)Luxury Saloon(1959年/港区・慶応大学付近)
写真の車は戦後いち早く登場した6気筒3995ccのエンジンを持つオースチンの最上級モデルで、リムジンもあるがこちらはホイールベースが短かくパーテーションの無い「ラグジュラリー・サルーン」だ。車は港区三田の慶応大学正門前に向かっており、この車を撮ったのは当時サブ・カメラとして使っていた「オリンパス・ワイド」で、フィルムの巻き上げが自動でもレバーでもないそれ以前のノブを指先で7~8回廻すタイプだったから、この珍しい車の後ろ姿も撮ろうと思ったら、かなり早めにシャッターを押す必要があったのだ。
(写真12-1abc)1956 Austin A135 Princess MkⅢ Limousine (1978-01/東京プリンスホテル)
オースチンの135シリーズには一寸込み入った事情がある。ロンドンの高級ボディメーカー「ヴァンデンプラス社」は1946年オースチンに買収され「プリンセス」のボディを作っていたが1952~56年の「オースチンA135 プリンセスMkⅢ」が、翌57年からはそのままのボディを「バンデン・プラ A135 プリンセス」と名前を変え、高級感を持つ「バンデン・プラ」ブランドを復活させた。それだけなら別にややこしくはないのだが、ボディの無くなったオースチン・ブランドが同じエンジンに似たようなボディを載せて「オースチン・プリンセスMkⅣ」として併売したからこの時期「プリンセス」は2種類が同時に存在することになった。
(写真13-1ab) 1957 Vanden Plua A135 Princess 4litre 4dr Saloon (1961-03/横浜港大桟橋)
こちらの写真が「バンデン・プラ」に名前を変えた後のものだ。これは僕の想像だが、イギリスでは「オースチン」というネーミングは「セブン」以来浸透している高級車とは逆にベーシックカーのイメージが有るのではないか。英国で出版された文献にも「プアマンス・ベントレー」と記されている箇所がある。その最たる証拠はA55シリーズで「ライレー」「MG」「ウーズレー」「モーリス」「オースチン」の順で最下位にランク付けされているのだ。だから昔から高級車を手がけてきた「バンデン・プラ」こそが、この車に相応しい名前と気づいたのだろう。しかし名前は変わってもこの車は「オースチン」が造っていることには変りない。外見上両車の相違点は「A」に羽のついたオースチンのマスコットが無くなった、ラジエターグリル輪郭のメッキが外側まで拡がった、ホイールキャップの中心とトランクに「P」のマークが入った、くらいであとは全く同じだ。
手前が「オースチン」、奥が「バンデン・プラ」だがまったく同じだ。
<以上の分類から漏れたオースチン>
(写真14-1ab) 1963-67 Austin 1100 MkⅠDeluxe 4dr Saloon (1984-01/ 明治公園)
この車は本当は「ミニ」シリーズの次に登場させるべきだったかも知れない。「ADO16」として知られるこのシリーズは1962年8月「モーリス1100」からスタートし「バンデン・プラ」「MG」「ライレー」「ウーズレー」「オースチン」と、顔だけ違うバッジエンジニアリングの6兄弟が誕生した。マークⅠは1098ccのエンジン付きで1967年小変更を受けマークⅡとなる。同時に1275ccのエンジン付きの1300シリーズも登場するがエンブレム以外は殆ど1100と変わらない。この世代は伝統の波型のパターンを持つグリルでいかにもオースチンらしくて僕は好きだ。
(写真15-1)1965 Austin 1800 DeLuxe 4dr Saloon (1965-09/大英博覧会・晴海)
ADO16と同じスタイルを引き伸ばし、4気筒1798ccのMGBのエンジンを持ったこの車は、ピニンファリナデザインのボディを持つ平凡だが、使い易いファミリーカーで1964年から75年にかけて21万台も作られたヒット作でもある。
(写真16-1)1958 Austin FX4 London Taxi by Carbodies (1998-02/MGMスタジオ・フロリダ)
写真の場所は僕がロンドンで撮ったものではない。場所はアメリカのフロリダ州オーランドにあるディズニー・リゾートの一つ「MGMスタジオ」で見つけたものだ。車は「ロンドン・タクシー」としてお馴染みの「オースチンFX4」で、1958年登場して以来97年まで、40年間にわたって同じ姿で走り続けて来たから2階建てバスと共に、ロンドンの街にはなくてはならない存在だ。「オースチンFX4」はシャシーをオースチンが提供し、これにタクシーキャブ専門の「カーボディーズ」が架装した大ヒット作品だ。後席は広い平らな床の3人乗りで、補助席を使えば5人乗りとなる。
(写真17-1ab)Austin BabyCar (2007-06 英国国立博物館/2012-04 トヨタ自動車博物館)
この車について、モデルとなった実車の詳細は全く判らないが英国のビューリー自動車博物館とトヨタ自動車博物館に全く同じものが展示されているので、然るべきところで、それなりの台数が造られたものだろう。バッテリーカーかと思ったが、床が透けて見えるのでペダルカーのようだ。
(後記)今回、原稿を書き終わって気が付いたのは、殆ど全部がモノクロだったことだ。それは対象となった車たちが生れたばかりで街中を走り回っていた時期と同時進行で撮られたものだからだ。
次回のオースチン・ヒーレー」をもって長かった「A」項が終わる予定です