ウーズレー社の工場長を経て「ハーバート・オースチン」が1905年に設立したのが「オースチン・モーター・カンパニー」で、僕が自動車に興味を持ち始めた第2次大戦後から50年代にかけては、英国でも最大手のメーカーだったが、1952年「ナッツフィールド」(モーリス、ライレー、MG、ウーズレー)と合併して社名は「BMC」(British Motor Corporation)と変わる。その後1966年その「BMC」と「ジャガー」(含むデイムラー)が合併して「ブリティッシュ・モーター・ホールディングス」となり、1968年これが「レイランド・モータース」(スタンダード、トライアンフ、ブリストル、レイランド、ローバー他)と合併して「ブリティッシュ・レイランド・モータース・コーポレーション」(BLMC)となる。ここでひとまず英国内の勢力分布が固まる。民族資本対アメリカ資本で、後にクライスラー・ヨーロッパとなる「ルーツ・グループ」(ヒルマン、ハンバー、サンビーム/タルボ、シンガー)、フォード系列(英フォード、ランドローバー、デイムラー)、GM系列(ヴォクスホール、ロータス、)となる。この中で現在幾つの名門ブランドが残っているだろうか。淋しい限りである。こ後も経営は安定せず会社の迷走は続く。1978年破産寸前で国営化され、1982年大衆車部門が分割されて「オースチン・ローバーグループ社」となり、1989年には「オースチン」ブランドの車が存在しなくなったので単に「ローバー・グループ」となり「オースチン」の時代は終わった。
(写真01-1ab) 1910 Austin Speedly Phaeton (2004-06 グッドウッド/イギリス)
戦前のオースチンと言えば日本では小型車しか見られなかったせいか、大型車のイメージがわかないが、最初に作ったのは5ℓの大型車だった。写真の車は4気筒、5ℓエンジンの18/24モデルに架装したスポーツ・バージョンだ。と言われてもピンと来ないが当時はこれでもスポーティで、R.R.のシルバーゴーストと同じ仲間と思えば納得できる。
(写真01-2ab) 1926 Austin Breakdoun Truck (2007-06 イギリス国立自動車博物館/ビューリー)
ビューリーにある博物館は現在国立博物館となっているが、元はモンターギュ伯が2代にわたって蒐集した自動車コレクションで、メーカーが消滅してしまったオースチンの初期の車を探すにはここしか無いと思ったが、戦前のものは3台しか見つからなかった。第1次大戦以前はそれほど生産台数が多くなかったのか、それともあまり平凡でコレクションの対象外だったのか。写真の車は修理工場のレッカー車で型式名は判らないがグリルは大ヒット中の小型車「セブン」と共通の形を持っている。
(写真01-3ab)1928 Austin Clifton 12/4 Phaeton (2007-06 イギリス国立自動車博物館)
1922年登場した「トゥエルブ」は4気筒1661ccのエンジンを持つ実用経済車で、戦前のオースチンでは「セブン」を除けば最も評判の良かった車だ。写真の車は展示車だが夏休みになると実施される「モンターギュ伯一族のヒストリー見学ツアー」では見学客を乗せて荘園内を巡回するという。
(写真01-4ab) 1909 Austin Seven Roadster (1968-11 第10回東京オートショー/晴海)
戦前のオースチンと言えば小型車「セブン」しか連想しない人が大部分だと思うが僕もその一人で、この車はあの有名な「セブン」シリーズの初代かと思っていたが、シリーズがスタートしたのは13年後の1922年の事で直接は関係ない。写真の車は当時大型車しか作っていなかったオースチンが、「スイフト」と言う1900年から31年まで存在したメーカーの造った車を「オースチン・セブン」として売り出したもので、サイドバルブ単気筒1099cc 12hp/1800rpmと言うシンプルな構造エンジンだったが、後年の「セブン」は直列4気筒747cc 10.5hpの本格的な物である。
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<オースチン・セブン・シリーズ>
「オースチン・セブン」は1922年から39年まで18年間にわたって約29万台が造られた。それまで1000cc以下の車は「サイクルカー」と言う自動車より低い「自動車もどき」とランク付けされていたが、「オースチン・セブン」は747ccなのに大型車をそのまま小型化した本物の自動車でありながら、それまで高嶺の花だった自動車を庶民の手が出せる値段まで引き下げた。その結果小型自動車が普及し、サイクルカーの時代は終わった。
(写真02-1ab)(参考)1919 Tamplin Cyclcar (2004-06 グッドウッド/イギリス)
日本でも終戦直後の昭和20年代に同じような「自動車もどき」が見られたが、あまり馴染みのない方のため参考にイギリスにおける当時のサイクルカーを一つお目にかける。サイクルカーの定番がある訳ではないから皆思い思いに自由な発想で造られておりこれはほんの一例である。デフがないため車幅が狭く、どう見ても「自動車もどき」だ。
(写真02-2ab) 1923 Austin Seven Tourer (2007-06 イギリス国立自動車博物館/ビューリー)
オースチン・セブンの外見の変化を大雑把に分類すれば3つに分けられ、第1期(1922-28) 黒塗りのラジエターでヘッドライトが運転席の手前(スカットル)にある/第2期(1929-34) グリルがメッキとなりヘッドライトがラジエターの横まで前進/第3期(1935-38) ラジエターにグリルが付く/となる。写真は第1期の最初期型で、アルミパネルのオープン4シーターが標準形式だった。前の「自動車もどき」と較べると間違えなく本物の「自動車」だ。
(写真02-2cde) 1923 Austin Seven Tourer (2000-06 グッドウッド/イギリス)
この車は前の車と同じモデルで、イベントにはトレーラーに乗ってやって来た。このタイプは「Chummy」と呼ばれる標準ボディで、当時サルーンは高級車でセブンには無かった。サイドカーテンを付ければサルーンに近い居住性は得られるが幌は乳母車のようだ。
(写真02-3a) 1928 Austin Seven Tourer (1978-01/東京プリンスホテル)
ラジエターが黒く塗られた第1期最後の1928年型で、完璧にレストアされ国内のイベントでよく知られた車だが、サイドカーテンも5年経つと随分スマートになっている。
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(写真02-3cd) 1928 Austin Seven Roadster (1973-09 ニ子玉川高島屋)
この車は安宅産業がニュージーランドから一括購入した玉石混合のオールドカーの一台で、プレートを尊重して1928年としたがかなり改造されているようだ。28年型ならヘッドライトはスカットルの位置、グリルは塗装が無いように見えるが29年型ならもっと角張っているので塗装が落ちたか?タイヤが太いだけでなく全体がぼってりした感じで本来の軽快さが感じられない、ドアから下が随分厚く、箱に乗っているような違和感がある、など正体不明の車だ。
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(写真02-4a) 1929 Austin Seven 1989-01 TACSミーティング/明治公園)
ナンバープレートは「1928」となっているが、特徴は明らかに第2期の1929年以降で、ラジエターの厚さからその中でも前期型の29-30年型と判る。車検を取るためバックミラーとサイドマーカーが追加されている。
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(写真04-2b) 1933 Austin Seven Tourer (1973-11東京モーターショー・くるまのあゆみ展/晴海)
この車は第2期の後期型(31-34)で、前項の前期型と較べるとメッキされたラジエターの厚みが薄くなっている。車のハブに小さいながらアルミのキャップが着いたのは33年からで、それまではキャップはなくAustinの文字が刻印されている。
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(写真02-4c)1934(推定)Austin Seven Saloon (2010-07 英国内のカントリーロードにて)
80年前のオースチンが現在も立派に公道を走っている姿を捉えた。細かいことは不明だが、前項の車が33年型とはっきり判っているのでAピラー、フロントガラス付近がそれより丸みを持つこの車を34年型と推定した。
(写真02-4d) 1934 Austin Seven Saloon (1965-11 練馬区内で)
この車は以前1932-33年型としていたが、今回33年型より曲線が多いので34年型と変更した。前項の車と偶然全く同じモデルと思われる。運動会で豊島園へ向かう途中バスの中から発見し次で降りて撮影した。
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<オースチン・セブンの海外モデルと国産ボディについて>
オースチンはドイツでは「Dixi」(のちのBMW)、フランスでは「ローザンギャル」、アメリカでは「バンタム」など、ライセンス生産から始まってそれぞれ独自の小型車に発展した。しかし、わが国では1933年以降は、シャシーで輸入し国内でボディを架装すると言う方法をとった。それは日本製ダットサンを守る日本の法規と戦うための手段だった。日本では小型車に対して「無試験免許」と言う制度が有り、その上限は1930年までは350cc、32年までは500ccでダットサンのエンジンも試作段階では750ccで計画されていたが、この制度の枠内に入るようストロークを縮めて495ccにしたと言われる。一方オースチンの方は750ccだからこの制度の恩恵は受けられず、メイン・ディーラー日本自動車は枠拡大の働きかけを行い1932年にはこれが成功して枠は750ccに拡大された。しかし法規にはもう一つ縛りがあった。それは「車体寸法」で、全長2.8m、全幅1.2m、全高1.6mはダットサンがギリギリ収まる大きさだった。オースチンはフェンダーを加工して幅を詰めたりしてなんとか対応していたが、1933年からはシャシーが6インチ長くなり改造できる範囲では無くなってしまった。そこで生産中止となったショートシャシーをまとめて特注し、それに日本の法規に収まるボディを国内で架装すると言う方法が考え出された訳だ。
(写真02-5abc) 1934 Austin Seven Saloon by Nihon-jidousya (1981-01 明治神宮絵画館前)
写真の車はメイン・ディーラー「日本自動車」の中野工場で日本の法規に合わせた寸法のボディを架装したサルーンで、英国製との相違点は①ボンネットのルーバーが横長のスリットであること、②前後ともフェンダーにスカートが付いていること、が挙げられる。このフェンダーは日本自動車中野工場がその当時造っていたダットサン12型と全く同じで、同じ型を使ったのではないか、と推測される。参考に「ダットサン12型」をお目にかけるので見較べて頂きたい。
(写真02-5d)(参考) 1933 Datsun Type12 Phaeton
(写真02-6abcd) 1937 Austin Seven Roadster by kirin-Nainenki (1980-01 明治神宮絵画館前)
オースチン・セブンの第3期(1935-39)はラジエターにグリルが付いたのが大きな特長で、写真の車がそれだ。英本国では1935年から変わったが日本では1年遅れの36年からで、それはこのシャシーが、今までの既製のショートシャシー版では無く、日本向けに特別に造られたための時間だったのだろう。もちろんメイン・ディーラー「日本自動車」製のサルーンやツアラーが主流だが、その他にも幾つかのメーカーで造られた物があり、写真の車は当時オースチンのサブ・ディーラーだった神田の「機輪内燃機工業」が少数架装したスペシャル・ロードスターだ。 (この会社は戦後1954年まで2輪車「キリン号」を製造していた。)
(写真02-6d) (参考) 1935 Datsun Type14 Sedan (2010-07 イギリス国立自動車博物館)
イギリスでは今でも「ダットサンはオースチンのコピー」と思われているらしく、インターネットの英語版「Austin」には「1934年からはオースチン・セブンのライセンスの下で製造を始め」とある。しかし日本ではフランスの「ベンジャミン」のエンジンを参考にしたというのが通説でオースチンではない。写真はイギリスの博物館に展示されている車で、1935年型オースチンと外見がよく似た1935年型の「ダットサン14型」だが、その説明には「この車は1935年特許侵害が無いか調べるためサー・ハーバート・オースチンによって輸入されたが、その結果問題を起こすこともなくそのまま保管され2度と道路を走ることは無かった。」というようなことが書かれていた。ラジエターグリルは「英フォードモデルY」にインスパイヤーされ(発想のヒントを得る)、ウイングのデザインはGMの影響を受けている、とまあまあ納得できる公平な説明があった。
(写真02-6e) (参考) 1937 Ford Model Y (GB) (2007-06 イギリス国立自動車博物館/ビューリー)
モデルYは30年代の英フォードを代表するヒット作だが、ダットサンにヒントを与えた、という解釈はイギリス人の身びいきで、元々は本家アメリカの1933-34年型が採用した「ハート型」グリルで、世界中に大きな影響を与えた。
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(写真02-7a) 1931 Austin Seven Swallow (2007-06 イギリス国立自動車博物館)
「スワロー社」は後年「ジャガー」となるウイリアム・ライオンズが作った会社で、サイドカーの側車を造るメーカーからスタートした。オースチン・セブンのシャシーに魅力的なボディを載せ、見た目よりずっと安い価格で提供する、という方針はここから始まっている。2トーンに塗り分けられその境界線をボンネット上でペン先のように尖らせる心憎い演出も取られている。価格はオースチンが140ポンド、スワローが187.5ポンドとかなり魅力的だが、1932年には165ポンドまで値下げしている。
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(写真02-8a) 1928 ( Austin) Dixi 3/15ps DA-1 Tuarer (1998-08 カリフォルニア)
オートバイ・メーカーだったBMWは1927年オースチン・セブンのライセンスを取り4輪車を造り始めた。1928年から本格的生産が始まり「Dixi DA1」と名付けられ約7600台が造られたが、ほとんどオースチンのままで車名にもBMWは入らない。ドイツ版資料でもBMWの1号車では無く、「番外」として扱われている。(一説では右ハンドルのイギリスの図面を裏焼きして左ハンドルを造ったともいわれるが、有料でライセンス契約をするのにそんな事あるわけないでしょ。)
(写真02-8b) 1929 BMW 3/15ps DA-2 Limousine (2008-01 シュパイヤー博物館/ドイツ)
Dixi DA1 に改良を加えたニューモデルがDA2で、外観にも独自のスタイルが取り入れられている。ボンネットの先端には立派にBMWのマークが入ったマスコットが付き、車名は「BMW DA2」となって、これがBMWを名乗った初代の車となった。
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<セブンのレース・バージョン>
1924 ブルックランズ、1928 アルスター、1934 ニッピーなど、メーカーの手になるスポーツ・バージョンが知られているが、オースチン・セブンは自分の手でレーサーに改造するバックヤード・ビルダーにとって絶好の素材で、改造キッドも各種販売されていた。かの有名なコーリン・チャプマンが1947年最初に造った「ロータスMk1」もベースはオースチン・セブンだった。以下に登場する「改造レーサー」達はオリジナルも改造程度も情報不足で説明すべきデータがないので参考程度に写真をご覧頂きたい。
(写真03-1~6)
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<オースチン・エイト/テン>
(写真04-1ab) 1934 Austin Ten-Four 4dr Saloon (1991-01 レールシティ汐留)
写真の車はイベント・プログラムでは「1934 エイト 870cc」と登録されていたが、エイトが造られたのは1939年からで、この車は外見から見ても1932年から作られていた「テン」で、排気量も870ccのエンジンはオースチンには存在せず、「テン」だったら1125ccのはずだ。「テン」シリーズは「セブン」と並ぶ大ヒットモデルで、戦後1947年までに29万台も造られている。
(写真05-1ab)1939 Austin Eight 2dr Saloon (1991-01 レールシティ汐留)
1930年代のベストセラー「セブン」シリーズもさすがに時代遅れとなりつつあり、1938年遂に排気量を900ccまで上げた「ビッグ・セブン」を登場させたが、シャシーの古さはいかんともし難く、1939年後継車「エイト」と交代する事になった。「エイト」のエンジンは「ビッグ・セブン」の900ccエンジンの圧縮比を上げたものだが、シャシーは時代に合わせ新設計された。このあと第2次世界大戦が始まり主にオープンのツアラーが軍用車として活躍し戦後の1947年まで製造が続けられた。後継車は1951年誕生した「A30」へと続く。
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<戦後のオースチン>
戦争が終わった1945年、オースチンは戦前のモデル「8」(エイト900cc)、「10」(テン1125cc)、「12」(トゥエルブ1535cc)と、戦後モデル「16」(シクスティーン2199cc)の4タイプでスタートした。そして1947年から本格的な戦後型「A40」が登場することになる。
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<オースチン A30/35>
戦前の大ヒット「セブン」の後継車は「A30」(1951-56)、「A35」(56-59)と続く。それは戦後いち早く1947年から製造を開始した「A40」から4年後の事で、「A35」が進化して「A40」になったのではなく、後継車は1959年スタートした「ミニ」へと続く。
(写真05-1abc) 1952 Austin A30 4dr Saloon (1957 静岡市内)
(写真06-1a)1956-59 Austin A35 4dr Saloon (1989-01 明治公園)
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<「ミニ」はどこまでオースチンか?>
スタートした時は「オースチン・セブン」「オースチン850」「オースチン・ミニ」「オースチン・ミニ・クーパー」などで、「マークⅠ」「マークⅡ」時代は明らかに「オースチン」で、姉妹車「モーリス」が存在した。1968年社名が「BLMC」となり1969年から正面のバッジが「MINI」となった「マークⅢ」時代は、車名は「ミニ」に統一され、日本版のみ後ろだけ「オースチン・ミニ」「モーリス・ミニ」のバッジが付いた例もあるが、本質的には「オースチン」ではないと分類し、外見の特徴としては「ドア・ヒンジ」が外に出ている1969年までを対象とした。
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(07-1ab) 1959 Austin Seven(Mini Prototype) (2009-11 明治神宮絵画館前)
この得体の知れない(と言うよりは、極めて由緒正しい)車は<シャシーNo. A-A2S7/ 102 のプレートを持ち、1959年4月3日最初に2台試作された「ミニ」のプロトタイプの1台で、「101」は破壊試験に使用され存在しないので、現存する最古の「ミニ」だ>ということが案内板に書かれていた。しばらくは設計者アレック・イシゴニスが使用した後、「オースチン・ヒーレー」社のオーナー、ドナルド・ヒーレーに譲渡された。そこでオリジナルのサルーン・ボディからオープンに改造されたが、その際「スプライト」のパーツが多用されたのは、「スプライト」の次期候補を視野に入れていたものと思われる。車検証のコピーによるとメーカー欄は「オースチン」に手書きで「ヒーレー」と追加され、車の後部には「スプライト」のバッジも付いている。
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(写真07-2ab) 1959 Austin Seven (2004-06 英国自動車博物館/ビューリー)
「ミニ」としては最初期のモデルで、後部のプレートは「オースチン・セブン」である。
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(写真07-3ab)1960-61 Austin 850 (1966-05 名古屋駅前)
後部のプレートは「オースチン・850」となったが、まだ「ミニ」の名称は使われていない。
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(写真07-4ab) 1967 Austin Mini (1981-05 筑波サーキット)
「マークⅠ」としては後期のモデルで、後部のプレートは「オースチン・ミニ」となった。波型のグリルは他のモデルと共通のオースチンの象徴で、バンパーにオーバーライダーがありそれにステイが付いているので最上位モデルである。
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(写真07-5a) 1968 Austin Mini Cooper S (1968-11 東京オートショー)
新車のショーに展示されていた車で、この時期のボディは「マークⅡ」になって居る筈だが、この車のグリルは「ひげ付き」の「マークⅠ」仕様だ。
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(写真07-6a) 1969 Austin Mini Cooper S MkⅡ (1981-05 筑波サーキット)
こちらは「ミニ・クーパーS Mk-Ⅱ」で、グリルは左のスタンダード・モデルと同じモチーフとなった。
(写真07-7ab) 1960-63 Austin mini Countryman MkⅠ (1990-03 筑波サーキット)
(写真07-8ab)1967-69 Austin Mini Countryman MkⅡ1000 (1982-01 明治神宮絵画館前)
(写真07-9ab)1970 Austin Mini 5cwt Van (1989-10 神戸ポートアイランド)
(写真07-9cd)1961-70 Austin Mini 5cwt Pick-Up (1989-12 江戸川区葛西にて)
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(写真07-10ab) 1963-66 Austinn Mini Moke (1994-05 ミッレミリア)
最後に「ミニ」一族で一番の変わり種「モーク」が登場する。マルチ・ユース・カーがセールスポイントでジープ、ビーチカー、工事用作業車、観光用、農業用、その他用途に有ったアクセサリーで如何ようにも変貌する。日本ではホンダ・バモス、オーストリアのシュタイル・プフなどが同じ発想で作られた車だ。通常この車はただの「ミニ・モーク」と呼ばれるが、年代的には「オースチン」と「モーリス」が両立していたマーク1からマークⅡの時期であり、「オースチン」のプレート付きも見ているので取りあげた。他に「ロブ・ウオーカー」がチューンしたレーシングモデルや「マーコス」GTなどキリがないが、何年かあと「ミニ」の項に取り上げたい。
次回は「A40」から始まるオースチンの戦後を予定しています。
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