今回は、戦前の米国で最も成功した高級車パッカード最初の戦後型を紹介する。
最初のパッカードが誕生したのは1899年11月であった。兄ウイリアムと共に、白熱電球、電線などを製造する会社を経営するジェームス W. パッカード(James Ward Packard)は、1898年に発売されたばかりのウイントン(Winton)車を購入したが、トラブル続きでクレームをつけ、同時に技術的な助言をしたのであろうが、ウイントンは聞く耳を持たず「それほど言うなら、自分で造ってみろ」と言われたのが、パッカードが自動車づくりを決心した一因であると言われる。
したがって、パッカードが大事にしたのは「信頼性と走り」であり、常にその時代の先進技術が採り入れられていた。例えば、最初の1899年型の点火装置には、自動進角機能が備わっていたし、1900年型モデルBには、その後世界標準になるH型ギアスロット、1901年型モデルCには、ティラー・ハンドルに代わって、ステアリングホイールが採用された。1915年型には、量産車で米国初のV型12気筒エンジンを搭載、1940年型にはエアコンをオプション設定するなど、枚挙にいとまがない。当然価格も高く、フォードならば5~10台は買える値段であった。ボディーも標準ボディーのほかに、フリートウッド、ルバロン、ブラン、ジャドキンス、ロールストン、ディートリッヒ等の一流コーチビルダーが競って架装したカスタムボディが多数用意され、王侯貴族、政治家、ハリウッドスター、その他もろもろのセレブたちに愛用された。戦前のパッカードはアメリカン・プレスティッジ・カーとしてキャディラックをも凌ぐ地位を占めており、そのセグメントではシェアが60%近く占めることもあった。
しかし、1929年の大恐慌を境に、米国の高級車市場は冷え込み、パッカードも中価格車市場への展開を図る。最初の試みは1932年型で、1923年型を最後に中断していたV-12気筒モデル(価格は3650~7950ドル)を復活させて高級車の地盤を固め、同時に1750~1795ドル(すぐに1895~1940ドルに値上げ)の「ライトエイト」を発売するが、生産工程が同じで、この価格設定には無理があり、6750台生産し、1年で中止してしまった。
2度目の挑戦はGM社製造部門の専門家ジョージT. クリストファー(George T. Christopher:のちに社長となる)を引き抜き、コスト低減と量産体制を整えるべく、製造ラインの全面見直しをおこない、1935年1月に発売したのがホイールベース120インチのモデル120(ワン・トゥエンティー)であった。このモデルは980~1095ドルで売られ、さらに1936年9月には3.9L 6気筒エンジンを積んだモデルSix(シックス)が795~1295ドルで発売された。いつかはパッカードと夢見ていた購買層にも手が届く価格設定であり、パッカードの総生産台数は1934年型の6265台から、1935年型5万2045台、1936年型8万0978台、そして1937年型では最高記録10万9518台に達した。ただ、残念ながらパッカードの高級車としてのブランドイメージは低下していく。
1941年4月、ダーリン(Howard "Dutch" Darrin)のデザインによる、まったく新しいボディーを纏ったクリッパーを発表するが、同年12月、日本軍による真珠湾攻撃を期に、米国は一気に臨戦態勢に入り。1942年2月、すべての民需向け乗用車の生産は禁止されてしまった。
戦後、1945年10月下旬にはクリッパー・エイトの生産を開始したが、本格稼働は1946年4月も終わるころであった。戦前型を生産していたが、他の独立メーカーが戦後型を登場させるなか、1947年9月(コンバーティブルは7月)、パッカードも戦後型の発売に踏み切った。
1948年型のモデルバリエーション。上段左端と下段の左から3台がカスタムエイトで、上段のセダンがホイールベース148in(3759mm)、下段のコンバーティブル、クラブセダン、ツーリングセダンは127in(3226mm)で、エンジンは5.8L直列8気筒160馬力、9メインベアリングでエンジンマウントは5点支持であった。価格は3700~4868ドル。上段中央と下段の左から4から6台目はスーパーエイトでホイールベース120in(3048mm)、7人乗りセダンとリムジンは141in(3581mm)、5.4L 直列8気筒145馬力、5メインベアリングでエンジンマウントは3点支持、価格は2802~4000ドル。上段右端と下段右側2台はエイトとデラックスエイトで、ホイールベース120in、4.7L直列8気筒130馬力、価格は2250~3425ドルであった。この年、エンジンはすべてボア3.5インチに統一され、排気量はストロークの違いで調整されていた。
1948年型のカタログで、内装その他のディテールを紹介している。
上の写真は、上段の1947年型と下段の1948年型を比較したもの。1948年型は当初マイナーチェンジで進める計画であったが、時代の要求に合わせるべくビッグ・マイナーチェンジが施された。実際の作業はデザインを含め、1941年からカタログモデルのボディー生産を委託されていた、ブリッグス製造会社(Briggs Mfg. Co.)が担当した。丸くファットな姿からナッシュ同様、バスタブ(Bathtub:風呂桶)のニックネームを頂戴する。丸っこく、グラマラスな造形は当時の流行であった。しかし、このデザインはファッション・アカデミー・オブ・ニューヨークのファッション・カー・オブ・ザ・イヤーをはじめ、世界各国で優秀デザイン賞を受賞しており、ちょっと意外な気がする。
戦前の1942年型を最後に途絶えていたコンバーティブルが1948年型で復活した。コンバーティブルは他の1948年型パッカードより2ヵ月早い1947年7月に発売された。これは145馬力、ホイールベース120インチのスーパーエイト、3250ドルで、生産台数は4750台であった。他に160馬力、ホイールベース127インチのカスタムエイト、4295ドルが設定されており、1103台生産されている。
1948年型パッカード・エイト・ステーションセダン。カタログモデルとしてはおそらくパッカード初のステーションワゴンであろう。ベースはエイトセダンで、ホイールベース120インチのシャシーに4.7L直列8気筒130馬力エンジンを積む。ウッド部分は白樺材のフレームに楓材のパネルが使用されている。サードシートは無く乗車定員は6名。価格は3425ドルで、エイトセダンより1150ドル高価であった。生産台数は1948~1950年型合計3864台で、その75%ほどが1948年型であった。
1948年型パッカード・シックス・タクシーキャブ。1948年型パッカードで6気筒エンジン搭載車はタクシー仕様と、これと同じボディーの輸出用4ドアセダンのみであった。ホイールベース120インチのシャシーに4.0L 直列6気筒105馬力エンジンを積む。価格は輸出用セダンが2282ドルで、米国内向けエイトセダン2275ドルより高かった。おそらく生産台数が少なかったためであろう。タクシー車の価格は記録が無く、タクシー会社と個別交渉で決めていたようだ。生産台数はタクシー1356台、輸出572台であった。1949年型として682台生産されているが、タクシー仕様と輸出仕様の識別はできなかった。
1948年型パッカード・ニューヨーク・タイプ・タクシーキャブ。ニューヨークの交通状況を考えると、長大なリムジンタクシーなどどうかと思うが、けっこう人気があったようで1316台生産されている。1949年型25台、1950年型13台を生産し終了した。ホイールベース141インチのシャシーに4.0L 直列6気筒105馬力エンジンを積む。ボディーはパッカードの特装車を多く手掛けたヘニー社(Henney Motor Co., Inc.)で架装された。
1948年型パッカードのフロント部分の組立ライン。この時点でラジエーターまで組みつけられている。
1948年型パッカードの最終組み立てラインの様子。1948年11月1日、1949年型に切り替えたが、1948年型パッカードの在庫が残っており、シリアルNo. に「- 9 -」を追加して1949年前期型として販売している。
1949年5月2日に生産開始された1949年後期型の広告。この年はパッカード社創立50周年にあたり「Golden Anniversary Packard」と称して、サイドモールディングの追加、リアウインドーの拡張などマイナーチェンジが施された。グレードはエイト、エイトデラックス、スーパー、スーパーデラックス、カスタムに改められた。
広告左端の絵は最初のパッカードである1899年モデルAで、ホイールベース71.5in(1816mm)のシャシーに2.3L 単気筒9馬力エンジンを積み、最高速度は約32km/h、価格は1200~1325ドルで、生産台数は5台であった。
1899年にオハイオ州ウォーレンで、ジェームス・パッカードが3人のパートナーとわずか17人の従業員で実現したクルマ造りの夢が、1949年には約11万6500人の株主と、約1万1700人の従業員を擁する大企業に成長していた。パッカード社創立の後、2000を超える自動車メーカーが出現しては消えていったなかで、独立系では米国最古の自動車メーカーとなっていた。
1949年後期型パッカード・スーパーデラックスおよびスーパーのバリエーション。ホイールベース127インチ(リムジンは141インチ)、エンジンは5.4L 直列8気筒150馬力を積み、価格は2608~4000ドルであった。
1949年後期型パッカード・デラックスエイトおよびエイトのバリエーション。ホイールベース120インチ、エンジンは4.7L直列8気筒135馬力を積み、価格は2224~3449ドルであった。
パッカードの生産台数は1948年型9万5495台(シェア2.7%、ブランド別順位13位)、1949年型11万6955台(前期型5万3138台、後期型6万3817台)(シェア2.3%、13位)、1950年型4万2640台(シェア0.6%、15位)であり、1950年型で初めてキャディラックの約10万4000台に抜かれ、以後、キャディラックを超えることはかなわなかった。
創立50周年にあたって新型車を用意することはできなかったが、唯一のセールスポイントが「ウルトラマチックドライブ」AT(オートマチックトランスミッション)であった。独立系自動車メーカーで唯一の自社開発ATで、トルクコンバーター+2速ギアを組み合わせたセミAT(自動変速はせず、HighとLowポジションは手動で選択する)だが、いまでは当たり前となったダイレクトクラッチによるロックアップ機構を備えたすぐれものであり、当時最も評価の高いATであった。
ところで、このマスコットの鳥はなんだと思います? 実はパッカードの社内でも「鵜(う)」だ。いや「ペリカン」だ。と、長い間論争のタネになっていたようで、1949年に当時の副社長ミルトン・ティベッツ(Milton Tibbetts)が重役たちにメモを発行。1932年に初めてデザインされた時、デザイナーはペリカンとして作ったので、これを尊重してペリカンとすると伝えた。全員が納得するのに4年かかったそうである。パッカード家の紋章のトップにペリカンが付いており、これをマスコットに取り入れたものである。1978年にAutomobile Quarterlyから発行された大作「Packard - a history of the motor car and the company」に教えられた。中学生のころ、学校に行く途中の路傍に毎朝真っ白なカスタムエイトが控えており、出会いを楽しみに登校したのを覚えている。そのころ筆者は、マスコットは「白鳥」だと信じていた。
パッカード家の紋章。
上の2枚は米国パッカードクラブの月刊誌だが、タイトルは「The Cormorant News Bulletin」であり、Cormorant(鵜)と信じて命名されたのが分かる。以前はパッカードの純正アクセサリーカタログにもコーモラント・マスコットと記載されたこともあるのだから当然であろう。2枚の写真は2006年5月号であるが、この1941年型クリッパー・カスタムリムジンは、当時100台が架装され、そのうちの何台かは原爆開発のマンハッタン計画に参画した科学者たちの、ロスアラモス研究所と鉄道駅、あるいは実験場間移動の足として活躍した。 3台現存したが、これは2006年に発掘され、レストアを施されたあとNational Atomic Museumに展示される予定とある。
これは米国パッカードクラブの季刊誌だが、タイトルは「The Packard Cormorant」で、やはり鵜となっている。筆者もペリカンには見えないといまでも思っている。