第2次大戦中は軍需工場となっていたアウトウニオン傘下の各工場は、連合軍の爆撃で徹底的に破壊され尽くし1945年の終戦時には全く機能を失っていた。戦後のアウトウニオンはソ連の占領後国有化され、「I.F.A.」と名前を変えオートバイ「MZ」と手始めに1948年には「IFA F8」(戦前のDKW F8のコピー)で4輪車への復活を果たし、1959年にはロングセラー「トラバント」の製造を始める。
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(写真00-1ab) 1964-90 Trabant P601 (2008-01 ウオルフスブルグVW工場前)
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<戦後・1 DKW(デー・カー・ヴェー)>
一方、西側ではVW、オペル、ダイムラー・ベンツなどがアメリカの経済援助を受け順調に復興しつつあり1948年には、ほぼ生産体制が整ってきた。しかし西ドイツに逃れてきたアウトウニオンの関係者達にとっては復興すべき拠点は東ドイツに有るため復興に手間取り、1947年ようやく西ドイツのインゴルシュタットに本社を置く「アウトウニオンGmbH」を設立し戦後がスタートした。1949年戦前の生き残りモデルのためのパーツの生産から始まり、続いてモーターサイクルが生産される。20年前、第1次大戦後大当たりした経験を生かした2匹目のどじょう狙いは今回も当たった。
(写真01-1a)1957 DKW RT125/2 (VW ミュージアム)
写真の車は生産を再開してから10年近く経っているので戦後の混乱期のものではないが、さすが2輪車にも長い経験を持ったメーカーだけにとてもよく出来ている。特にサドル型のリアシートは魅力的だ。
(写真01-1b) 1957 Ymaha Motorcycle 広告(モーターファン)
参考に同じ年の我が国の2輪車事情を見ると、戦後「雨後のたけのこ」のようにオートバイメーカーが次々生まれては消える戦国時代が続いたが1957年でも年鑑にはまだ33社が載っている。記憶の彼方に去ってしまった懐かしい名前を幾つか上げると「陸王」「メグロ」「キャブトン」「ポインター」「トーハツ」「ライラック」「マーチン」「ホスク」などキリがないが結局現存するのは「ホンダ」「ヤマハ」「スズキ」「カワサキ」の4社だけだ。参考に1957年のヤマハの広告を載せたが、この当時僕の月給は多分1万円前後だったから125ccの13万8千円でも年収に匹敵する高嶺の花だ。
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1950年にはデュッセルドルフに新工場が完成し戦後のニューモデル「DKW マイスタークラッセ」(Type F-89)の発売に漕ぎ着けた。(ここから後は僕の記憶と同時進行となる)マイスタークラッセには1950-52年の前期型と1953-54年の後期型があり、リムジン、カブリオレ、クーペ、コンビの4種を選ぶことが出来た。(エンジンは2サイクル、2気筒 684cc 23hp)
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(写真01-2ab)1953-54 DKW Meisterklasse Limousine (1958 静岡市内)
(写真01-2cd)1953-54 DKW Meisterklasse Limousine (1957 羽田空港)
羽田は成田空港が出来るまでは唯一の国際空港だったから珍しい車がいつも見られた。丁度ナンバープレートの様式が変わったばかりで「1列式」と「2段式」の両方が街で見られた。よく考えると4桁しかないから東京都全部で「5ナンバー」の車は9999台以下だった?と言うことか。
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1953年には外見はメッキ部分が増えた以外殆ど同じで、エンジンを3気筒896cc 34psに強化した「ゾンダークラッセ」(Type F-91) が登場した。
(写真01-3abc) 1953-55 DKW Sonderklsse Limousine (1958 静岡市内)
静岡市ではこの当時「マイスター」と「ゾンダー」の2種が市内を走っていた。この車は3気筒で既に「3=6」のエンブレムがトランク右下に付いている。
(写真01-3ab)1953-55 DKW Sonderklasse Cabriolet (2010-10 ラフェスタ・ミッレミリア)
大変珍しいオープンモデルは、生憎の雨で幌を上げている。本来は内張りのあるカブリオレだと思うが仮のトップは張りがなく一寸残念だ。
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このあと1955-58年「DKWグロッサー(900)3=6」(Type F-93/F-94)、1959年その発展型「アウトウニオン1000」と続き、この4種が2ストロークの一族だがここでも去年まで「DKW」だった車が4つの輪をグリルの中に移動しただけで「アウトウニオン」と名前が変わってしまったりするのだ。
(写真01-4ab) 1955-56 DKW Grosser 3=6 2door Limousine (Type F-93) (1959-11 東京オートショー/晴海)
1955-56年型はグリルが楕円で囲まれた以外、外見的に大きな変化はない。エンジンの排気量も変わらないが38psとなった。このモデルから「3=6」が正式な形式名となった。
(写真01-4cd)1957-59 DKW Grosser 3=6 4door Limousine Type F-94(1965 港区麻布鳥居坂)
1957-59年型はグリルの中が細かい格子となった他は変わらず、馬力が40psとさらにアップした。1959年の年鑑にのみモデル名が「900」となっているが、ドイツ版には見られず日本だけの命名のようだ。このモデルからホイールベースを10センチ伸ばし2450mmとした4ドア仕様が造られるようになったが、このベースは以前からあった同サイズのワゴンタイプのものらしく乗用車としては時代遅れの外ヒンジのドアからも推測できる。場所は麻布鳥居坂(現六本木5丁目)にあったドイツ大使館横で、「外の青ナンバー」は大使館の車。
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(写真01-5ab)1956-58 DKW 3=6 Monza Sports Coupe(1999-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
日本では全く知られていないが「3=6」シリーズには「モンツァ」と名付けられたスポーツモデルが存在した。メカニカルはそのままだが、空気抵抗の少ない軽量ボディのおかげで最高速度が20キロも速くなり、1956年にはモンツァで72時間平均速度140km/hの記録を出した。全部で240台造られている。
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(写真01-6ab)1964 DKW GT Malzoni (ブラジル) (1999-08 ラグナセカ・カリフォルニア)
この車は1964年マルゾニによってブラジルで造られた車で、ベースは「アウトウニオン1000」の乘用車タイプといわれる。アウトウニオンベースでありながらここでは既に1959年で生産が終わっていた「DKW」をあえて名乗っているので、違和感はあるがDKWの項に登場させた。この車は後年「VWプーマ」となった原型である。
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<戦後・2 アウトウニオン>
「DKW3=6」と併売される形で1957年登場したのが「アウトウニオン1000」で、今まで「DKW」だとばっかり思っていた車が、ある日突然に聞いたこともないと名前が変わって登場した。といっても聞いたことが無かったのは僕の知識不足で、戦前から通してこの会社は「アウトウニオン」であって、作っている車が「DKW」という事で何の不思議も無い事だった。でも、「アウトウニオン」の名前は1957年から65年までの「1000」シリーズだけで、1959年発表された「DKW Junior」からは又「DKW」に戻るのである期間は重複するなど矢張りややこしい。
(写真02-1ab)1959-62 Autounion 1000 S Coupe (1980-01 明治神宮絵画館前)
写真の車は1957年登場した「1000」シリーズの強化版「1000 S」で、エンジンは排気量を上げ3気筒980cc 50psとなった。1950年以来続く曲面で成型されたスタイルは車名が変わっても相変わらずで、フロントウインドが横まで回り込んだラップアラウンドに変わった他に大きな変化はなく、前のモデルとの違いはグリルの中央に一本の横バーを入れ、ボンネットにあった「4つの輪」をその真ん中に持ってきて「アウトウニオン」を強調した。「DKW」のバッジが消えた以外相違点は見つからない。
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(写真02-2ab) 1958-65 Autounion 1000 SP Coupe (1961-06 第2回 東京外車ショー/晴海)
第2次大戦後「DKW」のボディスタイルは初代の「マイスタークラッセ」以来ずっと変わらず、車名が「アウトウニオン」に変わってもリムジン、クーペ系はそれを引き継いだ。しかしここに登場したスポーツクーペはガラリと変って流行りのテールフィンをもつモダンなスタイルで、デザインはイタリアのフィッソーレと言われる。
(写真02-2c)1961 Autounion 1000 SP Coupe (1963-05-03 第1回日本GP/鈴鹿サーキット)
日本で初めて開かれた本格的なレースは、実戦の経験もなく、ノーマルのまま出場して最終コーナーにオーバースピードで突っ込み派手に転覆する車が続出するなど、今では考えられないような初歩的なアクシデントが一杯で、見物人にとってはハラハラ、どきどきでスリル万点なレースだったが、次の年にはもうこんなシーンは見られなかった。写真の車はGTレース(1300cc以下)に出場した井口のぼる氏のものでコンテッサ、フェアレディを抑えて2位でゴールしたが1位のスプライトが改造違反で失格し、繰り上げ優勝となった。「アウトウニオン」と言う名称はまだ浸透しておらず、公式プログラムでは「アウトウニオン1000SP」と紹介されているにもかかわらず、雑誌での紹介は「DKW」と言う本当はどこにも付かない車名で扱われていた。
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(写真02-3ab)1959-62 DKW Junior 2dr Limousine (1942年/赤坂溜池日本自動車裏通り)
684ccから始まったDKWシリーズは徐々に排気量が増え1957年の1000シリーズでは980ccまで大きくなった。そこで原点に戻った本来の小型車741ccの「ユニオール」が全く新しい流行の先端をゆくスタイルで登場した。これまでの曲線で構成されたボディとは正反対の直線を強調したデザインは、当時の主流アメリカ車の影響が強く、フェンダーの先端処理は1955年型プリムスそのものだ。既に「アウトウニオン」を発売中だが、発表順に記載することであえて「DKW」をここに挿入した。それは又々登場した「DKW」に対して当時僕らが感じた"この会社どうなってんだ?"と言う戸惑いと混乱を少しでも感じていただきたいと思ったからだ。「ユニオール」シリーズは1963年1月ほぼ同じイメージで889cc 40psに強化され「DKW F12」と名前を変え登場した。同じ年の9月にはこのボディに旧ユニオールDxの796ccエンジンを載せた廉価版「DKW F11」が生れ1965年までにこのシリーズは約35万台が生産された。
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(写真02-4ab) 1964-66 DKW F102 2dr Limosine (1978-01 東京プリンスホテル)
1964年デビューしたこの車はモダンなスタイルで「DKW」を名乗っているが、2サイクル3気筒で1175ccのエンジンを持ち、中身は「アウトウニオン1000S」の後継車である。次のモデル「F103」は「アウディ」となるので一代限りの「DKW」である。混乱はここまででこのあとは全て「アウディ」に統一されるので、締めくくりに登場順をおさらいすると「DKW」(マイスター)(ソンダー)(3=6)/アウトウニオン(1000s)/「DKW」(F102)/「アウディ」(F103)と続くが、一部は併売でダブル時期があり、それが混乱のもとだ。
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<戦後・3 アウディ>
「DKW」を名乗った車は1966年の「F-102」まで続いたが、1965 年には後継モデル「F-103」が「アウディ」を名乗ってデビューする。ここで又似たような車が重複して存在する事になる。アウディを名乗ることになった原因をこの当時の会社の経営面から見ると、1961年にはデュッセルドルフ工場をダイムラー・ベンツに売却し、インゴルシュタット工場を拡張して生産拠点を集中するため、1962年着工、63年から64年にかけて一大工場が完成した。しかしこの間の生産は低調で、何とかしようと車種を増やすも設備投資が増えるばかりで効果は上がらず最悪の状態となり、VWの援助をうけその管理下に入った。その結果車種が整理され2ストロークの1ℓクラスは廃止され、後継車「F-103」は4サイクル4気筒1.7ℓのエンジンとなった。「DKW」の特徴であった2ストローク・エンジンが消えると同時に「DKW」と「アウトウニオン」の名も消え、最後に残ったのは「アウディ」と「4つのリング」のみとなった。その結果「オペル」「フォード」に対抗する民族資本連合の一員として「VW」と「メルセデス・ベンツ」の中間を埋めるポジションが与えられる事になった。
.(写真03-1a)1967 Audi F103 4dr Limousine (1966-11 東京オートショー/晴海)
新発足した「アウディ」が最初に発表したのが「DKW F102」の後継車「F103」で、フィッソーレのデザインしたボディは「F102」から踏襲しているが、大きく変わったのはそのエンジンで、今まで「DKW」の最大の特徴であった2ストローク3気筒エンジンは廃止され、その代わりにダイムラー・ベンツが造った4サイクル4気筒1679cc 72psが載せられる事になった。写真の車は1966年11月のオートショーで撮影したものだが、車名は「アウトウニオン・アウディ」となっており「F103」の表示はどこにも無かった。周りの人物がブレているのは、この当時僕は3脚を使ってスローシャッタで撮影していたからだ。フィルム感度ISO400や増感現像ではハイライトが飛んでしまうし、ストロボは基本的に使わない方針なので「ISO200」ではこれしか無かった。今はデジタルカメラがメインで感度もISO1000以上が普通に使えるのでストロボも三脚も殆ど出番は無い。
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その後1967年秋にはおなじ1697ccエンジンを80psにパワーアップした「アウディ80」と、1760cc 90ps の「アウディ90」が誕生し、今までの「F103」は「アウディ70」と変わった。1968年春、1496cc 55psのベーシックモデル「アウディ60」、そして1968年末には同じ1760ccエンジンから3種の「アウディ100」(90psの「100」、102psの「100S」、115psの「100LS」)が登場し「60」から「100」までのラインアップが出揃った。
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(写真03-2a) 1968 Audi 80L 4dr Limousine (1967-11 第9回東京オートショー/晴海)
前の写真と外見は全く変わらないが,1968年型からは型式表示方式が変り同じエンジンを80psにパワーアップした「80シリーズ」が誕生した。
(写真03-3a) 1968 Audi Super 90 4dr Limousine (1967-11 第9回東京オートショー/晴海)
3台続いて同じような車が続くが、「F103」をベースにエンジンの馬力でモデル名を決めている為、外見に変化が無いのは仕方がない。その為外見ウオッチャーの僕としてはアウディに対して撮影意欲が減退したのは確かだ。
(写真03-3bc)1966-72 Audi Super 90 4dr Limousine (1969-11 東京オートショー駐車場)
「スーパー90」は「F103」系「80シリーズ」のバリエーションの1つで、1966年から72年にかけて製造された。(後年登場する「アウディ90」は「B1」系「80シリーズ」から発展したもので別系統)
(写真03-4a) 1974 Audi 100GL 4dr Limousine (1973-11 第20回東京モーターショー/晴海)
「アウディ100」シリーズは1968年から94年まで4世代にわたって造られたアウディのフラッグシップだが、エンジンは直4 /1.8 ℓ 80~100hpと意外と小さい。写真の車は1968-76年に造られた初代(C1系)で、ヘッドライトが4灯式なのが特長。
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(写真03-4bc) 1972 Audi 100 Coupe S (2007-06 グッドウッド/イギリス)
1970年100シリーズに登場したクーペバージョンが写真の車で、エンジンは1.9 ℓ 115hpに強化されている。
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(写真03-4de) 1977 Audi 100GLE 4dr Limousine (1977-006 1 東京オートショー/晴海)
写真の車は1977年型なので、第2世代(C2系)に該当する。外見は殆ど変わらないが、エンジンは直5 /2.1 ℓ 100~136hpと大きく変わり、名実共にメルセデスのコンパクトシリーズと対等に戦える車となった。
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<クワトロ>
「アウディ」の名を一躍有名にしたのは「クワトロ」の出現だった。それまでも場面に応じて4輪駆動にする「パートタイム」はあったが、「アウディ クワトロ」は機構的に最初から4輪全てを駆動する「フルタイム」方式を実用車として初めて採用した。1980年のジュネーブ・ショーでデビューした当時は、駆動力やエンジンブレーキの効きには有効だが、構造が複雑、重量増加、コスト高など数々のデメリットを抱え疑問視する向きもあった。しかし1981年RACラリー緒戦のモンテカルロで、結果リタイアするも途中まで圧倒的な強さを見せ、以後次々と優勝を重ね4WDの実力を見せつけると同時に、世間一般の疑問もすっかり納得させる結果を出した。
(写真04-1a) 1983 Audi quattro A2 (2007-06 ビューリーミュージアム/イギリス)
写真の車は、1985年香港―北京ラリーに出場し「ハンヌ・ミッコラ/アラン・ヘルツ」のドライブで優勝した車そのもので、エンジンは直5/2121cc 300hp最高速度240km/hである。スポンサーの「555」はイギリスのタバコ名で「State Expres 555」というのが正式名。
.<スポーツ・クワトロ>
1980年市販車の販売が始まって翌1981年にはスポーツ部門「アウディ・モートル・シュポルト」を設立しレース用のチューンを始める。1983年9月WRC「グループB」のホモロゲーションを取るため200台造られたのが「スポーツ・クワトロ」で直5/2133cc 300hpの強力なエンジンと軽量化で最高速度は増したが、操縦性は前年の「A2」が勝り、レースでは1勝しただけだった。後継モデルとして1985年登場したのが強化、改良版「スポーツ・クワトロ S1」だったが、WRCではライバルのプジョー205などミッドシップが出現し、フロントエンジンの「クワトロ」は重量バランスや操縦性で劣り85年シーズンではサンレモ・ラリーに1勝しただけだった。一方、アメリカ・コロラド州で行われる「パイクスピーク・ヒルクライム」レースにはWRC「グループB仕様」の車を対象とした「オープンラリー・クラス」があり、アウディは1985、86、87年と3連勝している。
(写真04-2abc) 1985 Audi quattro S1 (2007-06 グッドウッド/イギリス)
写真の車はヒルクライムの「パイクスピーク」仕様で、1985年モデルなので390psだが89年には720psまで強化された。この車はミシェル・ムートンのドライブで優勝した車と思われる。
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<アウディのルマンカー>
最後に2000年代初頭にダントツに強かったルマンカーを登場させて「アウディ」の締め括りとしたい。1999年のプロトタイプから始まって2005年まで活躍した「R8」シリーズは2000年①②③、01年①②、02年①②③⑦、03年③④、04年①②③⑤、05年①③④と、6年間で優勝5回、①②③上位独占3回と向かうところ敵なしだった。(因みにアウディが優勝を逃した2003年、優勝した「ベントレーEXPスピード8」は同じVWグループの一員で、基本的には「アウディR8」の発展型と言われる)
(写真 05-1abc) 1999 Audi R8C LeMans Prototype (2008-01 VWミュージアム)
1999年のルマンではアウディは③④位に入賞しているが、写真の車⑩番はJ.ウエーバー、A.ウオーレス、P.マッカーシーのエントリーで出走するもリタイアで結果は残していない。しかしこの車を出発点に生み出された数々の後継車達が素晴らしい結果を残したので、そのプロトタイプとして高い評価を得ているのだろう。
四苦八苦した「アウディ」がやっと終わった。次回は「A」項最後の大物「オースチン」です。「セブン」だけでも随分あるのでお楽しみに。