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第27回 戦後のアメリカ車 - 8 :1940年代の新型車(タッカー)
2014.3.27

 今回は1947年6月、プロトタイプによるセンセーショナルな発表会を実施したが、その後の展開でつまずき、わずか51台(プロトタイプ1台を含む)を世に残して消えていったタッカーを取り上げたい。クルマ好きで優秀なセールスマンであり、発明家?でもあったプレストン T. タッカー(Preston Thomas Tucker)が、第2次世界大戦直後の米国の乗用車需要の拡大と、ビッグ3が本格的に戦後型を投入する前の間隙を狙って、自身の理想とするクルマを大量生産しようという夢の実現に向けた挑戦であった。
 タッカー車開発の特徴はいろいろあるが、特にリアエンジンの採用と、成功はしなかったが「フローイングパワー」駆動方式、「タッカーマチック」ATなど、当時実用化されたばかりのトルクコンバーターの特性を生かした、他人がまねをしないユニークな仕掛けにこだわったことであろう。
 タッカーについては1988年に監督:フランシス・フォード・コッポラ、製作:ジョージ・ルーカスというビッグ・コンビが制作した映画「Tucker:The Man and His Dream」が上映されたのでご存じの方も多いのではないだろうか。実はコッポラ8歳のとき、彼の父親カーマイン・コッポラはタッカーを1台、近くのディーラーに注文したが、届けられることは無かった。時が過ぎ、タッカーのことは忘れられていくが、コッポラはプレストン・タッカーと彼の夢であったクルマの魅力に惹かれて調査をはじめ、1974年に1037号車、1980年には1014号車の2台を手に入れて夢の半分をかなえ、もう一つの夢であった映画制作は友人であったルーカスの協力を得て完成させたのである。

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「TORPEDO ON WHEELS:車輪に載った魚雷」の刺激的なコピーを付けて「Science Illustrated」誌1946年12月号に登場した、タッカー・トーピードの広告。前輪と共に左右に首を振るサイクルフェンダー、飛行機のようなコックピットを持つ先鋭的なデザインを担当したのはジョージ・ローソン(George Lawson)。右上の写真は実車のように見えるが、ローソンが制作した1/4スケールのクレイモデルを使って、巧みなレタッチにより完成したものである。目標スペックはホイールベース126in(3200mm)、エンジン出力150馬力、駆動方式R/R、車両重量900~1100kg、巡航速度100mph(161km/h)、最高速度130mph(209km/h)、燃費30~35mpg(12.8~14.9km/L)、価格1500ドルであった。ユニークなのは右下のイラストが示す「ハイドロリック・ドライブ」と称する駆動力伝達方法で、左右の後輪にそれぞれトルクコンバーターを装着し、エンジンに直結されたオイルポンプで駆動する仕掛けで、クラッチ、トランスミッション、ドライブシャフト、ディファレンシャル、リアアクスルが不要となり、およそ800の部品を減らすことができると記されている。1947年には発売の予定とある。

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「the story of the Tucker '48...THE SURPRISE CAR OF THE YEAR:タッカー'48の物語・・・今年の驚きの車」のタイトルをつけ、1947年3月頃発行された、恐らくタッカー最初のカタログ(フォルダー)。この時点で「タッカー・トーピード」から「タッカー'48」に車名が変更された。トーピード(魚雷/水雷)は戦争を連想させるため、以後一切使用されなくなった。以下5点の写真でこのカタログの中身を紹介する。

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「50年ぶりの完全に新しい車の生みの親・・・プレストン・トーマス・タッカー」のコピーを付けて紹介されるタッカー。プレストン・タッカーの名前が世間に知られたのは最近だが、申請中のものも含め19件の自動車に関する特許を持つ発明家であり、創造力のある人物である。その能力はレースカーの製造者であったハリー・ミラー(Harry Arminius Miller)とともに、インディアナポリス・レースで11回優勝した、有名なミラー・スペシャルなどの開発をとおして培ったものである。第2次世界大戦中は兵器の開発に専念し、高速装甲車、航空機エンジンなどの試作のほか、「タッカー・タレット(Turret:旋回砲塔)」と呼ばれた動力式砲塔は、PTボート、上陸用舟艇、B-17およびB-29爆撃機などに制式採用された。戦争は米国の工業に変化をもたらし、新しい技術や製造方法、効率の良い工場などを生みだした。タッカーが15年間にわたって温めてきた、まったく新しいクルマを大量生産するという夢を実現する環境が整った。最大かつ近代的な工場の確保もでき、今年の早い時期にタッカー'48はディーラーショールームと路上に現れるでしょう。タッカー'48は今日路上を走っているどんなクルマとも性能、安全性、快適性などが異なる新しいクルマです。と言うようなことが記されている。

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「あなたがお待ちかねのタッカー'48」として登場したレンダリングはファーストバックの4ドアセダンであった。ジョージ・ローソンのタッカー・トーピードはプレストン・タッカーのお気に召さなかったようで、デザインは、後に「20世紀のダビンチ」とも称される、地元シカゴの工業デザイン事務所タメン&デニソン(Tammen & Denison)に所属していたアレックス・トレムリス(Alex Sarantos Tremulis)による。

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「いままでに試されたことが無い、まったく新しいタッカーの技術的特徴!」として、熱、臭気、音が室内に入りにくいリアエンジン方式を採用し、エンジンは水平対向6気筒+燃料噴射の150馬力以上を採用。4輪独立懸架。車輪の駆動方式はエンジンと車輪の間にトルクコンバーターを入れて直接駆動する「フローイングパワー(Flowing Power)」方式を採用して、クラッチ、トランスミッション、ディファレンシャルを省略している。右側のイラストは空冷アルミ製のシングルディスクブレーキで通常のドラムブレーキより63%強力で寿命も長い。通常のクルマより部品点数を800以上減らすことが可能で、高性能で大きなサイズにもかかわらず中間価格帯に入る価格で提供できると記されている。
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「世界で最も安全なクルマ・・・通常のクルマより安全な独特の12の方法」のコピーを付け、タッカーの安全対策について訴求している。4輪独立懸架、低重心、ディスクブレーキ、インスツルメントパネルのスポンジラバーによるクラッシュパッド、衝突時に外側に脱落する安全ガラスを使用したフロントウインドシールド、ペリメーターフレームと頑丈なバルクヘッドに囲まれた安全な室内、計器類のワーニングランプ化、視線移動を少なくするためエンジンフード上に設置されたスピードメーター、ステアリングの回転に連動して左右に首を振る、車両前面中央に装着された「サイクロプスアイ(Cyclops Eye:ギリシャ神話に登場する一つ目の巨人の目)」ランプ、霧でも視認できるようデザインされた3個のヘッドランプ、余裕ある電力と長寿命を得るための24ボルト電装とスーパーバッテリーの採用などであった。

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最後の頁は役員と工場が紹介されている。戦時中はクライスラー社ダッジ・ディビジョンのシカゴ航空機エンジン工場でB-29爆撃機のエンジンを生産していた。戦時資産管理事務局(War Assets Administration:WAA)の管理下にあったこの工場を借りることに成功し、1946年7月に契約書にサインした。条件としてタッカー社の資本金を1947年3月までに1500万ドルに引き上げることであったが、これは株式とディーラー・フランチャイズの販売で達成している。一つ屋根の下の自動車工場としては世界で2番目に大きな工場であった。

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1947年6月19日にはじめてプロトタイプがお披露目されたが、これはその後に発行された広告。ここに載ったクルマはプロトタイプだが、量産モデルが観音開きドアなのに対し、リアドアも前ヒンジとなっている。タッカーはトレムリスのデザインにも満足せず、ニューヨークの工業デザイン事務所J. ゴードン・リッピンコット社(J. Gordon Lippincott & Co.)(1947年夏にLippincott & Marguliesに社名変更)にリファインを依頼し、リッピンコット社のチームによって前後の造形が大きく修正されている。プロトタイプにはタッカーが開発した589cu-in(9660cc)半球形燃焼室と油圧作動(カムシャフトなし)のOHV水平対向6気筒エンジンをリアに横置きし、クランクシャフトの両端にトルクコンバーターを直結し、ドライブシャフトで後輪を駆動する方式が採用されていた。トランスミッションは無く前進のみで後退ができなかった。エンジンのアイドルスピードは100rpmで走行時は250~1200rpmであった。エンジン音は大きく、ステージに自走で登場するときにはバンド演奏の音量を最大にするようタッカーから指示が出されたが、ごまかしきれなかったそうだ。また、お披露目の直前にエンジンとボディーの重さに耐えかねてアルミ製のサスペンションアームが曲がってしまい、急きょスチール製に換装されている。ただし、プレゼンテーションの後エンジン、トランスミッションなどはパイロットモデル50台と同じものに換えられている。
 プロトタイプ車には「ティングース(The Tin Goose)」のニックネームが付けられており、直訳すれば「ブリキのガチョウ」だが、グースにはあほう、まぬけなどの意味もあるため、ダメなクルマと言う意味であとから付けられたという説もあるが、リッピンコット社のチームの一人、フィリップ S. イーガン(Philip S. Egan)の著書「Design and Destiny:the making of the Tucker automobile」(ISBN:0-924321-00-8)に、名付け親はアレックス・トレムリスで「ニックネームが後でタッカープロジェクトに対する疑惑によってひどく誤解されたが、このニックネームは間違いなく愛情の指標であった」と記されている。

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「50年ぶりの完全に新しい車」のコピーを付けて発行された、おそらく最終型タッカー'48の最初で最後のカタログ。以下5点の写真で内容を紹介する。

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「ティングース」との外観上の大きな違いはドアが観音開きとなったこと。このカタログに記載されたスペックはホイールベース128in(3251mm)、全高60in(1524mm)、166馬力のみだが、サイズは全長219in(5563mm)、全幅79in(2007mm)、車両重量4200lb(1905kg)。エンジンは自社開発の9.7L水平対向6気筒がものにならず、ベル・ヘリコプターに搭載されていたエアクールドモーターズ社(Aircooled Motors Corp.)製6 ALV-335型335cu-in(5494cc)空冷水平対向6気筒エンジンを水冷に改造したエンジンを搭載した。エンジンスペックはボア4.5in(114.3mm)、ストローク3.5in(88.9mm)、圧縮比7.0:1、最高出力166馬力、最大トルク372ft-lb(51.4kg-m)。トランスミッションは1936/37年型コード810/812の4速MTに手を加えて流用し、変速操作はリンケージを持たない、ベンディックス社が開発した電気式シフター「Finger-Tip Gear Control」によりバキュームシリンダーでシフトを行なう(M-BASE第18回参照)。オートマチックトランスミッション(AT)は3速ボルグワーナーを1台に搭載したが、タッカーは満足せず「タッカーマチック(Tuckermatic)」を独自開発した。ギアは前進(1段)と後進があるだけで、ギアボックスの前後に2つのトルクコンバーターを配したユニークなものだが、搭載されたのは2台のみで、そのうちの1台(シャシーNo. 1042)はATが現存するだけで、車体は行方不明となっている。最高速度は120mph(193km/h)、0-60mph(96.6km/h)加速は約10秒の俊足であった。価格は当初の予定2450ドルを大幅に超え、キャディラックより若干安い4000ドルほどで販売されたと言われる。
 エアクールドモーターズ社は1902年に創業し、空冷エンジン車「フランクリン」を生産してきたフランクリン社(H. H. Franklin Mfg. Co. of Syracuse)が1934年に倒産する前年の1933年にチーフエンジニアのエドワード・マークス(Edward Marks)とアシスタントのカール・ドマン(Carl Doman)が独立し、多くのフランクリンの従業員を引き継いで創立した会社。リパブリック・アビエーション社に買収され、その後、タッカー社が買収した。

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「ミディアムプライスフィールドでの比較を超えた豪華さ」のコピーで紹介される室内装備。ドアの開口部はルーフまで切り込まれて乗降がしやすく、リアシートの後ろには週末に家族のために買った品物が置ける広い棚が設けられている。タッカーのグローブボックスを見たときあなたは「なぜ今まで誰も考えなかったのだろう」と言うだろうと、右側フロントドアに組み込んだグローブボックスを紹介し、更に、ステップダウンフロアの採用によって、5フィートという低い車高にもかかわらず十分なヘッドクリアランスと最低地上高を確保していると訴求している。

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タッカーに採用された新技術と安全機能の一部を紹介している。しかし、当初予定していた「フローイングパワー」駆動方式、燃料噴射エンジン、ディスクブレーキ、エンジンフード上のスピードメーター、24ボルト電装などの斬新なアイデアは実現されなかった。ステアリングホイールのオリジナルデザインは左右非対称のスポークを持つ個性的なものであったが、発注遅れで間に合わず、アレックス・トレムリスがフォードモーター社の友人に頼み、リンカーン・ゼファーのものを50本無償で調達したものが装着されている。

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最後の頁はQ&Aにあてられている。プレストン・タッカーとは何者? タッカー車のサービスはどこで受けられる?(2000以上の正規ディーラーで可能と記されている)、どんな工場でタッカーは造られているの? 最後に、いつ、どこでタッカーは買えるのか?値段は?の質問には「全国誌やあなたの地元の新聞に広告を掲載して知らせます。そして広告掲載したらできるだけ早く販売を開始します」とあるように、このカタログが発行された時点では発売時期は未定であったことが分かる。

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これはトヨタ博物館に所蔵されているシャシーNo.1004号車。日本にはもう1台シャシーNo.1020が九州に生息している。

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これは京商から発売された1/18スケールのダイキャストモデル。この角度から見ると全体の造形がよく理解できる。フロントシートのシートベルトとリアシート後ろの広い荷物棚に注目。

 5000人以上集まったと言われるプロトタイプ「ティングース」による発表会の反響は大きく、株式、ディーラー・フランチャイズの販売は順調で、全米のおよそ2000のディーラーと契約締結を果たした。しかし、一向に生産車が販売されないことにSEC( The Securities and Exchange Commission:証券取引委員会)が注視しはじめていた。1929年の大恐慌を機にSECは強化され、新興企業であるタッカー社は最初から監視されていたのである。1948年6月3日、SECから呼び出しがあり、タッカー社を調査中であるが、調査に必要なタッカー社の帳簿と記録を任意で提出すれば公表しないと告げられたが、6月6日にラジオ局のニュースコメンテーターがリークしてしまい、タッカー社の株価は暴落してしまった。7月には300人ほどの従業員で組み立てを再開したが、メディアの報道によるダメージは大きく、1949年3月3日には管財人の手に渡り、資産は裁判所の管理するところとなってしまった。6月にはプレストン・タッカーと幹部7名が詐欺やSEC規則違反など31項目の容疑で起訴され、10月5日、裁判が開始されると同時に工場は閉鎖されてしまった。この時点でパイロットランとして用意された50台分の部品のうち37台は組み立てが完了していたが、残り13台は従業員有志のボランティアで組み立てられた。
 1950年1月22日、判決で無罪を獲得したが、もはや再起不能の状態であった。タッカーはクルマ造りの夢を捨てきれず、1951年にブラジルに渡って2人乗りキット・スポーツカー「カリオカ(Carioca)」の開発を試み、その夢を携えて米国に戻り機会をうかがっていたが、1956年12月26日、肺がんのためわずか53歳で天に召されてしまった。
 タッカーがあまりにも斬新であったため、脅威に感じたビッグ3が妨害したとの説もあるが、タッカーの夢があまりにも大きすぎたのと、夢を実現するには準備期間があまりにも短すぎたのではないだろうか。
 生産されたタッカー51台のうち「ティングース」(プロトタイプ)をはじめ47台が動態保存されており、日本に2台、オーストラリアとブラジルに各1台あるほかはすべて米国に生息している。超レアモデルであり純度の高い個体の場合、オークションでの価格は200万ドルを超えており、紙切れとなった当時の株券も額面以上の値段で取引されていると言われる。


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執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

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