(1)<アームストロング・シドレー> (英)
「アームストロング」と聞くと、ジャズ好きの僕は真っ先に"サッチモ"こと、「ルイ・アームストロング」を連想してしまうが、一般的には、幕末のドラマで活躍する大砲「アームストロング砲」を思い出す人の方が多いかもしれない。兵器を作っていた会社が自動車を作るようになった例は幾つかあるが、大砲は1855年イギリス人「ウイリアム・アームストロング」の手で誕生し、自動車メーカーの方は1902年「ジョン・ダヴェンポート・シドレー」が創業した「シドレー・オートカーズ社」をルーツとしているので関係はなさそうだ。第1次大戦中は軍用車の他、航空機やそのエンジンを製造していた事から、第1次大戦後の1919年には「アームストロング・ホイットワース社」に買収され、社名が「アームストロング・シドレー・モーターカー社」となった。1927年に親会社は「ヴィッカース社」と合併して名前が変わったが、子会社はそのまま存続され1960年まで自動車の製造は続けられた。
(写真01-1) Armstrong-Siddeley のマスコット
1950年代までの車のボンネットには、それぞれのメーカー独自のテーマを継承した「マスコット」が鎮座していた。このメーカーにはスフィンクス」が付いていた。
(写真01-2)1934 Armstrong-Siddeley 12hp Saloon(1982-02 東京プリンスホテル)
1.5リッターのファミリーカーで、12500台造られた戦前のヒット作。
(写真01-3) 1953 Armstrong-Siddeley Sapphire (1959年 羽田空港/数寄屋橋付近)
当時正規輸入された数少ない「外車」は、オーナーが知られているものが幾つかあった。この車もその一つで、当時全日空の社長だった岡崎嘉平太氏が乗っていた車だ。サファイア・モデルは、ほぼ同時期に排気量の異なる3つのタイプがあったが、写真の車はその中では一番大きい6気筒3435ccのtype「346」だ。
(写真01-4)1959 Armstrong-Siddeley Star Sapphire (2009-10 ラ・フェスタ・ミッレミリア/原宿)
サファイアの発展モデルとして1958年登場したのが3990ccの「スター・サファイアー」で、マスコットと補助ランプの位置にホーン・グリルが付いた以外は、殆ど見かけは「サファイアー」と変わらない。
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(2)<アーノルト>(米)
「アーノルト」という車は「イギリス」のシャシーを使って「イタリア」でボディを造り「アメリカ」のデイラーが自分の名前を付けて販売するという3カ国の協力のもとで誕生した。1950年代イタリアのカロセリア(ボディー架装業者)達は、量産車がモノコック化し素材となるシャシーが見当たらなくなってしまった事で存続の危機を抱えていた。「ベルトーネ」も同様で、事の発端は、1952年ローマにあるMGの代理店からの注文で、「MG-TD」のシャシーにクーペとコンバーチブル2台を架装し、その年のトリノ・ショーに出展した。第2幕はそれを見たアメリカ人がそれぞれ100台ずつ注文した事で、この注文主「スタンレー・ハロルド・アーノルト」はアメリカ・シカゴで「MG」「ブリストル」「アストン・マーチン」「ベントレー」を扱うデーラーを経営していた。最終的には380台もが販売されたが、これにヒントを得た「ベルトーネ」は、依然としてラダーフレームを造り続けているイギリスのメーカーに目を付け、「ブリストル404」を使って180台の「アーノルト・ブリストル」が造られた。その他にも、「アーノルト」が扱っていた「アストン・マーチン」と「ベントレー」にも架装しているが量産はされなかった。
(写真02-1)1952 Arnolt-MG TD Coupe(1998-08コンコルソイタリアーノ)
(写真02-2)1955 Arnolt-MG TD Coupe (2010-06 グッドウッド)
(写真02-3)1954 Arnort-Bristol Bolide (2001-05 ミッレミリア)
(写真2-4)1954 Arnolt-Bristol Bolide (2000-06 グッドウッド)
(写真02-5)1954 Arnolt-Bristol Bolide (1998-08 カリフォルニア)
(写真02-6)1956 Arnolt-Bristol (2010-06 グッドウッド)
(写真02-7) Arnort-Astonmartin BD2/4 MarkⅡSpyder (2004-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
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(3)<アルザンス)(仏)
日本では全く知られていないレアなこの車は、対象外とすべきだったが、あまりにも時代を先取りした大胆なデサインなので敢えて登場させた。フランス生まれの工業デザイナー「ポール・アルザンス」(1903-1990)は自動車の他、フランス国鉄の電気機関車にもその斬新な作品を残している。
(写真03-1) 1938 Arzens La Baleine(The Whale) (2002-01 フランス国立自動車博物館)
こののっぺりした車は3500ccで最高速度160km/hとあったが、それよりも1938年という、この車が造られた年代にこのモダーンなデザインが存在したことが驚きで、戦後ボディを載せ替えたのではないかとずっと疑っていたが、正真正銘オリジナルで、ベースはビュイックのようだ。ニックネームは「くじら」と呼ばれる。
(写真03-2)1942 Arzens Deut (2002-01 フランス国立自動車博物館)
この3次曲面の塊が今から70年以上前に造られたということを信じられますか?1942年と言えば昭和17年で、日本では「零戦」が大活躍していた第2次大戦の真っ只中だが、この透明の物体の正体は「プレキシ・グラス」と呼ばれる合成樹脂で整形されたもので、ヨーロッパ戦線でも飛行機の曲面ガラスが要求され、従来のガラスに代わって登場した当時の最先端素材だった。日本では「有機ガラス」(「匂いガラス」の別名有り)と呼ばれ、僕も小学生の頃、友達が持っていた墜落したB29から取ったと称する小さな破片をズボンで擦って甘い匂いを嗅いだ記憶がある。車は戦後のキャビン・スクーター「イセッタ」や「ハインケル」を先取りした前2輪、後1輪のレイアウトで、後輪をモーターで駆動するため「電動たまご」と名付けられていた。
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(4)< ASA > (伊) (1962-68)
エンツォ・フェラーリは1000cc前後の4気筒高性能エンジンを開発してフィアットに売り込もうと目論んだが実現せず、このエンジンを使った小型車を造りどこかで生産できないかと考えた。その結果この車をライセンス生産するためミラノに造られたのがAutocostruzioni S.A.(自動車製造株式会社)で、車名はその頭文字をとって「ASA」と名付けられた。この車が1961年のトリノショーに登場したときは「フェラリーナ1000GT」と紹介されたが、当時「12気筒でなければフェラーリにあらず」という風潮から、6気筒の「ディーノ」でさえフェラーリを名乗ることも、跳ね馬のバッジを付けることも許されなかった中で、4気筒1000ccの車には「フェラリーナ」(小さなフェラーリ)を名乗ることすら許されなかったのだろうか。我が国に正規輸入されたのは1965,66年秋の東京オートショーで展示されたクーペ2台のみである。
(写真04-1)1967 ASA 1000GT Coupe (1996-08 ペブルビーチ)
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(5)<Atalanta>(英)(1938-39)
(写真05-1) 1939 Atalanta 4.3litre Drophead Coupe (1995-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
短命で2つのモデルしか造らなかったメーカーなので、殆ど知名度のない車だ。V12気筒4.3リッターのエンジンはアメリカのリンカーン・ゼファーからの転用で、いわゆる「アングロ・アメリカン」の仲間だ。
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(6)<ATCO>(英)
(写真06-1) 1939 ATCO Traner (2007-06 ビューリー自動車博物館)
一見、ペダルカーかベビーカーに見えるがこの車はオモチャではなく、はっきりと目的を持って造られた自動車である。その目的とは「小学生」に「運転技術」と「交通安全」についてのトレーニングを行う為だ。だからすべてのコントロールは本物と同じに作られ(ギアは前進・後退各1段のみ)、単気筒98ccのガソリンエンジン付きで最高速度は16km/hとあった。さすがは交通先進国だ。
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(7)< ATS >(伊) 1963-65
この会社は1961年、エンツォ・フェラーリと喧嘩別れした「ジオット・ビッザリーニ」「カルロ・キティ」等がフェラーリに対抗して造ったイタリアのメーカーで、生産されたのは僅か10台前後だがイタリア初、世界でも極く初期に試みられた「ミッドシップ・エンジン」のスポーツカーである。車名「ATS」とはAutomobili Turismo e Sportの頭文字でイタリアのボローニャに有った。ボディはフランコ・スカリオーネがデザインし、カロセリア・アレマーノで造られた。「2500GT」と、より高性能な「2500GTS」がある。
(写真07-1)1965 ATS 2500 GTS (2004-08 コンコルソ・イタリアーノ)
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(8)<Auburn/Cord> (1900-36)
「オーバーン/コード/デューセンバーグ」と一纏めで話題にされることの多いこの3車の関係は、1924年弱冠31歳の「イレット・ロッバン・コード」がインディアナ州の田舎町オーバーンにある「オーバーン・オートモビル社」の副社長に就任した時から始まる。2年後社長となった彼は、前輪駆動に強い関心を持っており、1929年にはオーバーン社から自分の名前を付けた前輪駆動車「コードL-29」を発売する。一方、同じインディアナ州でフレデリック・サミュエルとオーガストの兄弟が造った「デューセンバーグ・モデルA」は高性能車でありながら平凡な外見からか1922年92台、翌23年140台と売れ行きは振るわず、1926年倒産寸前だったこの会社を救ったのがロッバン・コードで、デューセンバーグ兄弟の才能を高く評価していた彼は、合併吸収する事なく株式の大半を取得し傘下に収める事で会社を存続させた。そして1929年には歴史に残る名車「デューセンバーグ・モデルJ」が誕生した。 <Auburn>
オーバーンは1900年から続く長い歴史を持っているが1920年代半ばまでは平凡な中級車メーカーで、決して目立つ存在ではなかった。1920年代後半から30年代にかけて売り出した「ボートテイル・スピードスター」がそのかっこよさから大人気となったが、デューセンバーグなどと較べればずっとお手軽な値段だったのも人気の秘密だろう。セダンやカブリオレなどもあるが、目に付くのは殆どスピードスターばかりだ。
(写真08-1) 1929 Auburn 8-120 Speedster (1995-08 ペブルビーチ)
オーバーンのトレードマークとなったスピードスターのボディはこの年から登場した。まだフェンダーから続くサイドステップが有りテールの処理を除いては一般のモデルとあまり変わらない。
(写真08-02)1935 Auburn 851 Speedster(1998-08 ブルックス・オークション/カリフォルニア)
この長大なボディを持ちながら完全な2人乗りという贅沢な「あそび心」と、一部の隙もないスタイルは「ゴードン・ビューリグ」の作品で若者が憧れたのも無理はない。
(写真08-3) 1935 Auburn 851 (2004-06/ビューリー自動車博物館)
オールド・ファンなら脚線美で良くご存知の、或いはもうちょっと若い方なら「リリー・マルレーン」を唄ったと言ったら思い当たるだろうか、ハリウッドの大女優「マルレーネ・デートリッヒ」の愛車として展示されていたが、彼女くらいなら「デューセンバーグ」でも楽々買えただろうに・・。
(写真08-4) 1936 Auburn 852 Cabriolet by Labourdette
オーバーンと言うと851/852に代表され、1934年の「850」は殆ど知られていないし、6気筒の「650」シリーズも各年に存在していたが、こちらも写真すら中々見つからない。「850」シリーズは3年間続き「851」は1935年型、「852」は1936年型で、この年を最後にオーバーンの製造は終わった。
<Cord>
コードという車は1929-31年の「L-29」と1936年の「810」、32年の「812」と僅か3タイプが存在しただけだが、「前輪駆動」という特異なメカニズムと、「810/812」に見られる格納式ヘッドライトや斬新なボディ・デザインが話題となりアメリカの自動車の歴史を語るときには必ず登場する車だ。
(写真08-5) 1929 Cord L-29 Convertible Coupe (1995-08 カリフォルニア)
(写真08-6)1930 Cord L-29 Murphy Towncar (1995-08 ペブルビーチ)
(写真08-7)1930 Cord L-29 Brooks Stevens Speedster (1999-08 ペブルビーチ)
(写真08-8)1937 Cord 810 4dr Sedan (1966-02 駒沢オリンピック公園)
この車は戦前から日本の街を走っていた事で良く知られた車だ。「コード」は1936年「810」、37年「812」スーパーチャージャー付きと単純に考えて居たが、37年「812」にはS.Cが付かないモデルもある。しかし37年には写真の車のような「810」はないのでプレートが誤りか、製造年とモデルイヤーの食い違いか。
(写真08-9) 1937 Cord 812 Pheaton (1998-08 カーメル市内/カリフォルニア)
「カーメル」はかなり前クリント・イーストウッドが市長だったことでも知られる静かで落ち着いた町だが、道端にさりげなくこんな車が停まっているのが良く似合う。
(写真08-10)1937 Cord 812 4dr Sedan(2008-01 ジンスハイム博物館/ドイツ)
(写真08-11)1937 Cord 812 4dr Beverly Sedan(1995-08ペブルビーチ)
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(9)<Aurora>(米)1957-58
「オーロラ」は、自動車のデザイナーになるつもりで勉強していたのに、何故か途中からカソリックの神父さんになってしまった「アルフレッド A ジュリアーノ」が「安全な自動車を目指す実験車」として造った車だ。シートベルト、ロールケージ、パット入の計器盤、など現代の車が装備している数々の安全装置が既に付けられており、機能優先でデザインを無視した外観は、贔屓目に見れば「ジョーズみたい!」だが、正直グロテスクだ。しかし大きく開いたフロントは「歩行者をすくい上げる」ためのもので、膨らんだおでこのようなフロントガラスはエアバッグが出現する以前乗員の頭を保護する方法として考えられた1つのアイデア。
(写真09-1) 1957 Aurora Saftycar Prototype (2004-06グッドウッド)
(10)<Austro Daimler>(オーストリア) (1899-34)
「ダイムラー・モトレーン有限会社」は小型ガソリンエンジンの父「ゴットリープ・ダイムラー」が1890年設立し、現在の「メルセデス・ベンツ」の「メルセデス」部分のルーツとなった会社である。この会社に注目しライセンスを取得して1896年、英国内に誕生したのが「デイムラー・モーター」(英国王室の御料車でも有名)で、同じように1899年オーストリアに設立された「エステルライヒッシェス・ダイムラー社」が造る車が「アストロ・ダイムラー」である。
(写真10-0)メルセデス・ベンツ博物館で見つけた「ゴットリープ・ダイムラー」の顔
(写真10-1) 1922 Austro Daimler Sascha (1998-08 ペブルビーチ)
1906年31歳でアストロ・ダイムラー社の主任設計者となった「フェルディナント・ポルシェ」は、1909年5.7リッターの高性能車「マヤ」を自身で操縦して優勝するなど、数々のレースで上位を独占し、設計者/ドライバーとしての地位を固めていった。1922年大型豪華車にこだわる会社の方針に反して、小型スポーツカーに意欲を燃やしていた「ポルシェ」の為に、必要とするすべての資金を出資しようという強力なスポンサーが現れ、4台の小型スポーツカーが製造された。その車は出資者「サッシャ・コロウラート伯爵」に感謝の念を込めて「サッシャ」と名付けられた。4気筒1100cc 45hpのこの車は、この年51のレースに参加し1位43回、2位8回と信じられないような成績を残した。
(写真10-2) 1928/1929 Astoro Daimler ADR 22/70hp
フェルナンド・ポルシェは「サッシャ」で大成功したあと、レース活動の中止を命じる会社の方針が不満で1923年ドイツの「ダイムラー社」へ去る。その後はカール・ラーベ(後年ポルシェで活躍)が昇格してチーフ・デザイナーとなった。1927年にはパイプのバックボーン・フレームとスイングアクスル式の後輪独立懸架のシャシーを持つ「ADR」(Astro-Daimler-Rohrrahmen)シリーズを発表し、3リッター、3.6リッター、4.6リッターなどのエンジンが用意された。写真の車は2996cc 70hp のエンジン付きで、箱型は2008年ドイツ博物館で見たリムジン、幌は1998年カリフォルニアで開かれた「Brooks」のオークションに出展された7人乗りフェートン。
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(11)<Autoavio/Ferrari>(伊)1940
「フェラーリ」を名乗る車のルーツは1947年の「ティーポ125」が最初の車である。しかし「エンツォ・フェラーリ」はそれより7年前の1940年に「アルベルト・アスカリ」と「ロターリオ・ランゴーニ伯爵」の依頼を受けミッレミリア用のレーシングカーを2台造っている。それが写真の車で「アウトアビオ・ティーポ815」と名付けられたのには深い事情がある。エンツォ自身は1920年代アルファロメオのテストドライバーからスタートし、レーシングドライバーを経て、30年代には「スクーデリア・フェラーリ」と称する例の跳ね馬を付けたアルファの「ワークス・チーム」を組んでレース活動をしていた。しかし1938年からは、アルファ自身がスペイン人ウイフレード・リカルドをチーフに「アルファ・コルセ」の名のもとで直接レース活動を行うことになり、エンツォはアルファロメオを去る事になる。この時に5年間は「フェラーリ」の名前を使ってレース活動が出来ないという条件が付けられたとされている。その理由ははっきり判らないが、多分契約期間を残しての退職条件だったのだろう。そんな訳で、新しくモデナに造った会社が「Auto-Avio Costruzione」(自動車-飛行機・製造会社)である。車の設計は「アルベルト・マッシミーノ」、ボディーは「カロセリア・ツーリング」製で、フィアットの部品をベースに造られたのは、優勝すればフィアットから賞金が出ることになっていたから。
(写真11-1)1940 Auto-Avio Tipo815 Barchetta by Tourng (1997-05 ミッレミリア)
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(12)<Autobianchi>(伊)1955-92
イタリアには1899年から「ビアンキ」という自動車メーカーがあったが、第2次大戦後フィアットとピレリの援助を受け1955年「アウトビアンキ」と名前を変え新会社がスタートした。1957年から69年までの長期間にわたって造り続けられた主力商品は、「フィアット500」をベースにした「ビアンキーナ」で、自動車メーカーと言うよりは、「カロセリア」(ボディー架装工場)的な存在で、「トラスフォルマビレ」(窓枠を残しキャンバス・トップのみ巻き上げ可能)、「カブリオレ」「セダン」「パノラミカ」「バン」「ジャルディニエラ」と多彩なバリエーションを用意していた。
(写真12-1)1959 Autobianchi Bianchina Trasformabile 2(1998-08 コンコルソ・イタリアーノ)
(写真12-2)1959 Autobianchi Bianchina Tranformabile 2 (1999-08 コンコルソ・イタリアーノ)
(写真12-3) 1959 Autobiabchi Bianchina Sedan/Cabriolet (2001-08 コンコルソ・イタリアーノ)
(写真12-4)1980 Autobianchi A112 Abarth (1981-12 筑波サーキット)
この車はアウトビアンキの1リッター・クラスでFFのレイアウトを持つ。スタンダードの「112」に対して、有名な「アバルト」がチューンアップしたスポーツ・モデルで、「ミニ」に対する「ミニ・クーパー」のような存在。
(写真12-5)1973 AutoBiandhi A112 Giovani (2010-07 グッドウッド)
ビーチで水着のまま乗れる籐のシートが付いたレジャーカーを集めた展示コーナーに1台だけ一寸毛色の変わったこの車はピニンファリナが造ったもの。、
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(13)<Avanti/Studebaker>(米)
「アヴァンティ」と言えば厳密にはアメリカの独立メーカー「スチュードベーカー」のシリーズ名の一つだが、同社が造ったのは1963、64の2年間だけで、1965年以降は撤退した後の施設を利用してデーラーだったレオ・ニューマン/ネート・アルトマンの手で「アヴァンティⅡ」と名前を変え1987年まで造り続けられた。写真の車はヘッドライトが丸いのでスチュードベーカー製の「63年型」で、64年とそれ以降のアヴァンティⅡはトリムが四角になった。今から50年前の当時として名前の通り前衛的だったこの車は、1961年社長に就任したばかりのシェアウッド・エグバートのスケッチをヒントにレイモンド・ロウイがデザインしたと言われる。
(写真13-1)1963 Studebaker Avanti 2dr Sports Coupe (1967 後楽園遊園地)
これで「A」項の最後までようやく到達したが、次回は積み残した難物「アウディ」の予定で、まだまだ「A」が続きます。