クライスラー・タウン&カントリーといえば、1990年型以降はクライスラーの上級ミニバンに付けられた名前だが、1941年にクライスラー初のワゴンとして登場し、戦後は美しいコンバーティブル、セダン、クーペなどに変身して登場した、今回は初期のタウン&カントリーについて紹介する。
タウン&カントリーという呼称はクライスラー社のアイデアではなく、1939年のある日、ペンシルバニア州の小さなボディービルダーが、クラスラー社への売り込みのため、いくつかのアイデアスケッチを提案してきた。その中の1枚が「タウン&カントリー」と名付けられたステーションワゴンで、当時のボクシィなワゴンとは一味違ったスタイリッシュなものであった。
これに注目したのがクライスラー部門の社長、デヴィッド A. ウォーレス(David A. Wallace)であった。彼はクライスラー社のデザイン部門を使わず、クライスラー社の社長、K.T. ケラー(K.T. Keller)にも内緒で、開発のための小さなチームを編成し、既存のボディーパーツを生かして、わずか7週間でプロトタイプを完成し、ケラー社長に提示したところ即決で承認されたという。こうして初代クライスラー・タウン&カントリーが誕生した。しかし、ペンシルバニア州の小さなボディービルダーに仕事は行かず、木材加工はクライスラー社の子会社であったアーカンザス州のペキンズウッドプロダクツ社(Pekins Wood Products Co.)が担当し、シートメタルはクライスラー社へのボディー供給会社であったブリッグス社(Briggs Manufacturing Co.)が担当。アッセンブリーはクライスラー社のジェファーソンアベニュー工場で実施された。
余談だが、ブリッグス社は1953年に社長のウォルター・ブリッグスの死去に伴い、クライスラー社に買収され、当時ブリッグス社からボディーの供給を受けていたパッカードはボディーサプライヤーを失ってしまい大混乱に陥る。最終的には旧ブリッグス社のオールドコナーアベニュー工場をパッカード社にリースすることで決着した。このころの自動車メーカーはボディーを内製せず、ボディービルダーに委託するケースが多かった。
1941年型997台、1942年型は1000台生産した時点で、太平洋戦争のために乗用車生産は中断し、1946年に再開したときタウン&カントリー・シリーズからワゴンははずされ、カタログにはウッディボディーのコンバーティブル、4ドアセダン、ハードトップクーペ(カスタムクラブクーペ)、2ドアセダン(ブローアム)、ロードスターの5車種が登場した。1949年にGMが発売して大流行となったハードトップモデルが早くも含まれていたが、生産台数はわずか7台で量産には至らなかった。 これを量産していれば、クライスラーの売上に貢献したかもしれないが、この時期の米国車メーカーは、資材不足やストライキに悩まされており、量産できない事情があったのであろう。 クライスラーは1946年から1948年の間モデルチェンジされず、この間に量産されたタウン&カントリーはコンバーティブル8368台と4ドアセダン3994台(+100台?)のみであった。
1949年型のカタログにはタウン&カントリーはコンバーティブルと「ニューポート」の名前が与えられたハードトップの2車種のみとなってしまった。実際に量産されたのはコンバーティブル993台だけであった。この年、ウッディステーションワゴンが復活したが、タウン&カントリーの名前は付いていなかった。
1949年はクライスラー・ブランド誕生から25周年の記念すべき年で、戦後初のフルモデルチェンジが実施されたが、生産設備の切り替えに手間取り、さらに材料不足などにより市場に登場したのは1949年1月であった。その間、1946~48年型が「ファーストシリーズ1949年型」として販売された。従って、フルモデルチェンジされた正真正銘の1949年モデルは「セカンドシリーズ1949年型」として販売されたのである。
1950年型タウン&カントリーはコンバーティブルが落とされ、ハードトップのみの設定となってしまい、これがウッディボディーをもつタウン&カントリーの最後のモデルとなる。生産台数はわずか698台であった。
1941年3月に発表された1941年型クライスラー・タウン&カントリーワゴン。ホイールベース121.5in(3086mm)のC-28(ロイヤル)シリーズの車体に、ロングホイールベースのリムジン用のルーフパネルを組み合わせて造られている。左右ドア、クォーターパネル、リアドアはホワイトアッシュ(たも材)で組んだフレームにマホガニー合板を貼った本格的なものであった。エンジンは4ℓ直列6気筒108馬力で、1938年に登場した「Fluid Drive」と称する、エンジンとクラッチの間にフルードカップリングを標準装備していた。1395ドルの6人乗りと1475ドルの9人乗りがあり、それぞれ200台と796台生産され、1台はホイールベース127.5in(3239mm)、5.3ℓ直列8気筒137馬力のC-30(サラトガ)シリーズのシャシーに架装されていた。
上の2枚は1942年型クライスラー・タウン&カントリーワゴンのカタログ。ホイールベースは121.5inで同じだが、1942年型はグレードアップされてC-34(ウインザー)シリーズとして発売された。エンジンは4.1ℓ直列6気筒120馬力にアップされた。1595ドルの6人乗りと1685ドルの9人乗りがあり、それぞれ150台と849台生産され、この年も1台はホイールベース127.5in(3239mm)、5.3ℓ直列8気筒140馬力のC-36(サラトガ)シリーズのシャシーに架装されている。このモデルの最大の特徴はリアエンドの造形で、リアウインドーは固定され、ウインドーの下に観音開きのドアが付いており、開いたときワイン樽を半分に切ったような形から「バレルバック(Barrel Back)」と呼ばれた。
表紙には当時の花形機であったアメリカン航空のDC-3が描かれている。これの軍用輸送機版がC-47で、英国空軍などでも「ダコタ(Dakota)」の名前で活躍した。映画「飛べ!ダコタ」の主人公である。
1946~48年型クライスラー・タウン&カントリー・コンバーティブル。ホイールベース127.5inのC39N(ニューヨーカー)シリーズのシャシーに架装されて登場した。エンジンは5.3ℓ直列8気筒135馬力を積み、価格は1946年型では2725ドルであったが、1947年2998ドル、1948年3420ドルと高騰していった。左右ドア、クォーターパネル、リアトランク周りはホワイトアッシュ(たも材)で組んだフレームにマホガニー合板を貼った本格的なものであったが、1947年終わり頃にはマホガニー合板は価格上昇と入手難のためシートメタルにダイノック(Di-Noc)デカルを貼る方式に変更されてしまった。フロントウインドー両サイドのスポットライトとミラーは1946~47年型では標準装備であったが、1948年型ではオプション設定となってしまった。1946~48年型の総生産台数は8368台であった。
クライスラー博物館に展示されている1948年型クライスラー・タウン&カントリー・コンバーティブル。
クライスラー博物館の売店で見つけた1948年型クライスラー・タウン&カントリー・コンバーティブルのミニチュア。博物館に展示されている実車にはフロントバンパーのオーバーライダーは3個付いているが、ミニチュアには2個しかない。実車の写真でも2個の個体を見たことがあるが、なぜだかは分からない。
1946~48年型クライスラー・タウン&カントリー・4ドアセダン。ホイールベース121.5inのC38W(ウインザー)シリーズのシャシーに架装されて登場した。エンジンは4.1ℓ直列6気筒114馬力を積み、価格は1946~47年型は2366ドルであったが、1948年型は2880ドルに値上げされた。スポットライト、ミラー、ルーフラックは1946~47年型では標準装備であった。1946~48年型の総生産台数は3994台であった。1946年にホイールベース127.5in、5.3ℓ直列8気筒135馬力を積むC39N(ニューヨーカー)シリーズのシャシーに架装されたモデルが2718ドルで100台生産されている。ニューヨーカーの4ドアセダンは1963ドルで買えたから、約1.4倍の高価格車であった。
1946年発行のカタログから、セダンの室内とリアトランク周りの紹介。コンバーティブルの幌はもちろん電動で開閉できた。
1946年発行のカタログに載ったタウン&カントリー・カスタムクラブクーペ(ハードトップ)。戦後のアメリカ車で最初にハードトップモデルを発売したのはGMで、1949年型の途中からビュイック、オールズモビル、キャディラックに追加設定された。クライスラーは1946年にこのハードトップモデルを発表したが、残念ながらわずか7台生産しただけで量産には至らなかった。量産開始は1950年型まで待たねばならなかった。
これは1947年4月に発行されたカタログ。1948年型として同じカタログが配布されていたが、相変わらずハードトップモデルが掲載されていた。量産したい意志はあったが果たせなかったということであろうか?仕様はコンバーティブルと同じホイールベース127.5inのC39N(ニューヨーカー)シリーズのシャシーに架装されていた。
1946年型カタログに載っていたタウン&カントリー・ブローアム(2ドアセダン)。カタログには掲載されたがプロトタイプ1台が造られただけであった。クライスラーの2ドアセダンの売れ行きは芳しくなく、車種を増やしても需要の見込みがないと判断したのであろう。
1946年型のカタログに載っていたタウン&カントリー・ロードスター。カタログには載ったがプロトタイプすら造られていなかった幻のモデル。
1949年型クライスラー・タウン&カントリー・ニューポート(ハードトップ)。ホイールベース131.5in(3340mm)のC46N(ニューヨーカー)シリーズのシャシーに架装されて登場した。エンジンは5.3ℓ直列8気筒135馬力を積む。しかし、プロトタイプ1台が造られただけで量産には至らなかった。
1949年型クライスラー・タウン&カントリー・コンバーティブル。ホイールベース131.5in(3340mm)、5.3ℓ直列8気筒135馬力エンジンを積むC46N(ニューヨーカー)シリーズのシャシーに架装された。このイラストではホワイトアッシュのフレームに囲まれた面にはマホガニー調のダイノック(Di-Noc)デカルが貼られているが、途中からボディーと同色の塗装に変更された。価格は3995ドルで、生産台数は993台であった。車両重量は2090kgで、オールスチールのニューヨーカー・コンバーティブルより160kgほど重かった。1950年型のラインアップから落とされるので、これがアメリカ車最後のウッディコンバーティブルとなった。
1949年型で復活したクライスラー・ステーションワゴン。ウッディモデルだがタウン&カントリーの名前は付かない。ホイールベース125.5in(3188mm)、4.1ℓ直列6気筒116馬力エンジンを積むC45S(ロイヤル)シリーズのシャシーに架装された。価格は2968ドルで生産台数は850台であった。
1950年型クライスラー・タウン&カントリー・ニューポート。1950年型のラインアップにはこのハードトップが唯一タウン&カントリーとして残った。ホイールベース131.5in、5.3ℓ直列8気筒135馬力エンジンを積むC49N(ニューヨーカー)シリーズのシャシーに架装された。タウン&カントリーのトランクリッドは上面のみしか開かず、重い荷物の積み降ろしは女性には難しく、男の仕事であったが、1950年型ではリアバンパーの位置まで開くようになり、女性にも容易に積み降ろしできるようになった。テールランプは他のクライスラーとは異なるユニークな形状のものが付く。価格は4003ドルでオールスチールのニューヨーカー・ニューポートより870ドルも高かった。生産台数は698台。
1950年型クライスラー・ロイヤル・ステーションワゴン。スペックは1949年型とほぼ同じだが、スペアタイヤの格納方式が背中に背負うタイプから床下に納められた。リアウインドーとテールゲートは上下に開く方式から、リアウインドーをテールゲート内に引き下げる方式に変更された。価格は3183ドルで生産台数は599台であった。同時にオールスチールボディーのステーションワゴンが2755ドルでラインアップされたが、生産台数はわずか99台であった。
1950年型はクライスラーのウッディモデル最後の年となったが、ウッディモデルの生産台数は意外と少ないことに気付かれたであろう。実に魅力的ではあるが、手間暇がかかるためどうしても高価になってしまうのと、最大の理由はメンテナンスの煩わしさではないだろうか。
タウン&カントリーの名前は1951~59年型までスチールボディーのステーションワゴンに与えられていた。その後、カタログからいったん消えたが1964年型から復活し、1969年型からは独立したタウン&カントリー・シリーズとしてステーションワゴンが設定された。1978年型からホイールベース112.7in(2863mm)のルバロン・シリーズに組み込まれ、1983~1986年型にはコンバーティブルも設定されたが、1989年型でステーションワゴンそのものがカタログから落とされ、1990年型からはミニバンに変身して登場している。