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第23回 戦後のアメリカ車 - 5 :1940年代の新型車(クロスレイ)
2013.12. 3

 今回は、大きな車が多いアメリカ車の中で、一瞬ではあったが成功したかに見えた軽自動車クロスレイを紹介したい。クロスレイは量産型ラジオのパイオニアで、1922年には世界最大のラジオメーカーとなり、ラジオ局や野球チームのシンシナティ・レッズのオーナーであったパウエル・クロスレイJr.(Powel Crosley Jr.)が少年時代からの夢であった自動車生産を実現したクルマであった。余談だが電気冷蔵庫の扉に最初に棚を付けたのもクロスレイであった。最初のクロスレイは1939年4月に登場。ワカシャー(Waukesha)社製580cc空冷水平対向2気筒15馬力エンジン+ワーナー社製ノンシンクロメッシュ3速トランスミッションを積み、第2次世界大戦参戦によって生産停止となった1942年までに合計5757台生産された。
 戦時中は高射砲弾の信管、砲塔、野戦用無線機、ワカシャー製エンジンを積んだそりなどを軍に納入していた。1943年の夏、パウエル・クロスレイはカリフォルニア州のテイラーエンジン社(Taylor Engines Inc.)がプレス成型された鋼板を仮どめしたあと、専用の炉で銅ろう付けしたシリンダーブロックを持つ軽量エンジンを開発したのを知り、交渉の末ライセンスを取得し、試作した結果、海軍のPTボート(Patrol Torpedo Boat:哨戒水雷艇)の発電機駆動用として採用された。その他トラック用冷蔵機、ムーニーマイト軽飛行機などにも搭載されている。このエンジンを使って、パラシュートで投下できるミニジープの試作などもおこなっていた。
 1946年6月、クロスレイはこのエンジンを使って全く新しいモデルを発表した。 ホイールベース2032mm、全長3683mm、全幅1245mmのコンパクトなボディーに、当時としては先進的な722cc直列4気筒OHC 26.5馬力エンジンを搭載していた。 1946年はセダンと、わずか12台ではあったがコンバーティブルの2車種合計4999台を生産した。 1947年にはステーションワゴンを追加し1万9344台、1948年には2万6239台に達した。 ステーションワゴンは好評で、約8割を占めていた。 しかし、このユニークなエンジンに致命的な欠陥が潜んでいたのである。 コブラ(COBRA=Copper Brazed)エンジンと呼ばれ、アルミ鋳造のクランクケース上に、鋼板を銅ろう付けしたシリンダーブロックを結合し、クロームモリブデン鋼のシリンダーライナーを嵌め、冷却水通路には腐食防止のため樹脂コーティングを施すという凝ったものであったが、電食にやられ、孔あき、水漏れ不具合を起こし、一気に信頼を失ってしまった。 1949年には平凡な鋳造ブロックに変更したが、7431台。 1950年6792台。 1951年6614台と低迷し、 1952年に2075台を生産し、7月に工場の稼働を止めてしまった。 クロスレイにとって不運だったのは、戦後の混乱も収まり、大手自動車メーカーの生産が活発になると、程度の良いフルサイズの中古車がクロスレイより安く出回るようになってしまったことであった。燃費など気にせず、クルマがどんどん大きくなっていった時代であった。クロスレイの生産計画は1946年に8万台であり、達成できる見込みがないにもかかわらず、1948年に40%の工場拡張を実施するなど経営戦略の失敗が死期を早めたのではないだろうか。

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1940年型クロスレイのラインアップ。1939年にはコンバーティブルセダンとコンバーティブルクーペの2車種のみの設定で2017台生産された。1940年にはステーションワゴンとカバードワゴンを追加したが、生産上のトラブルで422台にとどまった。チーフエンジニアを交代して対策した結果、1941年には2289台に回復している。コンバーティブルクーペの299ドルは、1941年に生産を終えたもう一つのサブコンパクトカーであったアメリカンバンタムの最も安価なクーペより100ドル安かった。

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1946年に発売されたクロスレイセダン。このカタログは1948年版。ボディーはマリー社(Murray Corp. of America)製で、価格は1946年に905ドルであったが、1947年には888ドル、1948年には869ドルに下がっている。生産台数は1946年4987台、1947年1万4090台と好調であったが、1948年にはエンジン不具合によって2760台(スポーツユーティリティを含む)に急落してしまった。

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1948年に登場した日産自動車のダットサンDB型。三菱重工業株式会社の名古屋機器製作所大江工場で製作、架装したもので、このころは日産自動車で設計したものではなく、こんなのを造ってと言って、クロスレイの写真かあるいは現物を渡して造らせたのであろう。当時、大江工場で架装された日産車は、1948年11月から1954年11月の間に、DB、DB2型計1067台、DB4型1931台、DB5、DB6、110型計3492台、ダットサンデラックストラック361台、デラックスライトバン220台、その他合計7379台に達した。
 大江工場ではトヨタのSFNセダン/バン、RHNセダンなど合計3791台の架装も行なっており、いすゞには1957年3月から1964年4月の間に4万3039台のヒルマンサルーンボディーの供給と、ヒルマンバンの車体をサブアッセンブリーの形で7255台供給している。

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1947年からラインアップに加わったコンバーティブルセダン。1947年は949ドルで生産台数は4005台、1948年は899ドルで2485台であった。

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1947年に追加されたステーションワゴンで、クロスレイで最も人気のあったモデル。1947年は929ドルで生産台数1249台、1948年には同価格で2万3489台生産され、クロスレイは世界最大のステーションワゴン生産会社となったのだが。

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上の2枚は1948年に追加設定されたモデルで、赤色のクルマにつけたモデル名、「スポーツ・ユーティリティー(Sports-Utility)」の呼称を最初に使ったアメリカ車ではないだろうか。

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これが問題のコブラエンジン。722cc直列4気筒OHC、5ベアリング、圧縮比7.5:1で26.5馬力/5200回転だが、軍用仕様は圧縮比9.5:1で100オクタンのガソリンの使用で36馬力を発生したという。1949年にはごく平凡な鋳鉄製シリンダーブロックにかえ、名前も「CIBA(Cast Iron Block Assembly)」エンジンとなったが、排気量、出力などは同じであった。ただし重量はコブラエンジンがフライホイールも付いた全装備状態で約60kgと軽量であったのに対し、14kgほど重くなってしまった。このエンジンはクロスレイが工場売却後も生産され、排気量の変更などを加えられながら1972年まで生産された。ヨーロッパでは750ccスポーツカークラスのレース用エンジンとして、DOHC仕様に改造されて活用されていた。

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1949~50年型クロスレイセダンとステーションワゴン。かなり大がかりなマイナーチェンジが行なわれ、ホイールベースは変わらず2032mmだが、全長3766mm(+83mm)、全幅1270mm(+25mm)とわずかだが大きくなった。特筆すべきは米国の量産車で初めて4輪にキャリパータイプのディスクブレーキを採用したことであろう。カタログには「Brakes, Goodyear Hawley Hydradisc, airplane type hydraulics.」とある。価格と生産台数は、上のセダンが866ドルで2231台、下のワゴンは894ドルで3803台であった。

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1949年に登場したホットショット。エンジンはセダンと同じだが、ホイールベースは127mm長い2159mm、全長は286mm短い3480mmで、リアサスペンションはセダンの1/4楕円リーフによるカンチレバー方式に対し、ラディアスロッド+コイルスプリングに変更されていた。ホットショットは1950年のセブリング6時間耐久レースでクラス優勝をするなど多くのレースで活躍した。価格は849ドルで1949年には752台生産された。その後、1950年にはサイドドアを付けたスーパースポーツを含めて742台、1951年646台、1952年358台、合計2498台生産されている。小学生のころ、大宮公園への散歩コースに外国人の家があり、いつも真っ白なホットショットが控えているのを羨望のまなざしで眺めていたのを思い出す。

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上の2枚は1951~52年型で、1949年型フォードをスケールダウンしたような印象を受ける。フロントグリル中央にはプロペラまで付いている。1950年型から設定されたスーパーステーションワゴンはクロスレイの中で最も高価なモデルで、1951年には1077ドルで、スタンダードワゴンと合わせて4500台生産された。

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上の2枚は1951~52年型のラインアップで、スタンダードビジネスクーペが追加設定されている。

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1951年に登場したクロスレイ「ファーム・オ・ロード(Farm-O-road)」。小型万能車で、現代のジョンディア ゲイター(John Deere Gator)などの元祖的存在。エンジンは26.5馬力だが、3速のトランスミッション+ギア比4:1のリダクションギアを装備して前進6速、後進2速として重量物のけん引も可能とし、前後にパワーテイクオフを備えていろいろな作業を可能としている一方、2~5人乗りのロードカーとしても使用できた。ホイールベースはセダンより432mm短い1600mmで、ベース価格は795ドルであった。

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執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

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