三樹書房
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第12回 フランクリンを知っていますか
2013.10.28

1.はじめに
 2007年5月、それまで長いこと東京神田の交通博物館(2006年5月閉館)の倉庫で眠っていた、早稲田大学籍のフランクリンが同大学からトヨタ博物館に寄贈された。

フランクリンに初対面(2007年5月、旧交通博物館の倉庫にて)_R.JPG2007年5月22日、旧交通博物館の倉庫に眠っていたフランクリンに初対面。

難儀した積み込み_R.JPGペチャンコのタイヤでは思うように動かせず、積み込みに難儀した。

一部カットされたエンジン単体_R.JPG車両と同時に、同時代のフランクリンエンジンも寄贈された。ヘッドの一部がカットされて構造がわかる教材用エンジンだ。なぜかフライホィールは前後逆に取り付けられていた。

 フランクリンはアメリカのニューヨーク州に1902年から1934年まで存在し、上質なつくり、空冷エンジンと軽い車両質量によるすぐれた性能をセールスポイントにして異彩を放ったメーカーだった。1929年の世界恐慌のあおりを受けて1934年に自動車メーカーとしては消滅したが、トレードマークの空冷エンジンは、アメリカでは軽飛行機とヘリコプター用として1975年まで生産された。
 フランクリンのクルマづくりとマーケテイング、そしてフランクリン車に対する市場の反応には、時代を超えて共感を呼んだり、教訓を学べたりするところがあるので、その概要について紹介する。調査の主たる範囲は、フランクリンがその特徴を最大限に発揮していた1921年までとした。まずトヨタ博物館に寄贈された車両について、次にフランクリン車の歴史について紹介する。
 なお、本稿はSinclair Powell著の「THE FRANKLIN AUTOMOBILE COMPANY」の内容をベースに、後記の文献やウェブサイトの内容を参考にしてまとめたものである。

2.寄贈されたフランクリン
 フランクリンがどんな車かを理解しやすくするために、当時もっとも多く生産されていたフォードT型と、フランクリンが同クラスとみなしていたGMの高級車キャデラックと対比して説明する。
(1) 年式・モデル名特定
 寄贈された時は1917年型と聞いていたが、その後の調査で外観上の特徴から、1918年型であることがわかった。残念ながら年式を確定できるシャシーナンバーが刻印されたプレートはなくなっていた。1918年型と断定したのほウィンドシールド(フロントガラス)の取り付け角度とフェンダーの材質からである。1917年型まで垂直だったウィンドシールドは、1918年型から少し後ろに傾けられた。また、1917年型ではアルミ製だったフェンダーが1918年型でスチール製に戻された。寄贈車のフェンダーはスチール製である。

シャシーナンバー取り付け位置とウィンドシールド_R.jpg 矢印が示す位置がシャシーナンバープレート取り付け場所。リベット留めされていた跡が見える。右の写真で後傾したウィンドシールドを確認できる。

(2) ボディタイプ
 ボディタイプは、はじめツーリングだと思っていた。当時、2列シートと幌屋根を持ちサイドガラスの無いツーリングは、乗用車の基本ボディタイプであり、全ボディタイプの中で最も販売比率が高かった。寄贈車はそれに該当するように思われた。ところが、1917年型の広告に紹介されたシリーズ9のラインアップを見ると、オープンタイプはツーリング、ランナバウト、4人乗りロードスター、カブリオレの4種類があった。1列シートのランナバウトと、サイドガラスのあるカブリオレは外れるから、寄贈車はツーリングか4人乗りロードスターのどちらかになる。ツーリングはボディがリアエンド付近まで長く、大型の場合補助シート付きの7人乗りもあることから、ボディの短い寄贈車は4人乗りロードスターと特定できた。

外観(前)_R.JPG

外観(後)_R.JPG ホイールとタイヤは背後に背負っているものがオリジナルで、走行用に装着しているのは代用品。

 4人乗りロードスターはツーリングより軽快さが感じられるが、当時は珍しいボディタイプだったと思われる。というのは、ロードスターといえばほとんどが1列シートで、2列目のシートを持つ場合でもリアボディ内に格納することが多かったからだ。フォードT型とキャデラックにはフランクリンと同様のロードスターはなかった。
 参考までに、当時のフランクリンのボディタイプは前述の4種類に加えて、セダン、ブローアム、タウンカー、リムジンの合計8種類があった。

(3)主要車両諸元
 フランクリン、フォードT型、キャデラックに共通のボディタイプであるツーリングを取り上げて主要諸元を比較する。キャデラックはホィールベースが125インチ(3175mm)と132インチ(3353mm)の2種類があったため、ここではフランクリンに近い125インチを選んだ。なおキャデラックは、ホィールべ-ス125インチのツーリングタイプ車をフェートン(4人乗り)、132インチの同型車をツーリング(7人乗り)と呼んでいた。

フランクリンとT型とキャデラック_R.jpg

 ここで興味深いのは、3車ともトレッドが同じ1422mm(56インチ)であることだ。調べてみると、「HORSELESS CARRIAGE」誌の技術担当編集者P.M.Heldt著「The Gasoline Automobile Its Design & Construction 1917」の第1章「General Structure of the Car」に、トレッドについて以下のように記されている。
「乗用車と小型商用車のトレッドは-般に56インチで、大型トラックは62インチかそれ以上である。アメリカ自動車会議所は、乗用車の標準トレッドとして56インチを採用したが、トラックについては標準トレッドはない。実際、北部地域で使われている軽量馬車のトレッドはすべて56.5インチで、それは左右車輪の接地点の外側間で測られた長さである。したがって、56インチの標準トレッドの自動車は、馬車の車輪でできたわだちの上を走ることになる。南部では60インチのトレッドの馬車が一般的で、一年の大半はそれでできた深いわだちの道が多いため、自動車メーカーの中には南部向けに60インチのトレッドを用意しているところがあったが、それは中止された。」
 56.5インチのトレッドは、イギリスでジョージ・スティーブンソンがマンチェスター~リバプール間に蒸気機関車を走らせたときに用いたのが最初のようだ。それが鉄道馬車や馬車のトレッドとしても広がっていき、馬車のわだちの上を無理なく走れるように、アメリカでは自動車のトレッドを56インチにしたと思われる。
 アメリカで多くの車種が56インチの縛りから解き放きれたのは第二次世界大戦後になってからだった。
 エンジンは、フォードとキャデラックが旧式のSV(サイドバルブ)であるのに対し、フランクリンは進歩的なOHVを採用している。エンジン性能を比較する目安になる排気量1リットル当たりの出力はフランクリンが大きい。車両価格はフォードが桁外れに安いことがわかる。

(4) エンジン
 フランクリンの大きな特徴のひとつが空冷エンジンである。フランクリンが存在していた期間、空冷エンジンを採用しているメーカーは数えるほどしかなかったが、その中で最も成功したのはフランクリンだった。個別につくられた6つのシリンダーが直列にクランクケースに取り付けられている。1918年型の場合、冷却フィンはシリンダー外側に縦方向に付けられ、その周囲を円筒形のシュラウドで覆っている。フライホィールはシロッコファンを兼ねており、エンジンが回転するとシロッコファンが、セパレーター(写真の矢印で指した棚状のパネル)で上下に仕切られたエンジンルームの、上側の空気が下へ流れるように吸い込む。空気の通り道はシリンダー周囲のフィンの間だけだからそこを通過するときにエンジンを冷却する。
 動弁機構はOHV式で、プッシュロッドは左側にある。左吸気・右排気のクロスフローとなっている。

エンジンルーム_R.JPG右側から見たエンジンルーム。縦方向に付けられた冷却フィンとその周囲を覆うシュラウドがわかる。エグゾーストマニフォールドの下にある棚と、その両サイドをふさぐボンネットに付けられたエクステンションでエンジンルームを上下に仕切り、外から上の部屋に入った空気はシリンダー周囲のフィンの間を通って下の部屋へ抜ける。

セパレーターエクステンション_R.JPGエンジンルームを上から見る。ボンネットの内側左右にあるのがエンジンルームを上下に分けるセパレーターのエクステンションで、エンジン側の棚の左右をふさぐ。

(5) シャシー
 シャシーにはふたつの特徴がある。ひとつはフレームに木材を使っていること。材質は、スキー板や野球用バットの材料として使われるトネリコで、その積層材をフレームに使った。目的は軽量化。もうひとつの特徴は、サスペンションに全楕円リーフスプリングを採用していること。それはサスペンションストロークが長いため、乗り心地がよく、タイヤの摩耗が少ないというメリットがあった。全楕円は質量的には半楕円の2倍あるから、軽量化には逆行するが、メリットの方が大きかったために敢えて採用したものと推測される。軽量化のために前車軸にはパイプを用い、車高が無駄に高くならないように、湾曲させてリーフスプリング取り付け位置を低くしている。木製フレームがもたらすシャシーの適度なしなりと、サスペンションストロークの長い全楕円リーフスプリングにより不整路面でのタイヤの接地性が極めて高いというメリットもあった。

シャシー01_R.JPGレストアのためにボディをおろしたシャシー。前後に走る2本のフレームは木製。

ウッドフレーム_R.JPG左側ウッドフレームの先端部。積層は縦に3層であることがわかった。その上下をうすい板でカバーしている。

前輪サスペンション_R.JPG左前輪サスペンション。全楕円リーフスプリングと湾曲したパイプ製前車軸。

ホィールは木製スポークのアーティレリータイプ。タイヤサイズは、直径は前後とも30インチ、幅は前が3インチ、後ろが3.5インチ。

(6) ボディ
 空冷エンジンのフランクリンにはラジエーターが不要なため、そのフロントスタイルは水冷エンジン車とまったく違う。当時、ほとんどの車がラジエーター付きだったため、それを見慣れた人々にはフランクリンのフロントスタイルは異様に映り始め、やがて販売抵抗になっていった。
 軽量化のためにボディパネルにはアルミが多用されている。スチールは前後フェンダーとノーズの空気取り入れ用スリットのついた縦長台形のパネルだけである。フェンダーは1915年央にアルミ製に変更されたが、凹みがつきやすいことがわかり、1918年型からまたスチール製に戻された。ノーズ下はオーバーハングしており、その下からエンジンルームの上側の空間に効率よく空気を送り込むためのエアダムが用意されている。

(7) その他
 アルミ製のボンネットは前部下端を支点にして前方へ一体で開く。簡単に取り外すことも可能で、非常に整備性がよい。このアイデアは1902年の市販1号車から採用されていた。
 ヘッドランプレンズは左右で違う。どちらかが、あるいは両方ともオリジナルではないかもしれないが、調査できていない。

ボンネット_R.JPG

3.フランクリンの歴史Ⅰ《二人のキーとなる人物》
(1) ハーバートH.フランクリン
 フランクリン自動車の創業者ハーバートH.フランクリンは、1866年9月1日にニューヨーク州南部のライルという小さな村で生まれた。19歳のとき同州のクックサーキでおじの新聞社で編集者として働き始めた。
1892年、フランクリンは型鋳造方法に関する特許を買い取る機会に恵まれた。彼はこの製造法を"ダイキャスティング"(die-casting)と名づけた。ほどなくしてシラキュースに移り、1893年までに、H.H.フランクリン製造会社を立ち上げた。それは世界初の金型による鋳造会社で、歯車やベアリングキャップのような小型部品をつくった。

(2)ジョン・ウィルキンソン
 フランクリン自動車の主任設計技師となるジョン・ウィルキンソンは1868年2月11日に生まれた。コーネル大学に進学し、1889年に機械工学の学位を取り、地元で当時最新の技術だった自転車製造会社に職を得た。
1898年の夏、ウィルキンソンは空冷単気筒ガソリンエンジンをつくり、1900年1月1日までに最初の自動車を走らせた。それはニューヨークの実業家グループの注意を引いたが、彼らはそれを生産に移すことはなかった。

(3)二人の出会いとフランクリン自動車会社の設立
 ハーバートH.フランクリンはウィルキンソンのつくった2台目の試作車に試乗して感銘を受け、ウィルキンソンに新たな自動車の設計を依頼して資金を出した。その試作車がフランクリンの1号車となった。
 1901年11月1日、H.H.フランクリン製造会社は再編され、フランクリン自動車会社が分離して独立した。ハーバート・フランクリンは筆頭株主だったので会社に自分の名前をつけ、社長になった。フランクリンはウィルキンソンに株を与え、主任設計技師に指名した。当初、フランクリンは経営を担当し、ウィルキンソンは設計と製造を担当した。

4.フランクリンの歴史Ⅱ《フランクリン車の変遷》
「ⅤINTAGE FRANKLIN A HISTORY OF THE CAR IN ITS TIME」は、1902年から1921年までについては、下図のように区分している。1916-1921年のシリーズ9はモデル名であり、ボンネットの形はルノー型のエッジを丸めたもので、本ではスロープノーズと表現している。1922年以降はダミーラジエーターノーズとなり、フランクリンの外観上の特徴が消滅したためここでは割愛する。

フランクリン車の変化区分_R.jpg

(1) クロスエンジン(1902-1906)
 科学的合理性・先進性を重んじる技術者だったウィルキンソンは、当初から軽量で経済的な自動車をつくりたいと思っていた。それは操作や維持の面でオーナーの負担が軽くなる重要なことだと信じていた。彼が考えた自動車の最初の図面には圧縮空気で作動するセルフスターターのアイデアさえも含まれていた。
 フランクリン最初の自動車、モデルAはホィールベース66インチ(1700mm)の2人乗り軽量ロードスターで、2ヶ月かけてつくられ、1902年6月に1200ドルで売られた。それは当時としては非常に先進的な車で、ウィルキンソンの進歩的な思想をよく反映していた。
 ほとんどの自動車が単気筒か2気筒エンジンだった当時、フランクリンモデルAはアメリカ初の4気筒エンジン車としての栄誉を得た。4気筒エンジンを採用したのは、単気筒エンジンの欠点である大きな振動を避けるためだった。そして、柔軟性と滑らかさの点でもすぐれており、最大出力を比較的控えめな回転数で発揮でき、燃費や冷却の点でメリットがあると理解されていた。
 周囲に水平の放熱フィンを持つヘッドー体の各シリンダーは別々に鋳造されて、クランクケースに直列に並べられた。吸排気システムには当時一般的なサイドバルブ式ではなくOHV式を採用したのも他社に先んじていた。1904年まではプッシュロッドで動かすのは排気バルブだけで、1905年から吸気バルブもプッシュロッド作動となった。排気量は約1.8リットル、最大出力7馬力だった。
 少数派の空気による冷却方式を採用したのは、水冷式にくらべて冷却システムが簡素で軽量なばかりでなく、冷却水の凍結による冷却システムの破損という心配もなかったからだ。同時に、暖機運転なしに走り出せるというメリットもあった。
 エンジンは、走行時に受ける風で4気筒全部が効率よく冷やされるように、鉄アングルフレームによるシャシーのフロントに横置きされた。エンジンを横置きに搭載したことから「クロスエンジン(cross engine)」と呼ばれた。送風用のフアンは装備されなかった。
 エンジンの左側に前進2・後退1段の遊星歯車式変速機を備え、チェーンで後輪を駆動した。すなわち、フロントエンジン・リアドライブという、じきに一般化する駆動方式を1号車から採用したのも、フォード、キャデラックやオールズモビルなどに先駆けていた。
 スプリングは前後とも全楕円リーフスプリングが採用された。サスペンションストロークの大きい全楕円リーフスプリングと車両の軽量さは、フランクリンに悪路でのすぐれた安定性と、快適な乗り心地をもたらした。乗り心地だけでなくタイヤ寿命にもメリットのあるこのサスペンションは、業界の主流が半楕円リーブスプリングになっても継続され、空冷エンジンとともに、フランクリン車の特徴となっていった。
 車軸にはバネ下質量の軽減にもなるスチー ルパイプ製が使われた。
 ステアリングギアは右側にあり、丸ハンドルで操作した。木製車体が乗せられた車両の質量は1000ポンド(約453kg)。これは翌年登場したフォードモデルA(水冷2気筒1.6リットル8馬力)より25パーセントも軽かった。
 4気筒1.8リットルエンジンは1908年まで生産されたが、横置き搭載は1906年までとなった。
 フランクリン社は早くから自動車は医者にとって価値のあるものだとアピールした。1903年2月には、ニューヨーク市の医者から届いた、「フランクリン車は貴重な宝だ」と書かれた手紙を公開した。

(2)樽型ボンネット(1905-1910)
 大型ボディ車の開発に伴って追加した大排気量4気筒エンジン(5.1L、1905年型)や、アメリカ初の6気筒エンジン(4.9L、1906年型)は縦置きされ、シャフトドライブとなった。エンジンの前部に大径の冷却ファンが装備され、そのファンと同じ中心を持つ"樽"型のエンジンカバーが採用された。それは外観上の特徴にもなった。一見ラジエーター付きの水冷エンジン車のように見えるが、フロントグリルの後ろにファンがあり、その背後に冷却フィンを持ったシリンダーが直列に並んでいた。樽型ボンネット時代のエンジンは、年ごとには2~3機種だったが、延べでは4気筒が4種類、6気筒が2種類の計6種類があった。
 大型車には前進3段のスライドギア式変速機が採用された。アメリカ初の6気筒エンジンは6~7人が乗車できるツーリングモデルに搭載された。その価格は4000ドルで高価格帯のアメリカ車となった。
 1905年は重要な新技術がいくつも採用された。フランクリンの車両質量は、エンジンやボディのアルミ化を進めて、同クラスの水冷エンジン車をかなり下回った。6.6リットルエンジンを搭載した、ホィールベース110インチ(2794mm)のモデルCツーリングの質景は2400ポンド(約1090kg)だった。大型車には業界で類のない、積層材の木製フレームを採用し、全楕円リーフスプリングと相まって快適な乗り心地を提供した。
 また、シリンダー下部に、膨張過程でピストンが下死点に達したときバルブが開く補助排気ポートを設けて、そこから高熱の燃焼ガスを排出させることによりオーバーヒートを防いだ。
 1906年遅く、クロスエンジン最後のモデルであるモデルEを、縦置きエンジンのモデルGに置きかえた。車体はやや大型になり、価格は30%ほど高い1800ドルとなった。これによりフランクリンは、エントリーマーケット向けから中間~高価格帯マーケットへとシフトした。
 1907年にはアメリカで初めての自動点火時期進角装置を採用した。
 1908年にはバルブ径を大きくして吸排気効率を高めて出力を上げるために、吸気バルブに排気バルブを組み込んだ"コンセントリック(同心円)"バルブシステムを採用。それは同時に当時としては最新技術である半球形燃焼室を形成した。しかしマニフォールドは複雑な設計を要した。新バルブシステムによる性能向上は著しく、1.8リットルエンジンの出力は12馬力から5割増しの18馬力に上がった。
 1909年、自動車製造業従事者の数が、馬車・荷車製造業従事者の数を上回ったが、それでも製造台数については馬車・荷馬車は自動車の8倍以上だった。
 1910年、それまで水平だった冷却フィン(シリンダー外側の放熱用のひだ)を垂直に変更し、その周囲をシュラウド(円筒)で囲い、空気はエンジン後部のフライホイールに組み込まれたシロッコファンで吸い込み、セパレーターで上下に分けたエンジンルームの上から下へ、すなわち空気が冷却フィンの間を流れるように変更された。これにより、少ないパワーロスで冷却空気量を増やすことができた。
 1908年に登場したフォードT型の影響で、大衆車が増え始めて自動車の平均価格が、2125ドル/1907年 → 1600ドル/1908年 → 1300ドル/1909年 → 1200ドル/1910年、と徐々に下がっていった。またアメリカ国産車の急増に伴い、1910年までにヨーロッパからの輸入車が激減し、アメリカは自動車輸入国から輸出国にシフトした。このように自動車の平均価格が急激に下がっていた、すなわち大衆車の需要が急増していたときに、フランクリンが中~高価格帯にシフトしたことは同社に深刻な影響を与えることになった。フランクリンのクラスも競合が激しく、魅力的なスタイルや、技術の優秀さなどで評判のパッカードやキャデラックはフランクリンより安い価格で売られていた。
 1910年、フランクリンにとって有利なことがひとつあった。良質な空冷エンジン車を造っていたプレイヤー・ミラー社が乗用車製造から撤退したのだ。さらに、空冷から水冷に変更したメーカーもあり、フランクリンは空冷エンジン車の分野では独自の位置を享受することになった。

(3) ルノーボンネット(1911-1916)
 1911年、全米の自動車登録台数は50万台を超え、自動車の普及は都市部だけでなく農村へも拡大しつつあった。それでも当時、全米で使われていた馬車と荷馬車は少なくとも700万台はあり、特に田舎では馬への依存度が大きかった。
 フランクリンは潜在需要の喚起もねらって販売を刺激するためにスタイルの近代化をはかった。外観を新しくすると同時に、空冷エンジン車であることをひと目でわかるようにもしたかった。そして外観を一新したフランクリンのフロントスタイルは、ルノーにそっくりだった*。ルノーはスロープ部分に空気取り入れの開口はなく、のっぺりしていたが、フランクリンは空気取り入れロを設けていた。スロープの下部は前方へオーバーハングしており、その下面からもエンジンルームへ空気が入るようにデザインされていた。そしてそこへ走行時に空気を効率よく送り込めるように左右リーフスプリング間にエアダムが装備されていた。ルノーのボンネットは前開きだったが、フランクリンは後ろ開きで、アルミ製の軽いボンネットは容易に取り外すこともできた。
(*;フランスのルノーは水冷エンジンを搭載しながらラジエーターをエンジンの後ろ、または後方両サイドに置いて、エンジンルームを覆うボンネットは前の部分がスロープした、独特の外観を備えていた。それは1900年代初めから約30年間継続され、ルノーの特徴のひとつとして知られた。)
 技術面では、サクションタイプ冷却システムの改良により、1908年から採用していたコンセントリックバルブを廃止し、-般的なバルブに戻したのが唯一の変更点だった。2種類の4気筒エンジンと2種類の6気筒エンジンが4車種に搭載された。
 自動車市場は空前の活況を呈していたが、フランクリンはスランプ状態だった。それはフランクリンのような高価格車の需要が限られたものであることを意味していた。
乗り心地やハンドリングでは優れていたフランクリンが苦戦を強いられたのは、とくに4気筒シリーズクラスで、フランクリンと遜色のない品質や性能を備えたチャルマースやハドソンなどの車種が競合力のある価格で売られていたからだ。それと対照的に、パッカードは6気筒モデルがフランクリンより高い価格にもかかわらず、プレスティージ・カーメーカーのイメージを確立しながら驚異的な成功をおさめていた。
 1911年2月、ジョン・ウィルキンソンのコーネル大学時代のクラスメートだったチャールズB.キングが自動車会社を設立し、自身の設計になる自動車を発売した。これには画期的な技術がいくつか採用されていた。カンチレバータイプのサスペンション、変速機を直接操作するシフトレバー(センターシフト)、フライホイールにポンプの役目をさせる潤滑システムなどだ。フォードが先駆けた左ハンドルも採用し、キングは左ハンドルでセンターシフトのパイオニアとなった。
 1912年、生産性・販売効率・利益率を高めるために、コスト高により価格競合力を失っていた4気筒車とプレスティージ性のない大型6気筒車(7リットル)の廃止を決定し、1913年秋のシリーズ4(1914年型)から実行された。その結果、1エンジン(6気筒4リットル)1シャシー(ホイールベース120インチ(3048mm)とし、そのシャシーに様々なボディを載せることになった。
 その中でリムジンとベルリンはショーファー(お砲え運転手)が運転する車だが、オーナーが運転するクローズドボディとして、フランクリンが"セダン"を設定し、ハドソンとともに量産車としてはパイオニアとなった。オーナーが運転するクローズドボディ車としてはクーペ(2人乗り)があったが、1914年1月4日付け「シラキュース・ヘラルド」紙に、"THE FRANKLIN SEDAN"という見出しで写真入りの記事が掲載され、こう書かれている。「この車はどんな天気の日でも自分で運転したい、そしてクーペより広い室内を必要とする人のためにデザインされたもので、5人乗りである」
 1913年型のフランクリンはアメリカで初めて強制循環式潤滑システムと、排気熱を利用した吸気予熱システムを採用した。6気筒モデルにはセルフスターターと電気式ヘッドライトを採用した。キャデラックが1年前に業界で初採用した電気式スターターは、大衆へのガソリンエンジン車の魅力を劇的に高めていた。フランクリンのスターターは、イグニッションスイッチがオンの状態でエンジンが止まると自動的にスターターとして働く仕組みになっていたため、運転時にエンジンが止まっても慌てなくてすんだ。
 1914年型ではエンジン、ドライブライン、シャシーに多くの技術的変更と改良が加えられたが、ユーザーにとって最も重要な変更がひとつあった。それはハンドルが右側から左側に移され、同時にシフトレバーとハンドブレーキレバーが中央に置かれた"センターコントロール"になったことだ。
 フランクリンは、そのブランドを有名にした柔軟性と軽量さという特性がもたらす、すぐれたトータルの耐久性と経済性に加え、運転のし易さや高い製造品質を特長としていた。初期には燃費で他社を圧倒していたこともあり、1913年央に、その優位性アピールすることにした。使用されたのは1911年型の4気筒エンジン車で、燃費トライアル用に仕立てられて1ガロン(3.785L)だけのガソリンでスタートした。その燃料を消費しきるまでに走行した距離ほ83.5マイルで、換算すると約35.5km/Lとなる。
 また、1914年5月には、市販仕様の1914年型車による全米規模の燃費測定も実施され、参加した94台の平均燃費は32.8mpg(13.9km/L)と、フランクリンクラスでは例外的に良い数値だった。参考までに94台の燃費の幅は、17~51mpg(7.2~21.7km/L)。
 経済性を証明した後、今度はフランクリンにとって重要な耐久性の実証をすることにした。1914年9月、全米のフランクリン車ディーラーに協力してもらい、1914年型のフランクリンをローギアだけで100マイル(約161km)走行させた。ボンネットは閉めたままで、オイル補給無し、エンジン停止無しという条件のテストに116台が使用された。各車両には監視員が同乗した。それには新聞記者が多かった。ルートには山岳路も含まれた。完走できなかったのはほんの数台だけで、耐久性の実証は成功した。
 1914年遅くに1915年型としてシリーズ6が登場した。スターター・ジェネレーターは12ボルト仕様が採用され、これは従来のものより40ポンド(約18kg)も軽かった。それは時速12マイル(約19km)以上で発電機、それ以下でスターターとして機能した。
 1915年央に1916年型を発表。軽量化が進められた。フェンダーをスチールからアルミに替えて38ポンド(17.2kg)減らし、ダッシュパネルとランニングボードをより軽量の材料に替えて30ポンド(13.6kg)減らすなどした。軽量化は燃費やタイヤ摩耗にいいだけでなく、加速のレスポンスにも効果があった。

(4) シリーズ9(1916-1921)
 1916年央、フランクリン社の技術者たちはこれまでの努力を凌ぐ大幅な軽量化を行い、フレキシビリティを高めた1917年型をシリーズ9として発表した。それは従来の特徴をすべて備えながら、若干サイズが小さくされ(ホィールベースを5インチ(127mm)短縮)、旧モデルより400ポンド(181kg)も軽くなった。ツーリングボディの質量は2280ポンド(1034kg)と、このサイズの車では世界一軽くなった。
 ホイールベースが115インチ(2921mm)に短くされたにもかかわらず、乗り心地、操縦安定性とも高いレベルを維持していた。他社はたいてい大型化していたが、シリーズ9のエンジンは排気量、出力が約800cc/5馬力少ない3.3リットルの新エンジンに切り替えられた。フランクリン社によれば、このサイズの軽い車を動かすには馬力も少なくてすむという理論だった。このエンジンは1927年まで、最も長い期間使われるエンジンとなった。
 フランクリン社は大きくて重たい車ではなく、比較的小型の質の高い機敏な車をつくるようになった。すなわちフランクリン社は、大半のメーカーがやっている行き方ではなく、独自の道を選んだ。
 外観は、ルノーボンネット型の進化したスタイルで、ボンネットとカウルがなめらかにつながり、ボンネットの稜線には丸みがつけられた。1917年型まではウィンドシールド(フロントガラス)は直立していたが、1918年型から後方へ傾けられた。1917年の生産台数は9000台に達して、前年の3800台の倍以上となった。1912年から1916年にかけてアメリカの自動車生産は急増した。1912年の35.6万台は過去最高だったが、1916年には152.6万台を記録。同年末における全米の商用車を含む登録台数は351.3万台だった。同年の輸出は8万台を超え、輸入はわずかな台数だった。
 明らかに全米の、とくに町や田舎での普及に一番貢献していたのはフォードT型だった。それはシンプルにつくられ、頑丈で、安く、運転し易かった。1916年までにフォードは生産という点では独自のシステムを導入し、アメリカで生産される自動車のほぼ半分の台数を占めていた。
 この時期に、ほかにも重要な役割を果たした会社がいくつかあった。大きなところでは、ウイリス・オーバーランド、ビュイック、ダッジ、マックスウェル、スチュードベーカー、そしてシボレーがあり、年間に6~14万台生産していた。これらほどの規模ではないメーカーとしては、オークランド、レオ、ハドソン、キャデラック、チャンドラー、そしてペイジがあり年間1.2~3.5万台生産していた。残りはおびただしい小さなメーカーで、年に数百台から1万台生産していた。フランクリン社はこの小メーカーグループのトップに位置していた。コンベアを用いた流れ作業で大量に生産される安価なフォードT型はマーケットの大きな部分を占めてはいたが、フォードT型では埋められない中間クラス以上のマーケットがあり、そこはフォード以外の数多くのメーカーにオープンだった。1916年から1917年までに電気自動車と蒸気自動車が業界で果たした役割は無いに等しかった。ガソリン車の欠点が次々に克服され、ドライバーや乗員を目的地まで短時間に、ほとんど故障の心配なしに運べるようになっていた。とくにセルフスターターの実用化により、最後の障害がなくなり、ガソリンエンジン車の世界が到来した。デトロイト・エレクトリックやスタンレーはそれぞれ電気自動車と蒸気自動車をつくり続けたが、それに興味を示す人は少なかった。
 この時期、フランクリンは、空冷エンジンで成功している会社としてアメリカ中に知られていた。
 1917年、フランクリン社が過去の記録を塗り替える業績をあげていたとき、世界を揺さぶる事態が起きた。アメリカが4月に第一次世界大戦に連合国側として参戦したのだ。フランクリン社は、戦車の変速機の設計と生産、照明用発電機の生産、航空エンジン用部品の生産をすることになった。9月中旬から2ヶ月間は自動車の生産はできなかった。
 第一次大戦で労働者や農場主の収入が急上昇した。また女性の立場が上がった。大戦中、かつて男性の職場だった工場での機械操作、機械の組み立て、電気自動車タクシーの運転手などで女性が活躍したからだ。その結果、今後自動車を購入する女性が増え、家庭で夫が購入する自動車のタイプについて、運転のしやすさやボディの耐候性などに妻の影響力が大きくなることが予想された。ビジネスマンや専門職者が自動車を持つことは普通になってきていた。典型的な肉体労働者や会社の事務職員にはまだそうではなかったが、やがてそういう時期が来ると予感できた。
 自動車産業の隆盛に伴い、馬車産業は急激に縮小していった。馬車・荷馬車製造会社はどんどん閉業し、高品質な馬車製造会社として有名だったスチュードべ-カー社も自動車に専念するため馬車製造を打ち切った。
 フランクリンは、アルミ製フェンダーは、凹みができやすいことがわかり1918年型ではスチール製に戻された。冷寒時の始動性を容易にするために業界初の電気式始動用燃料注入装置が採用された。
 第一次大戦により材料費が高騰し、車の価格も上げざるを得なくなった。フランクリンのツーリングの場合、1850ドル/1917年 → 2450ドル/1918年 → 2750ドル/1919年といった具合だった。それでも需要は強かったが、資材不足のために生産台数は伸びなかった。
 旺盛な需要に応えようと、自動車メーカー各社は工場を拡張していた。そのリーダー格はフォードで、ルージュ河沿いに巨大な工場の建設を進めていた。コンベアを用いた流れ作業生産システムには面積の広い平屋の建物が好まれていた。しかし、フランクリン社の場合、敷地的制約から建物を上に伸ばすしか方法がなかった。1919年から1920年にかけてのフランクリン社の拡張計画では、従来の2倍以上の工場の床面横になるものの、投資額を回収するには年間18000台以上の販売が必要とされた。
 1919年6月、フランクリン社は日本の横浜や南アフリカのケープタウンなどに船積みすることを発表した。同年、80台以上のフランクリン車が海外各地に出荷された。
 大戦後最初の1年間、フランクリン社は過去最高の9300台を生産し、アメリカの自動車メーカーの中で18番目の位置だった。1920年初めには3000台の受注残があったが、部品と材料不足が引き続き会社を悩ませていた。それに加えて、シラキュースでは冬季の降雪も物流に影響を与え、重要部品がタイムリーに納品されず、生産に支障をきたすことがあった。当然、完成車の出荷もままならなかった。
 1919年後半から1920年初期にかけて、車両価格はほとんど信じられないくらい上昇した。フランクリンのツーリングモデルは3100ドルに、セダンは4350ドルまで跳ね上がった。そして早くも5月末から6月初めにかけて消費者はそれに反発し、自動車の需要が減少し始めた。
 1920年9月21日、ヘンリー・フォードが全車約20%の値下げを断行。それに同調してフランクリンは2日後に16~21%値下げした。その年の生産台数は10539台で10位、売上で7位となった。

(5)シリーズ10(1922-1925)
 1921年、古臭くなってきていたルノースタイルの鼻をやめて、逆卵形のグリルを採用した。新しさが出ると同時に流線型スタイルにもなった。新しいグリルは"ホースカラー(馬の首あて)"グリルと呼ばれた。一部の車種はホーンが外付けされた。フロントグリルの採用は、販売店からの強い要請に応えたものだ。フランクリン以外は全てフロントにラジエーターを持つデザインで、かつラジエーターはメーカーや車
種の個性を出すためにデザインされていた。一方、空冷エンジンでラジエーターが不要なフランクリンのフロントは、スロープしたノーズに空気取り入れ用のスリットが設けられた極めて簡素な外観だった。フランクリンは高級車に属する価格帯の車種だったこともあり、販売店が水冷エンジン車と遜色のない見栄えのデザインを求めたのは自然なことだった。
 このスタイルの変更と、クローズドボディの販売に力を入れたことで販売は満足できるレベルになった。クローズドボディ車の比率は徐々に上がり、コンスタントに40%以上をキープするようになった。フランクリンはハドソン(エセックス)とともにクローズドボディ化の牽引役となった。
 1921年初めにフランクリン社はコンベア式の流れ作業生産システムを導入した。物理的に新生産システムに適した工場ではなかったため、スピードは遅く、作業スペースも狭かったが、生産能力は125台/日に倍増した。これにより、工場労働者を5000人から3000人に減らすことができた。1921年の生産は8548台だった。
 1922年はかろうじて8000台を上回った。前年比500台減は、自動車市場の伸びにマッチしておらず、フランクリン社が失敗したことを意味していた。
 1922年夏、新型車シリーズ10Aを発表した。サイズやスタイル面では旧型から大きな変化はなかったが、革新的な技術でいっぱいだった。冷却方式は、クランクシャフト前端に付けたシロッコファンでシュラウドに押し込み、シリンダー上部から下部へ空気を流した。これは以前のシステムより3.5倍も多い空気をエンジンに当てることができた。エンジンの損失馬力も減らせた。会社は、この新冷却システムは華氏120度(約摂氏49度)を超えるデスバレーで徹底的にテストしたものだと説明した。
 エンジンの変更点は、吸気予熱装置の採用と、クランクシャフトへのストレス減少を目的にアルミ合金製のコネクティングロッド(連接棒)が採用された。また、エンジン、クラッチ、トランスミッションは"一体パワープラント"と呼べるユニットにした。これは現在でほ、構造の簡素化と組み立ての容易さのために多くのメーカーがやっている方式である。
 このころいくつかの小規模なメーカーに加えて、大メーカーのGMが空冷エンジン車を出してきた。それは、エンジン始動用のセルフスターターの開発で知られるチャールズ・ケタリングのアイデアによるものだった。U字断面の銅製フィンをシリンダー周囲に縦に並べて溶接したもので、"コパー(銅)クールド"エンジンと呼ばれた。ケタリンダは軽量で水冷より低コストの空冷エンジン車は"未来の車"だと力説した。GMの空冷エンジン搭載車は、1922年12月にシボレーで限定生産することになった。そして1923年になると全米のディーラーに配車された。フランクリン社も研究用に1台購入した。
 シボレーの空冷エンジン車はじきにトラブルが出始めた。エンジンが熱くなると早期着火が起こり、パワーが減少するというもので、対策にはさらなる開発を要することがわかり、空冷エンジン車の生産は中止され、販売した車両はすべてリコールされた。ケタリングは改良して再発売したいと主張したが、GMの空冷エンジンほ1950年代未のコルベアまで封印された。
 他の空冷エンジン車メーカーも結局フランクリンを脅かす存在になることはなく消えていった。それもあり、1923年はひとりフランクリン社だけが空冷エンジン車販売を謳歌できて生産は1万台を超えた。前年の惨憺たる状況を脱しながら、フランクリン社はクローズドモデル販売におけるリーダーシップをとっていた。今や、とくに中の上クラス以上の人たちはクローズドカーのメリットを徹底的に売り込まれていた。フランクリンの新デザインクローズドモデルの中にはそうした人たちの強い関心を引くものがあった。1923年春には、フランクリン社は日当たり60台という過去最高レベルの生産能力を発揮していた。その年の第一四半期には71%がクローズドカーだった。その数値は5月には90%を超えた。
 1923年の、トラックを含むアメリカ自動車市場は過去最高の400万台を超えて、売上ベースではアメリカの主要産業である製鋼業を上回った。フランクリン社は約10100台を出荷した。そしてクローズドカー販売においてはほとんどの他社をしのいだ。1923年は80%がクローズドカーだった。
 1924年は、春が来る前に前年の反動が始まり、フランクリン社の場合、夏の初めには数週間もラインを止めなければならなかった。ディーラーには在庫が増え、フランクリンはほかのメーカーよりその割合が大きかった。
 難局を打開するために技術者はエンジンを改良して、加速や登坂性能を高めた。シャシーにも改良が加えられた新型は10-Cと呼ばれた。それは技術的には旧型の欠点を完全に解決したすぐれた車だった。しかしながら、技術的な改良だけでは売れないことはしばらく前から明白なことだった。外観がさえないことが消費者を遠ざけていて、そのことがフランクリン社とそのディーラーを深刻に苦しめていた。
 1924年になると、たいていのアメリカの自動車メーカーは技術的にしっかりしたものとなり、購入者には十分なサービスを提供していた。その結果、巌しい販売競争を勝ち抜くために各社のデザイナーは魅力的なスタイルのデザイン開発に以前にも増して努力するようになった。ニューモデルは、角張ったイメージを弱めて、車高を少し下げたボディや、魅力的なボディカラーを強調した。特に力が入れられたのはフ
ロント部分だった。それまで不格好だったラジエーターを美しくデザインしてニッケルメッキを施したラジエーターシェルで囲った。この変更は車のフロントスタイルを魅力的にした。
 フランクリン車にとってスタイリングはほかの何よりも大きな問題だった。短くてずんぐりしたボンネットと鶏卵用クレートのような飾り気のないグリルで水冷エンジン車と勝負するのは困難なことだった。フランクリンの販売店は、かなりの期間、フランクリン車の外観が大きな販売抵抗になっていることを経験していた。フランクリンは特注ボディのデザイナーで名を馳せていたフランク・ドコーズを採用した。

(6) ドコーズスタイル(1925-1929)
 ここでフランク・ドコーズについて、「COACHBUILT」(http:http://www.coachbuild.com/)というウェブサイトに紹介されている内容の一部を引用する。
『一般に自動車メーカー最初のカーデザイナーはハーリー・アールだとされているが、実はフランク・ドコーズおよびアラン・レミーと言うべきである。両者が自動車のデザインを始めたのは、アールがフィッシャーボディで仕事を始める何年も前だった。アールの功績はGMでデザイン部門を組織化Lたことである。
 フランス生まれで、同国のコーチビルダーで仕事をしていたドコーズは、1914年にアメリカのロコモービル社に呼ばれ、カスタムボディのデザインを担当した。彼を有名にした最初のデザインはデュアルカウルフェートンで、1916年型ロコモービルに採用された。二番目の功績は、1917年型のロコモービルモデル48の全体をデザインしたことで、自動車全体のデザインを一人のデザイナーが担当したのはこれが初めてだった。
 フランクリン車の外観変更が迫られたとき、ロコモービル社を辞めていたドコーズも依頼を受けてフランクリン用のフロントデザインを提案した。それが採用されてシリーズ11となり、1925年3月から発売された。幅広くて角張ったダミーの"ラジエーター"は水冷エンジン車と変わらない外観で、流線型からはかけ離れていたものの、当時としては非常にクリーンで軽快なデザインだった。とくにピラーを木材ではなく金属を使って細くしたことが効いていた。ドコーズがデザインしたボディを載せた大判のカタログは、1920年代後半、フランクリンをスタイルリーダーとして有名にした。
 フランクリン車の主任設計者だったジョン・ウィルキンソンは水冷エンジン車のような立派なフロントスタイルを待ったフランクリン車にがまんがならず、1925年に会社を去った。
 ドコーズは喉頭がんで1928年に48歳の若さで他界したが、彼の後継者のレイ・ディートリッヒがドコーズのスタイリング路線をさらに発展させた。ディートリッヒが手がけた1928年型のパイレーツはアメリカ初の流線型ボディを持ったモデルとされ、その特徴は1930年代のフランクリン車に展開された。また、保守的なメーカーとして知名度の高かったフランクリンだが、とてもかっこいいボートテールデザインのスピードスターを登場させたアメリカで最初のメーカーとなった。』
 ドコーズのデザインにより劇的に華麗な変身を遂げたフランクリン車は販売が回復し、1929年には過去最高の14000台を超える台数を販売した。しかし、同年秋に起きた世界恐慌が災いし、販売は急下降し、1934年にフランクリン社は倒産した。

5.終わりに
 フランクリンについて調べて驚いたことは、アメリカの自動車史において、とくに技術の分野で顕著な功績がいくつもあったことだ。アメリカ初のものは、4気筒および6気筒エンジンの量産、点火時期の自動進角装置採用、強制循環潤滑システム採用、セダンボディの量産と普及、細い金属製フロントピラーの採用などである。しかし、合理的で先進的な考えに基づくまじめな車づくりをしたにもかかわらず成功を持続することはできなかった。その歴史を俯瞰すると、新生産システムへの切り替え対応、および変化する需要構造や消費者志向への対応のまずさが浮き出てくる。
 自動車に限らないことだが、マニアや専門家ではない、世の中でマジョリティを占める"一般"の人が工業製品に求めるのは、それによって得られるメリットであって、そのために使われている技術ではない。フランクリンは、空冷エンジンや軽量さ、全楕円リーフスプリングなどにより、低燃費、快適な乗り心地、長いタイヤ寿命、寒冷時の使い勝手の良さなど他社車では得られないメリットをオーナーに提供した。一方、それらの性能以外に外観デザインも自動車を買おうとする人には重要なポイントだった。フランクリン社が外観を魅力的にする時期が遅すぎたことは残念に思われる。

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執筆者プロフィール

1949年(昭和24年)鹿児島生まれ。1972年鹿児島大学工学部卒業後、トヨタ自動車工業(当時)に入社。海外部で輸出向けトヨタ車の仕様企画、発売準備、販売促進等に従事。1988-1992年ベルギー駐在。欧州の自動車動向・ディーラー調査等に従事。帰国後4年間海外企画部在籍後、1996年にトヨタ博物館に異動。翌年学芸員資格取得。小学5年生(1960年)以来の車ファン。マイカー1号はホンダN360S。モーターサイクリストでもある。1960年代の車種・メカニズム・歴史・模型などの分野が得意。トヨタ博物館で携わった企画展は「フォードT型」「こどもの世界」「モータースポーツの世界」「太田隆司のペーパーアート」「夢をえがいたアメリカ車広告アート」「プラモデルとスロットカー」「世界の名車」「マンガとクルマ」「浅井貞彦写真展」など。

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