三樹書房
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第8回  時代に早過ぎた斬新なスタイル
2013.6.27

1.はじめに
 ヨーロッパはブランドイメージが販売上重要な役割を果たすマーケットであり、欧州の各メーカーがアイデンティティの確立や更新、維持に努力を怠らないことについては第7回で述べた。アイデンティティと同様に重要なことは先進性であり、それは技術だけでなくスタイルの面でも期待されている。技術とスタイルの両面での刷新がもっともインパクトがあるが、技術がその時代に通用するものであればスタイルだけを新しくしても問題はない。中身がよくてもスタイルが平凡で新鮮味がないと酷評される。
 1994年に、シエラに代わって登場したフォード・モンデオ(ドイツ/イギリス)にその事例を見ることができる。モンデオのスタイルに関するコメントを『auto katalog 1995』(1994年、ドイツ)の日本版『日本と世界の自動車最新カタログ95』から引用する。
 「この中型クラスのモデル・モンデオは、市場に導入された時にセンセーションを巻き起こした。しかしそれはフォード社のマネージャーたちが期待したのとは違った意味でのセンセーションであった。当時のドイツでは、モンデオはワールドカーではなく、八方美人的モデルであると酷評された。同クラスの日本製モデルとなんら変わるところがないというのである。」
Ford Mondeo 1994_R.jpg
 モンデオは、スタイルの評価は芳しくなかったが、ヨーロッパカーオブザイヤーの栄冠に輝いた。また、面白いことに、モンデオの先代シエラはモンデオとは逆のセンセーションを巻き起こした車だった。

 言うまでもなく車のスタイルは販売を左右するファクターのひとつだが、極めて斬新なスタイルを採用したモデルが、その後どのように変化したかを見ると興味深いものがあるのでいくつか紹介する。

2.受け入れられた斬新なスタイル
(1)フォード・シエラ
 フォードヨーロッパが1982年秋に発売したシエラはミドルクラスの車で、1962年にデビュー以来20年間に3代で1000万台以上作られたベストセラー、コルチナ(イギリス)/タウヌス(ドイツ)の後継車として登場した。当時フォードは世間には最も保守的な車づくりをするメーカーの一つとして認識されており、コルチナ/タウヌスもごくオーソドックスなスリーボックススタイルのセダンだった。
 シエラが登場した頃は各メーカーが空力特性の改善に躍起になっており、同時にハッチバックスタイルの乗用車が増えている時だった。すぐれた空力特性を得るために大胆なボディスタイルを採用したシエラは、世間をあっと言わせた。それは革命的とも未来的とも評された。
 スタイルもさることながらボディをハッチバックタイプだけに絞ったことにも驚かされた。コルチナ/タウヌスは独立したトランクを持つボクシーなスリーボックスセダンだったからだ。シエラのスタイルは徹底的に丸みを強調したもので、角張ったスタイルのコルチナ/タウヌスからの変貌ぶりはまさに革命的であった。独立したパーツとしてフロントグリルを持たないことも珍しいことだった。スリーボックスセダンを作らなかったのは、ハッチバックタイプの方が空力特性上有利だと判断したことと、これからはハッチバック車の時代になるとの読みからであったようだ。

Ford Sierra 1982_R.jpg

 シエラが発売された当時の紹介記事には、シエラのターゲットとする購入者は保守層なので客離れを心配するコメントが見られたほどであった。実際に、あまりにもドラスチックな変身をしたシエラに戸惑った人々も少なくなかったようで、競争相手のオペル・アスコナは、新型に代わったばかりにもかかわらず平凡なスタイルで売れ行きが芳しくなかったが、シエラのおかげで一時は客を呼び戻すことができたという。ただ人間の感覚というものは慣らされることもあって、シエラはしだいに受け入れられて、次期モデルのモンデオが1993年に登場する直前でも「古ぼけた印象がなく、今日でも通用する」と言われたくらいだった。
 ただ興味深いことに、デビューから5年後の1987年に大掛かりなマイナーチェンジが行われて、どちらかと言えば保守的な方向へモディファイされて、より一般的なスタイルになったのである。4ドアセダンが追加され、スタイルは丸み感が弱められる工夫がなされた。それは保守層の取り込みをはかるためだったと言う。

Ford Sierra 1987 HB_R.jpg
フォード・シエラ(1987年) イギリスの4ドア(下)には一般的なフロントグリルが付けられサファイアというサブネームも与えられた。
Ford Sierra 1987 Sapphire_R.jpg

 なお、冒頭で紹介した個性がなく八方美人的だという理由でそのスタイルを酷評されたモンデオは、1996年の秋にボディの前後を大幅に変更して、フロントは下位モデル・エスコートと共通イメージのマスクにされた。2000年秋に登場した3代目では、1998年にエスコートの後継車として登場したフォーカスとのファミリールックが強められた。2007年に登場した4代目はそれを発展させた外観だったが、今年、アメリカ(アメリカでの車名はフュージョン)で先行して登場した5代目では全く新しい外観を採用しており、今後他のモデルへも展開されることが予想される。

 ヨーロッパにおいてはファミリーセダンの外観は、先進的すぎても保守的でもよくないわけだが、そのほかにも違和感を与えたり、奇異に見えるものも敬遠されるようである。3代目および4代目のフォルクスワーゲン・パサート(ドイツ)について『mtokatalog』日本版の説明文からスタイルについて触れた部分を引用する。
 1993年版に「1988年以来製造されてきたパサートは、初のモデルチェンジを1993年夏に受ける予定である。特にフロント部分が手直しされ、ふたつのヘッドライト間の、のっぺりとした空間を引き締めるために再びラジエーターグリルが設けられる。」とあり、"のっぺり"感のあるスタイルはまずかったようである。1994年版では「セダンとヴアリアント(ワゴンのこと:筆者注)の外見上の変更は、古典的なラジエーターグリルが付けられてフロント部分が新しくなったこと、...」とあり、普通の位置にあるべきものがあることに安心している。このことからもこのクラスのセダンには、-般的な位置にグリルが付いていることが望まれていたことがうかがえた。
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フォルクスワーゲンパサート(上1988年、下1994年)
VW Passat 1994_R.jpg

(2)フィアット・リトモ
 シエラと同様に個性的で斬新なスタイルで登場し、モデルライフ半ばに、より一般受けする外観に変わった例として、シエラより4年ほど早く世に出たフィアット・リトモ(1978-1988年、イタリア)があった。リトモの場合はシエラほどの拒否反応は見られなかった。フィアットもフォードと同じように、当時はシンプルでオーソドックスなクルマが多いメーカーとして知られていたが、1978年春のトリノショーで発表されたリトモは世間をあっと言わせるスタイルだった。それは新世代フィアットのトップバッターとして現われ、車名も従来のフィアット車に用いられていた3桁の数字ではなく、意味のある単語が与えられた。リトモは英語のリズムである。
 リトモの外観は、バンパーとグリルそして下端のエアスポイラーを完全に-体化したフロントスタイルを最大の特徴とした。リアバンパーもフロントにマッチしたデザインがなされていた。このフロントスタイルは空力特性をよくすることが目的でもあって、リトモは当時としては例外的に低い空気抵抗係数0.38を持っていた。
 フィアットらしからぬ新鮮でユニークなリトモは、予想以上に好調なすべりだしをみせたというが、4年半後の1982年10月に行われたマイナーチェンジで、リトモのもっともリトモらしかったボディの前後がすっかり変更されて普通の顔と後姿になってしまった。それはひとつには、当時フィアットの新しいアイデンティティとして採用された5本の斜線をグリルに採用するためでもあったようだが、今振り返って見ると斬新なスタイルの飛びすぎた部分をやわらげたことが、逆に鮮度を長持ちさせる効果をもたらしたことに気づかされる。リトモは10年のモデルライフを終えて1988年にティポに道を譲った。
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フィアットリトモ(上1978年、下1982年)
Fiat Ritmo 1983_R.jpg

(3)オペル・カデット
 1980年代に入ると新車は空気抵抗係数を公表するのが当たり前になっていたが、1982年にアウディ(ドイツ)から発表された意欲作100(1982-1988年)は自動車業界を揺り動かした。徹底的に空気抵抗を減らす工夫が施されたアウディ100(下の写真)の空気抵抗係数は衝撃的な0.30で、業界を空力特性改善競争に突入させた(当時のヨーロッパ車の平均が0.42)。
Audi 100 1982_R.jpg
 そんなときに登場した6代目オペル・カデット(1984-1991年、ドイツ)も当然のように空力的スタイルであった。保守的なイメージの強いオペルには考えられない先鋭的なスタイルだった。「ダースベイダーのような口元に、最初は度肝を抜かれたものだ」(『CG』1991年11月号)と言わせるくらいだったのだ。あまりの変容ぶりにドイツ国内では当初拒否反応もあったと言われるが、空力的スタイルのカデットはじきに受け入れられて、オペル全体のイメージを変化させる効果までもたらした。
 6代目カデットは、アウディ100の手法にならい、あらゆる細部にわたって空力的な処理が施されていたが、その中で人々に奇異な感じを与えたのはフロントグリルだった。樹脂製バンパーの中央部分が立ち上げられてグリルとされており、いかにも従来のフロントデザインを構成する二つの要素を合体させただけという感じが中途半端で違和感を与えた。先に紹介したフィアット・リトモがバンパーとグリルを完全に一体化してスタイリングしていたのとは対照的だった。ただ6代目カデットには2種類の顔があり、中心となるノーマルモデル用が格子状のデザインで、スポーツモデル用は格子のないデザインとされこちらは全体がボディと同色に塗られた。奇異な感じを与えたのはノーマルモデルの方だった。そしてそれは1989年のマイナーチェンジでグリルとバンパーが分離されてより一般的な顔つきになった。
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オペルカデット(上1984年、下1989年)
Opel Kadett 1989_R.jpg

 カデットと同じような例はシトロエン・ヴィザ(1978-1988年)とオペル・コルサ(1982-1999年)でも見られたので写真だけ紹介する。
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シトロエンヴィザ(上1978年、下1982年)
Citroen Visa 1989_R.jpg
Opel Corsa 1982_R.jpg
オペルコルサ(上1982年、下1985年)
Opel Corsa 1985_R.jpg

3.受け入れられなかった斬新なデザイン
(1)デソート・エアフロー
 時代に先駆けたスタイルで人々に受け入れられなかった、いわゆる失敗例について紹介する。
 トヨタ自動車最初の乗用車トヨダAA型(1936年)の外観はクライスラー社(アメリカ)のデソート・エアフロー(1934年)が参考にされた。エアフローはその名が示すように流線型スタイルを他社に先駆けて大胆に採用した車だった。エアフローに流線型スタイルが与えられたのには理由があった。エアフローの設計面での最も大きな特徴はシャシーにあった。
 具体的にはエンジンの搭載位置で、従来前車軸より後ろだったものをェアフローではエンジン本体の3分の1が前車軸の前に乗り出すまでエンジンを前進させたのだ。それに伴いそれまで前車軸の上にあったラジエーターも前方へ移動された。また、木骨を使わないアメリカで初のオールスチール製のボディの採用など極めて進歩的な技術が導入され、クライスラーはその内容にふさわしい斬新なスタイルとして当時工業製品のデザインに流行しつつあった流線型を採り入れることにして、それまでの車とは全く違ったスタイルのエアフローが誕生した。
 メーカーはエアフローを「時代を10年先取りした車」として大々的に宣伝したが売れ行きは思わしくなかった。その原因の一つは見なれないスタイルだった。人々の目には奇異に映り自動車らしさを感じさせなかったのである。
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 マイナーチェンジで流線型を多少崩してフロントグリル部を少し起して当時の一般的な自動車の外観に近づけようとしたが、それだけではさほど印象を変えることはできず販売を好転させる効果はなかった。後に、「いかに設計的にすぐれていようと醜い車は売れないものだ」とも書かれ、エアフローはフォードのエドセル(1958-60年)とともにアメリカでは"失敗作"の例とされている。
DeSoto Airflow 1935_R.jpg
 横道に逸れるが、エアフローの設計面での革新だったシャシーは後席の乗り心地改善が目的で、このシャシーデザインの合理性は他社にも理解されてGMもフォードもすぐに採用し、ほどなく通常の乗用車の標準的なデザインとなった。
 自動車史研究家の故五十嵐平達氏は「豊田喜一郎はAA型のデザインに"スタイリング"を採り入れた人だった」と評価されていた。それは喜一郎がAA型の開発に際し、試作車のA1型や参考にしたエアフローを人々に見せてその反応を見ながらAA型のスタイルを作り上げたことを意味しており、喜一郎は人々の反応が芳しくなかったA1型やェアフローの行き過ぎたスタイルを人々の許容するレベルまで戻してAA型のスタイルとしたのである。AA型のスタイルは、当時それを見た人によると流線型が新鮮に映り評判がよかったそうである。
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上:トヨダA1(1935) 下:トヨダAA型(1936)
Toyoda AA 1936_R.jpg

 これは「斬新なスタイル」からは離れるが人々の"見慣れたスタイルへの執着"という点での一例を紹介する。写真はトヨタ博物館に常設展示されているキャデラックシリーズ60スペシャル(1938年、アメリカ)である。

Cadillac 60 Special 1939_R.jpg

 これを見ると、フロントフェンダーの一部に突き出たスペアタイヤカバーが、いかにも取って付けたようで無粋である。もともとこの車は、時流に合わせてスペアタイヤをトランク内に格納するようにデザインされたのだが、それまでフェンダー後部にスペアタイヤがあるのを見慣れた人々には、そこにあるべきものがないスタイルに寂しさが感じられたのであろう。キャデラックは、フェンダー搭載のスペアタイヤをオプションで設定した。我々から見るとこちらのほうに違和感を覚える。

(2)トヨタ・クラウン
 トヨタ・クラウンは、2代目(1962-67年)の途中からオーナースペシャルというグレードを設定して個人需要喚起の販売戦略をとり始め、3代目(1967-71年)ではオーナーカーを象徴する意図で"白"いクラウンを宣伝の前面に出したり、2ドアハードトップをラインナップに加えたりして、着実にその成果を上げていた。そして1971年2月にまさにイメージを一新した4代目のクラウンが登場した。それは"スピンドルシェイプ(紡錘型)"と称して曲線や曲面を多用し、バンパーはボディの-部になったように見えるスタイリングで非常にユニークだった。その前衛的なスタイルは賛否両論で迎えられたが、販売面では「クラウンにふさわしくないスタイル」という評価が強く販売抵抗となってしまった。
 そして販売台数でライバルのニッサン・セドリック/グロリア連合軍に初めて抜かれてしまった。個人需要が増えていたとはいえ、このクラスではまだ法人、官公庁用の需要も根強くオーソドックスで無難なスタイルが好まれたのだ。
 2年後のマイナーチェンジでは、クラウンのユーザーに受け入れられやすくするための変更が施された。バンパーをバンパーらしく見えるようにするために上半分をクロームメッキとし、クォーターピラーの下部にはドアベルトラインとつながる水平のプレスラインが入れられた。そしてフロントエンド、リアエンドとも、クラウンにふさわしい豪華なイメージに変更された。しかし、基本スタイルのイメージを変えるまでには至らなかった。スピンドルシェイプはクラウンでなければ成功したのかもしれない。
 4代目クラウンは、3年8ヵ月でモデルライフを終えて1974年に5代目と交代した。クラウンにはクラウンにふさわしいスタイルがあることを知らされた後に登場した5代目は、フォーマル感あふれるスタイルとなった。
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トヨタクラウン(上1971年、下1973年)
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4.部分的に受け入れられなかったスタイル
(1)トヨタ・セリカ
 3代目のトヨタセリカ(1981年登場)は、そのフロントスタイルが馴染まれずに、そこをマイナーチェンジで変えた。セリカが3代目に変ったのは角型ヘッドランプが全盛で、スポーティーカーにリトラクタブル(格納式)ヘッドランプが流行り始めていた頃だった。2代目は後期型でヘッドランプを丸型から角型4灯式に変更したが、3代目はポップアップ式の角型2灯ヘッドランプとされた。ヘッドランプはレンズが斜め上を向くようにセットされていて、点灯時にはレンズが垂直になるまで起き上がるのである。それはスーパーカーとして人気のあったランボルギーニミウラ(1966-1972年、イタリア)やポルシェのFRスポーツカー928(1977-1982年、ドイツ)が採用していたデザインだったが、セリカはそれらと違って滑稽に見えて、ヘッドランプがあらぬ方を向いたフロントは"ヒラメ面"というありがたくないニックネームさえ頂戴してしまった。2年後のマイナーチェンジでは、ヘッドランプのレンズ面が隠れる一般的なリトラクタブル方式に変更された。
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トヨタセリカ(上1981年、下1983年)
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(2)シボレー・コーヴェット
 1953年に登場して現在も生産されている二人乗りスポーツカーのシボレー・コーヴェットはアメリカの最長寿モデルである。最初の大掛かりな変更は1962年に発表された1963年式コーヴェットスティングレイで、非常に特徴のあるファストバックスタイルのクーペも同時に登場して大きな話題を呼び販売面でも成功した。
 「スティングレイは5年間生産されたが、最後のモデルが生産されてから5年以内には中古車が新車時の価格を上回るほどになり、この世代がもっとも人気のあるコーヴェットとなっている。とくに人気の高いのが1963年式のスプリットウィンドウクーペである(『THE COMPLETE BOOK OF CORVETTE』by Richard M. Langworthand THE AUTO EDITORS OF CONSUMER GUIDE 1987年、アメリカ)」。スプリットウィンドウクーペとは、リアウィンドウにそれを左右に2分割する桟が入っていることから呼ばれたもので、最大の特徴であると同時にそれを嫌う声も強かった。有力専門誌の『Road&Track』には「that silly bar(あのばかげた桟)」と書かれた。そして1年後の1964年モデルではその桟が取り除かれてリアウィンドウは1枚ガラスとなった。現在コレクターに人気があるのは、なんと最初の1年間しか作られなかったスプリットウィンドウクーペだというのだから面白い。
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シボレーコルベット(上1963年型、下1964年型)
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5.おわりに
 デザイナー(メーカー)が自信をもって世に問うた斬新なデザインも、その良否を判定するのは専門家や識者ではなく、ごく普通の購入者である。歓迎されることもあれば、奇異さを与えて拒否されることもある。デザインとしてはすぐれているのかもしれないが、商品としては受け入れられなければ失敗なのである。今回紹介した事例からわかるように、斬新なデザインというのはリスキーなものである。とはいえ、先進性、個性、そしてブランドアイデンティティ、これらをうまく調和させた斬新なスタイルが新車の成否にとって大きな要素となることは確かだ。今後もニューモデルのデザインには興味がつきない。

参考文献
1.Langworth, R. and Norbye, J., The Complete History of Chrysler Corporation 1924~1985, Publications International Ltd.(1985)
2.『カーグラフィック』1978年8月号、1982年 11月号、1984年11月号、1991年11月号 二玄社
3.『モーターフアン』'82-'83世界オートレビュー、同'84世界オートレビュー、同'89世界オートレビュー三栄書房
4.『Autocar』1982年9月25日号
5.『日本と世界の自動車最新カタログ』1986~2000成美堂出版社
6.『ワールド・カー・ガイド』30トヨタⅠネコ・パブリッシング(1998.5)
7.『ワールド・カー・ガイド』11アウディ ネコ・パブリッシング(1993.12)

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執筆者プロフィール

1949年(昭和24年)鹿児島生まれ。1972年鹿児島大学工学部卒業後、トヨタ自動車工業(当時)に入社。海外部で輸出向けトヨタ車の仕様企画、発売準備、販売促進等に従事。1988-1992年ベルギー駐在。欧州の自動車動向・ディーラー調査等に従事。帰国後4年間海外企画部在籍後、1996年にトヨタ博物館に異動。翌年学芸員資格取得。小学5年生(1960年)以来の車ファン。マイカー1号はホンダN360S。モーターサイクリストでもある。1960年代の車種・メカニズム・歴史・模型などの分野が得意。トヨタ博物館で携わった企画展は「フォードT型」「こどもの世界」「モータースポーツの世界」「太田隆司のペーパーアート」「夢をえがいたアメリカ車広告アート」「プラモデルとスロットカー」「世界の名車」「マンガとクルマ」「浅井貞彦写真展」など。

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