三樹書房
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第4回  乗用車のボディスタイル
2013.2.27

みなさんが運転されている車のボディスタイルは何ですか? ボディスタイルもその変遷をたどると面白いものです。私の過去3回の原稿にはライトバン、セダン、ステーションワゴン、ワンボックスなどの車のボディスタイルを表すことばが出てきましたが、今回はそれらについての成り立ちや変遷を踏まえた解説を試みました。ただ、各ボディスタイルや分類について定説はないため、ここでは私が調べたことを元にできるだけ最大公約数的にまとめたつもりです。基礎的な車知識の参考になればありがたいと思っています。


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 現代の乗用車の基本ボディスタイルは、①セダン、②クーペ、③ロードスター、④リムジン、⑤ステーションワゴン、⑥ミニバン、⑦SUVの7タイプに分類されるようだ。SUVの形態はステーションワゴンに類似するが、成り立ちが本来のステーションワゴンとはまったく異なるため独立させた。⑥ミニバンと⑦SUVについては1980年代以降の登場でよく知られていると思われるので、ここではそれ以外の5つのボディスタイルについて取り上げる。
 ボディスタイルの変遷をみるとき、スタートはフォードT型が適している。それは1908年にT型が登場したとき基本的なボディスタイルがほぼ出揃っていたことと、T型の登場で乗用車が普及し大衆化したからである。

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下のイラストは1911年型フォードT型のラインアップである。

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これらはすべて共通のシャシーを持つ。ボディスタイル名の後ろの$はフル装備価格/基本価格を示す。ヘッドライトはタウンカーとクーペにはオプションで、他のボディスタイルには1910年型から標準化された。トーピードーラナバウトとオープンラナバウトの違いはボディで、後者の方がドアもなく簡素なデザインだ。ロードスターは、基本スタイルはオープンラナバウトに似るが、フロントシートの後ろに予備の1人乗りシートを備える。これらの2~3人乗りモデルは次第に差異が減り、1913年型からラナバウトに統合された。1911年型のボディスタイル別年間生産台数は、ツーリング26,405台、ラナバウト(トーピードーラナバウト、オープンラナバウト、ロードスター)7,845台、タウンカー315台、クーペ45台、シャシー(車体なし)248台の合計34,858台で、ツーリングが75%強を占めた。

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主要なボディスタイルの生産期間。上記以外に、ツアラバウト(リアドアの無いツーリング)、ロードスター、トーピードー、ランドレー(運転席の屋根がないタウンカー)、デリバリーカー(配達用バン)、アンビュランス(救急車)、ピックアップ(小型トラック)、シャシー(車体無し)、そしてホィールベースを延長してリアサスペンションを強化したトラックシャシーとトラックがあった。

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 セダンを語るにはファミリーカーの歴史に目を向ける必要がある。ファミリーカーということばはあいまいだが、「子どものいる家族が1台目に選ぶ車」と定義して異論はないと思う。最近ではセダン、ミニバン、ステーションワゴン、SUVなどがファミリーカーとして使われ、特定のボディスタイルが大きな割合を占めることはないが、かつてはセダンがファミリーカーを代表するボディスタイルだった。
 史上初のファミリーカーと言えるのは1908年秋に登場したフォードT型のツーリングだ。各種用意されたT型のボディスタイルの中でツーリングが一番たくさん売れた。それは家庭を持つ普通の人が1台目に買う車に最低限必要とする条件をすべて備え、それ以外のものは何もなかった。具体的には、家族が乗れる(2列シート)、走るところを選ばない(当時としては十分な出力の20馬力エンジン)、丈夫で信頼性が高い(極めて簡潔な設計と、当時としては最良のバナジウム鋼を要所に使用)、運転しやすい、そして価格が安い、といったことである。

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 1910年代半ばから1920年代前半にかけてのファミリーカー普及期に供給されたほとんどはツーリング(フェートン)のオープンボディ車だった。そして、1920年代後半にファミリーカーの需要構造に大きな変化が現れた。それはオープンボディ車からクローズドボディ車(セダン)へのシフトである。
 ファミリーカーの普及の初期段階では、技術が未熟で、余裕のある出力のエンジンが作れないため、車体を軽くする必要があり、同時に、普通の人が買える価格にするためコストを抑える必要もあって、軽くて作りやすいオープンカーにならざるを得なかった。しかし、技術の進歩とともにクローズドボディが成り立つようになり、買う方の収入も増えてきて、どんな天気や季節にも快適に乗れるクローズドボディの需要が高まったのである。これは至極当然のことで、大部分のユーザーはやむなくオープンボディに我慢して乗っていたのである。1919年にはオープンボディが9割を占めたが、1925年に逆転し、1930年にはクローズドボディが9割を占めるに至った。
 時代の流れを俯瞰して言えることは、セダンというボディスタイルは、ファミリーカーとして最初に普及したオープンボディのツーリング(フェートン)をクローズドボディにしたものだ、ということである。
 フォードの場合、ツーリングは、T型の後継車として登場したA型ではフェートンというモデル名で用意されたが、セダン全盛の時代にあって年々販売台数は細り、1938年モデルを最後に姿を消した。フォードと販売を競っていたシボレーでは、それより早く1935年モデルを最後に2列シートオープンボディ車はカタログから落とされていた。

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 1934年、クライスラー社がエアフローの発売でセダンの常識を覆した。後席の乗り心地改善を目的に、後席が後車軸より前に位置するように、キャビン全体を前方へずらし、したがってエンジンの搭載位置も前に出した。ボディスタイルには空気力学を応用した先進的な流線型スタイルを採用した。エアフローはセダンのシャシーとボディスタイルの両方を刷新した車だったが、人々が見慣れていた車の外観からあまりにもかけ離れていたことで売れ行きは芳しくなかった。しかし、そのシャシーレイアウトと流線型スタイルはたちまち一般化していった。

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 ここまでの説明でわかるように、セダンの基本要件は大人が座れるシートを2列備える乗用車ということだ。最近はミニバンのように背の高い乗用車も普及しているので、セダンの説明には、「実用性を犠牲にしない程度まで車高が低い」と付け加える必要がある。
 1960年代以降、小型車ではボディ後部に突き出たトランクを省いたモーリス/オースチンミニや、トランク部分を室内と一体化させてテールゲートを備え、セダンとステーションワゴンの中間的なデザインとしたルノー16(先回紹介)などが現れて、セダンの種類も多様化していった。
 セダンは屋根が固定式のものだけではない。スチール製の固定ルーフの代わりに折りたためるソフトトップにより、オープンカーにできるコンバーチブルもある。マーケティング上、コンバーチブルという単語だけを前面に出して宣伝されることが多いが、ボディスタイルを正確に表現するとコンバーチブルセダンである。同様に、固定屋根で、サイドガラスを下げるとセンターピラーの消えるデザインは一般にハードトップとして知られているが、これも正確に表現するとハードトップセダンとなる。

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 クーペはT型のラインアップに当初から用意されたボディスタイルのひとつだ。クーペは本来馬車のボディスタイルのひとつとしてあったもので、それが自動車にも受け継がれた。

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 写真からわかるように、クーペはクローズドボディである。後に登場するセダン(右)と比較すると決定的に違う部分がある。それはクーペには後席がないことである。1911年型の場合、クローズドボディのクーペは2人乗りにもかかわらず、オープンボディの5人乗りツーリングより350ドル(50%)高い1050ドルだった。アメリカでは自動車が登場するまで医者が往診によく用いた馬車がドクターズバギーと呼ばれたが、自動車の時代になるとバギーはクーペに代わり、ドクターズクーペと呼ばれた。これからクーペの主要なユーザーは医者だったことがうかがえる。
 クーペの基本要件はキャビンが小ぶりなことで、後席は無いか、あっても補助的なものということだ。クーペは、T型では車高はセダンとほぼ変わらなかったが、時代とともにセダンより低くなり、実用性よりスタイルを優先したボディスタイルへと変わっていった。
 セダンのところで述べたように、屋根を折りたためるものはコンバーチブルクーペで、センターピラーが隠せるのはハードトップクーペということになる。私は1965年にトヨペットコロナハードトップが現れたとき、センターピラーが隠れるスタイルがハードトップで、セダンやクーペとは独立したボディスタイルだと理解し信じていたが、そうでないことがわかったのは2005年度トヨタ博物館紀要に「カーボディスタイル」の原稿を書くために調査したときだった。トヨペットコロナハードトップのボディスタイルはハードトップクーペである。

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トヨペットコロナハードトップ(1965)のボディスタイルはハードトップクーペ。

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 最もシンプルな小型軽量の移動手段を馬車と初期の自動車で比較すると、馬車にはバギー、ラナバウト、スタンホープ、バックボード、ワゴン、カートなど多くの名前があるが、それぞれの違いは判然とせず、それらの総称としてバギーが用いられていたようだ。これらの馬車に代わる自動車はスタイル名も引き継いだが、自動車の場合はラナバウトの割合が多く、それが二人乗り小型軽量自動車の総称的な役割も果たしたようだ。

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 T型のラナバウトはシリーズ中でいちばん安いモデルとして用意された。シャシーが共通で、その上に載せるボディとしてはラナバウトが最もシンプルだから当然であった。T型のラナバウトは最廉価モデルとしてモデルライフを通じて生産された。そして、T型の後継車として登場したA型ではT型のラナバウトに相当する最廉価モデルの幌型二人乗りはロードスターという名前で呼ばれた。なお、モデルライフ最後の2年間、1926年型と1927年型では、ラナバウトの車体後部を荷台にしたピックアップ(小型トラック)も生産された。
 ロードスターといえば1989年にマツダが登場させたユーノスロードスター(現マツダロードスター)が、「2人乗り小型オープンスポーツカー生産台数世界一」としてギネス記録を更新中なほど世界中で人気を博している。そのためマツダロードスターがロードスターのイメージを変えた観がある。といっても1910年代から今日までのロードスターの歴史を概観すると、ロードスターが硬派のスポーツカーのイメージで存在したのはヨーロッパにおいて1930年代から1960年代までだったと言える。その頃のスタイルで現在も生産されているロードスターの代表例はケイターハムセブンとモーガン4/4(ともにイギリス)だ。
 アメリカでは、1910年頃まではオープンボディで1列シートを持つボディスタイルのほとんどはラナバウトと呼ばれたが、1910年代半ば頃からロードスターと呼ばれるようになり、ラナバウトの名はフォードT型を例外として次第に消えていった。注意して観察すると、ロードスターは、走行性能を重視したモデルをラナバウトと区別して1910年前後にその名を使い始めたように見受けられる。そしてそれが持つパーソナルでスポーティなイメージのためからか、大衆車から高級車まで走行性能に関係無く1列シートのオープンボディ車はほとんどがロードスターを名乗るようになった。T型でも1927年型ではトランクを固定式とし、ドアに三角窓を付けたラナバウトが"スポーツロードスター"の名前で販売された。
 第二次大戦後、アメリカでスポーツカーブームを起こすきっかけになったヨーロッパ製スポーツカーのボディスタイルだったロードスターは、アメリカで1930年代半ばまで存在したロードスターとは趣を異にした。アメリカの一般的ロードスターは、1列シートとトランク部に格納できるランブルシートを持つセダンベースのスポーティーカーだったが、ヨーロッパの一般的ロードスターは専用シャシーを持ち、セダンより車高(重心)の低い硬派の二人乗りスポーツカーだった。硬派とは、快適性や実用性より走行性能を優先していることを意味し、耐候性は必要最小限でサイドガラスはなく、幌も簡素なものだった。現在のロードスターはヨーロッパの流れを汲むものといえる。

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ジャガーXK120(1951イギリス)は代表的なロードスターの1台(トヨタ博物館蔵)

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 最近ではリムジンといえば、大型セダンやSUVのキャビン部分を異様に延長した車と思われがちだが、これらは自動車メーカー製ではなく、架装業者によって改造されたものだ。本来のリムジンは、後席部が補助シートを付けられるくらいの広さを持つ、乗用車の中で最も大きい車体サイズの車である。
 初期のリムジンは運転席がオープンで、オーナーが座る後席は、運転席とはガラス付き仕切り壁(パーティション)で仕切られ、ガラス付きドアと固い屋根、もしくは後部をオープンにできる屋根を持つスタイルが多かった。
 リムジンの運転席は1910年代半ば頃までにはフロントガラス、ドア、ひさし状の屋根などが付いた。すると運転席の屋根をオープンにできる、もしくは屋根がないものをタウンカー(towncar)またはブローアムとも呼ぶようになった。さらに運転席ドアにサイドガラスが付いて運転席の耐候性が改善されたが、第二次大戦までは外観に客席部を重視した作りであることを残したモデルが多かった。なお、アメリカでは1920年代、運転席のドアにもガラスがある、すなわち人が乗る部分がすべてクローズドボディのスタイルをベルリン(berline)といって、運転席のサイドがオープンのリムジンと区別したこともあった。
 戦後のリムジンは、構造的にはパーティションと、一般のセダンより前後方向に広いスペースの後席部を持つことだけが基本的な要件となった。もちろん運転するのはオーナーではなくショーファーと呼ばれるお抱え運転手である。
 前段が長くなってしまったが、当初フォードT型にはなんと7人乗りのタウンカー(リムジンと同義)とランドレーも用意されていた。価格はそれぞれ1000ドルと950ドル。1909年モデルでの生産台数は236台と298台で、T型全体10660台の中での割合は2.2%、2.8%に過ぎなかった。運転手を雇って使うこの種の車としてT型のサイズや性能は不十分だったためと推測される。ランドレーは1年ほどで姿を消し、タウンカーは1919年モデルまで生産されたが、主なユーザーはタクシーだったようだ。なお、タウンカーやランドレーは、T型の後継車であるA型で復活することはなかった。

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 セダンの屋根を後方まで伸ばして後席の背後を荷物室にしたのがステーションワゴン(station wagon)だ。後席をたたんで荷物室を拡大し多用途に使うことができる。イギリスではエステートカー(estate car)と呼ばれる。日本はオーストラリアと同じで「ワゴン」が一般的だ。

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 1910年代、鉄道が発達し、鉄道での移動や旅行が盛んになるにつれて、駅まで、あるいは駅から人や荷物を輸送する貨客兼用自動車が活躍し始めた。それはデポヘック(depot hack)と呼ばれた。depotは駅、hackはhackney carriageの略でタクシーの古い呼び方だ。デポヘックは車体架装業者が、自動車メーカーから車体なしで売られるシャシーに木製のワゴンスタイルの車体を載せたものだ。
 1910年から発売されたフォードT型のシャシーの多くはデポヘックに架装された。当時、そういった架装業者は全米で550ほどあったと推定されている。人も荷物も運べる実用的なデポヘックは安定した需要があったことから、フォードはT型に代わったA型の1929年型からカタログにステーションワゴンを用意した。しかし、ワゴンボディの架装は外部に委託し、メーカー内製となったのは1937年モデルからだった。自動車メーカー内製のデポヘックを最初に出したのはスターで、1923年のことだった。スターはデポヘックではなくステーションワゴンという呼び方をした。フォードはA型でそれにならい、以後ステーションワゴンという呼び方が一般化していった。Hack(貸し馬車、タクシー、タクシーの運転手)の持つイメージがメーカー製個人用乗り物にふさわしくなかったためと思われる。
 車体は次第にスチール製が増えたものの木を活かした外観のステーションワゴンは1950年代半ばまでつくられ、ウッディーと呼ばれた。1960年代半ばになるとダッジからスチールのボディパネルの上に木目のフィルムを貼ったステーションワゴンが現れ、それはたちまち流行し1970年代まで続いた。日本からアメリカへ輸出されるステーションワゴンの中にも木目フィルムを貼ったものがあった。

1974 Chevrolet station wagon_R.jpg
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 乗用車の基本ボディスタイルについて変遷を踏まえての解説を試みましたが理解していただけたでしょうか。この内容はいわば原則論的なもので、現実にはメーカーがマーケティング上の理由から、原則から外れた呼び方をすることがよくあります。そのために基本的なことを知らないと混乱を招くこともありますが、ここに紹介した内容はそういったことを回避する参考になると思います。

<参考文献、情報>
「standard catalog of AMERICAN CARS」 second edition
「Encyclopedia of AMERICAN AUTOMOBILES」 G. N. Georgano 著 E. P. Dutton and Company 1971
「WHEELS ACROSS AMERICA」 Clarence P. Hornung 著 A. S. BARNES & CO. 1966
「新しい自動車のメカニズム」 誠文堂新光社 1967
「世界の自動車'73」 朝日新聞社 1973

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執筆者プロフィール

1949年(昭和24年)鹿児島生まれ。1972年鹿児島大学工学部卒業後、トヨタ自動車工業(当時)に入社。海外部で輸出向けトヨタ車の仕様企画、発売準備、販売促進等に従事。1988-1992年ベルギー駐在。欧州の自動車動向・ディーラー調査等に従事。帰国後4年間海外企画部在籍後、1996年にトヨタ博物館に異動。翌年学芸員資格取得。小学5年生(1960年)以来の車ファン。マイカー1号はホンダN360S。モーターサイクリストでもある。1960年代の車種・メカニズム・歴史・模型などの分野が得意。トヨタ博物館で携わった企画展は「フォードT型」「こどもの世界」「モータースポーツの世界」「太田隆司のペーパーアート」「夢をえがいたアメリカ車広告アート」「プラモデルとスロットカー」「世界の名車」「マンガとクルマ」「浅井貞彦写真展」など。

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