今年8月から館内の一角に大きめの木の机を置いて、「クルマ質問コーナー」を設けた。トヨタ博物館での16年の勤務経験を活かしてみようと、4週間ごとに巡ってくる土・日曜日出勤の日曜日の午後だけ、そこで見学者からの質問を受けるといういささか無謀な試みである。【写真:00】
クルマ質問コーナー
始めてみると、ほとんどの質問は子どもたちからのもので、その中に10歳の少年から「自動車の設計士になるにはどうするのか」という質問があった。
実は私が車に興味を持ったのも、彼と同じ年頃の小学5年生(1960年、昭和35年)のときだった。兄の影響で車の世界へ誘われたのだが、兄の興味が他へ変わった後も私は車が面白くなり、車の世界に留まった。そして中学校に入ったときには将来トヨタに入って設計の仕事をしたいと公言するまでになっていた。【写真:01】
小・中学生時代、小遣いは小額のお年玉と手伝いの駄賃しかなく、それは数箱のプラモデルに消え、新聞の自動車広告を切り抜いて車種をおぼえた。クラスで、車が好きだと知れ渡ると、自然にまわりから学習雑誌や少年雑誌の車のページが集まってきて嬉しかった。車に興味を持ち始めた頃、山間の小学校区にあった自動車は、ダイハツとマツダの3輪トラック1台ずつで、自分が将来、自動車を持てるとは信じられないことだった。
トヨタ自動車に入社したのは1972(昭和47)年4月。約半年の新入社員教育を受けたあと、配属先を告げられる。私は「海外部」だった。海外部は事務系の職場だが、技術系の素養を必要とする仕事を担当する技術課があって、そこへ配属されたのだ。入社するまでは車の設計をしたいという目標だったが、入ってみて、車全般に関われる仕事が自分には向いているようだと感じていたので実に幸運な配属先となった。【写真:02】
就職した翌年、新車を注文した友人が、それまで乗っていたホンダN360Sを廃車にするというので5000円で譲り受けた。マイカー1号だ。2台目はトヨタ・カローラ・スプリンターSL。3・4台目はユニークなメカニズムとスペース効率の高さに惹かれたスバル1300Gバン(1977年ごろの写真)。西への高速道路は名神しかなかった当時、郷里の鹿児島まで何回か往復した。私の目には傑作車の1台である。
1988年から1992年までベルギーに駐在させてもらえた。仕事では各国トヨタ代理店の代表者や商品/サービスマネージャー、さらには自動車ジャーナリストとのコミュニケーションがあった。これには歴史を含めて車の知識が欠かせなかったが、小5のときからずっとインプットし続けてきた車知識が役立ち、情報交換がうまく進み会話も楽しめた。車知識の大半は自動車専門誌「CAR GRAPHIC」と誠文堂新光社の『自動車のアルバム』から得たものだった。駐在には3年分の「CAR GRAPHIC」のバックナンバーを持っていった。その甲斐もあって、本社へのレポートは主に欧州車の商品動向だったが、欧州が二次(衝突)安全性へシフトしだしたときはいち早く報告できた。それも、各地域の動向を把握していたからだった。
ベルギー駐在中にトヨタ博物館の開館を知ったときは驚いた。それまで何も知らなかったからだ。展示車がトヨタ車だけではないということにも驚かされた。そして、将来そこに行けたらいいなあ、という現実感のない願望が芽生えた。【写真:03】
ベルギー駐在時の仕事のひとつは、新車発売後のディーラー訪問調査だった。新車に対する顧客や販売店の評価を聞いて、次のモデルチェンジの商品企画に反映させるためだ。写真は、東西ドイツ統合翌年(1990年)のベルリンの販売店。手前右は旧東ドイツ製トラバント。左のピックアップは、前年からVWのハノーバー工場で生産開始されたトヨタハイラックス。VWの販売店ではタロー(Taro)の名前で販売された。
1992年に帰国後、トヨタ博物館が異動先として可能性のあることがわかり、それから毎年異動希望を出し続けた。そして1996年1月、幸運なことにトヨタ博物館学芸グループの一員となった。
博物館で学芸分野の仕事をするには学芸員の資格があったほうがいいだろうと、通信教育を利用して資格を得た。【写真:04】
学芸員資格課程修了書
そのときに勉強したことは、学芸分野の業務に関する基礎的な知識であって、博物館・美術館の展示内容に関係する科目は美術と考古学の一部しかなかった。すなわち、自分が博物館で関わる専門分野については自分で勉強することになるのだが、私の場合、1960年以降の新車をずっと観察してきていたことが大変役に立った。
学芸員資格取得に単位が必要な科目のひとつに「博物館学」がある。その最初に出てくるのが「博物館の4大機能」の、資料収集・整理保管・調査研究・教育普及である。どんな施設でも学芸員はこの4つの仕事に関わっている。ここでは博物館学の講義ではなく、私の普段の業務を通して私が属する学芸グループの仕事を紹介する。
資料収集・整理保管・調査研究・教育普及の業務遂行にはそれらに付随するさまざまな雑務もあるため、学芸員は"雑芸員"とも言われるくらい種々雑多な仕事をしている。したがって専門分野の研究だけでなく、何でもこなすオールラウンダーであることが要求される。仕事の大半は展示や情報発信に関わることだ。
私が1996年にトヨタ博物館の一員となって最初に与えられた仕事はその年に60周年を迎えたトヨダAA型の図録制作だった。おおまかな構成は上司から提示された。その中に、3名の館外の識者に原稿執筆を依頼し、締め切りまでフォローすることも含まれていた。私は販売分野の原稿を担当した。まず博物館内のAA型に関する資料をできるだけ拾い出した。1987年にAA型が復元されたとき多くの記事が誌面に紹介されたが、それらを参考にしながら、販売当時の雑誌、新聞、社内報、写真、図面などを重点的にあたった。図面は本社の図面管理部署に行ってマイクロフィルムを丹念にチェックした。そして試作車A1型のフロントグリルや、実際には作られなかったAC型のオープンタイプであるAD型の図面などを見つけることができたのである。前者は後年産業技術記念館がA1型車両の開発風景を復元するのに役立てられた。またタイムリーに、AA型のタクシーの運転手をしていたという見学者が現れたので、当時の話を伺い、写真を見せてもらった。そうやって集まった多くの情報を整理・分析し、原稿を作成した。図録には過去に紹介されたことのなかった写真や図面などを多く紹介できるように配慮した。【写真:05】
図録『トヨダAA型乗用車』 トヨタ博物館ミュージアムショップにて1000円で販売中
企画展は、「20世紀の遺産 フォードT型」(1997年)で技術と生産面に関する分野を担当させてもらったのが最初だった。T型については情報が豊富だったので、見学者の興味を引き、かつわかりやすい展示にすることに力を入れた。T型の特徴のひとつだった(当時としては)簡単な運転方法は、映像をつくって紹介した。撮影と編集はプロにお願いしたが、構成と内容(撮影カット)、ナレーション原稿は私がつくった。これはその後立ち上げた「フォードT型運転講習会」に今でも活用されている。また、T型は19年間モデルチェンジをしなかったと言われるが、それはシャシーであって、ボディは時代とともに進化していた。合理的で簡素極まりないシャシーはT型の技術を理解するのにまたとない資料だったため、東京の交通博物館(2006年5月閉館)が所有していることを知り、企画展のために借用しに行った。現在は寄託の形で当館本館2階の1909年型T型フォードの隣に展示されている。
1人で担当した最初の企画展は「子どもの世界」(1998年)だった。協力者(展示資料貸与)は個人が12名、企業・施設・機関が6箇所。小はグリコのおまけから大はマッハ号のレプリカまで、子どもと車の関わりを紹介するのに選んだものである。借用打診から交渉・引取り・返却までほとんどすべてのことをやった。マッハ号は、前の年にタカラトミーとタツノコプロが「マッハGoGoGo」のリメイク版アニメのプロモーション用にレプリカを制作したニュースを聞いたとき、開催時期未定だが企画展をやるときに貸して欲しいと頼んでおいたものだった。開催時期がきたときマッハ号は個人の手に渡っていたが、所有者を長野県まで訪ねて貸してもらった。マッハ号はその後、2008年の「マンガとクルマ」展でも借用し、そのときは走行披露も行って多くのファンや見学者に喜ばれた。このときほど、自分が担当することについてアンテナの感度を上げておくと面白いように情
報が集まることを体験したことはなかった。【写真:06】
企画展「こどもの世界」(『トヨタ博物館だより』38号より)
私は学芸員として常に"偏りがないこと"に留意して、「子どもの世界」展についても可能な範囲で全体を見渡してから展示の構成を考えた。取り上げたのは、書籍(マンガ・絵本・雑誌)、アニメ、おもちゃ・模型、乗り物(ペダルカー・電動車・ゴーカートなど)、ゲーム、すごろく、カードなどだ。自動車マンガとしてぜひとも紹介したかった『少年No.1』については、作者の関谷ひさし氏にお願いをして原画をお借りすることができた。また、アメリカならこのテーマで欠かせないソープボックスダービーも紹介した。実物がなかったのが残念だったが、その後、アメリカのコレクターにお願いして1950年代半ばの車両を寄贈してもらい、現在常設展示している。【写真:07】
ソープボックスダービーについて『1997トヨタ博物館紀要』に書いたところ、2001年に日本大会を立ち上げられた山本さんからコンタクトがあり、それが縁で、アメリカのコレクターから古いダービー車を寄贈してもらえた。寄贈車はソープボックスダービーが非常に盛んだった1950年代半ばのもので、同時代のフォードサンダーバードの横に展示している。
"偏りがないこと"のほかに"歴史"についても留意しており、それぞれの項目について歴史を調べて展示に反映できるようにしている。そうすることで、多くの人に見学を楽しんでもらえるからだ。
M-BASE読者が自動車博物館の学芸員の仕事で一番関心があるのは収集&整理(レストアを含む)・保管ではなかろうか。残念ながら私がその期待に応えることはむずかしい。というのは、私が異動してきたときはすでに常設展示に必要な車種は収集・修復・復元がほぼ完了していたからである。もちろん、自動車の歴史を展示する博物館として、将来に向けて継続的な収集は欠かせない。開館時の展示は、国産車は1970年まで、欧米車は1940年代までだったので、開館後はそれ以降の主要な車種の収集がスタートしていた。1999年の開館10周年時の新館増設や、20周年時の一部常設展見直しなどに合わせて必要な車種が収集されたが、私は車種選定に関わっただけで、収集業務は担当しなかった。収集車種選定にも50年来のクルマ知識が役立っている。私が携わった収集で印象に残っているのは、ベンツ3輪を除きすべて寄贈の受け入れだが、アウディ・クワトロ、シトロエンGS、ロータス・エリート、フランクリン4人乗りロードスターなどである。ベンツ3輪はトヨタ博物館にとっては2台目で、開館時から展示していた1台目はキャブレターの内部構造が正確でなかったことやイギリス製だったことから、本家からレプリカ制作・受注の案内がきたとき、アフターサービス(パーツ供給)がされることもあって、すぐに役員までの決裁をとりつけて注文した。現在は小学校の社会科見学などの折、走行披露に大活躍している。【写真:08】
早稲田大学理工学部からフランクリンの寄贈を受けることになり、寄託先の交通博物館に引取りに行った(2007年5月)。このとき初めてフランクリンの歴史を調べ、軽量設計という設計思想に貫かれて異彩を放ったメーカーであったことを知った。引取ったままの状態で同年末からの『初公開 収蔵車展』に展示したところおおいに注目を集めた。
オリジナルの姿に戻す修復(レストア)や、入手できない車両をつくる復元(レプリカ)・模型制作で学芸スタッフが担当するのは、その作業に必要な資料・情報を集めることや、仕様を決めることなどである。いったん展示コンディションにされた車両でも時間の経過とともに、各部が傷んでくることは避けられない。また、当館では動態保存を原則としていることで、点検・整備後に始動・走行確認をするが、それによって部品を消耗したり破損したりすることもある。戦前の欧米車両の場合は、部品や修理を海外に頼ることもある。
そのほかにも見学者との交流や、外部イベントの見学、他施設の見学、学芸員実習生の受け入れ、新人TAMキャストへの講義、出前授業の先生なども担当している。当館は、車の歴史を学べる施設だが、車に親しんでもらい、車の楽しみ方を知ってもらうためにできるだけ努力するのも学芸スタッフの役割である。