「TACS」は「東京自動車クラブ」の略称として使われて来たが、そのフルネームが「Tokyo Auto Club Sports」であることは今回初めて知った。「S」の由来がどうしても考え付かなかったからだ。だがよく見ればそれはマークの下にしっかりかいてあった。1966年6月「TACSクラシックカー・スピード・フェスティバル」がスポーツカーを中心に筑波サーキットで開催されたのを皮切りに、第2回は約半年後の1977年1月、今度はサルーンカーを中心に「クラシックカー・フェスティバル」のタイトルで都内で開催され、それからはこの順番に年2回のペースでほぼ定期的に開かれた。僕の手元に1991年1月までプログラムがあるから16年もお世話になったことになる。
「TACS」は「クラシックカー」という言葉を普通に良く使っている。1970年代はまだ古い車が集まるミーティングなどは皆無で、一般的には古い車は皆クラシックカーと呼ばれていた時代だからこれに合わせた表現だと思う。厳密に「オールドカー」「ヒストリックカー」「クラシックカー」「ヴィンテージカー」などの言葉を使い分けるのはマニアックな一部の人たちに限られていた黎明期の事だ。
1984年4月1日 クラシックカーで一杯の会場・明治公園
1979年7月3日 本物のクラシックカーがずらりと並ぶ筑波サーキットのピット裏
(01a)1927 Mercedes Benz 680 S (W9856) 1977-04-24 筑波サーキット
(01b・参考) 1927 Mercedes Benz 680 S (W9856) 1964-10-11 芝浦・ヤナセ
戦前のベンツでポルシェ博士が手掛けた「S」「SS」「SSK」「SSKL」と続くシリーズはスポーツカーの傑作といわれている。写真の車は2台とも最初の「S」シリーズで、今の感覚では長大過ぎてとてもスポーツカーと思えない。普通は「S」あるいは「680S」と呼ばれるが、メルセデスには別に「26/120/180」という呼び方もあり、課税馬力/実馬力/過給馬力を表す。下段の参考に掲示したヤナセのショーで見た車とは殆ど同じ形だがイメージはかなり異なる。
(01c・参考)1981 Gozzy SS Roadster(GB) 1981-01-15 神宮絵画館前
この車は日本人がプロデュースし英国で少数造られて市販された現代の車だが、それらしく造られた改造車と違って、完全にシャシーから造られたレプリカで外見は非の打ち所がない。車名はSSだが原型は「メルセデス・ベンツSSK」で、エンジンとギアボックスは1980年頃のメルセデス280S用DOHC 2.7リッターと4段マニュアルでブレーキも油圧に換えられているから、周りの目を気にしなければ日常の使用が可能だった。
(02) 1934 Austin Seven Saloon(GB/J) 1981-01-25 神宮外苑絵画館前
オースチン・セブンは1922年から38年まで16年間で約25万台も造られたが、1930年代にはドイツ、アメリカ、フランス、オーストラリアなど各国でもライセンス生産された。日本ではそれまで完成車を輸入していたが、小型自動車の枠内に収めるため1933~34年頃は特注のショートシャシーを輸入し、ボディのみ国内の法規に合わせた物を架装していた。写真の車はボンネットのルーバーが横桟なので数少ない国産の日本自動車製ボディである。
(03) 1935 Ohota TypeOC Sedan(J) 1986-01-26 明治神宮絵画館前
今では「オオタ」と言う車名は既に歴史上の存在になってしまったが、戦前から昭和20年代にかけては、ダットサンの一歩先を行く小型自動車のトップメーカーだった。オオタ自動車に関しては殆ど資料がなく、手元資料では1933年「OB」と1937年「OD」しか確認出来ないが、写真の車1935年型はその中間にあるので「OC」型と推定した。このあと出現した1937年「OD」型は長男祐一氏のデザインで特にロードスターは完成度が高く、写真で見る限り小型自動車としては世界水準を超えていたと思う。ただ残念ながらイベントでも博物館でも一度も見たことが無いので1台でも現存するだろうか。
(04a・参考)1933 MG Magnet K3 Prototype(GB) 1982-06-13 河口湖自動車博物館
(04b) 1934 MG K3 Magnet(GB) 1979-05-06 筑波サーキット
「K3マグネット」は数ある戦前MGの中で最高傑作といわれている。Kシリーズの6気筒SOHC 1086ccのエンジンにスーパーチャージャーを付けたレーシング・バージョンで1933年のミッレ・ミリアに出場を目指して1932年から開発が始まった。ミッレ・ミリアには3台出走し、1100ccクラス優勝、2位(チーム賞)を獲得した。因みに途中区間で平均時速110mph(176km)を記録している。2台造られたプロトタイプの1号車は昭和12年(1937)日本に輸入され、小早川元治氏のドライブで戦前のレースで活躍したが、戦災で火を被った。戦後修復され一時期レースを走っているが、その後「河口湖自動車博物館」に収蔵された。(04b)筑波サーキットで撮った写真はそれとは別の1934年型でスーパーチャージャーが見た目はっきり判り、ボディ後半がボートテイルとなった。34~35年で30台しか造られなかったが、この他にも3台国内で確認している
(05) 1935 Deusenberg SSJ Roadster(Replica)(USA) 1985-01-27 明治公園
キャディラック、リンカーン、クライスラー・インペリアル、パッカード、ピアスアロー、スタッツ、マーモン、など数あるアメリカの高級車の中でも、アメリカ人が誇る伝説の豪華車が「デューセンバーグ」だろう。1929年出現した「モデルJ」1932 年からはそれにスーパーチャージャーを付けた「モデルSJ」と2本立てで1937年までに約500台造られた。そのSJのスペシャル版がたった2台しか造られなかったショートシャシーの「モデルSSJ」で、当時のオーナーはハリウッドの大スター「ゲーリー・クーパー」と「クラーク・ゲーブル」だった。写真の車は大変良く出来たレプリカで、塗装はクラーク・ゲーブル・モデルだが、メーカー製ではなくアメリカのマニアが個人で造り上げた物だそうだ。僕も若い頃モノグラムのプラモデルで「モデルSJ」を造った時、これを改造して「SSJ」を作ってやろうともう1組買ったがそれから何十年もたってしまった。
(06) 1938 Talbot Lago T23 SS Coupe by Figoni-Falaschi(F) 1980-01-20 神宮絵画館前
この会社のルーツは1903年イギリス人のタルボ卿がフランスの「クレメンテ」を輸入販売するために設立した。その後イギリスとフランスで自社ブランドの「タルボ」を生産していたが、1919年フランスの「ダラック」に買収され「タルボ・ダラック」となる。1920年には「サンビーム」も併せ「STD」となったが1935年経営不振で身売りする際、ルーツグループがイギリス部分を買い取り「サンビーム・タルボット」(英語発音)となり、フランス部分をアンソニー・ラーゴが買い取り「タルボ・ラーゴ」(仏語発音)となった。写真の車を会場で見つけた時「あッ! あの車だ!」と目を疑った。それは5年前雑誌(CG74/12)で見て一目惚れしたフィゴーニのタルボ・ラーゴだった。まさか日本で見れるなんて夢にも想って居なかったからだ。1930年代後半の洒落たフランス・スタイルの典型で、小さいキャビンや曲線の見事さは、ブガッティのアトランテ/アトランティックなどとも共通する美しさだ。
(07) 1958 CSCA 750 Spor LeMans Special (Tipo S187) (I) 1979-01-15 東京プリンスホテル
「OSCA」はOfficine Specializate Construzione Automobili Fratelli Maserati 「マセラティー兄弟特殊自動車製作所」の頭文字4字で、あの「マセラティー」を人手に渡した後の兄弟が作った会社である。オスカは1958年のルマンに2台出走し750ccクラス優勝と4位(総合10、13位)を獲得、写真の車は4位となった車そのものだ。イベントでの楽しみは予想もしない珍しい車に突然出っくわす事だが、この場合もまさにそれで、第1印象は「恐ろしく小さくて背が低い」だった。ボディの高さはホイールと殆ど同じで前後輪ともにスパッツ(車輪カバー)で覆われていたから、サイドラインは直線でボディは余計に薄く見えた。この時以来、僕はこの車にはパーキングブレーキが無いという誤った認識をもっていた。今となっては何故そう思ったのか思い出せないが、その時「車止め」が噛ませてあったか、誰かに聞いたのか、とにかくレーシングカーだから要らないのかと妙に納得した記憶がある。(もしかしたらこの日に限ってサイドブレーキの具合が悪かったのかも?) しかし今回コクピットの写真をよく見たらサイドブレーキ・レバーはちゃんと付いていたのでご安心あれ。
(08a) 1955-60 BMW 503 Coupe (D) 1981-12-20 筑波サーキット
1952年、2リッターの「501」で戦後のスタートを切ったBMWは、1955年同じボディーにV8 3.2リッターを載せて「502 」にグレードアップした。このエンジンを使って「503」「507」「3200CS」の姉妹車を造りラインアップの充実を図った。メルセデスの「300S」や「300SL」に範をとった構想だ。「503」はクラシック・タイプの501/502に対して、すっきりしたモダンなスタイルが特徴で、クーペとカブリオレが用意された。メルセデスの「300S」に相当するグレ-ドと言える。デザインはアルブレヒト・ゲルツ(後年日産シルビアなどに関係)と言われるが、顔付は「501」の試作段階で没になったピニン・ファリナの「アルファロメオ1900に似たプロトタイプ」の面影も感じられる。
(08b) 1958 BMW 507 Touring Sport Roadster(D) 1981-01-25 明治神宮絵画館前
「507」は「503」と同じくアルブレヒト・ゲルツのデザインでグッドデザインと評価は高い。僕が最初に知ったのは雑誌か年鑑で見た真横の写真で、すごく均整のとれたプロポーションに感心した。しかし現物を見たときの印象はプロポーションよりもその巨体に圧倒され、格好いいと思う前にすごく大きい車と言う印象が強かった。特に16インチのホイールがとても大きく感じられた。当時日本ではとても珍しい車で、この日「BMWコレクター」の土居氏が3姉妹を一挙にお披露目して下さったお蔭で目の保養が出来た。
(08c) 1965 BMW 3200 CS Coupe (D) 1981-01-25 神宮絵画館前
「3200CS」は3姉妹の中では唯一カロッセリア・ベルトーネで造られ、若き日のジウジアーロがデザインした。中身は「503」とほとんど同じだが、平面を多用したデザインが当時としてはよりモダンに感じられたことだろう。性格的にはスポーツカーではなく豪華ファストツアラーで、普通の3200が約2万マルクなのに1.5倍の約3万マルクもした。このスタイルは一番オーソドックスでその後に続くモデルに影響を与えた筈だが1962-66年の4年間で僅か603台しか造られなかった。この車と直接は関係ないが1960年頃のBMWのラインアップは「3.2リッター」の豪華車と「BMW・イセッタ」と軽自動車並みの「700」しかなく、一番需要のある1.5~2リッター には何もない状態だから、この危機は2輪車部門で支えられ乗り切ったのだろう。
(09) 1968 Lamborghini Miura (P400S) 1982-05-02 筑波サーキット
ランボルギーニは戦後、農機具/トラクターで財をなした一人の男がフェラーリに満足出来ずそれ以上の車を造ろうとした結果生まれた。フェラーリへの対抗意識が強く「跳ね馬」のエンブレムに対しては「ファイティング・ブル」(闘う雄牛)が使われたが、これはデザイン上だけではなく、フェルッチョ・ランボルギーニが「おうし座」の生まれだったことに由来する。その生い立ちが示すように造られる車はすべて「スーパーカー」と呼ばれるものばかりで1966年ジュネーブ・ショーで発表された「ミウラ」はベルトーネ製のボディに3929cc V12横置きミッド・エンジンの革新的構造を持った車で、当時の市販車としては最高の290km/hを誇ったが、何故かファクトリーとして積極的にレース活動はしなかった。
(10) 1967-73 Masertati Ghibli (I) 1981-01-25 神宮絵画館前
マセラティが戦前から続くイタリアの名門であることは誰もが認める所だ。1926年兄弟5人がそれまでの経験を活かして立ち上げた小さな町工場から「マセラティ」の1号車「typo26」がが誕生した。1.5リッターのGPカーは初戦タルガ・フロリオでいきなりクラス優勝して(総合9位)実力を見せた。1930年代の「6CM-1500」「8CM」、戦後の「A6 GCS」「150S」「300S」「250F」など歴史上の名車を残している。ギブリの前「クアトロポルテ」や「メキシコ」までは旧来の自動車の公式を踏まえたグリル、ヘッドライトが主役の顔立ちをしていたが、半年前登場したランボルギーニ・ミウラに対抗するようにウエッジ・シェイブに生まれ変わった。ボディは「カロッセリア・ギア」の作品でジウジアーロがデザインした。この後70年代は「インディ」「ボーラ」「メラク」「カムジン」「キャラミ」とマセラティのスーパーカー時代がが続く。
(11) 1971-73 Ferr4ari 365 GTB/4 Daytona 1981-01-25 神宮絵画館前
フェラーリにおける輝かしい戦歴を誇るのは一連の「250シリーズ」で「MM」「TestaRossa」「TdF」「SWB」「LM」など数ある中でも「GTO」は最高傑作と言われる。「275」「330」と排気量が増すにつれて、速いことは速いが居住性や豪華さを追求するあまり、性能的にライバルに遅れを取っているのではないかとの声に応えて登場したのが、最後のフロントエンジン・ベルリネッタと言われる写真の「365 GTB/4 Daytona」である。「ピニンファリーナ」がデザインし「スカリエッティ」が造るこの車は、機能的に合理的なうえに見た目も美しい。が、その外見に似合わず戦闘力の高いレースカーでもある。「ベルリネッタ」とは一般的には「小さいセダン」転じて「クーペ」と理解されているが、フェラーリではクーペの中でも「コンペティション・バージョン」のみが「ベルリネッタ」と呼ばれ明確に区別されている。
(12) 1974-80 Lotus Elite Sport Hachbuck 1981-01-25 神宮絵画館前
ロータスはご存じ天才コーリン・チャップマンの数々の新しいアイデアを盛り込んで競争力の高いスポーツカー/レーシングカーを生み出してきたメーカーだ。大ヒットの「エラン・シリーズ」がロングランを続け、家族持ちになったエラン好きの為に1973年まで造られてきた「エラン+2S」に代わって登場したのが「新エリート」(Type75,82)である。2ドアながら今度は完全な4シーターで、見た目は大きく見えるがエンジンは4気筒DOHC 1973ccでフロントに積まれている。初代エリートはすべてが曲線で構成されていたのに対し新エリートは直線と平面が目立つモダンな感覚で生まれ変わった。スタイリングは社内デザインと言われるが、ジウジアーロの息がかかっていると想像される。スポーツ・マインドのロータスがスーパーカーを目指した転換期の産物として、生粋のロータス・ファンは批判的だったようだ。
(13) 1975-81 Jaguar XJ-S Coupe 1982-05-02 筑波サーキット
この車は大ヒット「Eタイプ」の後継車として企画され「Fタイプ」となる予定だったが、豪華さの「XJサルーン」と、スポーツカーの「Eタイプ」を兼ね備えた「グランツリスモ」に方針変更のため、スポーツ・サルーンとして「XJ-S」と命名された。当初のエンジンはEタイプと同じ5344cc V12が積まれていた。1981年マイナーチェンジされ、以後のモデルは「XJS」となりJとSの間のハイフンが無くなった。1991年まで17年間も造り続けられたから相当数出回っている筈だが僕は国内ではこの時1回しか出会っていない。
(14) 1974-77 Lancia Stratos HF (I) 1982-05-02 筑波サーキット
活躍を続けてきたフルヴィア・クーペHFの後継として、1971年ラリー専用の戦闘力を持った車がトリノショーに登場した。それがランチャ・ストラトスHFのプロトタイプで、ベルトーネ(ガンディーニ)によって造られた。エンジンはフェラーリ246用ユニットがギアボックスごとミドシップに横置きされ、主な重量物をホイールベースの間に収めることでモーメントの軽減に貢献している。どう見てもスーパーカーかレーシング・カーに見えるこの車は1974年には既に500台以上造られてグループ4のホモロゲーションを獲得した立派な量産車である。写真の車は1975年からのおなじみのアリタリア・カラーで、ラリーを走るときはヘッドライトの間に4個のドライビング・ランプが追加される。
(15) 1979-80 BMW M1 Coupe (D) 1981-12-20 筑波サーキット
1976年BMWはグル-プ4/5レースで手持の3.0CSiではポルシェ934/935相手に闘う限界を感じ本格的なミッドシップ・レーサーの開発に取り掛かる。ボディは「イタル・デザイン」(ジウジアーロ)に依頼し、シャシーはミッドシップの経験を持つ「ランボルギ-ニ」に開発と製造を委託した結果1977年夏には試作車が完成した。しかし週2台の予定が達成出来ず、1978年4月委託先を「バウアー」に変更するもグル-プ4の条件を満たすための12か月間に400台に達せず、やむを得ずF1の前座、プロカー・レースと言う「M1」のみのワンメーク・レースを走るしか無かった。1981年何とか認定されたが翌年規定が改訂されてしまい本番での活躍の場はなかった。写真の車はM1の中でもおとなしい「ロードバージョン」だが、この他に本来の目的である「レース仕様」がある。全部で407台造られたがロードバージョンは400台のホモロゲーション獲得の為の最小の数字だった。
(16) 1963-69 Renault Alpine GT 4S 2+2 Coupe (F) 1980-01-20 神宮外苑絵画館前
「アルピーヌ」は1952年ルノー4CVのチューンアップからスタートした。生みの親はルノーの地方代理店を経営していた「ジャン・レデール」と言う車好きの若者だったが、自分の名前を車に付けなかったのでその名前を知る人はあまり多くない。アルピーヌはA106(4CV),A108(ドーフィン)と進化を続け,1963年にはルノー・アルピーヌといえば誰もがイメージするR8ベースの「A110ベルリネッタ」が登場した。これはこの後も更に強化されながら1970年まで製造が続けられた。一方、写真の車はホイールベースを170ミリ延ばして4座を確保したファミリー向けで台数も少なく大変珍しい車だ。
(17) 1962 Fiat Abarth 850 TC Corsa (I) 1985- 04-29 筑波サーキット
過激が売り物のアバルトのなかでも最も過激な面構えがこの「850 TC Corsa」だろう。ザガートの造る流れるような小型ベルリネッタも良いが、フィアットのオリジナル・ボディに、これでもかと言わんばかりに大口を開いたオイルクーラーと、蓋が閉まらないくらい中身が一杯だと言いたげなエンジンルームこそ「アバルト」の真骨頂だ!。
(18) 1976-80 Innochenti Mini DeTomaso (I) 1982-05-02 筑波サーキット
ご存じ「ミニ」は1959年イギリスのBMCから生まれた傑作車として誰もが認めるところだが、メーカーの統合・合併があり「ブリティッシュ・レイランド」となった時代、イタリアのイノチェンティを傘下に収め1974年ベルトーネ・デザインの「イノチェンティ・ミニ 90L・120L」を発売した。1976年この会社をアレッサンドロ・デ・トマゾが買収しその結果イタリア生まれのホット・ヴァージョン「ミニ・デ・トマゾ」が誕生した。エンジンはBMC-Aタイプ1275cc が普通のミニと同じくフロントに横置きされており、この車の性格にしては見た目はおとなしい感じだ。
(19a) 1976-80 Renault 5 Alpine (F) 1985-04-29 筑波サーキット
(19b) 1985 Renault Turbo2 (F) 1985-04-29 筑波サ-キット
フランスを代表するベーシックカー「ルノー・サンク」にアルピーヌが手を加えたのが「ルノー・サンク・アルピーヌ」(17a,b)で、ゴルディーニ・チューンのエンジンはオリジナルと同様フロントに置かれ、外見には張出もなくストライプのモールディングと「A5」のロゴが入っただけの比較的おとなしい印象を受けるがそれでも「アルピナ・チューン」である。一方ターボを付けたエンジンをミドシップに移し1000台生産してグループ4のホモロゲーションを取ったのが「サンク・ターボ」で、あまりにも高価だったので内装や一部材質を変え25%も価格を下げたのが写真の「サンク・ターボ2」(17c)でバッジ以外は外見も性能も変わらない。
(20) 1969 RobWalker Racing Mini (CooperS)(GB) 1982-01-24 神宮外苑絵画館前
1959年アレック・イシゴニスによって生み出されたこの車は、デビューした時は「オースチン・セブン」「モーリス・ミニマイナー」と言う英国で伝統ある、最もポピユラーな2つの別な名前を持って居たがやがて「ミニ」に統一された。自動車史上歴史に残る傑作車として長期間、数多く生産されたから、その一族には多くのバリエーションが存在する。基本的には「2ドア4人乗りサルーン」だが、ざっと考えてもカントリーマン/ミニトラベラー、バン、ピックアップ、ミニ・モーク、など外形・用途の異なるもの、ミニ・クーパー系のファクトリー・チューンによるカタログモデル、イノチェンティに代表される外国製ミニ、などの他にも個人が改造したと思われる4ドアの「ミニ・メジャー」や「カブリオレ」も見た事がある。小規模メーカーによるレース用改造車としては「マーコス」と「ロブ・ウオーカー」が良く知られている。写真は、そのロブ・ウオーカーが改造した車で、窓の部分で4センチ、ボディの部分で8センチ、合計で12センチ高さを低くして空気抵抗を減らす努力をしている。
(21) 1969 Checker Aerobus 8-door StationWagon (USA) 1982-01-24 神宮外苑絵画館前
日本では殆どなじみの無い「チェッカー」ブランドだが、アメリカ人なら誰でも知っている「イエローキャブ・タクシー」の大部分は窓周りに細かいチェッカー模様が入ったこの「チェッカー」で占めていた。スタイルがずっと同じだったので街の人たちには馴染み易かったかもしれないが僕にとっては年式特定が全く出来ない厄介な車種の一つだった。写真の車は立派なカタログ・モデルで、西部劇時代のステーション・ワゴン以来引き継がれて来た、駅への送迎用車として確立された種類である。最近結婚式などで見かける高級車のストレッチ・リムジンとは用途が異なる純実用車で、大勢乗れて乗り降りが便利と言うのが最大の利点である。広告主が「うなぎ屋」だったら「うなぎの寝床みたい!」と言いたかったのに「らーめん屋」で残念。
(22) 1963-81 Mercedes Benz 600 Pullman Limousine (D) 1981-05-04 筑波サーキット
なんとお行儀が悪い、と言うなかれ。これでも精一杯前まで詰めて居るのです。戦前のグロッサー・メルセデスに匹敵するフラッグシップとして1963年登場したのが「600」シリーズで、それを窓1つ分ストレッチしたスペシャルバージョンが写真の「600プルマン」だ。V8 6332ccのエンジンで全長6240ミリ、重さ約2.5トンの車を200km/h以上と言うスポーツカーを超える速さで、しかも安全に走らせることが出来る本当の意味でのスーパーカーだ。1981年まで18年間にわたって造られた戦後の名車の1つである。因みに隣に駐車している「ブルーバードSSSクーペ」(4095ミリ)の1.52倍、ミニ(3051ミリ)では2.05倍に相当する長さである。
(23) 1949 VW Hebmuller Cabriolet (D) 1985-01-27 明治公園
フォルクスワーゲンがベースとなって作り出された車は数多い。古くはヒトラーの国民車構想に乗せられて出したお金が軍用車に変ってしまった「キューベル・ワーゲン(type82)」「シュビム・ワーゲン(type166)」、1936年の「ポルシェ・プロトタイプ(type60)」、戦後は曲線が美しい「カルマン・ギア」、カリフォルニアの似合うワイルドな「サンド・バギー」などが良く知られた所だが、一寸マニアックな「ヘブミュラー」と、番外で殆ど知られていない「ロメッシュ・ベースコウ」を紹介しよう。「ヘブミュラー」は改造車ではなく、VWの正規コーチビルダーによるカタログ・モデルではあったが1948~53年の間に約700台しか造られていない。その間、工場の火災などで会社は倒産し、そのあとはカルマン・ギアで少数造られた。
(24・参考) 1956 VE-Rometsch Beescow Cabriolet (D) 2009-03-26 六本木ヒルズ
ベルリンのコーチビルダー「ロメッシュ社」でヨハネス・ベースコウがデザインした車だが冷戦の影響でこの車は短命におわった。フロント・ノーズがオリジナルより高く、後年のタイプⅢを思わせる。一般の人にはほとんど知られていない珍車だ。
一年間にわたって連載したこのシリーズは今回で一区切りとなります。初めの内、僕のコレクションに至った経過とか整理方法などについて書いて居たのですが、その内に「あれもこれも」と言う僕の悪い癖が出てしまい、後半は車のオンパレードになってしまいました。ただ、今月のスパーカーについては僕にあまり知識がなく大変だった事を告白しておきます。国内で1つだけ紹介出来なかった1980年代後半に神戸で数回開催された「モンテ・ミリア」が心残りですが、機会があれば別の形でお目にかけたいと思います。(終)