前回途中で終わってしまったので今回はその続きをお贈りします。本当の所お見せしたい「ネタ」がありすぎて始末がつかない状態ですが今回こそ「富士スピードウエイ」編は最終回です。
(スポーツカー・続き)
1966-68 Lancia Fulvia HF Coupe
ランチャには名前の似た兄貴分の「フラヴィア」がありまぎらわしいが、こちらは1.3リッターの弟分「フルヴィア」で、1960年代後半から70年代にかけてラリーの世界に君臨したランチャの初代の車。「HF」は後にワークスとなったチームのプライベート時代のチーム名から来ているが、語源は音響用語「Hi-Fi」(高忠実度)だそうで、「モノラル・LPレコード」の時代「ステレオ・ハイファイ」が憧れだったことを久々に思い出した。
1968-70 Jaguar E-Type 4.2 SeriesⅡ Roadster
Eタイプは1961年3.8リッターでデビューしてから外見は殆ど変らずに1964年4.2リッターとなり、1968年ヘッドライトのカバーが無くなってマークⅡとなった。マークⅢからはV12となるので6気筒最後のモデル。
1968-73 Lotus Elan +2S
ロータスは製造順にマーク〇〇と番号が付けられており、その殆どは「レーシングカー」で、市販スポーツカーは「マーク7」「エリート(マーク14)」「エラン(マーク26,36,45)」「コルチナ(マーク28)」と極めて少ない。1962年 純2シーター、エランがデビューして以来の愛好者も、家庭を持ち家族が増えれば、ファミリー版ロータスもあればいいな、と生まれたのが「エラン+2(マーク50)」で、その後生まれる「新エリート」「エスプリ」「エクラ」と続くラグジュラリーGTの先駆けとなった。
1968-71 Lotus Europa S2
この角度から見るとピックアップ・トラックのようにも見えるが、高さが1080ミリしかないから、キャビン付きのクーペとしてはダントツに低い。ヨーロッパ・シリーズは安価で高性能スポーツカーをと言うコンセプトで生まれた本格的ミッドシップGPでルノー16の1470ccエンジンを転用することでコストを抑えている。ヨーロッパ・シリーズ2はタイプ54である。
1969-75 VW-Porsche 914
1969年フランクフルト・ショーでデビューしたこの車は、ミッドシップ・レーシングカーの経験を持つポルシェが設計を担当し、VWがボディを製作した車で、エンジンにより2タイプある。914はVW411E用4気筒1979cc、914/6はポルシェ911T用6気筒1991CCが使用されている。日本での価格は914が215万円、914/6が325万円とかなり差があった。
1977 Alpine Renault A110 1600 SX Berlinetta
アルピーヌは1955年ルノー4CVをベースにした「A106」からスタートし、「A108」を経て、1964年からルノーR8/ゴルディーニの1108ccエンジンを得て「A110」となる。写真の車はボンネットにドライビングランプが埋め込まれているので後期型で、ルノー16TXの1647CCエンジンとサンク・アルピーヌのアルミホイールを持ち、A110シリーズとしては最終モデル。
1969 Marcos 3-Litre
「マーコス」は英国の小規模メーカーが造る車で、日本での知名度は低い。しかし記録によると1964年の第1回日本GPに最初の「GTモデル」2台をエントリーしているので僕は見ていたのかもしれないが記憶も映像も残っていない。車名はジェム・マーシュの「Mar」+フランク・コスティンの「Cos」を繋いだもの。技術担当のコスティンは航空機メーカー「デハビランド」で木製傑作爆撃機「モスキート」の設計に関わっていたので、軽量かつ十分な強度を持つ「ウッドン・フレーム」に着想し車の軽量化を図った。同じボディ・シェルで、1.5リッターから3リッターまで色々なエンジンが用意された。
1972 Dino 246 GTS TipoE
この車は「フェラーリ」なのか「ディーノ」なのか諸説あるところだが跳ね馬のバッジ付きもよく見かける。事の起りは1967年のF2レギュレーションが「上限2リッター、6気筒以下の量産エンジン」と決まり、量産能力のないフェラーリは設計したエンジンをフィアットに提供し「フィアット・ディーノ206」として量産してもらった経緯がある。それと同時進行で、フェラーリ版「ディーノ206」も少量生産され1969年から「246」に進化する。写真の車は最終モデルで、GTSはルーフが取り外せるタルガ・トップ。
1976 Panther Lima Roadster
「パンサー」というメーカーはイギリスにあり、メーカーと言うよりはカロッセリアと言うべきか、日本の「ミツオカ」とよく似た車造りの会社で、1972年ジャガーSS100風「J72」(ベースはジャガー3.8,4.2など)、1974年ブガッティ・ロワイアル風「ド・ヴィル」(ベースはジャガーXJ12)を造った。写真の「リマ」はパンサー独自のデザインによる1930年代スポーツカーの雰囲気を持つ車で、ベースはヴォクスホール・マグナム2300がそっくり使われている。
1981 Ferrari 512 BBi
フェラーリは市販車については前置きV12気筒を伝統的に守ってきた。しかし「デイトナ」の後継車を造る段階で当時のF1-312Bで実証済みだった「水平対向ミッドエンジン」が構造上、性能上有利であると判断し実験的に「365GT4/BB」を誕生させた。そして1976年本格的量産車として「512BB」が市販され、排ガス規制を視野に入れたインジェクション・モデル「512BBi」が1981年登場した。この車から排気量の表示が変わり、それまでの1気筒あたりから総排気量(5リッター)+気筒数(12)となった。この車は1980年代起きた「スーパーカー・ブーム」では少年たちの憧れの花形スターだった。
1957 Porsche 356A 1600 Super
ポルシェの第1世代は「356」シリーズで、創世記の「グミュント時代」「356(プレA)」「356A」「356B」「356C」と続く。写真の車はAシリーズの中では最上位の「1600スーパー・スピードスター」で、脱着可能なクロームメッキされた低いフロントウインドが他のモデルとの相違点だ。一番スタイリッシュだがトップの構造が簡単で原価が低いのか他のモデルより安い。雨の降らない(トップを上げる必要のない)カリフォルニアでは絶対お買い得だ。
1960 Porsche 356B 1600 Super Roadster
「低く地を這うような」と言うのがポルシェを表現するときの常套句だったが、「356B」になって、フロントの外観が大きく変化した。主な輸出先アメリカの安全基準の影響だろうか、ヘッドライトの位置が高くなり、フェンダーも高くなったから見た目が普通の自動車に近づいた。バンパーも約10センチ高くなりオーバライダーが付いた事で一層頑丈そうな印象を受けるから以前からのファンの評判は芳しくなかった。しかし50年以上たった現在の評価は高い。
1967 Porsche 911S Targa (0 Series)
1948年最初のポルシェ「356」が誕生してから11年後の1959年には次期モデルのプロトタイプとなる「タイプ695」の開発が始まり、1963年ジュネーブ・ショーで「タイプ901」としてデビューした。しかし0を挟んだ3桁の車名はプジョー社が商標登録していたため使用できず1965年市販する際は開発番号とは異なる「911」の車名を使用した。社内呼称として1965年の「0」から1979年の「M」シリーズまで分類されており、写真の車は最初の0シリーズのタルガトップ仕様。
1967 Porsche 912 Targa
1965年「911」の発売と同時にエンジンだけ「356」と同じものを乗せた廉価版「912」も用意された。価格は911の435万円に対して295万円とかなり安く、初年度は911の2倍近く売れたというが、6気筒エンジンの生産が間に合わなかったのか、4気筒エンジンの在庫整理に力を入れたのか、本当に人気があったのかは定かではない。外観はエンブレムとホイールキャップ以外は区別が付かない。
1971 Porsche 911S 2.2 Coupe(D series)
911の排気量は同じモデルイヤーにつき1種類だけで(出力はグレードで異なる)「2.0/1965」から始まり「2.2/1970」「2.4/1972」「2.7/1973-77」「3.0/1975」と順次拡大されていった。(2.7は一部重複) 911シリーズは年式、モデル名を見極めるのが困難な車の一つだが、細かい変化を探し出すのも楽しい作業だ。
1974 Porsche 911 Carrera RSR 3.0 Coupe
写真の車は僕が撮ったポルシェの中で見た目が最も過激で、強そうで、速そうな車だった。(実際に速い!) 前年登場した「カレラ2.7 RS」の発展型が「3.0」で、高性能版を表す伝統の「カレラ」は911になってからこのシリーズで初めて使われた。より純粋なレーシング・スポーツには「RS(Renn Sport)」の名がつけられるが、更にレーシング性能を強化したものが「RSR」で、もはや「グループ4」のレーシングカーそのものである。リア・フェンダーのふくらみからもその片鱗が伺える。
<レーシングカー>
1955 Porsche 550 1500RS Spyder
RS(レン・シュポルト)については前項でも触れたが、初代の「RS」はこの車から始まった。「タイプ547」と呼ばれるDOHC 1498cc、110hpのレーシング・エンジンをミッドシップに積んだ550スパイダーは1953年パリ・サロンでデビューし1954年から市販された。翌1955年には鋼管フレームの軽量化などより戦闘力を高めて「550RS」へと進化し、その後も年々改良を加えて発展して行く。ポルシェのレーシング・フィールドの元祖と言える車である。
1955 Maserati 300S
マセラティはGPマシンを成功させ、それを元に2シータのレーシング・スポーツを造り、戦闘力の高い車を生み出すのが伝統的手法だ。1954年から始まった2.5リッターの新フォミュラーによって生まれたF1カー「250F」は、葉巻型GP時代の代表的な成功例で、これから生まれたスポーツカーは「150S」「200S」「300S」「450S」など数種のバリエーションが造られている。写真の「300S」はその中で最も成功した車で、1955年から58年初めまでに約30台造られたと言うのはこの種の車としては「大量生産」されたと言える。
1967 Ford GT40
フォードGT40は平凡な構造から非凡な性能を引き出し、アメリカに2回のルマン優勝をもたらした偉大な車だ。しかし、元々が知り尽くされた構造で構成され、頑丈で大パワーが武器の車だから、メカニカルな点で以後の車にこれと言った影響を残しては居ない。写真の車はシャシー・ナンバー「1077」で、1967年「ヤマハ」が研究用に購入したとされている。実際は、当時日本GPでニッサンR380、ポルシェ906の対決で話題をさらう中、持ち駒がなく手をこまねいていた「トヨタ」が「トヨタ7」の開発に役立てるために手に入れたものだ。この車はレース仕様に改造されていないので殆どオリジナルの外形を保っていると思われる。富士スピードウエイで走行する姿を間近で見たが「大きいくせに背が低い」と言う印象を受けた。その筈で「GT40」の40は製造番号でも、排気量でもなく、高さが40.5インチ(1029ミリ)と際立って低い特徴を車名にしたものだ。
1957 Lotus 11
ロータスといえば真っ先に「セブン」を思い浮かべる人が多いだろう。そのあとには「8、9、10、11」とレーシング・マシーンが続くのだが、クラシカルなセブンとはがらりと変って、流れるような曲面を持ったモダーンなスタイルとなる。これは「マーコス」の項で出てきた「デハビランド航空機」の技術者だったマイクとフランクのコスティン兄弟が参加し、航空機のノウハウを構造・空力に取り入れたからだ。「11」は1956年のルマンに3台参加し総合7位、1.1リッタークラス優勝、翌1958年は744ccが総合14位、性能指数賞、1.1リッターは総合9位、クラス優勝など色々なエンジンを載せて大活躍する。ファクトリー並みの「ルマン」からレース用「クラブ」、普及版「スポーツ」まで3つのバリエーションがあり、1098cc(74hp)から1475cc(150hp)までのエンジンが用意されていた。
1962 Lotus 23
ロータス23と言えば何と言っても第1回日本GPのヘアピン・カーブで見せた、地を這うような、衝撃的な姿がいまだに目に焼き付いている。本格的なレーシングカーなど見たことのない僕らにとっては異次元の世界と言うか、唯々やたらと速い車としか言いようがなかった。この前後のロータスの2座スポーツは「19」と「23」だけで、ほかは「18」から「25」まですべてがフォミュラー・カーに集中している。面白いのはこれだけ戦闘力のあるレーシングカーが「キット」の形で物品税免除で購入できた事だ。
1969 Konigrio (Honda S800 Base)
「コニリオ」はレーシング・クォータリー製で、ホンダS800を850ccに拡大してミッドシップに置いたシャシーと、それに浜紀素氏がデザインしたFRPのオープン2シーターのボディを乗せたスペシャルで、1969年10月の日本GPで大排気量の車に混じって総合12位(クラス優勝)、14位(クラス2位)と大活躍した。前の11台はニッサンR382(3)、トヨタ7(3)、ポルシェ(3)、ロータス47、フェアレディ2000で、エヴァ・カンナムやローラより速かった。10台造られたこの車の強さの秘密は、S800の弱点だった重いボディーをFRPで軽量化したことで、ボディ単体の重量は70キロしかなく35万円で購入できた。
1966 Porsche 906 Carrera 6
911の項でプジョーの商標登録のせいで3桁の中央に0を持つ「901」が使えなかったと書いたが、その効力は市販車のみでレーシングカーには及ばないので、日本でもお馴染みの「904」「906」「908」が誕生している。1966年第3回日本GPに1台が出走し一時トップに立ったがピット作業のまずさで遅れ、焦りからスピン、タイヤバースト、ガードレールに激突、リタイアと不運の結果に終わった。しかし次の年は3台で挑戦し①⑤⑧と完走、リベンジを果たした。(写真の車は日本GPに参加した車ではない)
1967 Porsche 910 Carrera 10
初期のレーシングモデルの順番は少々ややこしい。904に替わって本格的レーシングカーとして誕生したのが1966年「906」で、翌1967年シーズンは906の進化型が「910」となる。910は1968年第5回日本GPに出走、5461ccのニッサンR381に優勝は譲ったが、1991ccながら総合2位(クラス優勝)でライバルのニッサンR380を抑えた。この後「910」に続いて「907」「908」「917」一旦と番号が若返り進化を続ける。
1969 Porsche 908/2
910が登場した後1967年途中で登場するのが「907」で、これも906の発展型なのでこの方が先に企画されていたのだろう。906はこの時期のポルシェ・レーシングカーの母体となった傑作車だった。1968年レギュレーションが大幅に変わると907のロングテールに新しい2997ccエンジンを積んだ「908」が登場する。1969年ルーフを取り払い、テールを思いっきりつめたスパイダーに変身すると各レースで次々と優勝しこの年のメイクス・チャンピオンを手に入れた。
1970 Porsche 917K
917は12気筒4494ccの強力なエンジンを持ちルマン制覇を目指して1969年3月ジュネーブ・ショーでデビューした。1969年は殆ど成果はなかったが、翌1970年には熟成が進み、908と共にルマンで①②③を独占し目的を達成した。写真の車は1970年ジョン・ワイアの経験に基づいて改良されたショート・テール版で4998ccのエンジンを持つ「917K」。
1969 Isuzu R6 Spider
昔を知らない人は「いすゞ」というメーカーは大型トラックやバスの会社と思っているかもしれないが、戦後いち早く「ヒルマン」のノックダウンから始め、乗用車の生産には大いに乗り気で、「ベレットGT」や「117クーペ」など記憶に残る傑作車を残している。レースで活躍する日産、トヨタに負けじと「いすゞ」が送り出したレーシング・スポーツが「R6」で、1969年の日本GPではグループ6仕様のルーフ付きロングテールを「ベレットR6」の名前で2台出走させたが結果は残せず、翌1970年シャシーから全面新造され20%も軽量化されたのが写真の「ベレット R6 スパイダー」だ。写真を撮ったイベントのプログラムには「第7回GP2位参加車」とあったがこの年の日本GPは中止され、10月10日代わりに自主開催された日本オールスター・レースで予選レース2位、決勝レースでは総合優勝している。
1966 Prince R380A-1
1964年の第2回日本GPで「スカG」が「ポルシェ」に惜敗した事をきっかけに、今度こそ勝てる車を、と造られたのが1965「R380 Ⅰ型」だったが、残念なことにこの年GPは開催されず、無念やるかたなく?スピード記録に挑戦し6種目で公認記録を樹立した。翌1966年第3回日本GPが新設の富士スピードウエイで開催され、宿敵ポルシェと対決、プリンスは1、2、4と圧勝した。写真の車⑪は優勝した砂子義一選手の車そのもので、僕はレースの時もこの車を撮っている。この後プリンスが日産と合併し、車名が「ニッサンR380」と変わって1967年まで開発が続く。
1968 Nissann R381 5.5Litre
企業のイメージアップに大きな影響力を持つGPレースが混合レースで行われると、たとえ「クラス優勝」であっても「総合1位」でなければインパクトが薄い。だから「プリンス」から「日産」に替わって目標も大きく変わったらしく、新たに大排気量の「R381」で総合優勝を目指すことになった。エンジンは時間と経験の不足からV8のシボレー5461ccを使用し、最終的にはオープンのグループ7仕様で1968年第5回日本GPに登場した。写真の車⑳は優勝した北野元選手の車で、左右に分割されたエアロ・スタビライザーがサスペンションと連動して自動的に作動するという画期的な構造を持っていた。
1969 Nissan R382 6.0Litre
R382はR381の高度発展型で、昨年間に合わなかった自前のエンジンV12/5リッターが熟成され十分戦闘力を持った。このエンジンは6リッターに変更されておりレース前日に構造変更申請がされた。規則変更でウイングが禁止となったのでその分ボディ側面が鋭いウエッジシェイブで形成されている。1969年第6回日本GPでは3台が出走、1、2、10位となった。優勝車は黒沢/砂子の21番で写真の車20番は2位になった北野/横山組のものである。
1974 Ferrari F1 Type 312 B3
F1フェラーリの「312」シリーズはレギュレーションの変わった1966年から始まった。「312」は3リッター、12気筒を表しており、この年から3リッターF1の時代が始まる。(余談だが前年1.5リッター最後のメキシコGPでホンダが初優勝し、この年からはホンダも3リターR273を投入する)1970年になると「312B」となり「ボクサー」(実際には180度V型)エンジンとなる。ボクサーエンジンは極めて優秀なポテンシャルを持ちながら、シャシーの開発が遅れ1973年まで低迷を続け、74年になってようやく軌道に乗り始めチャンピオン争い2位となるまで復活した。写真の車12番はニキ・ラウダの車。
1977 Ferrari F1 Type 312 T2
1975年ようやく復調してきた「312B3」をベースに打たれた次なる一手は「操縦性の改善」だった。従来後輪の後ろに突き出していたギアボクスを「横置き」にして車軸の内側に収める事でモーメントを抑え運動性能が大いに向上した。新しく車名に付いた「T」はTransverse(横置き)を示すものでエンジンは引き続きボクサーである。「T2」は1976,77年と継続され両年ともコンストラクターズ・タイトルを獲得、77年にニキ・ラウダがチャンピオンとなった。この年ラウダは11番なので写真の12番はカルロス・ロイテマンの車。
僕が本物のF1カーを初めて間近で見たのはこの時が初めてだった。それまでもテレビではF1レースをよく見ていたし、少し離れたところからレーシングカーの音も聞いたことはあったが「耳をつんざく」と言う表現通り、ど迫力に驚かされた。そして一寸触ってみたスリック・タイヤがべとべとしているのにも驚いた。そしてホームストレートのピットから250キロの速さで駆け抜ける姿を捕えようとカメラを向けてまた驚いた。もちろん流し撮りをするつもりなのだが、100メートル位先からファインダーに入れても1秒くらいで目の前を通過してしまう。特に目の前は一瞬で、目で追う余裕はなくカメラを左から右へ思いっきり振ってやっと同じ速さになるスピードだ。だから枠内に写っていれば大成功、と言うわけで、これは大成功の写真。計算してみたら秒速70メートル位なのだ。
ネタがありすぎて夏休み中、四苦八苦した「富士スピードウエイ編」がやっと終った。次回は少し戻ってモノクロで1970年CCCJコンクール・デレガンスの名車・珍車から、選びすぎないように厳選してご紹介する予定です。(8/20)