8月1日に日本で発売されるシトロエンDS5に試乗した。現在のシトロエンの製品レンジはC3、C4、C5で構成される「Cライン」と、このモデル群とは一線を画す、個性的かつ独創的なDS3、DS4の「DSライン」の2系列がある。DS5はDSラインのトップグレードとして追加されたモデルで、5月にフランスのオランド新大統領が就任パレードに使用したので、ニュースは世界中に配信された。
ボディーの造形は、大きな岩を削ることからはじめたというが、ただの岩ではなく大理石ではなかろうか。ルーヴルで対面した「ミロのヴィーナス」を連想させる魅力を持っている。クルマに乗り込むと、フレンチラグジュアリーを具現化したという上質なインテリアと、航空機をイメージしたコックピットデザインに包まれ、156馬力1.6ℓツインスクロールターボエンジンと日本のアイシンAW製6速オートマチックトランスミッションの相性は良く、心地よいドライブが楽しめる。400万円からの価格設定も魅力である。
シトロエンDS5。クーペのような滑らかなスタイルを持ち、グランツーリスモとステーションワゴンを融合させたという独特の個性を表現するフォルム。ヘッドランプの先端からフロントガラス側面へと長く伸びるクロームの「サーベルライン」が、ひと目でDS5とわかる強いインパクトを持っている。
上の2枚はDS5でパレードするフランスのオランド大統領。このDS5は2ℓディーゼルエンジンで前輪を駆動し、永久磁石同期モーターで後輪を駆動するハイブリッド車である。詳細は不明だが、標準モデルであれば、さらにリバーシブル・オルタネーターがアイドルストップのはたらきに加え、バッテリーがフル充電状態のときには後輪の駆動も手伝うシステムとなっている。
ということで、今回は1955年のパリ・サロン(モーターショー)に登場して、一大センセーションを巻き起こした初代シトロエンDSのカタログを書庫から引き出してみた。
1955年といえば、わが国の乗用車生産台数がやっと2万台に達した年で、マイカーを持つことなどはまだまだ夢の時代であり、わが国初の本格的国産乗用車といえるトヨペット・クラウンが発売された年でもあった。そんな時代にフランスからはこんなすごいクルマが出現したのである。
1955年パリ・サロンの会場で人々の熱い視線を浴びるシトロエンDS19。
上の2枚は初期の1956年式米国市場向け英文カタログ。「シトロエンDS19は4ドアセダンの形をした快適なスポーツカーであり、ほかのクルマとは全く違う、ハイドロリック・コントロールを採り入れた明日のクルマを今日提供するのだ」と訴求している。1911cc直列4気筒OHV 75ps/4500rpmエンジン+4速MTを積み、最高速度145km/h、サイズは全長4800mm、全幅1790mm、全高1473mm、ホイールベース3124mm、トレッドはフロント1500mmに対しリアは200mmも狭い1300mmで極端な尻すぼみであった。
1958年1月発行された米国向け英文カタログ。ハイドロニューマチック・サスに「シトロ - マチック・エア - オイル・サスペンション」の名前が付いている。
上の3枚はハイドロニューマチック・サスの特徴を表現したイラスト。4輪独立した球体にクッション性に優れたガスを密封し、調整可能なオイルを併用した先進的な懸架装置で、シトロエンはDS19発売の前年、1954年に6気筒トラクシオン・アヴァン15の後輪に標準設定して市場テストを実施している。オイルのコントロールはポンプと調圧バルブで行ない、オイル回路はサスペンションのほか、ブレーキ、パワーステアリング、クラッチ/トランスミッション操作にも活用された。
上の絵は、セルフレべリング機能によって、車重が変化しても常に最低地上高16cmに保たれ、さらに手動で28cmあるいは9cmにすることができることを示している。この機能を使いタイヤ交換は、まず28cmにあげてジャッキの代わりとなるステイをボディーのジャッキアップポイントに取り付け、9cmの位置にするとタイヤは浮いて交換することができた。なお後輪の交換にはリアレフレクターの上にあるボルト1本をゆるめてリアフェンダーをはずす必要があった。
サスペンションの油圧回路を使ったブレーキシステムを説明したもので、前後輪独立した回路となっていた。ブレーキペダルは無く、フロアにある突起状のバルブを操作することで、サスペンション回路の油圧で作動する。前後の制動油圧の調整は後輪荷重を基準に自動調整された。フロントには量産乗用車としては初めてディスクブレーキが採用され、しかもインボードであり、冷却用ダクトまで備わっていた。
この宇宙船のようなボディーのデザインはシトロエン社のイタリア人チーフスタイリスト、フラミニオ・ベルトーニ(Flaminio Bertoni)によるもので、彼は1934年のトラクシオン・アヴァンや1948年の2CVも手掛けている。垂直に立ったDSのボディーはル・マン博物館でみつけたもの。
DSのシャシーとボディーの骨格で、頑丈なプラットフォームで応力を受け、ボディー部分は華奢な骨格にパネルをつけるスケルトン構造を採用している。応力を受けないルーフにはファイバーグラス(英国その他の海外生産車には輸送途中のダメージを避けるためアルミが採用されていた)を、ボンネットにはアルミが採用された。1957年5月まではトランクリッドにもアルミが使われていた。
1961年にマイナーチェンジを受けたDSの運転席まわり。シングルスポークのユニークなステアリングホイールとステアリングコラムの上に立っているのはギアセレクションレバー。指先でギアポジションに移動すると、サスペンションの油圧によってクラッチ操作とギアシフトが行なわれる。したがってクラッチペダルは無い。普通のクラッチ操作がしたいというドライバーのためにIDモデルあるいはDSベースのDWが用意された。
1962年に前後のデザインがマイナーチェンジされたDSの構造図。時代の最先端をゆく革命的なDSであったが、エンジンだけはシリンダーヘッドなどの改良はされていたが、基本的にトラクシオン・アヴァンと同様でトランスミッションはエンジンの前方に装着されたままであった。
1965年12月に発行されたオランダ向けのカタログで、1964年に追加設定されたハイグレードのDSパラス。このカタログのモデルはマニュアルクラッチ付きで、横にある黒く丸いのがブレーキバルブ。この絵でエンジンの後端が室内に大きく食い込んでいるのが分かる。エンジンは大幅に改良され、クランクシャフトは3⇒5ベアリングになり、DS19のエンジンは1985cc、90psに拡大され、さらに2175cc、109psのDS21が追加設定された。その後1972年には2347cc、124psのDS23も登場した。
1967年にマイナーチェンジされ4灯式ヘッドランプが採用された。ここでもシトロエンらしさが遺憾無く発揮され、外側2灯はセルフレべリング機能付きで常に光軸の上下動を抑え、内側のドライビングランプ2灯はステアリングと連動して左右に回転するすぐれものであった。
1960年に発売されたデカポタブル(Décapotable:幌が折り畳み式の)。このカタログは英国向けなので右ハンドルで、ドロップヘッド・クーペとなっている。ボディー架装はフランスのカロシェ(Carrossier:車体製造業者)、アンリ・シャプロン(Henri Chapron)がハンドメイドで行なった。ボディーで応力を負担しない構造なのでオープン化は容易であった。DSとIDベースがあり、価格はセダンの2倍近くした。1960年から1971年までにわずか1365台生産された希少車。
1967年11月発行のカタログに載ったDSプレスティージの室内。電動のパーティションを持つリムジンで、エアコン、電話、本革シートなどを装備している。
上の2枚は1958年に発表され、1960年からデリバリーされたDS/IDベースのワゴンモデルの内、8人が乗ることができたファミリアール。シート配列は3・3・2の3列で、2列目は補助いすのような折り畳みシートであった。全長は4980mmでセダンより180mm長い。英国では「サファリ」の名前で販売された。
上の2枚はブレークで7人または8人乗車が可能であった。2列目シートと後部の横向き対座シートを畳むと大きなカーゴスペースが確保できた。このモデルも英国では「サファリ」の名前で販売された。
これはコメルシアルで2列シートの6人乗り。2列目シートを畳むと3人+500kg積載可能であった。
これはアンビュランス(救急車)で前列2人、2列目1人の3人乗車とストレッチャーを1台搭載できた。いずれのワゴンモデルもハイドロニューマチック・サスを備えており、積載量に関わらず一定の姿勢を保持でき、荷物の積み下ろしには車高調整機能によって作業のしやすい高さを選択できる利点があった。ワゴンモデルは1960年から1975年までに合計9万2671台生産された。なお、セダンモデルは1955年から1975年までに合計135万9750台生産されている。
上の2枚は1968年に完成した、当時のドゴール大統領のためにアンリ・シャプロンが造ったDS21の大統領専用車。1964年に契約したときの注文は一つ、当時の米国大統領車リンカーン(6444mm)より長いこと、であった。したがって全長は注文通り6550mm、全幅2130mmと巨大である。重量は量産車の2倍だがエンジンはDS21用であり、冷蔵庫、エアコン、パワーウインドーなどを装備するため、ヘビーデューティ・バッテリー2個、オルタネーターも2個積んでいる。残念ながらドゴール大統領は気に入らず、旧いトラクシオン・アヴァン15-6Hをベースにフラネイ(Franay)がボディー架装したクルマを愛用したと言われる。気に入らなかった理由はパーティションが固定式であり、ショーファーとのコミュニケーションにマイクを使わなければならないのを嫌ったという。パリ・パンタン(Pantin)のCiA(Centre International de I'Automobile)にて撮影したもの。
この日、CiAは休館日であったが、翌日はユーロスターで英国に移動する予定であり、事情を話したら特別に入館させていただいたおかげで撮影できた。この時は、パリ・モーターショーを見たあと、ミュールーズをはじめフランスの自動車博物館を巡り、そのあと英国に渡ってモンターギュほかの自動車博物館を巡り、バーミンガム・モーターショーを見るという、のんびりしたレンタカーでの一人旅であった。